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11月, 2010の投稿を表示しています

マラドーナと神の手

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再び、テニスのATPワールドツアー・ファイナルがロンドンのO2アリーナへやって来ました。 先週の日曜日から1週間、男子世界トップ8のプレーヤーを見れるチャンスとあって、 去年 と同じく、だんなと、だんなのテニス狂の友達S氏と、私の3人で行く予定で、早々と夏にチケットを予約。今回、だんなは病気で行けなくなってしまったので、テニスを見るも、プレーするのも好きな日本女性にチケットを譲り、先週月曜日の午後の試合に、3人で繰り出しました。この日のシングルスの試合は、セルビアのノバク・ジョコビッチと、前回のウィンブルドンの決勝までいったチェコのトマス・バーディチ。 さて、このトーナメント中、毎日の様に、アルゼンチンの元サッカー・スター、ディエゴ・マラドーナが観戦に来ていて、この日も、黒いスーツに身を包み、やはり黒いスーツのお取り巻き達と、半分くらいの年の若い奥さんと一緒に登場し、コート脇、選手陣営のすぐ隣の良い席に陣取っていました。品の無いギャングの親分風。 ストレート・セットで勝利したジョコビッチは、コート上での勝利のインタヴューの際に、「マラドーナも見に来てくれた。」と言及。これに対して、観客の反応は、半分は気の無い拍手、半分はブーイング。S氏も大声で、「ブー!ブー!」。インタビュアーは、この反応を受けて、ジョコビッチに、「イギリス人は,昔の事を良く覚えているからね。」 イギリス人にとって、マラドーナと言えば・・・ああ、因縁の「神の手」。 時遡ること、 1986年のメキシコ でのサッカー・ワールド・カップ、クオーターファイナルでのイングランド対アルゼンチンの試合。マラドーナが入れたアルゼンチンの1点目は、マラドーナのヘッダー・・・おや、それともこれは、手を使ってのハンド・ボール?(左写真)いずれにしても、このゴールはカウントされ、イングランドは、2対1でアルゼンチンに破れ、アルゼンチンは、決勝で西ドイツを負かし優勝。 後のインタビューでマラドーナいわく、 The goal was scored a little bit by the hand of God, another bit by head of Maradona. あのゴールは、ちょっと神の手の力を借り、ちょっとマラドーナの頭を使ってきめたんだ。 以来、このゴールは「Hand

黒いチューリップ

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今週後半から、気温はどんどん下がり、イギリス一部は雪の予報さえ出されています。冬の庭の彩りに、数週間前に植えたヴィオラは、寒い空気の中でも元気そうですが。 もう球根を植えるには時期的に遅いため、スーパーで、チューリップの球根が半額で売られていました。パティオに、大きな円形の植木鉢が一つあいていたので、気温が急降下する前に、大急ぎで埋めようと購入。黒いチューリップ(実際は、濃い紫と言った方が正解ですが)の 「Queen of night」 (夜の女王)の球根です。チューリップの中では、一番色が濃く、寒さに強く、丈夫で育てやすい品種だそうです。1パック4個入りが1ポンドから50ペンスに下がっていたので、2パック買いました。 16世紀のオランダに、トルコから導入された花、チューリップ。オランダで、初めてチューリップの球根が植えられたのは、1593年、ライデン大学にて。徐々に人気を増し、17世紀のオランダでは、チューリップマニアなるブームをもたらすほど、一大人気となります。めずらしい品種の球根は、アムステルダムの運河沿いの家が一軒買えるほどの巨額で売買され、投資の対象ともなり、チューリップ・バブルというバブルまで引き起こし。バブルは、はじけるもの・・・と相場は決まっていますが、このチューリップ市場の暴落により、当然、破産者も大勢出たわけです。チューリップマニアのピークは1633年から1637年。 読んだ事は無いですが、大デュマの作品で「黒いチューリップ」(La Tulipe noire)という小説がありました。17世紀オランダを舞台に、上記チューリップマニアを背景とし、実際にハーグで起こった、 デ・ウィット兄弟 虐殺事件をストーリーラインに織り込んで語られているということ。高額の賞金が出る黒いチューリップの開発へ励む青年、コルネリウスの物語。 小説では、コルネリウスは、黒いチューリップの開発に成功したことになっていますが、現実世界では、黒いチューリップの開発は難しく、このQueen of nightのデヴューは、1944年と20世紀に入ってから。植物学的に、真に黒い葉や花を持つ植物の開発は不可能だと言うことで、先にも書いたとおり、Queen of nightも厳密には、濃い紫色。光の加減やバックグラウンドによって、「黒にも見える」。その後も、何種かの黒いチューリップの開発が

