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2月, 2016の投稿を表示しています

ジェイムズ・ギルレイのナポレオン

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「The Plum-pudding in Danger - or - State Epicures taking un Petit Souper」(プラム・プディングの危機 または ちょっとした食事を取るエピクロスな政治家達、1805年2月)と題されたこの絵は、イギリスの風刺画家ジェイムズ・ギルレイ(James Gillray 1756-1815年)によるもの。おそらく、過去の政治風刺画、諧謔画の中でも、一番有名なものではないでしょうか。私の高校の世界史の教科書にも、この絵が挿入されていたのを覚えています。 言わずと知れたナポレオン・ボナパルトと、当時のイギリスの首相、小ピットこと、ウィリアム・ピット(William Pitt)が、地球の形をした、湯気のあがる巨大プラム・プディングを二人で切り分けている様子を描いたもの。ピットが切り取っているのは、大西洋。ナポレオンが自分の皿にもろうとしているのはヨーロッパ大陸。海軍が強い、海の帝国イギリスと、ヨーロッパ征服をもくろむ陸軍のナポレオン率いるフランスを対照的に描いています。 ギルレイのおかげで、写真が登場する以前のイギリスの首相の中で、その様相が、一番良く知られているのが、このひょろ長い胴体と、大きな鼻を誇張して描かれているウィリアム・ピットでしょう。本人は、ありがたくないかもしれませんが。ピットは、この絵の発表された約一年後の1806年1月に、46歳の若さで亡くなっています。 また、ギルレイが「リトル・ボニー」(Little Boney)と呼んで描いたナポレオンのイメージも、イギリス人が頭に浮かべるナポレオン像を形成するのに一役買っています。ギルレイのナポレオンは、ぎょろりとした目玉をした、ちびちゃんであり、大変なかんしゃくもちの駄々っ子風・・・そう、ギルレイが常にナポレオンを「おちびちゃん」として描いているので、私も、長いこと、ナポレオンは背が低い、と思っていたのです。実際のナポレオンは、かなり背の高い人であったようなですが。当時は、写真も無く、インターネットも無いので、情報源も少なく、本人を目撃した事が無い人は、本当にナポレオンは、こんな感じだと信じていた人も多かったことでしょう。ギルレイ自身も、当然、ナポレオン本人を見たことはないので、彫刻や絵からイメージを作り上げたわけですし。 こちら

ルイジアナ買収

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前回の、映画「 レヴェナント 蘇えりし者 」に関する記事の中で、アメリカ合衆国による1803年の「ルイジアナ買収」(Louisiana Purchase)の話に少々触れたので、今回は、これについてまとめてみることにします。 ミシシッピ川西部に広がるアメリカ中部の広大な土地は、1682年に、フランスの探検家ロベール=ガブリエル・ド・ラ・サールにより、フランスの領土として、当時のフランス国王ルイ14世の名にちなんで、ルイジアナと命名。もっとも、領土と宣言したはいいが、多くのインディアン部族の徘徊する、ワイルドで、あまり役に立たない土地と見られ、ぽつぽつとフランス軍の砦が点在するのみのまま時が経ちます。 そんな使い勝手の悪い土地であったせいもあってか、フランスのルイ15世は、イギリスとフランスが、カナダの領土をかけて戦った、フレンチ・インディアン戦争(1755-1763年)の際に、味方であったスペインのカルロス3世に、贈り物として、ルイジアナ領土をあげてしまっています。スペインはその後、銀鉱のあるスペインのメキシコ領土をイギリスの野心から守るため、ルイジアナを、一種のクッションのような緩衝地帯として、ほぼ野生のまま保持するのみで、やはり積極的な土地の使用は行わず。 イギリスから独立後、人口が増えていくアメリカ合衆国では、東海岸の州を離れ、アパラチア山脈を越えて、ミッシッピ川東岸のケンタッキー、テネシーなどのフロンティアの土地へと移住していく人間も増えていきます。1780年代の初めには、そうしたミシシッピ東岸のフロンティア農家の生産物が、大量に、東海岸の州へと出荷されており、ミシシッピ川は、そうした物資を運ぶために重要な役割を果たすのです。貨物を陸路で運ぶより、ミシシッピ川から支流に入り東部の州に運ぶほうがずっと楽ですから。そして、また、ミシシッピ川の南部河口の町ニューオーリンズも、フロンティアの住民達にとっては、大切な貿易港。よって、合衆国には、誰がニューオーリンズを支配しているのかは、非常に気になるところであったわけです。合衆国の人口の西への移動に多少の脅威を覚え始めたスペインは、一時的に、ニューオーリンズへ出るミシシッピ下流への通行拒否などを行ったりもし。まだ、包括したひとつの国という観念の弱かった合衆国のフロンティア住民の中には、自分達の繁栄のために

