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4月, 2014の投稿を表示しています

テンプル騎士団の興亡

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テンプル騎士団のはじまり ローマ教皇の呼びかけにより、キリスト教国の騎士達が、聖地エルサレムを、イスラムの支配から奪回するために起こった第一次十字軍(1096~1099年)。1099年7月に、目的果たし、聖地エルサレムを占領,、エルサレム王国が設立。エルサレム占領後、兵士達の中には聖地に残り、キリストの墓があったとされる場所に立つ、聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)にて、宗教的生活を営むようになる者たちもでてきます。やがて、この聖墳墓教会に巡礼に訪れるキリスト教信者達が、道中、イスラム教徒の盗賊や追いはぎに襲われるようになってくると、彼らは、巡礼者を守るため、武装を始めるのです。 こうして、聖地にて設立された武装キリスト教団体の一番最初のものが、テンプル騎士団。彼らは、1120年に、キリスト教会から、組織として設立する事の正式な許可を受け、エルサレムの神殿の丘にあるアル・アクサー・モスクを与えられます。アル・アクサー・モスクは、ソロモン・テンプル(ソロモンの神殿、The Temple of Solomon)として知られていたため、テンプル騎士団(The Order of the Temple)と、呼ばれるようになり、そのメンバーは、テンプラー(Templar)と称されるようになるのです。え、テンプラ?日本の天ぷらは、ここから来たのか???なんて、思わないようにしましょう。関係ありませんので。1129年に、テンプル騎士団は、ローマ法王からの許可も受けます。 テンプル騎士団の後にも、いくつか似たような宗教軍事団体が設立しますが、その中でも有名なものに、聖ヨハネ騎士団(Knights Hospitaller ホスピタル騎士団)があります。こちらは、貧しい巡礼者達に宿を与え、世話、保護をする事に始まった集団ですが、テンプル騎士団設立後、やはり武装を始め、騎士団として発展。そのメンバーは、テンプラーに対し、ホスピタラーと英語では称されます。 テンプル騎士団の発展 聖地で巡礼者たちを保護するのみならず、やがて、彼らは、キリスト教世界内で、イスラム教徒を含む他の敵に対して領土を守る役割も果たすようになり、イベリア半島や東欧等、キリスト教世界と異教徒民との境界線の領域に土地を与えられ、そこでも活動を行います。また、そうした

テンプル騎士団の建てた納屋、クレッシング・テンプル

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久しぶりに、エセックス州クレッシング(Cressing)にある、クレッシング・テンプル(Cressing Temple)を訪れました。時折、クラフト・フェアーや、ファーマーズ・マーケットなどの催しが開かれる場所で、以前訪ねた際は、クラフト・フェアーをやっており、アート、クラフト系の屋台が立ち並び、敷地内でモリス・ダンスも見学したのでした。(この際の写真は、以前の記事、 「モリス・ダンス」 まで。) テンプル(Temple 神殿)などと言っても、内部に神殿があるわけではありません。遡る事1137年、スティーブン王の時代に、スティーブン王の妃マティルダが、テンプル騎士団に、荘園として、この地を与えたのが、名前の由来です。クレッシングは、イングランド内では、一番最初にテンプル騎士団たちに与えられた土地でありました。スティーブン王は、正当な王位継承者と言うには、いささか問題ありの人であったし、王位継承問題で内戦に悩まされた時代でもあったため、テンプル騎士団の様な宗教団体の庇護者と見られることは、大切だったのかもしれません。神様を味方につけるためにも。 ロンドン内の、現在は法律の地域として知られるテンプルも、テンプル騎士団が有した場所でしたね、そういえば。あちらは、テンプル教会というテンプル騎士団の教会もまだ残ってます。 クレッシング・テンプルの敷地内で、一番目に付くのは、バーン(barn)と称される、巨大な中世の2つの木造納屋。大麦納屋と小麦納屋。テンプル騎士団が、周辺で収穫した穀物を貯蔵した場所です。貯蔵された穀物は、地元で売られる事もあり、そのまま中東の聖地まで送られることもあり。 第一次十字軍遠征の後、エルサレムで、キリスト教国からの巡礼者達を守るために設立されたテンプル騎士団が、徐々に、現代の大きな国際企業さながら、キリスト教国の各地に土地を獲得し、富を成し、活動を広げていった、その威力のほどがうかがわれる建物です。当時は、納屋の他にも、チャペルや、大広間、キッチン、鍛冶場など、荘園としての経営に必要なものは全て整っていたわけでしょうが、テンプル騎士団の時代に建設され、現在も残るのは、この2つの納屋と井戸のみ。 13世紀前半に建てられた大麦納屋。現存する、世界で一番古い木造建築の納屋・倉庫とされています。それでも、後に、少しずつ、手が入っ