さあ、腕まくりして、かき混ぜる日曜日

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本日は、Stir-up Sundayである、と、 BBCのサイト に書いてありました。何の事かと読んでみると、クリスマスへの準備期間であるAdvent(待降節)の始まる前の最後の日曜日を指してこう呼ぶそうです。Advent自体は、12月25日に至る4週前の日曜日(来週の日曜日)から始まります。 このStir-up Sundayは、この国では伝統的に、クリスマスプディングを作る日なのだそうです。リカーで浸したドライフルーツの入ったプディングは、作ってすぐ食べるより、多少時間を置いた方が、味がじわじわ染み出てきて美味しいなどとい言います。だから、クリスマスより1ヶ月前から準備してしまうのでしょう。 ボールに材料をどーんと入れてStir up する(かき混ぜる)日曜日・・・なるほど。ただ、この名前はプディングの材料をかき混ぜる事とは全く関係なく、この日に、各地の教会の牧師さんが読んだ、英国国教会の祈祷書の一節の出だし、 Stir up, we beseech thee, O Lord, the wills of thy faithful people; that they, plenteously bringing forth the fruit of good works, may of thee be plenteously rewarded; through Jesus Christ our Lord. Amen. から来ているそうです。 病院いるだんなに、Stir-up Sundayって知ってるかい、と携帯で電話。知らないという答えに、私は、自慢げに、とうとうと説明してあげました。「自分の国でも知らないこと、まだまだ沢山あるでしょう。」と締めくくって。彼曰く、「うちの母さんは、クリスマスプディングは、いつもクリスマスの数ヶ月前に作って準備していた。」 という事で、今年は、この伝統にのっとって、本日、プディングを作ろうと、早めに買い物に出て、ドライフルーツとナッツ類をどっさり買ってきました。ドライフルーツはすりおろしたオレンジの皮と一緒に、午前中に、 ラム酒 とオレンジの絞り汁につけこんでおき、先ほど、他の材料とミックスして、蒸し始めたところです。3分間待つのだぞ、どころか、4時間待つのだぞ!まあ、寝る前に蒸し終われば。 レシピは、 去年使ったもの が、わりと良かっ

カケスの冬支度

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先週、キッチンで洗い物をしている際、庭の奥の、今は葉がすっかり落ちたリンゴの木の枝に、やや大型の鳥が飛んできてとまったのを見ました。ハトかと思いきや、頭がどっしりと大きいし、色がカラフル。双眼鏡を持ってきてのぞくと、 ジェイ (Eurasian Jay、カケス)でした。 田舎の林道などでは、時に見かけますが、庭で見るのはこれが始めて。ギャーギャーと少々品の無い叫び声で鳴くわりには、近くへ寄ると、すぐ飛び去る用心深い鳥なので、キッチンから出ずに、双眼鏡でのぞいていました。 そのうち、枝から地面に降り、落ちていたリンゴをつついたり、かなり集めたつもりだったのに、まだ芝生の上にいくつか散らばっていたヘーゼルナッツ(セイヨウハシバミの実)を拾い上げている様子。これは、この後で、調べてわかったのですが、ジェイは、木の実、特にオークの木の実を拾っては、リスのごとく、地面に埋めて隠し、冬のために蓄えておくのだそうです。 マグパイ(Magpie、カササギ)などと同じく、カラス科の賢い鳥で、雑食。果物、木の実、昆虫の他、小動物、時に小鳥の巣を襲って雛や卵を食べるので、やはりマグパイ同様、嫌う人も多いようですが、綺麗な鳥で、私は好きです。 小鳥の雛を取る・・・というけれど、マグパイにしてもジェイにしても、生きるために食べるわけで、どこかのデブの飼い猫のように、遊び半分で小鳥を殺しているわけではなし。ちなみに、全国的に見る、猫による野鳥への被害は、馬鹿に出来ない数だそうで、私が、猫を今ひとつ好きになれない理由のひとつです。ペットと野生動物をはかりにかければ、やはり野生動物の味方をしたいところ。 と、話脱線しましたが、このジェイ、10分ほどうちの庭でうろちょろした後、飛び去っていきました。冬用に、木の実をどこかに埋めたのでしょうか。それを取りにまた戻ってくるのを目撃できるとうれしいですが。 上に載せた写真は、Willamette Universityのサイトの ジェイに関するページ より拝借。

