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8月, 2018の投稿を表示しています

ノルマンディー上陸作戦と天気予報

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友人に誘われて、ロンドンのウェストエンドの劇場で、「プレッシャー(Pressure)」という芝居を見に行って来ました。このプレッシャーという題名は、「プレッシャーを感じる」という意味でのプレッシャーと共に、お天気用語での気圧の意味でもあります。 第2次世界大戦中、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の決行された、1944年6月6日は、一般に、重要な攻撃開始日を指す軍事用語、「Dデイ」の名で知られています。ノルマンディーの海岸線、5か所(西から、Utah、 Omaha、 Gold、 Juno、 Sward)に、イギリスから海を渡って、連合軍の兵士たちが上陸する。この、Dデイは、最初は、6月5日に予定されていたのです。なぜ、一日延期になったのか、それは、イギリス海峡のお天気にあった・・・という話。 開演前の劇場内 舞台は、イングランド南部の重要な港町ポーツマスから北へ約8キロのところにある館、サウスウィック・ハウス(Southwick House)の一室。この館は、約1年がかりで計画されていた、Dデイへと向かう数か月の間、連合国遠征軍最高司令部が置かれていました。連合国最高司令官(Supreme Allied Commander)で、ノルマンディー上陸作戦に関する最終決断を下すのは、後に34代米大統領となる、ドワイト・D・アイゼンハワー(愛称アイク)。史上最大の水陸両用作戦(amphibious operation)とあって、人員と機材を整える他にも、考慮すべきことは多々。月の明るさ、潮の満ち引き、天気も重要要素。空軍は月の明るい晴れた空を必要とし、海軍は安全に海峡を渡れるための静かな海と風、陸軍は上陸のために、引き潮の海岸が必要。ということで、6月5~7日にかけてが、そのために最適とされ、選ばれたのは、6月5日月曜日、ほぼすべての要素は準備完了・・・天気以外は。 最高司令部の天気部の長は、気象学者ジェームズ・スタッグ(James Stagg)氏。変わりやすいイギリス海峡の天気予報を正確に当てるのはなかなか難しいらしく、今のようにコンピューターのない時代、世界各地の天気観測所からの情報を、電話で集めては、刻々と変わっていく天気情報を記録し、天気図を変えていく。スタッグ氏は、西から近ずいてくる嵐が、調度、予定の5日にイギリス海峡を襲うので、上陸決

オーストラリア初のイギリス植民地

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1788年1月25日午後、11隻のイギリスからの船が、オーストラリアの、現ニューサウルウェールズ州シドニー湾内、シドニー・コーブに碇を降ろす。総司令官アーサー・フィリップ(Arthur Philip)によって率いられたこの艦隊は、俗にファースト・フリート(The First Fleet)と呼ばれ、歴史に名を残しています。ファースト・フリートは、総計1300人を乗せ、前年5月にイギリスを出発。1300人の面子は、海軍兵と、公務員、島流しの刑にあった囚人たち。囚人の数は総計の半分近く。目的は、オーストラリアに罪人を送るためのイギリス植民地を確立する事。 1614年から1775年までの間は、イギリスの罪人は、北アメリカのイギリス植民地に送られていたものの、アメリカの独立戦争が勃発(1775年)、更には、アメリカ独立宣言(1776年)後は、それもできなくなり、新しく罪人を送れる場所を求めていたイギリス。 前回の記事 に書いたよう、キャプテン・クックが、オーストラリア東岸のボタニー湾に到着したのは、1770年。クックの第一回航海へ同行したジョゼフ・バンクスは、牢獄の混雑状態の解決策として、自分たちが訪れたオーストラリア東海岸のボタニーベイはどうか、という意見を、国会に提出。「自分たちが滞在している際に、原住民はあまり見かけず、おそらくあの周辺には50人くらいしかいないであろうし、気温は、南フランスのような温暖さ。土地は、豊穣ではないが、まあ十分。みずみずしい草が生えているので、イギリスから羊や牛を連れて行けば、よく飼育できるであろう。云々。」やがて、当時の内務大臣(Home Secretary)であった、シドニー子爵(トマス・タウンゼント)が、囚人たちを乗せたファースト・フリートをオーストラリアへと送ることとなるのです。 なんでも、このアーサー・フィリップによるファースト・フリートから、最後の罪人を乗せた船がオーストラリアに到着する1868年1月までの約80年間に、オーストラリアへ流された罪人たちの総計は、16万2千人を超すと言います。 アーサー・フィリップは、最初は、ボタニーベイに植民地を設立すべく降り立ったものの、飲み水が少なく、地質が不適当と判断し、少々、北上し、シドニー・コーブに到着。シドニーと言う地名は、上述の時の内務大臣、シドニー子爵から取った名です。

