ターナー、光に愛を求めて

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(J. M. W. Turner)1775-1851の人生の後半を描いた映画、「ミスター・ターナー」(Mr. Turner、邦題:ターナー、光に愛を求めて)は、公開時は、大方の批評家に好評でしたが、実際に見た人の中では賛否両論と意見が分かれていました。私は、気にいっています。

映画と事実を重ね合わせるため、この映画を見た後、Anthony Bailey著、ターナーの伝記「Standing in the Sun,  A Life of J. M. W. Turner」(陽光の中に立ち、J. M.W.ターナーの生涯)も読みましたが、映画での描写以上に、変わった人です。

コヴェント・ガーデン界隈の、床屋の一人息子として生まれたターナー。早くから画才を示し、ロイヤル・アカデミー付属の美術学校へ入学後は、かなり若くして、イギリスの絵画の殿堂、ロイヤル・アカデミーの会員となります。

気がおかしくなり、べドラム精神病院につっこまれてしまった母親には、あまり愛情を持たなかったものの、幼い時から、自分の画才を励まし、育ててくれた父親とは生涯親しく、父親が高齢で亡くなるまで、一緒に住むのです。特に床屋業をやめてからは、父は常に、半召使的に、自慢の息子のために、絵の具やキャンバスの用意、その他家の中のきりもりをし。

結婚は芸術の妨げになると思ったのか、生涯結婚せず。「家族に振り回されている結婚しているやつらは好まない。」というような発言もしているようです。愛人関係にあったとはっきりわかっている女性は2人、両方とも未亡人です。1人はサラ・デンビー、彼女との間には、2人の娘を作っていたものの、ほとんど居を共にすることは無く。2人目は、人生最後の方で知り合ったソフィア・ブース。絵を描くために、足しげく通っていたケント州の海辺のリゾート、マーゲイトで下宿屋をしていた女性で、はじめて知り合った時は、彼女は30で、ターナーは55歳、やがて、下宿屋の女将さんと、客の関係から、愛人関係に変わっていったようです。私生活に関して、ターナーは秘密主義で、この双方の存在は、内密に通し。また、自分の娘達に対しても、はっきりと公に認知するわけでもなく、金銭的援助もあまりせず。映画では、ターナーの家の家政婦として長年働いたサラ・デンビーの姪、ハンナ・デンビーとターナーは肉体関係にあったような描き方をしていますが、これを裏打ちする証拠は無いということ。

悩める貧しい画家ならす、ターナーは、経済的に、とても成功した画家で、ロンドンの中心地にあった家には、自分の絵を展示販売する小ギャラリーも設け。その他にも、いろいろ不動産投資をし、また、一時的に、テムズ川沿いに、自分で設計したセカンド・ハウスなども建てています。このセカンド・ハウスは、もともとは、デボン州の田舎出身の父親が、ガーデニングを楽しめる家、という頭もあったようですが、現在の都会人のセカンド・ハウス同様、買ったはいいが、実際に生活が忙しく、使用する機会があまり無いのに、メンテが大変という結果になり、最終的には手放してしまうのですが。

金持ちになりながらも、妙なところでケチで、自分の身の回りにはほとんど気を使わない状態。そのせいもあってか、せっかく作った家に付随するギャラリーは、時と共に、ぼろぼろになっていき、やがては、雨漏りはする、ほこりだらけとなる、訪れた客が、びっくりするような状態あったようです。しかも、窓税逃れのためとかで、家の中には窓が少なく、家自体も、全体的に暗い印象があり、その中を、妙な様相でびっこをひいて歩き回る家政婦のハンナ・デンビーと、半野生化した猫達が徘徊する様子を、魔女が守るお化け屋敷のようだ、と思う人もいたとか。このぼろっちいギャラリーの様子は、映画の中にも描かれています。また、ギャラリーを訪れた客が何を言い、どんな反応をするかを覗き見するため、隣の部屋にあけてあった小さな覗き穴も実際に存在したそうです。

自分自身の普通の家庭を持たなかったターナーは、ロイヤル・アカデミーを一種の家族の様に大切にし、アカデミーのメンバーたちと過す時間、メンバーとの食事会や、外出等を楽しんだようです。遺言でも、関係を持った女性達や、自分の娘よりも、ロイヤル・アカデミーに対して多くの金額を残しています。

