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8月, 2015の投稿を表示しています

収穫の終わった小麦畑

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8月も終わりですから、イギリスの畑では、とっくに、小麦は収穫済みです。 この季節のイングランドでは、 黄金色のフィールド のあちこちに、小麦のわらを丸めたものが、沢山ころがっている風景によく行きあたります。 前回の記事 で書いた、スタワー川沿いのハイキングの最中も、もちろん、目にし。 小麦の切り株が線を作る、畑のど真ん中を突っ切る事もありました。 スタワー川周辺の田園風景は、画家のジョン・コンスタブルがこよなく愛した風景でもありますが、ハイキングの途中に訪れたワーミングフォード(Wormingford)という村は、20世紀の画家、ジョン・ナッシュが長く住んだ場所で、彼も、周辺の風景を描いています。 ジョン・ナッシュは、第一次、第二次世界大戦中には戦争画家としても活躍したポール・ナッシュの弟で、代表作は、「コーン・フィールド」と呼ばれる、小麦収穫後の畑の風景。日本では、アメリカ英語の影響の方が強いので、コーン(corn)というと、「とうもろこし」と、自動的に訳してしまいがちですが、イギリスでは、コーンは、「小麦」を指すことが多い言葉です。 まさに、ジョン・ナッシュのコーン・フィールドの風景のただ中を歩けたので、季節的には、ぴったりのハイキングだったのです。 ワーミングフォードの教会の墓地には、1977年に亡くなった、ジョン・ナッシュのお墓があるという事なので、墓地の芝刈りをしていたおじさんに、「どれが、ジョン・ナッシュのお墓か知ってますか?」と質問。「もちろん。彼と彼の奥さんの二人とも、生前、良く知っていたし。」という返事。へー、何だか、絵しか知らない画家が身近な人になったような気分。場所を教えてもらい、ついでに、「コンスタブルの親戚のお墓は、教会の裏に在るよ。」という情報もくれました。そう、ワーミングフォードは、コンスタブルの叔父さん夫婦、アブラムとメアリー・コンスタブルが住んでいた場所でもあるのです。「ジョン・コンスタブルも、おじさんを訪ねて、ここに来て、たしか、この教会も描いてるはずだけど、その絵がどこに在るかは聞かないでね。知らないから。」という事。 ジョン・ナッシュと、奥さんのお墓。 コンスタブルの叔父さん夫婦のお墓。永遠の眠りに付くには、悪くない場所です。 この周辺は、平坦な事で知られるイ

スタワー川のドラゴン伝説

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テムズ川沿いにそそり立つロンドン搭(Tower of London)は、謀反人を閉じ込める場所、また処刑の場所として使われた事で知られていますが、その他にも、王家の動物園の様な役割も果たしていました。一国の王様、女王様ともなると、海外の王侯貴族から、エキゾチックな動物を贈り物にもらってしまう事などもあり、また自ら珍しい動物を取り寄せたりする事もあったわけです。そんな、ライオンやトラが、海外からイングランドにやって来たはいいが、さて、どこで飼育すれば良いのか、そうだ、ロンドン搭にでも・・・という事になったのでしょう。 昔々、獅子心王と呼ばれたリチャード1世の時代。十字軍の遠征から持って来させたワニを、リチャードは、ロンドン搭に収めたと言います。その後、ワニは、ロンドン搭から、すたこら逃げ出し、テムズ川を下って、ロンドンの北側にある、エセックス州の沼地へ大脱走。やがて、ワニは、南はエセックス州と北はサフォーク州の境界線を流れるスタワー川(River Stour)にたどり着き、周辺の谷に定住したとやら。 スタワー川沿いの町ビューアーズ(Bures)周辺の地には、中世の時代、ドラゴンが出現した、という伝説が流れていますが、このドラゴンは、実は、上記の様に、ロンドン搭から脱走して来たワニであった、という説が最も強いそうです。実際、当時の人たちは、ワニなどという動物を見た事も聞いた事もなかったでしょうから、リチャード1世のワニが、周辺の地の羊やら小動物やらを飲み込んで巨大化していたら、それを見た村人たちが、「ひょえ!ドラゴン!」と思って腰を抜かす姿も、容易に想像できます。 先日、このドラゴン伝説の名残を追って、ビューアーズを起点終点とし、約18キロのサーキュラー・ウォーク(一周ぐるりと回るハイキング)に、だんなと出かけてきました。前半の行程は、ビューアーズからスタワー川の南側(エセックス州)を東へむけて歩き、途中、ウォーミングフォード(Wormingford)、ウィッシントン(Wissington)という、かわいらしい集落を通過。ドラゴンの壁画が教会の内部に残るウィッシントン直前で、スタワー川を渡り、サフォーク州に入り、少々北上。後半は、今度は、川の北部(サフォーク州)を、ずっと西へ向けて、沈みつつある太陽を目指して歩き、ビューアーズに戻りました。(この行程に興