鵜と埠頭、そして魚市場

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川沿い、海岸沿いを散歩していて、時折、 鵜(cormorant) を見かけます。羽を広げて、乾かしているポーズは良く見るもの。また、羽を閉じ首を伸ばして彫像のように動かない時もあり。コールタールをぬりつけたような黒いぺったりとした外見は、鳥と爬虫類の中間の印象。 群れを成して巣を作る習性があるとかで、海岸の崖の上などに巣を作る他、木にも大挙して巣を作る事もあり、結果、木を枯らしてしまう事も多々あるようです。そうした、枯れた木の枝にとまっている鵜も見かけます。それなりに風情はありますが、少々不気味な気配も漂わせ。 多数の鵜が巣を作ることから木々に大被害が出、また、多くの魚を取ることから漁師との利害が生じ、殺して数のコントロールをしているというような内容の、カナダの地方紙の記事を読んだ事もあります。最近のイギリスでは、鵜の数の抑制の話は聞いたことがないので、騒ぐほどの被害ではないのでしょう。 鵜は、田舎のみではなく、かもめほど数は多くないものの、テムズ川でも見かけます。一度、波にゆらゆら揺られていると思ったら、潜水し、何かを捕まえて浮上、その捕まえたものを、うがうがと飲み込んでいるのを見て、現在のテムズにも餌になるような魚がいるのかと、改めて感心しました。 先日は、テムズ南岸にあるショッピング・アーケイドのヘイズ・ギャレリア(Hay's Galleria)を背景に、たむろしている鵜が数羽いたので、しばし立ち止まって眺めていました。(上写真。) HMSベルファスト 停泊場に程近い、このヘイズ・ギャレリア内には、幾つかのカフェやお店があります。店自体は、ロンドン内どこにでもありそうなものばかりで、取り立ててショッピングの場として面白いスポットではありませんが、中央に飾られた、変な顔をした船の彫刻が人気で、観光客が良く写真を撮っているのを見かけます。昔は、ヘイズ・ワーフ(Hay's Warf、ヘイズ埠頭)と呼ばれたこの辺り、紅茶を初め多くの海外からの輸出品が陸揚げされていた場所でもあり、イメージはやはり、海と船。私は、雨が降っても平気なので、待ち合わせなどに使ったりもする場所です。 テムズで魚を取ったのは鵜ばかりでは無く、当然人間様もで、ヘイズ・ギャレリア対岸やや西よりに、一時は世界最大の魚市場でもあった旧ビリングスゲイト魚市場(O

ある愛の詩

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「愛とは決して後悔しないこと。」のキャッチ・フレーズが何となく気恥ずかしくて、若い頃、見なかった映画、「ある愛の詩」(原題:Love Story ラブ・ストーリー)。もちろん、フランシス・レイのピアノのメロディーと、彼女が白血病で死んでしまう、という筋書きは承知してました。今回の、だんなの白血病騒ぎで、ふと、食わず嫌いはやめ、見てみようという気になった次第です。 筋は非常に簡単。ハーバード大学生で金持ちのぼんぼんのオリバーと、ラドクリフ大学の貧しい家庭の娘ジェニーが恋に落ちる。オリバーは、父の反対をよそに彼女と結婚。大学卒業後、オリバーの父からの経済援助無しで、ジェニーが、学校教師として働き、オリバーは法律学校で学ぶ。オリバーが、優秀成績で法律学校を卒業、NYの法律事務所で仕事を見つけ、これから生活が良くなり、ジェニーの苦労も報われる、そして、子供を作ろうか・・・という矢先に、ジェニーは白血病にかかり死んでしまう。 40年前、白血病への対処は、治療と言うより、多少の延命作業。血液と血小板の輸血と、血球の破壊を遅らせる薬を投入するのみだったようです。映画とはいえ、25歳で不治の病は、やはり気の毒。実際、そういう人も沢山いたわけでしょうから。 病気にかかるまでの二人の関係の発展が、遠い青春のひとこま、と言う感じで、懐かしい気分にさせられます。青春のひとつぶ、グリコ・アーモンド・チョコレート・・・ののりで。 アリ・マッグローの、日本人で言うと、南沙織風のエキゾチックな自然美と、 当時のファッション が、また、とても良かったです。彼女の着ている服、コート、帽子、マフラー、皆素敵。貧乏のはずなのに、いいもの着てるじゃん、なんて思いながらも、この頃は、押しも押されぬ世界最富裕国だったアメリカですから。あ、でもファッションの中で、あの巨大とんぼめがねだけは、ちょっといただけません。アリ・マッグローがかけても、変なのに、私がかけたら、まるで漫画でしょう。 この映画の作られた1970年と言えば、ベトナム戦争真っ只中ですが、映画内にその影はが一切見えないのは、ストーリーラインを脱線させないためでしょうか。主要登場人物の数も少なく、焦点が2人の愛情と関係、複線として、オリバーとジェニーの両方の父をめぐった親子愛に絞られている感じです。 夏のシーンもあったこと