恒例のロイヤル・アカデミーの展覧会では、会員は、展覧会の始まる前に、3日~5日ほど、すでに壁にかかっている絵に手を入れる事を許され、ターナーは、この機会を利用して、絵の前で半パフォーマンスの様に、絵の仕上げをするのが好きであったようです。「Varnishing Day」と称された、この数日間に、他の会員(特に、比較的経験の浅い若い会員たち)に、どうすれば、絵を向上させるかのさりげないアドバイスなども与え。トラファルガー広場のライオン像で知られる、エドウィン・ランドシーアなども、この折にターナーがくれるアドバイスほど貴重なものはない・・・のような記述を残しているそうです。絵を仕上げるという名目上の目的の他に、そこでの交流も好きだったのかもしれません。会員達だけが、絵に最後のタッチを加えることができるこの習慣は、非会員に対してフェアでない、という見方も強まっていき、これを廃止する動きもあったようですが、ターナーが、非常に「Varnishing Day」を好んでいたので、ターナーのために、彼の死後まで廃止を待つことにした、という話です。当然、時には、他画家とのライバル意識も表面化し、特に、画家達は、ターナーの絵の横に自分の絵が飾られるのを嫌がったという話もあります。左右の絵より自分の絵に、人の視線が行くように、ターナーは、自分の絵に派手な色を加えてアクセントをつけたりする事もしばしば。

映画では、特に有名な「Varnishing Day」での逸話、ジョン・コンスタブルとのやりとりが描かれています。隣どうしに掛かったターナーとコンスタブルの絵。丹念に、最後の仕上げをするコンスタブルを横目で見たターナーは、おもむろに自分の絵画へ突き進み、いきなり、赤い絵の具をたっぷり含んだ筆で、海の只中に、ぼーんと赤い点を描いて、去る・・・というもの。比較的暗い絵の中に一点の赤で、視線は自然にそこに集中。それを見たコンスタブルは、「ターナーが、大砲を撃ちこんできた。」と意気消沈するというもの。現在では、この時代の2大画家と認められている、この二人、あまり気が合わなかったようです。当時はコンスタブルよりも高い名声を楽しんでいたターナーが、一方的にコンスタブルをいびっていたような事を聞いたことがありますが、伝記によると、コンスタブルはターナーの才能に嫉妬をしていており、また、ターナーの友人の中には、「コンスタブルは、いつも自分の自慢話や自分の絵のことばかり喋る」と言う人もおり、ターナーが、時に見せる、新人の画家や、苦労している画家たちに対する、ぶっきらぼうでいながら親切な寛容ぶりと比べていますので、どちらがいい人悪い人という、白黒図は描けない感じです。友人同士でもライバル意識と言うのはありますから、ウマが合わなければなおさら。

神様は、彼に画才は与えても、言葉を巧みに使う能力は与えなかったようで、実際に、ターナーは、喋りや、文章構成力は、時に何を言っているかわからないものがあったようなのです。また、ロンドンっ子であり、多少のコックニー訛りで、hを発音しなかったとか。ロイヤル・アカデミーで、ターナーが行った遠近法の講義なども、本人は一生懸命だったようですが、皆、彼の言わんとする事を理解するのが一苦労だったというのが、愉快です。映画で、ティモシー・スポール演じるターナーは、ちゃんとした台詞よりも、「うー」「あー」と、うなっている事が多い感じなのは、このためでしょう。

また、海と水が好きで、個人で小船も所有しており、テムズを行ったり来たりしていたようです。映画の中では、彼の一番有名な絵、トラファルガーの海戦で活躍したテメレール号の最後の曳航を描いた「最後の停泊地に曳かれて行く戦艦テメレール号」のシーンに、ボートの上から出くわし、友人の1人が、「これは、いい絵の題材になるよ。」とターナーに言う様子が描かれていましたが、これはただの噂のようで、実際に、ターナーが、これをどこで目撃したか、または本当に目撃したかどうかは定かでないようです。展示と同時に、大人気となった絵で、買い手が出現したものの、ターナーは、どうしても手放す気になれず、最後まで手元に置いてあった絵のひとつでもあります。ちなみに、トラファルガー海戦の後、ネルソンの死体を乗せたヴィクトリー号がケント州のシアネスに戻ってきた時には、2冊のスケッチブックを抱えて出かけていったといいます。

