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3月, 2017の投稿を表示しています

ウォルサム・アビー

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ウォルサム・アビー教会 ロンドンにほど近いエセックス州ウォルサム・アビー(Waltham Abbey)。アングロサクソン最後の王様で、1066年、 ヘイスティングスの戦い で、征服王ウィリアム1世に敗れ戦死したハロルド2世(ハロルド・ゴドウィンソン)の埋葬地であると言われています。実際のところ、本当にハロルドの遺体がここまで運ばれて埋葬されたのかどうかは、定かでないところがあるようですが。 教会外壁のハロルド像 いずれにせよ、ハロルドとウォルサムの関係は、王になる前のハロルドが、エセックス伯であり、ウォルサムに荘園を有していた事に由来。なんでも、体が麻痺状態になってしまったハロルドは、ウォルサムの教会にあった、聖なる十字架に祈りを捧げたところ、体が治ったというのです。奇跡!感謝感激のハロルドは、ウォルサムの教会を建て直し、これは1060年に完成。 話が前後しますが、ハロルドが健康を取り戻すための祈りを捧げたという、聖なる十字架は、デーン人のカヌート王の時代(1017-1035年)にさかのぼる代物です。ウォルサムの土地を与えられていたカヌートの臣下は、サマセット州 グラストンベリー 近郊にも土地を有しており、その土地から石の十字架が発見されます。掘り起こされた石の十字架は、遠路はるばる、ウォルサムの教会に運んで来られ、内部に掛けられます。以後、こうしてウォルサムの教会の中に収められた石の十字架は、病を治す奇跡を起こすと有名になり、多くの人々が訪れる巡礼の対象となります。そして、上述の通り、ハロルドも、この十字架のパワーに助けられることとなるのです。 ウォルサムが、アビー(修道院)のステータスを獲得するのは、ヘンリー2世の時代。自分の忠臣たちによる、カンタベリー大司教であったトマス・ベケットの殺害に、後悔の念を表すため1177年、教会を拡大、僧たちの宿泊場、その他必要な建物も建設され、1184年に、アビーとなります。 ウォルサム・アビーも、他の修道院と同じく、ヘンリー8世の時代に行われた 修道院解散 によって、終焉を見ます。奇跡、巡礼・・・などの迷信をそそるカトリック的習慣はよろしくないと、病を治すパワーのあった十字架も、この際に、どこかへ消えてしまったそうです。取り外されて、どこかへ持っていかれたか、壊されたかしたのでしょう。ヘンリ

ローマ条約60周年記念とブレグジット

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欧州連合離脱(ブレグジット)への過程開始を来週の水曜日(3月29日)に控えたイギリス。この過程を開始すると、あとは時間との戦いで、最長2年間以内に、イギリスは、ヨーロッパとの話し合いで、ブレグジット後のヨーロッパ各国との関係を形作るなんらかの協定を結ぶ必要が出てきます。ロンドンでは、本日、ヨーロッパ残留派の最後の抵抗とばかりに、一大マーチが繰り広げられており、ブレグジットには大反対の、うちのだんなも、友人たちと待ち合わせをして、マーチへ繰り出しました。 その一方、本日、3月25日は、欧州連合(EU)の母体が生まれたローマ条約(1957年)が署名された60周年記念とあって、ローマでイギリスを除くEUメンバー国のリーダーたちが一同に会しています。上の写真は、ミケランジェロの最後の審判の前に、ローマ法王を囲んで立つEU27か国のリーダーたち。(写真は、BBCニュースサイトより。)ヨーロッパの歴史を振り返ったとき、感じるのは、戦争に次ぐ戦争に次ぐ戦争。過去60年の間、いがみ合いはあるものの、こうやって、一応は一緒に仲良く記念写真を撮り、メンバー間での戦争が起こらなかった・・・というのは、それだけでも欧州連合の存在価値のある、快挙ではないでしょうか。 第2次世界大戦という一大トラウマの後、欧州各国が平和に共存できるよう、最初に、スピーチで、欧州連合体のアイデアを落としたのは、皮肉にもウィンストン・チャーチルであったと言います。ます、戦争を行う武器作成に必要な石炭、鉄鋼をヨーロッパ内で共同に管理するのを目的として、1951年に、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグの6か国間で、欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community)が設立されます。イギリスはこれには参加せず。そして、1957年3月25日、上記6か国は、ローマで会し、現EUの母体である、欧州経済共同体(European Economic Community, EEC)が誕生。この際、イギリスも参加するように声をかけられたというのですが、これもお断りしているのです。 やがて1961年、経済状態いまいちのイギリスは、心を変えて、EECに参加をしようとするのですが、これは、時のフランス大統領、 シャルル・ド・ゴール により拒否されます。ド・ゴー