キャプテン・クックと第一回航海

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1768年8月25日、イギリスのプリマス港から「エンドエバー号、Endeavour」(努力)という名の船が、西へ向けて旅立つ。目的地は、南太平洋に浮かぶ島、タヒチ。船長は、キャプテン・ジェームス・クック(James Cook)。当航海の一番の目的は、タヒチにおいて、金星が太陽を横切る(Transit of Venus)のを観測する事。このキャプテン・クックの有名な、第一回航海の出発から、250年が経ちました。 第一航海に至るまでのキャプテン・クックの略歴 ジェームズ・クック(1728~1779年)は、イングランド北部のヨークシャー州の村に生まれます。父は農場の労働者。17歳にて、ヨークシャー東海岸にある漁村ステイス(Staithes)の雑貨店で働き始め、やがて、店主の紹介で、やはりヨークシャー東海岸にあり、ステイスより少々南へ行った、港町ウィットビー(Whitby)にて、石炭搬送船に乗って、船乗りとしての見習い奉公を始めます。そのうちに、イギリス海岸線のみでなく、北海を渡り、ノルウェーやバルト海への航海にも参加。やがて、才能を買われて、船主に、船のキャプテンになる誘いを受けますが、彼は、何故かこれを断り、イギリス海軍に加わるのです。これが彼の運命の分かれ道。 1756年に勃発するのが、イギリスが、フランスを相手に、海外領土をかけてカナダ、インドなどで戦う7年戦争。その名の通り、この戦争が終わるのは、7年後の1763年。クックは、戦争最初の2年は、北大西洋を巡視、後には、カナダで活躍し、1759年9月の、決定的な戦いとなるケベックの戦い(エイブラハム平原の戦い)への準備として、航海が難しいという、セント・ローレンス川の測定観測を行い水路図を作成し、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)将軍率いるイギリス軍が、セント・ローレンス川から上陸するのを、大幅に助ける役割を果たしています。 イギリスが、カナダでフランスを破った後、クックは、今度は、カナダのニューファウンドランドとラブラドールの海岸線の海図作成を指示され、1762年から5年間で、辛抱強くこの任務を完了。この期間中、ニューファウンドランドの南部沖の小島で、日食を観察し、この時のクックの観測の記述が、イギリスの科学学会であるロイヤル・ソサイエティ(王立協会)で発表されると、クックは航海技術、

