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7月, 2017の投稿を表示しています

カンタベリーさくさく観光

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カンタベリー・ウェスト駅から、ウェスト・ゲート・タワーへむかう カンタベリーは、観光がとてもしやすい町です。比較的小さく、見どころのほとんどが、一部残る城壁と、環状道路に囲まれた、楕円形の町の中心部に位置し、迷わず、サクサク歩いて回れます。城壁の外にあるアトラクションは、前回の記事に触れた通り、 カンタベリー大聖堂 と並び、ユネスコ世界遺産の一環である聖オーガスティン修道院と聖マーティン教会のふたつくらいで、こちらも簡単に歩いて行けますし。 ロンドンからカンタベリーまでは、キングス・クロス駅から日立の高速電車に乗って約1時間。この電車に乗ると、到着は、カンタベリー西駅。その名の通り、町の西側に位置する駅です。ここから、カンタベリー中心部への入り口であるウェスト・ゲート・タワー(West Gate Towers)までは、5分くらい。このウェスト・ゲート・タワーをくぐってまっすぐ続く道がそのまま町を貫く目抜き通り(ハイストリート)になっています。 ウェスト・ゲート・ガーデンズ ウェスト・ゲートのすぐ前を流れるのは、スタワー川(River Stour)。エセックス州、サフォーク州の境界 コンスタブル・カントリー のただ中を流れる川も同じスタワー川という名称ですが、同じ名の川と言うのは、イギリス内いくつかあります。この川岸が、ちょっとした公園(ウェスト・ゲート・ガーデンズ)となっていて、花壇が綺麗。帰りに、電車の時間を待つ間、ここのベンチでのんびり、なんていうのもいいかもしれません。 ケンブリッジなどと同じく、ここから パント (竿で操作する底の浅いボート)に乗ることもできます。 さてウェスト・ゲート・タワーをくぐり目抜き通りをひたすらまっすぐ歩きます。車が通っていないので、歩きやすいです。車にひかれる心配せずに、中世の名残残す、古めかしい建物をきょろきょろ眺め。 1500年建築のオールド・ウィーバーズ・ハウス カンタベリーの中でも一番古い館の一つとされ、写真に良く取られるという建物が、こちら。Old Weavers' House(旧機織り館)。建設は1500年で、大陸ヨーロッパから宗教的糾弾を逃れてイングランドへやって来たプロテスタントの機織りたちが、ここで商売を営んだことに由来する名前だという事です。現在はレス

カンタベリー大聖堂

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5世紀前半、イングランドのローマ時代が終わり、ローマ軍が去っていくと、大陸ヨーロッパから、今度は、ゲルマン系の三つの部族、アングル人、サクソン人、ジュート人などが徐々にイングランドに流れ込み、いわゆるアングロ・サクソン時代の到来となります。それぞれの地に、それぞれの集落が確立され、ひとつの集落が、別の集落を飲み込み、拡大、やがて、イングランド内に、いくつかの王国が確立します。イングランドには、すでにローマ時代後半からキリスト教信者がいたのですが、ローマの撤退、そして、異教のアングロサクソン人の到来で、灯ったばかりのキリスト教の明かりは、イングランドからは、一時的に消え失せるのです。 現カンタベリーを含むケント州一帯は、ケント王国となり、約589年に、このケント王国の王座に就くのは、エゼルベルト王(Ethelbert)。彼は、現フランスを中心に勢力を伸ばしつつあった、やはりゲルマン系の王国、フランク王国のお姫様、ベルタ(Bertha)を妻に迎える。この際の、結婚の条件のひとつとして、キリスト教信者であったベルタが、ケント王国内でも、続けて信教を行う事ができるというもの。エぜルベルト王は、妻の祈りの場として、小さな聖マーティン教会(St Martin)を与えます。ベルタ妃は、この教会でフランク王国から連れて来た司祭と共に、ささやかにキリスト教の礼拝を行う。 ローマ法王グレゴリウス1世(Pope Gregory I)は、ベルタの影響もあってか、ケント王国のキリスト教への改宗の可能性を読み、596年に、アウグスティヌス(Augustine、英語読みはオーガスティン)と40人の僧たちを、布教のために、ケントへ派遣することを決めます。法王の指令を受け、ローマから出発したはいいが、わけのわからない言葉をしゃべる、野蛮人の住む辺境地・・・そんな所へ布教に出かけるのは、大変なだけで意味がないのではないか・・・と僧たちの心は重く、アウグスティヌスは一時引き返し、法王に再考を促したそうですが、法王は頑として譲らず。通訳を従えて、僧たちはしぶしぶと、野蛮の地、ブリテン島へと向かう事にあいなるのです。 597年5月に、ケント王国にたどり着き、エゼルベルト王に迎えられたアウグスティヌスの一団は、とりあえずは、ベルタ妃のセント・マーティン教会に拠点を置いて、宣教活動を許されるので