レヴェナント:蘇えりし者

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レオナルド・ディカプリオ主演、「 アモーレス・ペロス 」などのパワフルな映画を作ってきたアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の新作「レヴェナント:蘇えりし者」(The Revanant)は、 マイケル・パンクの小説「The Revenant : A Novel of Revenge」の映画化で、 アメリカの西部劇。西部劇と言っても、ジョン・ウェインなどの出ているウェスタン映画の背景となる時代よりも前の話です 。 一種のアクションものだし、風景がすばらしいという評判だったので、後からDVDで見るより、大きなスクリーンで見る価値ありか、と3週間ほど前に、映画館へ足を運びました。 時代設定は、1820年代初頭ですから、アメリカの南北戦争もまだ。場所は主にミズーリ川北部周辺。この地域を含む、アメリカ中部の広大な地は、合衆国が、1803年の ルイジアナ買収 により、ナポレオンのフランスからバーゲン価格で買ったもので、アメリカ領土になってから、まださほど時が経っていません。よって、アメリカ人による移住もほとんど進んでおらず、多くのインディアン部族と、川沿いで毛皮の取引をする商人や猟師たちが徘徊するだけの土地。そうした毛皮商や軍の拠点として、所々に砦があるくらいで、あとは、まさに野生の王国。 本と映画のインスピレーションとなったのは、実在した人物である、毛皮罠猟師ヒュー・グラス(Hugh Glass)の究極のサバイバル物語。カナダでは、すでに17世紀には、盛んに毛皮を目的としたビーバー猟が行われていましたが、現アメリカ合衆国領域内でのビーバー猟の最盛期は、1810年から30年頃にかけてだという事です。ヒュー・グラスは、アンドリュー・ヘンリーに率いられた、ビーバーの毛皮を目当てとした罠猟を行いながら、ミズーリ川を上っていく探検団に参加。当時、ヒュー・グラスは、すでに40歳前後で、一団の中でも年上であったそうです。背が高く体格も良く経験に富んだベテラン。周辺に数多く存在したインディアンの部族の中には、白人に対して比較的友好的な部族もあれば、好戦的な部族もあり。そんなこんなで、ヘンリー団は、1823年の夏に、好戦的なアリカラ族(Arikara)に襲撃され、幾人もの死者を出し、やがて、再び標的になるのを避けるため、ミズーリ川を離れ、使用していたボートを捨てイエロースト