スコットランドヤードのボビーたち

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ニュースコットランドヤード(New Scotland Yard)・・・通常は、少し短めのスコットランドヤード(Scotland Yard)の名で呼ばれるのは、ロンドン警視庁(Metropolitan Police Service、時に略してThe Met)の本拠地です。 ロンドン警視庁は、それまで、しっかりした統制が取られておらず、てんでまちまちの感があった治安体制を整えるため、1829年に、時の内務大臣であり、後に英国首相となるロバート・ピール(Robert Peel)の下で通された、首都警察法(Metropolitan Police Act)により設立されます。警官たちは、生みの親ロバート・ピールにちなみ、ロバートの愛称であるボビーから、ボビーと呼ばれるようになります。ロンドン警視庁の最初の所在地は、トラファルガー広場に近いホワイトホール街4番地、建物の裏の、一般市民用入り口がグレート・スコットランド・ヤード(Great Scotland Yard)という通りに面していたため、ロンドン警視庁の本拠地=スコットランド・ヤードの方程式が確立。 やがてスコットランド・ヤードは、1890年に、リチャード・ノーマン・ショー(Richard Norman Show)設計により、新しく建設されたテムズ川沿いのヴィクトリア・エンバンクメントの2つの建物、ノーマン・ショー・ビルディングへ移動。この段階で、頭に、「ニュー」がついて、ニュー・スコットランド・ヤードと呼ばれるようになります。1935年から40年にかけて、その隣に新たな建物、カーティス・グリーン・ビルディングがウィリアム・カーティス・グリーン(William Curtis Green)設計により追加され、ニュー・スコットランド・ヤードは、こうしてテムズ川沿いに並んでたつ、3つの格式高そうな建物に収まります。上の写真は、 ロンドンアイ に乗ったときに取ったものですが、右手の白い建物がカーティス・グリーン・ビルディング、その隣の2つのレンガのものがノーマン・ショー・ビルディング。 1967年に2度目の引っ越しで、ヴィクトリア駅近郊のブロードウェイ(Broadway)にある、色気もそっけもない高層ビルへ移動。ビル前の、くるくる回る「New Scotland Yard」のサインボードでおなじみでした。なんでも

ジョン・レイ

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大英博物館にあるジョン・レイの胸像 分類学の父と称され、植物を、 ラテン語を使用した2名法 で分類するシステムを確立させたのは、スウェーデン人カール・フォン・リンネ(Carl von Linne 1707-1778年)ですが、リンネが、分類法を体系化するにあたり、非常に影響を受けた自然科学者は、リンネの生まれる2年前に没している、イギリス人、ジョン・レイ(John Ray 1627-1705年)。更に後には、チャールズ・ダーウィンも、レイの著作の影響を受けていると言います。 ジョン・レイは、イングランドのエセックス州ブラック・ノトリー(Black Notley)にて、鍛冶屋を営む父と、ハーブを使用して薬を作っていた母の間の、比較的質素な家庭に生まれます。役に立つ野生の植物を求めて周辺を散策する母親について、早くから自然観測と、自然に関する興味が植え付けられ、また、信仰の深さも母からの影響のようです。近郊の町、ブレインツリー(Braintree)にある教会に付随した学校に10歳から通い始め、抜群の記憶力でラテン語を習得。 秀でた才能を認められ、16歳にて、スカラーシップを受け、最初は、ケンブリッジ大学のセント・キャサリンズ・ホールで学び始め、後、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジで勉学、卒業後も大学で教鞭を取り、語学、数学などを教授。 チャールズ1世が処刑 されオリバー・クロムウェルによる共和制が始まる1649年に、ケンブリッジ大学のフェロー(大学教員、研究員)となります。 ジョン・レイは、当時のケンブリッジでは、正当な学問としては見られていなかった自然科学、博物学に大きな興味を示し、特に、生徒のひとりであったフランシス・ウィラビー(Francis Willughby)とは、自然科学への熱意を通じて、重要な友情を結ぶこととなります。ケンブリッジ周辺の自然を散策し、観察しながら、チャールズ2世が王座に返り咲いた王政復古の1660年には、ケンブリッジ周辺の植物を集大成したポケット・サイズのカタログを発行。地方に密着した植物に関する本としては、世界初めてのものではないかと言われています。 この頃は、学問と宗教は密接に結びついており、大学で教えるためには、聖職者としてイギリス国教会に認められる必要があり、大学で教える人間は、大学内の礼拝堂での説教な

