公爵という称号


新婚のウィリアム王子とキャサリンへの、女王からの贈り物は、ケンブリッジ公爵と公爵夫人(Duke and Duchess of Cambridge)のタイトル。公爵は、イギリスの貴族のタイトルの中で一番位が高いものです。

イギリスで、公爵(デューク)と言うタイトルは、エドワード3世が、1337年に、自分の長男、エドワード・ブラック・プリンス(エドワード黒太子)にコーンウォール公の位を授けたのが初めとされます。以来、イギリスの王、女王の長男には、このコーンウォール公のタイトルが与えられています。よって、チャールズ皇太子も、コーンウォール公の称号があります。奥さんのカミラが、コーンウォール公爵夫人として知られるのもこのため。

また、更に時代遡り、エドワード1世がウェールズを制圧し、1301年に、幼い自分の長男(後のエドワード2世)にプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)の称号を与えました。以後、この称号がウェールズ人によって使われるのは、ヘンリー4世に反旗を翻した、オーウワイン・グレンダー(Owain Glyndwr)によってのみで、彼によるイングランドに対する反乱が鎮圧された1409年以来は、プリンス・オブ・ウェールズの称号は、イギリスの王、女王の長男に与えられるのが伝統となります。ちなみに、このオーウワインは、シェイクスピアの戯曲「ヘンリー4世」に、オーウェン・グレンダワーというイギリス風に直した発音の名にて登場します。チャールズ皇太子は、コーンウォール公の称号より、こちらのプリンス・オブ・ウェールズの称号で呼ばれるのが常です。カミラ夫人も、正式にはプリンセス・オブ・ウェールズの称号はあるものの、こちらは、チャールズ前夫人のダイアナのイメージがいまだに強いため、コーンウォール公爵夫人をもっぱら使用している模様。

さて話をエドワード3世へ戻します。彼は子沢山の王様でありました。自分の死後も残った子供は男児だけで、5人。この5人は、やがて、全員、公爵となります。エドワード3世生存中に、長男のエドワード黒太子の他、3男のライオネル・オブ・アントワープにクラレンス公、4男ジョン・オブ・ゴーントにランカスター公の称号を与えています。世継ぎのはずだったエドワード黒太子は、若死にしてしまうため、エドワード3世の後を継いだのは孫のリチャード2世。彼が、残りの2人の叔父たちにも公爵の称号を与え、エドワード3世5男、エドムンド・オブ・ラングリーはヨーク公、6男のトマス・オブ・ウッドストックはグロスター公となります。(ややこしいので、下図参照下さい。)


ジョン・オブ・ゴーントの家系のランカスター家とエドムンドの家系のヨーク家の子孫達が、後に王座を争って血みどろの戦いとなるのが、お馴染み、いとこ戦争とも呼ばれる、ばら戦争です。

王族以外で、新しく公爵のタイトルを受ける事は、最近ではあまり無いという事です。エリザベス女王夫君フィリップが、女王と結婚の際、エジンバラ公のタイトルを得たのは、1947年。エリザベス女王次男のアンドリュー王子は、ヨーク公として知られています。ヨーク公も、15世紀以来、伝統的に、王、女王の次男に与えられる称号です。

大体において、この公爵のタイトルにつく地名は、比較的伝統的な良い場所の気がし、ちょっと品の悪い町や、土地の名前はあまり聞かないのがみそです。特に、王位継承者のウィリアム王子に、ルートン公とか、ハル公とか、ミドルズバラ公なんて、いまひとつ垢抜けない場所の付いたタイトルは、まず、ジョークでも無い限り、あげないでしょうね。古い伝統の大学の町、ケンブリッジ公とあいなるわけです。

ウィリアム王子の前のケンブリッジ公は、1904年に亡くなったプリンス・ジョージ(ジョージ3世の7男の息子)。この人の馬に乗った像は、ホワイトホールにあります。(この写真は、英語ウィキペディアより拝借。)ウィリアム王子結婚式の際に、馬車で側を通過していました。

ロンドン内、今では、あまり一般人に馴染みの無い人たちの像が、あちらこちらにあるものです。この像も、ホワイトホールのような中心地にありながら、結婚式が無ければ、未だに誰のものだか、気にも留めず、考えてもみなかったかもしれません。

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