ターナー、光に愛を求めて

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(J. M. W. Turner)1775-1851の人生の後半を描いた映画、「ミスター・ターナー」(Mr. Turner、邦題:ターナー、光に愛を求めて)は、公開時は、大方の批評家に好評でしたが、実際に見た人の中では賛否両論と意見が分かれていました。私は、気にいっています。 映画と事実を重ね合わせるため、この映画を見た後、Anthony Bailey著、ターナーの伝記「Standing in the Sun,  A Life of J. M. W. Turner」(陽光の中に立ち、J. M.W.ターナーの生涯)も読みましたが、映画での描写以上に、変わった人です。 コヴェント・ガーデン界隈の、床屋の一人息子として生まれたターナー。早くから画才を示し、ロイヤル・アカデミー付属の美術学校へ入学後は、かなり若くして、イギリスの絵画の殿堂、ロイヤル・アカデミーの会員となります。 気がおかしくなり、 べドラム精神病院 につっこまれてしまった母親には、あまり愛情を持たなかったものの、幼い時から、自分の画才を励まし、育ててくれた父親とは生涯親しく、父親が高齢で亡くなるまで、一緒に住むのです。特に床屋業をやめてからは、父は常に、半召使的に、自慢の息子のために、絵の具やキャンバスの用意、その他家の中のきりもりをし。 結婚は芸術の妨げになると思ったのか、生涯結婚せず。「家族に振り回されている結婚しているやつらは好まない。」というような発言もしているようです。愛人関係にあったとはっきりわかっている女性は2人、両方とも未亡人です。1人はサラ・デンビー、彼女との間には、2人の娘を作っていたものの、ほとんど居を共にすることは無く。2人目は、人生最後の方で知り合ったソフィア・ブース。絵を描くために、足しげく通っていたケント州の海辺のリゾート、マーゲイトで下宿屋をしていた女性で、はじめて知り合った時は、彼女は30で、ターナーは55歳、やがて、下宿屋の女将さんと、客の関係から、愛人関係に変わっていったようです。私生活に関して、ターナーは秘密主義で、この双方の存在は、内密に通し。また、自分の娘達に対しても、はっきりと公に認知するわけでもなく、金銭的援助もあまりせず。映画では、ターナーの家の家政婦として長年働いたサラ・デンビーの姪、ハンナ・デン

美女ありき!エマ・ハミルトンの生涯

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その美貌と男性を虜にする魅力で知られたエマ・ハミルトン(Emma Hamilton)、イギリスの英雄ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson)提督の愛人だった女性として有名です。「美女ありき」の邦題で知られる、ヴィヴィアン・リーがエマ・ハミルトン、ローレンス・オリヴィエがネルソンを演じた古い映画がありますが、本物のエマ・ハミルトンは、ヴィヴィアン・リーの氷の美女風の面持ちより、日本人受けしそうな、目がくりっとした、愛らしい感じの美人です。 チェシャー州の貧しい家庭に生まれ、鍛冶屋であったという父親を生後間もなく亡くしたため、若くして、職を求めてロンドンへ。家政婦などをして働いたのち、その美貌から、貴族の男性たちの目を引き始め、貴族のパーティーなどで、踊りを披露したりもし。愛人となった貴族の男性との間に、10代にして女児も生んでいるのです。ただし、この時の子供はそのまま、他の人間にひきとられていくのですが。やがて、貴族のチャールズ・グレビル(Charles Greville)と知り合い、彼の愛人に。これが、彼女の転機となります。 グレビルは、友人の画家ジョージ・ロムニー(George Romney)のスタジオに、17歳の自慢の愛人を連れて行き、彼女の肖像画を依頼するのですが、当時、エマ・ハートと呼ばれた彼女を人目見た瞬間、ロムニーも彼女に夢中になってしまう。他からも、肖像の依頼が入ってくる人気画家であったに関わらず、しばらくの間は、憑かれたように、エマばかりを描きまくり、ロムニーの筆によるエマの肖像は、60以上。様々の衣装を着せ、時に劇的なポーズを取らせての彼女を描いた肖像は巷でも人気となり、折しも版画の技術なども進んできており、彼女の肖像を基にした版画も売り出され、エマは有名になっていくのです。 ギャンブルなどで、借金に首が回らなくなってきたチャールズ・グレビルは、多額の持参金を期待できる女性との結婚するため、無事結婚にこぎつけられるよう、エマを手放す必要が出てくる。そこで、エマ自身には事情を告げずに、ホリデーに行っておいでと、彼女を、ナポリ駐在大使であった叔父、ウィリアム・ハミルトン(William Hamilton)の元へ送り込む。 ハミルトンも、エマの美しさに夢中になり、そのまま彼女を愛人とし、ナポリの自分の手元に置き、語学、ダン