誰が殺したクック・ロビン(Who killed Cock Robin?)

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Who killed Cock Robin? I, said the Sparrow, With my bow and arrow, I killed Cock Robin. Who saw him die? I, said the Fly, With my little eye, I saw him die. Who caught his blood? I, said the Fish, With my little dish, I caught his blood. Who'll make the shroud? I, said the Beetle, With my thread and needle, I'll make the shroud. Who'll dig his grave? I, said the Owl, With my pick and shovel, I'll dig his grave. Who'll be the parson? I, said the Rook, With my little book, I'll be the parson. Who'll be the clerk? I, said the Lark, If it's not in the dark, I'll be the clerk. Who'll carry the link? I, said the Linnet, I'll fetch it in a minute, I'll carry the link. Who'll be chief mourner? I, said the Dove, I mourn for my love, I'll be chief mourner." Who'll carry the coffin? I, said the Kite, If it's not through the night, I'll carry the coffin. Who'll bear the

長い冬 The Long Winter

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ローラ・インガルス・ワイルダー著の「 インガルス一家の物語 」シリーズを読み進んでいます。その、「シルバー・レイクの岸辺で」に続く物語が「長い冬」(The Long Winter)。 「シルバー・レイクの岸辺で」で、サウス・ダコタにホームステッドと称される、当時の合衆国政府により、土地を耕す意思が在るものたちに与えられた土地で、新たな生活を建てようとするインガルス一家。そこでの一年目の夏が終わり、10月から7ヶ月間も続くのが、想像を絶する、長く、厳しい冬。一家は、ホームステッド内の掘っ立て小屋では、厳しい冬を越せないと感じ、町の中に、お父さんが建ててあった家で冬を越すのですが、それでも、この冬の凄さたるや、まさに究極のサバイバル。(ホームステッドについて、詳しくは、「シルバー・レイクの岸辺で」の記事を参照下さい。 こちら 。) 長い冬の間、何度も3,4日続く強烈な吹雪が訪れ、外も歩けなくなるほどの雪の威力が大変。学校にいた時に、いきなり猛吹雪が訪れ、主人公ローラと妹キャリーは、先生と他の生徒達と、何とか、さほど遠からぬ町の目抜き通りへ戻ろうとするのですが、それが至難の業で、あわや遭難しそうになる始末。また、足や手が凍えそうになるのはもちろん、雪で皮膚に傷がつき、血が出たりもするのです。吹雪が始まると、戸外へは一切出られないので、町の住民達は、皆、室内に立てこもる事になり、吹雪の後の1、2日の晴天の間に、外での用を済ませる。室内も、ストーブの周りに擦り寄っていないと寒く、家の中の、一角で、家族6人、寄り添って毎日を過ごすのです。 もやすためのわらをねじるローラとおとうさん 雪かきを何度もしても、すぐにまた新たなる吹雪にやられ、ついに鉄道も閉鎖となり、春まで汽車が町にやってこない事となり、物資も徐々に無くなっていきます。石炭が無くなると、一家は、ホームステッドから刈り取ってあった、わらを燃やし始めるのです。大木がほとんどない地方ですから、燃やす木の枝もないわけで。わらは、そのまま燃やしては、すぐに燃え尽きてしまうので、束ねて固くひねり、棒の様にしてから燃やす。小麦粉が無くなり、町の店にわずかに残った小麦を購入。轢いていないので、コーヒーミルを使い、少量ずつ轢く。一家は、わらをひねって棒を作る作業と、コーヒーミルで小麦を轢く作業を、交代に行い、ほぼ