トマス・ベケット

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カンタベリー大聖堂内トマス・ベケットのステンドグラス "Who will rid me of this turbulent priest?" 誰か、このやっかいな司祭を片付けてくれるものはおらんのか? 時は1170年。王の権力に相対する、教会の力を代表するカンタベリー大司教のトマス・ベケット(Thomas Becket 1118-1170年)の頑固ぶりにしびれを切らしたヘンリー2世は、思わず、こう叫んだと言われています。それを聞いていた4人の騎士が、「それでは、俺たちが片付けよう」、とカンタベリーへ向かう。 トマス・ベケットは、1118年、ロンドンに生まれます。父は富裕な商人、母はノルマンディーの出身。幼いころから頭脳明晰で勉学を好み、まずは、イングランド内の現サリー州にある修道院に教育を受けるため送られ、後に当時のヨーロッパの学問の中心であったパリで5年間学びます。この間に宗教の道に進むことを決めたようです。1150年に、イングランドへ帰国後、当時のカンタベリー大司教セオボルド(Theobald)の下に仕え、彼により、更なる、教会および民間の法を学ぶためにボローニャなどに送られます。当時のエリートコースを行く人物は皆そうなのでしょうが、かなりインターナショナルな教養を受けている人。 ヘンリー1世が1135年に亡くなった後、やってくるのは、ヘンリー1世の娘マチルダと、マチルダのいとこのスティーブンとその支持者たちが、王位継承をめぐって戦った、悲惨な内戦の時代。この期間、君臨したスティーブン王が1154年に亡くなり、彼が子孫を残さなかったため、新たに王座に就くのは、マチルダの息子で、ヘンリー1世の孫にあたる、21歳のカリスマ的なヘンリー2世。プランタジネット朝の始まりです。 ベケットは、セオボルトの推薦で、ヘンリー2世の右腕である大法官(Chancellor)の地位に就く。ベケットは、ヘンリー2世より15歳年上だったのですが、この二人、活動的で、決断力、統率力があり、歯に衣着せぬ性格が、非常に似ていたのだそうで、最初からウマが合い、仲良しとなり、乗馬、狩猟などにも、よく一緒に繰り出したのだとか。見た目も、ベケットは、王同様、背が高く、軽く180センチはあったそうです。当時の平均身長は、現在に比べかなり低かったので、それだけ