アルフレッド大王と焦げたケーキ

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アルフレッド大王(在位871~899年)。まだイングランドがいくつかのアングロサクソンの小王国に分かれていた時代、イングランドの南西部ウェセックス王国(首都ウィンチェスター)に君臨した王様です。他の王国が、次々とバイキング(デーン人)の襲撃に敗れていく中、最後に踏みとどまるのが、このアルフレッド大王のウェセックス。彼と、彼の子孫達が、後のイングランドの母体を作ることとなります。 父王エゼルウルフの第5男であったため、子供の頃は、王座はつがないものとして、軍事の他にも、学問にかなり力を入れ、ローマへ趣きローマ法王に謁見する経験もし。ところが、次々と兄達が死に、気が付くと、王様となっていた人です。王となっても学問を重んじ、行政にも賢明であったというのは、この幼少時の影響だと言われています。 さて、アルフレッド大王というと、ケーキを焦がして怒られてしまう逸話が有名ですので、ここで紹介しておきます。 バイキング(デーン人)たちは、キリスト教のイングランドの王国の祝日などを熟知しており、お祭り騒ぎの時に、不意打ちを掛けてくる、というちょこざいな手段を良く使っていました。877年、アルフレッド大王は、現ウィルトシャー州のチップナムでクリスマスを祝っている時に、デーン人の一大襲撃を受けるのです。この襲撃を、命からがら逃れ、側近の者達と、現サマセット州アセルニー周辺の沼地に逃れたアルフレッド大王。手作りいかだで、沼地の間を移動し、百姓の様に身をやつした姿で隠れ、デーン人から逃れる生活をしばし続けます。 この、デーン人から身を守るための、サマセットでの隠遁期間、アルフレッドは沼地の間のとある家で休憩させてもらう事を頼むのです。この家のおかみさんは、アルフレッドを室内に招き、かわりに、自分が井戸へ行く間に、焼いているケーキが焦げないように、見ていて欲しいと頼む。おかみさんが留守の間、アルフレッドは、火の前で、「いかにして、デーン人をやっつけようか・・・」と思いにふけり、ケーキの事など忘れてしまった。そして、おかみさんが、家へ戻ってみると、白昼夢にふける客人の前で、真っ黒に焦げたケーキが煙を上げていたわけです。怒ったおかみさん、アルフレッド大王を一喝。ほうきを振り上げて、王をたたいた、という説もあります。やがて、アルフレッドのお供たちが現れ、アルフレッドがウェセックス

村の鍛冶屋

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私の住んでいる町の一番古い部分にあるのは、昔はマーケットが開かれた、ちょっとした丘の上にある14世紀前半に建てられた教会と、一群の趣の良い建物。そのひとつ(上の写真)は、14世紀後半に建築され、長い間、鍛冶屋として使われ続けてきた建物です。移動や労働を馬に頼っていた時代、馬の蹄鉄(ホースシュー)を作ったり修繕する鍛冶屋は、どんな集落にも必須の商売。マーケットに買出しにやってきて、ついでに、この鍛冶屋で蹄鉄を直し、仕上げに、向かいのパブでひっかける・・・などという昔の営みが思い起こされます。蹄鉄は、幸運を呼ぶラッキーチャーム(幸運のお守り)と言われ、うちの玄関口にも、さびさびの蹄鉄が飾ってあります。春の大掃除もかねて、この蹄鉄、少々、磨きを掛けて、くもの巣も払っておかないと。 さて、つい最近までも、この古い建物は鍛冶屋として経営されていました。当然、現在では、馬の蹄鉄を作る需要は、あまり無いでしょうが、数年前に、庭においてあるベンチの鉄の支えの部分が壊れ、この鍛冶屋へ持って行き、修繕してもらった経験があります。 うちのベンチを修繕してくれている様子を取ったものが上の写真。 鍛冶屋のお兄さんに、こうして、ささっと溶接してもらって、たしか8ポンドくらいの値段だったと思います。せっかくの美男子だったので、マスクを取ったところの写真も取らせてもらいました。ちょとした物を直してもらえる、昔ながらのこういう店いいな、といたく感動したのでした。 ところが、去年の秋に、この鍛冶屋が売りに出ているのに気付きました。商売大変なんでしょうか。うちのベンチを8ポンドで直したところで、大した収入にはならないし。大きな仕事がどのくらいはいるのかもわからないし。この建物の販売には、鍛冶屋として商売を続ける、というのが条件となっているので、いまだ、売れていません。かなり時間かかるでしょうね。不動産の値段が非常に高い上、商売にかかるビジネス・レイト(税金)も高いこの国。伝統の職業と建物を維持するために、鍛冶屋として続けるという条件をつけたいなら、こういう、あまり金になりそうも無い商売は、ビジネス・レイトを掛けない、などのような処置をしないと、成り立たないのではないでしょうか。あのお兄さんは、どうしたのでしょう。新商売を始めたのか、別な場所に移って、まだ鍛冶屋をしているのか。