ルイ・パスツールとパスチャライゼーション

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ここのところ、牛乳に関する話題を続けて書いていますが、今回は、パスチャライゼーションについて。 19世紀も後半になると、牛乳の生産が増え、生産場所から多少離れた場所への配送も増えて行き、都会の人間も牛乳を飲む機会が増えていく。牛乳は、育ち盛りの子供にも、豊かな栄養源として、それはそれで良い事ではあるものの、牛乳を、絶好の栄養源とするのは、残念ながら人間だけではなく、色々な微生物も。その中には、人間に害を及ぼす微生物もいるわけです。よって、牛乳が、幅広く飲まれるようになった結果、それに伴う牛乳内に潜む悪役細菌が引き起こす病気も蔓延していくのです。牛乳が原因で起きていた病気としては、腸チフス、猩紅熱、ジフテリアなども含まれています。ボトル入りのミルクの配送が始まる前は、配送者が容器に入れたミルクを、個人に、しゃくですくって配っていたため、農場を出た時は大丈夫でも、配送過程や家庭内で、変なものが入り込む可能性も高かったでしょう。 微生物学の父と称される19世紀フランスの科学者ルイ・パスツール(Louis Pasteur 1822-1895)が、クロード・ベルナール(Claude Bernard 1813-1878)と共に、ワインが酸っぱくなるのを止めるため、パスチャライゼーション(pasteurization)という処理を考案するのですが、これは、飲食物を、比較的低温で、一定の時間熱する処理の事。フランスにとって、大切な産業であったワインが、当時、すぐに酸っぱい味となってしまう事を懸念したナポレオン3世が、パスツールに、何とかならんか、と解決を依頼。パスツールは、ワインに含まれていた微生物の一部が原因であるとし、アルコールを飛ばさず、更に、味の低下を起こさずに、この細菌のみをやっつける低温度で処理をし、問題解決。 こうして、パスチャライゼーションは、低温の熱処理であるため、味にさほど影響を与えずに、害になり得る細菌を殺すことができるため、19世紀末には、これを、問題を起こしていた牛乳の細菌処理に使用してはどうかとなり、徐々に、牛乳の製造過程として一般化していく事となります。今では、スーパーで、パスチャライゼーションされていない生牛乳を探す方が大変です。悪い細菌が牛乳に入り込まない様に、清潔を心がける農場での経営の進歩と、蓋をした容器を用いての配送過程の進歩

エドワード・ジェンナーとワクチン

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1979年に撲滅した天然痘(smallpox)。死に至ることもあり、また、生き残っても、肌に醜いあばたを残すことから、かつては、非常に恐れられていた病気。 インドやトルコなどでは、イギリスおよびヨーロッパよりもずっと以前から、天然痘に対して、予防のための接種を行っていたようです。 1717年に、当時、オスマントルコ駐在のイギリス大使夫人であったメアリー・ワートリー・モンタギュー夫人は、トルコでの天然痘に対する接種の様子を目撃し、トルコでは、こんな事をしている、と手紙にしたためています。英語では「inoculation イノキュレーション」と称される、この頃の予防接種は、予防したい病気の病原体を直接、人体に少量挿入し、完治できるような軽い症状を引き起こし、後に、同じ病気で重症にならないよう免疫を作ること。もっとも、当時は、免疫系というもののメカニズムがまだ判明しておらず、予防接種も、試してみたら、効果が在ったから、続けてやる、という民間療法的なものであったわけですが。 実際に行っていた作業は、健康体の人間の腕や足などに、メスで軽く傷口をいくつか作り、そこに、軽度の天然痘にかかっている患者から膿をすくい上げ、擦り付ける・・・という、ちょっと気持ち悪いもの。当然、症状の軽い人間から、少量の病原体を取って移すというのが大切で、これを、誤って、大量に移してしまったりすると、せっかくの予防のはずが、重症になって、体中あばただらけになってしまった、とか、死んでしまった・・・・などという事もあったのでしょう。また、使用するメスや、傷口が清潔でないと、他の病原菌が入る可能性もありますし。 ともあれ、多くの場合、効果があるとして、メアリー・モンタギュー夫人が、トルコで学んだ、この予防接種法をイギリスに紹介してから、イギリスでも多少行われるようになったようですが、全国規模で行われる一般的な慣行には至らなかったようです。子供の時に、漫画「ベルサイユのばら」を読んだ人なら、フランスのルイ15世は、1774年に、顔もくずれて分からなくなるような、強度の天然痘で、ベルサイユ宮殿で死んでいるのを知っている事でしょう。そして、ルイ16世と、マリー・アントワネットがフランスの王座に着くのです。子供心に、漫画の絵を見ながら、怖いな、この天然痘って病気、と思ったのです。フランスでは、