ポピー・ファシズム

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本日、第一次世界大戦の終戦記念日、イギリス連邦の国々では、Armistice Day (Remembrance Day)と呼ばれています。アメリカでは、Veterans Day。終戦時刻の午前11時には、イギリスの各地で2分間の沈黙。ロンドン内一部の道路では、車なども2分間止まったりしていたようです。終戦記念日に一番近い日曜日は、追悼の日曜日(Remembrance Sunday)と呼ばれ、大々的なセレモニーが行われますが、こちらは今度の日曜日、11月14日に予定されています。 (Armistice DayとRemembrance Sundayについては、過去の記事 「全ての戦争を終わらせるための戦争」 をご参照下さい。) アフガニスタンで、死亡、負傷する兵士の数が増えると共に、チャリティー団体、ザ・ロイヤル・ブリティッシュ・リージョン(The Royal British Legion)による、兵士及びその家族のための募金活動、 ポピー・アピール が、今年も例年に増して盛んに行われています。募金をすると小さいポピー(ケシの花)の飾りをくれるので、それを胸に飾る人が、この時期巷に溢れます。決まった値段はないですが、大体の目安としてポピー1つに最低1ポンドくらい、でしょうか。もちろん、沢山あげるにこした事はないわけですが。ポピーがシンボルとして使われるのは、第一次大戦中に、多くの若者が命を落として散っていったヨーロッパの戦場跡で、無数の赤いポピーの花が風に揺られて咲いていたことに由来します。 一番最初に、ポピーを売ることで慈善のための募金を集めるというアイデアに行き当たったのは、フランス人女性だそうですが、このアイデアを、ザ・ロイヤル・ブリティッシュ・リージョンが取り上げ、1921年に、最初のポピー・アピールが実行に移されたという事。上の写真は、その最初のポピー・アピールの際のもので、現在のものより、もっと本物っぽい感じです。ポピーの作成は、現在にいたるまで、負傷した過去の兵士達によって行われているという事。それは、それで、意義のある募金活動ではあり、うちも、毎年、必ず買うようにはしているのですが・・・   ポピーを胸にするのは、普通に巷で募金をして買った一般人のみでなく、最近では、早々と10月中ごろから、テレビに出場する人間、政治家は

さわってごらん、ウールだよ

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中世以来、羊毛、毛織物業で富をなした国でありながら、高騰する羊の肉の価格とは裏腹に、羊毛の値段は下がる一方で、最近では、羊毛の卸し値は、もう0に等しい、という様な事を、農家の人が、テレビで言っているのを聞きました。現在の卸し値、羊毛1キロにつき約1ポンド20ペンスだそうです。 確かに、衣替えをして、冬物を引きずり出している時に、ふと思ったのですが、私は、もうほとんど全毛のセーターも、カーディガンも持っていないのです。ウールのコートなども、着なくなって手放してから、かなり経ちます。 理由は・・・? まず、100%羊毛のセーターなどは、首まわりなどちくちくする。後は、ドライクリーニングなど、手入れが面倒な服は、あまり持ちたくない。何枚かあった、だんなの、肌触り良く、やらかいラムズウールのVネックセーターは、たんすの中でモスに食べられ、1枚残らず穴が開いてしまい。また、ロンドン内を、がんがん歩き回ったり、地下鉄の駅に出たり入ったりしていると、冬でも、そのうち暑くなって、上着やジャケットを脱ぎたくなる。脱いだ際、手に持って歩くのに、軽いに越した事はない。そうです、フリース地、その他の、軽くて、手入れの楽な素材の上着を身に着けることが断然多い、今日この頃なのです。最近買ったばかりのカーディガンも、洗濯機で洗うことができるタイプで、羊毛混合率は30%のみでした。 そう思うのは、私だけではないでしょうから、一般的羊毛離れ、需要の低下、よって羊毛が商売としてなりたたない状態になっているわけです。「さわってごらん、ウールだよ」なんて、羊毛100%をありがたがって、日本でコマーシャルやっていた頃から時は経ったのです。 羊毛の魅力は、何と言っても、天然素材だという事。濡れるような緑を食べて育った羊の毛。その、自然で、ほのぼの暖かいイメージから、おうちでくつろいでいる時くらい、ざっくりと網目のついた、ウェストをひもで縛るスタイルの全毛カーディガン一枚くらい、持っていてもいいかな、という気はするのです。おそろいの、もこもことした、羊毛長靴下でもはいて。 セーター、カーディガン姿の憧れは、このマリリン・モンローが、亡くなる前、最後に撮影されたという海岸での写真。ドレス姿の彼女よりも、それこそ天然の魅力がいかしてます。彼女の着ている、カウチン・セーター(