ライム・ジュースとライミーと

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ローズのライムジュース(Rose's lime juice)は、世界初のフルーツ・ドリンクと言われる代物です。見るからに涼し気な薄緑色の液体。これを水と混ぜて、夏なら氷を浮かせて飲むのです。創業の古い他のブランドと同じく、王室へのライム・ジュースのご用達ブランド。 創業者のⅬ.ローズ氏は、1860年代に、西インド諸島からライムの輸入をはじめ、アルコールを使用せずに、ライム・ジュースを長期間保存させる方法を開発し特許を獲得。これが、また運よく、イギリス海軍が、船にかならずレモンかライム・ジュースを乗せ、航海中、船乗り達に配給し飲ませるという規定をしいたのとほぼ同時期。おかげで、海軍への支給により商売繁盛。ローズ氏は、後、西インド諸島のドミニカにライムのプランテーションも購入し、供給源も確保。 なぜ、イギリス海軍が、そんな規定を設けたかというと、過去、船乗り達は、何ヶ月もの間、ビタミンCを摂取しない事によりおこる壊血病(scurvyスカービー)で命を落とす事が非常に多かったためです。これは、歯茎などがぐじょぐじょになり、歯なども抜けてしまうという、おそろしい病気。傷やばい菌による身体の抵抗力も失せて、やがては弱って死んでしまう。 すでに、15世紀ころから、柑橘類が壊血病の治療に良いのではないか、という事は、一部では知られていたようですが、情報の伝達とシェアも希薄なら、緻密な調査などは、行われず、それぞれの船と船長の方針と対策に頼るところが多い、行き当たりばったりのまま、数え切れぬほどの数の船乗り達は、壊血病で命をなくしていったわけです。 ハワイを発見、ニュージーランドの海図を作成し、オーストラリア東岸を訪れた、ジェームズ・クック船長は、ザワークラウトを船員達に食べさせる事、レモンやライムを船員に配給する事、その他もろもろの対策を導入し、彼の一番最初の探検航海では、壊血病で死んだ乗組員が一人もいなかった、という史上初の快挙を成し遂げた人です。ちょっと癖のある匂いがするザワークラウトを食べるのを嫌がる一般船員たちを説得させるため、キャプテン・クックは、自分を含めた上官たちが、美味そうに、皿に盛られたザワークラウトを食べている姿を見せた、という有名な逸話が残っています。「上官たちが美味そうに食っているなら、高級で、いいものに違いない」と思わせたわけ

目から鱗!セント・ポールのキリスト教への回心

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ロンドンは、 セント・ポール大聖堂 の、セント・ポール(St Paul、日本語では聖パウロと呼ぶのが一般的でしょうか)。実際にキリストと関わりのあった最初の12使徒のひとりには入っていなかった彼ですが、時に使徒の一人と考えられ、キリスト教というものが、ユダヤ教の一派としての存在から、独立した、世界宗教へとなるのに貢献した人物と見られています。一体どんな人だったのか、ちょいと見てみましょう。 ローマ帝国のTarsus(タルスス、現トルコ内)という地で生まれた彼。もともとは、ソウルという名の、保守的ユダヤ教信者で、最初はユダヤ教の一派としてはじまったキリストの教えを広げる者たちを、ユダヤの神への冒涜者たちと見、糾弾する側にあった人間です。 キリスト教信者の中で、最初の殉教者とされる 聖スティーブン (ステファノ)が、ユダヤの神を冒涜したとして、石打の刑(上から大勢に石を投げ落とされる処罰)で死んだ際にも、当然と言わんばかりに、ながめていたソウル。その聖スティーブンの処刑のあった夜から、ソウルは、昔からのユダヤ教を守るため、エルサレムで、キリストを信仰する者たちを、女子供問わず、捕まえ、ユダヤ教司祭の前に狩り出し、糾弾。 カラヴァッジョの「ダマスカスへの道中での回心」 さらに、ソウルは、ダマスカスまでおもむき、そちらでも、こうした謀反人どもを捕まえて、エルサレムに引っ立てて戻ろうと、連れと共に出かけます。が、このダマスカスへの道中、いきなり天中に現れたまばゆいばかりの光に、目がくらみ、馬から転がり落ちる。上の絵は、この瞬間を描いた、カラバッジョによる「Conversion on the Way to Damascus、ダマスカスへの道中での回心」です。 セント・ポール寺院正面ペディメント セント・ポール寺院正面入り口の上のペディメントに掘られた彫刻も、このセント・ポールが光に打たれた、回心の瞬間を描いています。 光に続いて、空から声が聞こえてくる。新約聖書の「使徒言動録(Acts of Apostles)」によると、その声は、 Saul, Saul, why persecutest thou me? (9-4) ソウルよ、ソウルよ、なぜに、汝は私を糾弾するのだ? と、聞いたといいます。おどろいたソウルは、誰かと、その声に尋