グリンリング・ギボンズ

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オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会内洗礼盤の蓋 グリンリング・ギボンズ(Grinling Gibbons 1648-1720)は、イギリスの木彫りを専門とした彫刻家です。彼の掘った動植物や果物、楽器、その他もろもろは、本物そっくりで、それは繊細にできており、天使やプッティなどの子供の顔に至っては、息をしていて、動き出すのではないか、と思うくらい。 このグリンリングという変わった名前は、日本人にとっては、大変、やっかいな発音しにくいものです。最初の「リ」はRで、後の「リ」はLですから!教会や、貴族の邸宅で、息をのむような木彫り彫刻に対面し、これはグリンリング・ギボンズかな、と思ったら、私は係りの人に、「これ、ギボンズですか?」と、何食わぬ顔で、ファースト・ネームは言わずに済ませます。木彫りを指して、ギボンズか、と聞けば、大体みなグリンリング・ギボンズの事だとわかっているでしょうし。 先日、ロンドン塔のわきに立つ、オール・ハローズ・バイ・ザ・タワー教会(All Hallows by the Tower)を訪れた時、ギボンズ作の、洗礼盤の蓋(上の写真)が飾られており、しばし、見入ってしまいました。これが木で彫ってあるなんて、信じがたい。当教会は、他にも何かと、見どころが多いのですが、これが、私の一番のお気に入りアイタムです。 ケンジントン宮殿のグリンリング・ギボンズの作品のクローズ・アップ イギリス人の両親の間に生まれたものの、商人であった父が、活気に満ちた黄金期のオランダに住み、仕事をしていたため、グリンリングは、オランダに生まれ育ちます。彫刻家としての修行を受けたのもオランダで、当時のオランダの本物そっくりの果物や植物の描写、更には、イギリスにはまだ伝わっていなかった、北ヨーロッパ伝統の、深い木彫り彫刻の技も、この時に取得。彼がオランダで育ったというのは、後の職人としてのイギリスでの成功にかなり影響しているようです。また、イギリスに移った後も、一生、オランダ訛りが抜けなかったそうです。グリンリングという名を発音するのに苦労する、日本人訛りの抜けない私も、えらそうな事は言えませんが。 ケンジントン宮殿内 1667年、19歳のグリンリングは、1666年の ロンドン大火 直後で、一面焼け跡となった町を立て直すために、多くの職人を必

「Castle on the Hill」 はフラムリンガム城

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Castle on the Hillに歌われるフラムリンガム城 イギリスのシンガーソングライターのエド・シーラン(Ed sheeran)が、自分が育った故郷を思い起こして、 We watched the sunset over the castle on the hill 僕たちは、丘の上の城のむこうに落ちる夕日を眺めた と唄った「カスル・オン・ザ・ヒル」とは、サフォーク州の小さな町、フラムリンガムにある、フラムリンガム城(Framlingham Castle)。彼曰く、この歌は、サフォークへのラブソングなのだそうです。たしかに、歌にしたくなるような、姿かたちの良い城。城壁に間隔を置いていくつかの塔が築かれている、こうした形のものは、カーテン・ウォール(curtain wall)と呼ばれますが、フラムリンガム城は、カーテン・ウォールを初めて導入した城のひとつであるそうです。 さて、エド・シーランとポップ・ソングばかりでなく、ざっとした城の歴史も、一応見てみましょう。 フラムリンガム城は、主なところで、ノルマン人征服の際に、ウィリアム1世と共にイングランドにやってきて、やがてノーフォーク伯の位を得るビゴッド家、そしてチューダー朝の歴史に関わり深いハワード家(ノーフォーク公)などが所有した城です。 現在の城は、その前に存在した木製の城を、ロジャー・ビゴッド(Roger Bigod、第2代ノーフォーク伯)が、石で建て直した12世紀後半に遡るもの。前述のとおり、当時は斬新なデザインであったようです。マグナ・カルタを無視して傍若無人にふるまい続けるジョン王と、それに反旗をひるがえしたバロン(有力貴族)たちの間での、第1次バロン戦争(1215-1217)中、ロジャー・ビゴットは、反乱側ではあったものの、1216年3月、フラムリンガムへやってきたジョン王の軍に簡単に城を明け渡しています。なんでも、比較的おニューであった城を、下手に戦って、壊されたくなかった、抵抗を見せずに、受け渡せば、後に無傷で返してもらえると思ったのではないか、という話です。ジョン王は、この後、年が明けぬうちに、突然病死。案の定、城は後に再び、ビゴット家に戻り。 城がハワード家の所有となった後、、ヘンリー8世の時代に生きたトマス・ハワード(Thomas Howard、第