牛乳瓶とイギリスのミルクマン

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イギリスの牛乳配達人は、英語でミルクマン(Milkman)。 ミルクマンは、2、3年前まで、袋小路である我が家の通りにも、朝早く、荷台に牛乳瓶を積んだワゴン車でやって来ていましたが、牛乳を配達してもらっていた2件先のおばあさんが亡くなり、やはりミルクマンを使っていた隣のおばあさんが、養老施設に入ってしまってから、うちの通りでは、その後見なくなりました。いや、うちの通りに限らず、牛乳配達をしてもらっている家庭は、かなり少なくなっている事でしょう。 現在、イギリスに存在するミルクマンの数は、5000人前後だそうで、絶滅に瀕している動物の様な存在。去年の秋には、瓶入りの牛乳を製造していた大手の会社が、牛乳瓶を製造していた最後の工場の閉鎖を決定したというニュースが流れ、今後、当社に雇われる1400人の牛乳配達人たちは、プラスチック容器入りの牛乳を戸口に配達する事となります。小さな牛乳製造者は、まだしばらく瓶入り牛乳を続けるところもあるようですが。プラスチックボトルの製造費用は、瓶を作る費用より安いのだそうですし、配達の際、軽くて、割れない、漏れない、という利点があります。うちのだんなは、少年時代、雪の日などに、近所のミルクマンに頼まれ、何度か配達の手伝いをした事があるのだそうですが、どんなにがんばっても、どうしても、アルミの蓋のわきから、少しミルクが漏れてしまって、手にどろっとミルクがついたのだそうです。このミルクマンは、だんなの家の近くの農家の牛乳を積んで回っていたのだそうで、まだ、製造者と消費者の関係が非常に分かりやすかった時代です。牛乳瓶の消滅で、早朝、戸口で、かちん、かちん、と軽く瓶が触れ合う音がする、という昔ながらのミルクマンのイメージが壊れてしまうのは残念です。 牛乳瓶が出回る以前は、牛乳の配達は、 フランダースの犬 のネロ少年さながら、大きな容器に入れたものを、馬に引かれたワゴン車にのせて回り、各家の用意した入れ物に、しゃくしですくって注ぎいれていました。初めて牛乳瓶なるものに特許が与えられたのは、1870年代のアメリカ。そして、やはりアメリカで、世界で始めて、牛乳瓶が戸口に配られたのは、1878年だったとか。イギリスでも、1880年に、瀬戸物の蓋がワイヤーでくっついた牛乳瓶が登場したようですが、牛乳瓶が家に配達されるのが一般化するのは、第一次