聖スティーブンとセント・スティーブン・ウォルブルック教会

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聖ステファノ(英語は、聖スティーブン、St Stephen)は、キリスト教の最初の殉教者とされます。上の絵は、ドイツの画家、アダム・エルスハイマー(Adam Elsheimer、1578-1610)による、聖スティーブンの殉教の絵。 前回の記事の「 ペンテコステ 」の後、徐々に、エルサレムでの、キリストの教えの信者の数は増えていき、組織内での、色々な統制も必要となっていきます。ギリシャ系ユダヤ人であったというスティーブンは、その清廉潔白な性格を買われて、12使徒により、7人のディーコン(助祭、deacon)の一人に選ばれます。当時はまだ、ユダヤ教の新興の一派に過ぎなかったキリスト教。機知に富み、非常に熱心にキリストの教えを説き、議論でも他者に負けることがなかったため、ユダヤ教信者の中には彼を面白くなく思う人物も多く、最終的には、ユダヤ教への冒涜の言葉を放ったとして罪に問われ、大勢により、石を投げられるという処刑法で死亡。よって、聖スティーブンのシンボルは石。上の絵のように、石投げの処刑の絵、また、お手玉の様な石ころがいくつか、頭の周りに描かれている聖人がいたら、それは聖スティーブンです。 このいきさつも、ペンテコステと同じく、新約聖書内の、「使徒言動録(Acts of the Apostles)」に記されています。これによると、彼は、死の直前、 7-58 And they stoned Stephen, calling upon God, and saying, Lord Jesus, receive my spirit. 民は、神に呼びかけ、「主なるイエスよ、私の魂を受け入れたまえ」と言うスティーブンに石を浴びせかけた。 7-60 And he kneeled down, and cried with a loud voice, Lord, lay not this sin to their charge, And when he had said this, he fell asleep. スティーブンは膝まずき、大声で叫んだ「主よ、この罪は、彼らのせいではありません。」こう言った後、スティーブンは眠りについた。 St Stephen Wallbrook外観 ロンドンのシティー内には、この聖人に捧げた、セント・スティーブン・ウ

ペンテコステ

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上は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある、14世紀イタリアの画家、ジョット(Giotto di Bondone)によるとされる、ペンテコステ(Pentecost、英語の発音はペンテコスト)の絵。キリストの生涯を描いた7つのパネルの一番最後のものにあたるそうで、残り6枚のパネルは、世界各地の別の美術館に散り散りに所蔵されているそうです。ペンテコステの絵は、この7つのうち、唯一、キリスト自身は描かれていないもの。 と言ったところで、ペンテコステとは、なんじゃい、という話になります。ペンテコステは、キリスト復活( イースター ・サンデー)の50日後の、日曜日を指し、キリスト教会が本格的に生まれた日、キリスト教の世界への布教が始まった日などとみられています。ギリシャ語で50番目を意味する、「pentekoste」が語源という事。日本語では、精霊降臨。 復活して使徒たちの前に姿を現したイエスは、後に精霊の訪れを受けるだろうとの言葉を残し、昇天。この後、12人の使徒たちと、信者たちは、ユダヤ教の収穫祭、シャブオート(Shavuot)という祝いに集まり、皆で祈りを捧げていたところ、天空から音が聞こえ、強風が吹き、それぞれの信者たちの上に、2つに割けた炎のような舌が現れ、信者たちは精霊に満たされた・・・これが、イエスの予言した、精霊の訪問。そして、精霊でみたされた信者たちは、ローマ帝国内のあらゆる地方の言葉をしゃべり始めた・・・というもの。 ジョットの絵の、上部中央には、精霊の存在を表す白いハトが小さく描かれており、精霊に充たされた使徒たちの頭からは、炎のようなものがくっついて、ちらついています。建物の外には、シャブオートのために、色々な場所からエルサレムに集まっていた大勢のユダヤ人がいて、自分たちがやって来た土地の言葉を含め、色々な言葉で話をする声が外まで聞こえ、人々は、中を覗き込んだことになっています。この絵では、そんな群衆のうち、3人だけが、前景で、中の様子をうかがっています。 群衆は、最初は、色々な言葉で喋る信者たちを眺めて、「酔っぱらっているのか」と勘違いをするのですが、使徒のリーダー格であるペトロ(英語ではピーター)が、立ち上がり、酔っているのではないと、事のいきさつを説明。そして、処刑されたイエスは、神であり、キリストである、罪を清めるため、イ

