エドワード・ジェンナーとワクチン


1979年に撲滅した天然痘(smallpox)。死に至ることもあり、また、生き残っても、肌に醜いあばたを残すことから、かつては、非常に恐れられていた病気。

インドやトルコなどでは、イギリスおよびヨーロッパよりもずっと以前から、天然痘に対して、予防のための接種を行っていたようです。

1717年に、当時、オスマントルコ駐在のイギリス大使夫人であったメアリー・ワートリー・モンタギュー夫人は、トルコでの天然痘に対する接種の様子を目撃し、トルコでは、こんな事をしている、と手紙にしたためています。英語では「inoculation イノキュレーション」と称される、この頃の予防接種は、予防したい病気の病原体を直接、人体に少量挿入し、完治できるような軽い症状を引き起こし、後に、同じ病気で重症にならないよう免疫を作ること。もっとも、当時は、免疫系というもののメカニズムがまだ判明しておらず、予防接種も、試してみたら、効果が在ったから、続けてやる、という民間療法的なものであったわけですが。

実際に行っていた作業は、健康体の人間の腕や足などに、メスで軽く傷口をいくつか作り、そこに、軽度の天然痘にかかっている患者から膿をすくい上げ、擦り付ける・・・という、ちょっと気持ち悪いもの。当然、症状の軽い人間から、少量の病原体を取って移すというのが大切で、これを、誤って、大量に移してしまったりすると、せっかくの予防のはずが、重症になって、体中あばただらけになってしまった、とか、死んでしまった・・・・などという事もあったのでしょう。また、使用するメスや、傷口が清潔でないと、他の病原菌が入る可能性もありますし。

ともあれ、多くの場合、効果があるとして、メアリー・モンタギュー夫人が、トルコで学んだ、この予防接種法をイギリスに紹介してから、イギリスでも多少行われるようになったようですが、全国規模で行われる一般的な慣行には至らなかったようです。子供の時に、漫画「ベルサイユのばら」を読んだ人なら、フランスのルイ15世は、1774年に、顔もくずれて分からなくなるような、強度の天然痘で、ベルサイユ宮殿で死んでいるのを知っている事でしょう。そして、ルイ16世と、マリー・アントワネットがフランスの王座に着くのです。子供心に、漫画の絵を見ながら、怖いな、この天然痘って病気、と思ったのです。フランスでは、接種が一切行われていなかったのか、いずれにせよ、ルイ15世は、トルコ風の予防接種してなかったんですね・・・。

月日が流れ、1796年、イギリスはグロスターシャー州。酪農が盛んなこの地の医者エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)は、つるつるの美しいお肌のミルクメイド(milkmaid、牛乳の乳絞りを職とする女性)達が、一切、天然痘にかからない、という事実に着目するのです。ただし、彼女らは、常に、牛の近くにいるため、牛の間で時に蔓延する牛痘のため、手におできができている事はあった。天然痘と牛痘は類似してはいるものの、牛痘は、人間には猛威を振るわない病気。エドワード・ジェンナーは、牛痘にかかっているミルクメイド達が、天然痘にかからないとすれば、天然痘患者の膿を直接、予防接種に使用するのではなく、代わりに、牛痘を使用して予防接種をすればどうか・・・と考え付くのです。自分の子供達には、すでに天然痘の接種を行ってしまっていたため、ジェンナーは、知り合いの子供である、8歳の少年に牛痘の接種を試みる。とあるミルクメイドの手にあった、牛痘からできた、おできの膿を、この少年に接種、少年は、病気になることなく、また、後、天然痘にかかる事もなく、実験成功。知り合いの子供を殺してしまっては大変ですので、めでたし、めでたし。ジェンナーは、1798年に、この発見を文献で発表しています。

天然痘に類似した牛痘の接種により、体内は、天然痘にやられた時と、同じような免疫が生まれ、後、天然痘をやっつける体を作ることができたわけですが、まだ、ジェンナーの時代にも、免疫の概念は確立していなかったようです。ただし、効き目がある上、以前のような、天然痘患者からの直接の接種(inoculation)よりも、安全性の高いものであるとし、これを、牛のラテン語である、ヴァカ(vacca)から取って、vaccination(ヴァクシネーション、ワクチンによる予防接種)と呼ぶのです。当然vaccine(ワクチン、英語発音はヴァクシン)という言葉もここから来ています。現在、ワクチンという言葉は、牛とは関係なくなっていますが、やっつけたい病気をそのまま直接接種するのではなく、それを更に、人間に対して害の少ない弱い形にしたものを指して言うわけです。エドワード・ジェンナーの実験後も、病原菌やウィルスの実態理解、免疫系の理解、更には、ワクチンによる予防接種の一般化までは、まだ、長い時間を要していますが。

さて、イギリスのミルクメイドと言うと、トーマス・ハーディーのテスが頭に浮かぶところですが、彼女も、天然痘にやられたこと無い、美しいお肌と、ばら色の頬の、健康美に恵まれた女性だったのでしょう。その美しさのため、悪い男に目をつけられ、追い回される羽目になってしまうわけですが。過去は、貧しくて美しいと、災いにつながることも多々あったのでしょう。軽い天然痘にかかり、あばた顔になってしまい、結婚相手を探すのが大変という事になるのと、どちらが、より悲惨な事なのか・・・。

ミルクメイドはまた、キャロル「クリスマスの12日」(The Twelve Days of Christmas)内で、クリスマスの8日目に送られてくるプレゼントでした。

On the eighth day of Christmas
My true love sent to me
Eight maids a-milking...

クリスマスの8日目
私の心から愛する人が送ってくれた
8人のミルクを絞る娘たち・・・

エドワード・ジェンナーとミルクメイドからの、現在の人間へのプレゼントは、天然痘の撲滅と、ワクチンなのです。

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