アオガラと牛乳瓶

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アオガラ(blue tit、ブルーティット)は、イギリスの庭では比較的良く見かけるガーデン・バードで、黄色と水色のコンビネーションが綺麗な鳥です。 先日、1960年代にイギリスで出版された、鳥に関する子供用の本をぱらぱらとめくって見ている時に、アオガラが牛乳瓶の上にとまって、牛乳瓶のアルミのふたに、くちばしで穴を開けている絵に目が留まりました。「今は無き光景だな・・・」と思いながら、絵の説明を読むと、「小さいながらも、ブルーティットは利口で、簡単な問題であれば、処理する能力があり、牛乳瓶の蓋を開ける事を学びました」の様な事が書かれていました。牛乳配達人が、イギリス各家の玄関口に、瓶入りの牛乳を配達するのが一般的だった頃の話です。私がイギリスに来たばかりの頃は、まだ、こうした、アオガラがミルクボトルの上にちょこんと座っているイラストの入ったグリーティングカードなども、時折、見かけましたが、本物のアオガラがミルク瓶の上にとまっている姿は、残念ながら、私は見たことはないです。(ので、上のイラストは、実際の観察によるものではなく、他の絵や、アオガラの写真を、色々と参考にしながら描いたものです。) 玄関口に配達されていた、瓶入りの牛乳の上部には、液体から隔離されたクリームが凝結していましたが、イギリスのアオガラ達は、ふたのすぐ裏にくっついた、このクリームに目をつけたのです。そして、1950年代までには、クリームを食べるために、牛乳瓶のアルミのふたを、くちばしでこじ開ける技をマスター。鳥類は、乳糖(ラクトース)を消化する能力が無く、牛乳を飲むと下痢をしたりするらしいのですが、分離したクリームには、乳糖が含まれていないために、美味しいエネルギー源にはなっても、腹壊しの心配は無し。もっとも、この時代のイギリスのアオガラは、クリームの消費量が増えたことから、多少、乳製品消化がしやすい体質に変わっていたようです。進化論・・・ですね。 なんでも、アオガラのみでなく、 ロビン (ヨーロッパコマドリ)の中にも、蓋開けの技をマスターしているものがいたようですが、縄張り意識が強く、単独行動のロビンの間では、技は、鳥から鳥へと、幅広く伝授されなかったようです。ですから、ロビンは、クリスマスカードのイラストにはしょっちゅう使われても、牛乳瓶の上に留まった姿でイラストされることはほとん

アーティチョークの大きな花

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去年の初夏、庭の奥に新しい小さな畑コーナーを設け、スーパーではあまり売っていないような、少し変わった野菜を育ててみようと、アーティチョーク(artichoke)の苗を何本か買ってきて植えたのです。アーティチョークは、南欧などに比べ、イギリスでは、さほど人気の食べ物ではありませんが、私は好きなので。育てるのはわりと簡単で、巨大な葉がにょきにょき、背もぐんぐん高くなり、そのうち、爬虫類の皮膚の様な皮に包まれた丸い蕾が出てきたので、これらの蕾が、こぶしより大きくなった段階で、食用に、何個か収穫しました。 収穫した蕾は大きいものの、実際、食べられる部分と言うのは、アーティチョークのハート(artichoke hearts)と呼ばれる、蕾の下部の芯の部分のみで、周辺の蕾の皮と、その内部にある、チョーク(choke)と称される、ぷわぷわの綿毛のような部分を取り除く必要があります。この作業、結構、指がちくちくするし、時間がかかるのです。空気にあたると変色するので、レモンをこすりつけながら、やっと切り出したアーティチョークのハートは、「え、これだけ・・・?」という感じで、とても小さい。これを、レモンを入れた熱湯でゆで、切り刻んで、ドレッシングにまぶして、サラダにして食べました。苦労したわりには、本当にわずか。蕾が、ゴルフボールくらいの大きさの時に収穫すると、まだ全体がやわらかく、茹でれば丸ごと食べられるという話ですが、これは試したことはありません。 なんでも、伝統的なフランスの食べ方には、大きな蕾を、丸ごとそのまま、レモンスライスと一緒に40分ほどゆでて、その後、皮を一枚一枚取って、クリームやドレッシングなどにつけながら、皮の肉を、歯でしゅーっとこすぎ取りながら食べ、最後に、アーティチョークのハートをいただく・・・というのもあるそうです。こちらは、以前、買ってきたアーティチョークで試したのですが、いちいち何枚も皮を食べるのが面倒だったですね。それほど食べる部分もないのに。人が来たとき出すのには、ちょっとした余興にはなるくらいで。 手がかかるわりには、食べられる量が少ないので、以後、食用には、店で売っているアーティチョークのハートの油付けの瓶詰めを買って満足することにします。ということで、今年は、庭のアーティチョークは、人間の食用にする代わりに、観賞用と、蜂の食用にな