地獄とは他人である

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「地獄とは他人である・・・(英語:Hell is other people.)」これは、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Satre 1905~1980年)による戯曲、「出口なし」(英語訳:No Exit)の最後の方で、登場人物の一人が言うセリフです。フランス語原題は、Huis Closだそうで、隔離された部屋での秘密の会話を意味するそうです。この国に来てから、他人がひどいことをする、他人は本当に迷惑だ・・・という意味で、「Hell is other people.」などと引用されるのを何度か聞いた覚えがあるのですが、これは引用する状況を間違った使い方であるようです。 私は、日本での高校時代に、ちょいと気取って、背伸びしたかったのもあって、サルトルやらカミュやらの日本語訳をいくつか読んで、「出口なし」も読んだはずなのですが、どのくらい理解していたのかは、かなり怪しいところがあります。あるきっかけで、「地獄とは他人である」の引用を思い出し、ついでに、1960年に放映された、この作品のBBCによるドラマ化を見て、記憶を呼び起こしました。このドラマは、「In Camera」(室内で)というタイトルで、劇作家であり俳優でもあったハロルド・ピンターが出演していました。 「出口なし」の、ざっとしたあらすじは、登場人物の、女性2人と男性1人の3人は、死後、地獄へと送られる。この地獄というのは、悪魔が徘徊し、鞭打たれたり、火の中で焼かれたりする地獄ではなく、鍵のかかった部屋で、3つのソファーが備え付けてあるだけ。やがて、徐々に、それぞれの過去の話を物語、各々は、自分の過去と自分という人間を、他の2人の判断にゆだねることとなります。 最初のうち、3人は、死後は、肉体的苦痛を与えられるいわゆる普通の人間の想像する地獄に送られるものと思っていたのが、やがて、この小部屋で3人で永遠に時を過ごす、それが地獄だと気づくに至る・・・。「地獄とは他人である」というのは、人間は、自分の価値、自分の存在、自分の人生の在り方を、常に他人の目によって判断するものであるから、その他人の批判的なまなざしや、他人によって測られているという感覚から、永久に逃れられないことを地獄と称したもの。ですから、この国でよく引用される場合のように、「他人は迷惑だし、ひどいことをする」から

メアリ・ウルストンクラフト

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メアリ・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft、1759-1797年)。日本ではあまり知られた人物ではないかもしれません。フェミニズムの生みの親などとも言われる思想家、執筆家で、現在では、「 フランケンシュタイン 」作家、メアリー・シェリーのお母さん、と説明した方が早いでしょうか。とにかく、この人の苗字、ちょっと長めの上、変わっていて、覚えるまで苦労しました。うちのだんなも、ウルストンクラフトという苗字は、彼女以外には聞いたことがないなんて言いますし。 前回の記事 で、「フランケンシュタイン」とメアリー・シェリーにふれたので、ふと、彼女の事が頭をよぎり、その波乱万丈の生涯の事をささっと書いてみることにしました。 もともとは、貧しい家庭の生まれではなかったものの、父親は事業に失敗し、金をなくし、家計は火の車。その上、父は、酔っぱらうと乱暴者。ちょっと情けない母親に代わって、彼女が家庭をきりもりし、後、上流家庭の女性のおとも、家庭教師などをして、働き、女性の社会進出の可能性の限界を感じ、やがて執筆にたずさわるようになります。最初の出版作は、1787年の「Thought on the Education of Daughters、子女の教育についての考察」。そして、ロンドンで、進歩的思想家たちとの友好を広める中、1789年に起こるのが、フランス革命。 彼女は、自由を唄う初期のフランス革命に賛意を示します。よって、アメリカ独立戦争は支持したものの、既存のものすべてを打ち壊そうとする、フランス革命のあり方に懐疑心を抱き、革命を批判する、時の著名政治家、思想家のエドマンド・バーク(Edmund Burke)著の「フランス革命の省察」(Reflection on the Revolution in France)に激しく反論。ちなみに、この「フランス革命の省察」は、まだルイ16世などが処刑される前に書かれたものでありながら、血に飢えた民衆による、この後のフランス革命の行方を、よく予言しているのだそうです。バークは、この著の中で、 「指導者たちが、人民の人気取りオークションでの入札者となる時、国家を建設するうえで、彼らの才能は何の役にも立たなくなる。彼らは、人民のただのおべっかつかいとなり下がる。人民の道具となり、もはや指導者ではなくなるのだ。」