よくあちこちを旅した人で、イギリス内もさることながら、大陸ヨーロッパへも何度か渡っています。映画の始まりは、このヨーロッパ大陸旅行のひとつから戻ってきたところから。留守の間は、家を、父と、ハンナ・デンビーに任せ。

父親の死後、マーゲイトのソフィア・ブースと良い仲になってからは、ハンナ・デンビーに家とギャラリーを任せて、ソフィアと過す時間が長くなって行き、やがて、ソフィアは、マーゲイトを離れ、まだ田舎びた様子を残していた、ロンドンはずれのチェルシー・ハーバーの小さなコテージへと引越し。秘密主義のターナーは、そこで、ミスター・ブースと名乗り、死の前には、2人は、半夫婦の様な生活を送るのです。この間、友人達もさることながら、ハンナ・デンビーも、ソフィア・ブースの存在を知らず、ロンドン内の家にいない時に、ターナーがどこで時間を過しているか、知る人がいなかったというのですから、びっくり。ですから、ターナーがチェルシー・ハーバーのコテージで息を引き取って初めて、近所の人間も、ミスター・ブースは著名画家ターナーであったと知り、また友人達も、ソフィア・ブースの存在に気づくのです。家庭的なソフィアはターナーの最後の月日を、小奇麗なコテージで大変居心地の良いものにしたのでしょう。今はもう無い、チェルシー・ハーバーのコテージが映画で再現されているのを、ターナーのお化け屋敷の様な家と見比べ、なおさらそう思いました。ソフィアによると、コテージのメンテナンスや生活費に、ターナーは一切お金を払わなかったそうなので、ここにもターナーの妙なケチぶりが見えます。

映画の中には、ターナーを非常に高く判断し、崇拝した若き日の批評家ジョン・ラスキンも登場。ターナーによると、ラスキンは「自分が実際に意図した以上のものを自分の絵の中に見出すようだ」の様なことを言ったというのが可笑しいです。まあ、批評家と言うのはそういうもんですよね。意味の無いところにも意味を読むような職業ですから。それでも、褒められるのはまんざらでも無かったようで、交流はずっと続き。ラスキンは、ターナーの死後、彼の家に残った数多くのスケッチや絵画の整理も手伝っています。その際に、ターナーが残した春画のスケッチを発見し、ショックを受け、ターナーの名声を守るためと称し、その一部を焼いてしまったという話もあります。ラスキンは自身は、妻エフィー・グレーとの6年の結婚生活の間、エッチをすることができずに、エフィー側から結婚無効を唱えられ、ターナーの死後に一大スキャンダルを引き起こすので、潔癖症的部分があったのかもしれません。

また、ターナーが死ぬ数週間前に、残照が顔に当たるのを感じ

The Sun is God! 太陽は神だ!

と叫んだ、という逸話も、ジョン・ラスキンの創作であるとされます。映画の中では、ターナーは、この「太陽は神だ!」を最後に発して死んでいますが。実際は、ソフィア・ブースによると、病床に着いて、あまり外にでられなくなったターナーが、

I should like to see the sun again. もう一度太陽が見たいな。

と何度か嘆いており、それを、ターナーの死後に聞いたラスキンが、もっとドラマチックに脚色したようです。

映画は、主に、ターナーの人生の後半での、彼と、父、ハンナ・デンビー、そしてソフィア・ブースとの関係を軸に描いた感じで、ターナーの死後、薄暗いターナーのお化け屋敷の中で、消沈するハンナ・デンビーの姿で幕を閉じます。ターナーは、ハンナ・デンビーが、家のメンテを続けることで、彼女が家の住み続ける権利と、彼女が生活出来る程度の遺産を残しているのですが、ハンナは、ターナーの死後、2年後に亡くなっています。

ターナーの作品のほとんどは、彼の望んだように、国に寄贈され、「戦艦テメレール号」を筆頭にいくつかは、ロンドンのナショナル・ギャラリーで、他の多くは、テート・ブリテンでお目にかかれます。バリバリのロンドンっ子であった巨匠の絵ですから、ふさわしい永住場所です。

原題:Mr. Turner
監督:Mike Leigh
言語:英語
2014年

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