カティー・サーク訪問とその歴史

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グリニッジ観光の目玉のひとつである、中国からイギリスへお茶を運ぶ目的で造船された、カティー・サーク号内部を、先日初めて見学してきました。今まで、この脇は何度も歩いて通り過ぎながら、内部に入った事が無かったので・・・(カティー・サークという名は、スコットランドの言葉でシミーズを指します。これに関して詳しくは、 前回の記事 を参照ください。) まずは、イギリスにおける紅茶輸入の歴史をささっと見てみると、 紅茶という飲み物がイギリスに入ってきたのは、17世紀も後半に入ってから。特に、チャールズ2世の妻でポルトガル王室出身のキャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)は、紅茶ファンで、ポルトガルから紅茶を持ち込み、イギリスへ嫁いでからも、盛んに紅茶を飲んでいたため、これが、上流社会に浸透していく原因となります。コーヒー、紅茶が入ってくるまでは、温かい飲み物というものは特になく、ビールなどをごくんと飲んでいた社会であったところへ、デリケートな陶器の器に注いで飲む紅茶は、上品で洗練されているようにも見えたのか、特に女性の間で人気を得ていくのです。 当初は、中国からイギリスへのお茶の輸入は、課税度も高く、イギリス東インド会社の独占であったため、高価な貴重品。召使などにちょろまかされないように、お茶っ葉を入れておく引き出しには鍵をかけたりもしていたわけです。よって、東インド会社から合法的に入ってくるものより、オランダなどを通して密輸されていた量の方が多かったなどと言います。政府は、こうした密輸紅茶の流入を防ぎ、東インド会社の独占権を守るために、1784年に112%であった課税率を、12.5%に落としています。 1834年には、ついに国内での自由貿易の気風の押され、東インド会社は中国との紅茶貿易の独占権をうしない、次々と新たな貿易会社が、茶貿易に進出。1815年の、ナポレオン戦争後からは、海軍用の大砲を積んだ重い船を造船する必要も減り、貿易に使用されるための船は、スリムなボディーで、特にスピードが速いことが重視されるようになります。カティー・サークを含む、お茶を運んだ快速帆船は、ティー・クリッパー(tea clipper)と称されますが、クリッパーという言葉が船を指してはじめて使われるようになるのは、1812年のアメリカ。当初は、 米

カティー・サークは魔女のシミーズ

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カティー・サーク(Cutty Sark)というと、ロンドンの グリニッジ にある、19世紀に中国からロンドンへお茶を運んで活躍した快速帆船(ティー・クリッパー)の名前、ひいては、この船の名を取ったスコットランドのウィスキーのブランド名として有名ですが、もともとのカティー・サークは、スコットランドの言葉で、短めのシミーズのような下着を指した言葉だというのですから、少々ずっこけます。意味を知らずに、「カティー・サーク」と聞くと、果敢なる響きがありますから。 確かに、カティーサーク号の船首像(figurehead)は、このシミーズっぽい下着をだらんと着て、胸を露にし、手に馬の尻尾を下げている女性の姿。これは、スコットランドの国民詩人として名高い ロバート・バーンズ が、1791年に発表した詩、「タム・オシャンター(Tam O'Shanter)」に描いた魔女のナニー。この詩の内容は、 酔っぱらいのタムという男が馬のマギーにまたがり、ある夜、教会の前を通りかかると、教会に明かりがともっている。中を覗き込むと、悪魔が奏でるバグパイプの音楽にあわせ、魔女やら魔法使いやらが踊っている。魔女たちは、醜い老婆ばかりだったのが、一人うら若く美しいナニーという魔女が、シミーズ(カティーサーク)を着て、色っぽく体をくねらし踊っていた。見ているうちに、タムは興奮して「あっぱれ、カティーサーク!」と叫んでしまったのが関の山。タムに気づいた魔女や、魔法使いたちが、タムをつかまえようと一気に追ってきた。タムは、マギーにまたがり、必死で逃げ、ドゥーン川(River Doon)にかかるドゥーン橋(Brig o 'Doon)のたもとに向った。魔女たちは、流れる川を渡ることができない、という事になっているので、橋を越えれば、安全、というわけ。ドゥーン橋のたもとで、お色気魔女ナニーは、マギーの尻尾をつかまえたが、それでも、タムを乗せたマギーは、何とか橋を渡り逃げ切り、橋のたもとのナニーの手には、マギーの尻尾だけが残った・・・。 ナニーに追いかけられ必死に逃げるタムを描いた上の絵は、スコットランドの南西部、ロバート・バーンスの生誕地アロウェー(Alloway)にあるロバート・バーンズ・バースプレース・ミュージアム蔵で、この博物館のサイトから拝借しました。 http://