エルガーの夕べ

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先日、知人からの、「今夜、アルバート・ホールでのコンサートのチケットが一枚あまっているが、行かない?」の誘いにちゃっかりのって、実に久しぶりに、 ロイヤル・アルバート・ホール に足を踏み入れました。 席は最上階だったので、ホール内のバーで買ったドリンクを手に、小さなエレベーターに詰め込まれ座席に到着。ドリンクをもって入れるところが、気さく。知人は、「こんな安くて悪い席で・・・」と少々、申し訳なさそうにしていましたが、下の方の席に座るよりも、上層の席の方が、円形の当ホール全体を見渡せて良いのです。劇場などでも、本当のファンは天井桟敷に多いというし。(上の写真は、英語のウィキペディアのサイトより拝借。) この日のコンサート内容は、イギリス作曲家、エドワード・エルガー(Edward Elgar)の夕べ。アルバート・ホールが開かれたのは、1871年3月なので、当のエルガー自身も、ここで、指揮棒を振ったことがあるわけです。 目玉は、チェロ協奏曲(Cello Concerto in E minor, Op. 85)。クラッシックに疎い私でも、この協奏曲の第一楽章の有名なメロディーはおなじみ。ウスタシャー州で生まれ育ったエルガーは、戸外のアクティビティーが好きで、ゴルフ、サイクリング、ハイキングなどを楽しんだそうですが、イギリスのなだらかな丘を風が吹き渡る風景を髣髴させるメロディー、イギリス人の心にびびっとくるものがあるのでしょう。 うちのだんなの母親もこのチェロ協奏曲の第一楽章が好きだったそうで、彼女のお葬式にもこの曲を流していました。葬式のためにだんなが買ったCDのチェロ奏者は、この曲とは切っても切れないイメージのジャクリーヌ・デュ・プレ(Jacqueline du Pre)。 天才と呼ばれながら、マルティプル・スキローシス(多発性硬化症:通称MS)にかかり、夭折した彼女の話は、映画「Hilary and Jackie」(ヒラリーとジャッキー、邦題:ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ)にもなっていました。やはり楽器を一緒に学びながらも、音楽的には凡才であった姉ヒラリーが、ジャクリーヌに振り回される様子、姉の夫との三角関係なども、映画封切り当時、新聞などでも取り上げられていたのを覚えています。コンサートのツアーの旅先から、自分の汚れた衣類を小包で家族に

全ての季節の男

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1966年のこの映画は、ヘンリー8世と第1番目の妻、キャサリンとの離婚、そしてアン・ブリンとの結婚、それが引き金となって起こるローマとの決別、及びイギリス国教会の設立をめぐった歴史物。劇作家ロバート・ボルトの同名の戯曲が基となった、実に良い映画です。 自分の良心が許さないことから、ヘンリーがイギリス国教会の長になる事に賛同する誓いを立てることを拒み続け、ひたすらその件に関しては沈黙を守ったため、斬首刑となるトマス・モア(Thomas More)が主人公。法律家あがりで、「ユートピア」の作家、ルネサンスの精神を体現する様な人柄を持ち、その学問と知識から、ヘンリー8世にも尊敬され、ヨーロッパでの名声も高く、一時は、イングランドの大法官にまでなった人物。  映画と原作のタイトルの、A Man for All Seasons(全ての季節の男)は、モアの同時代人、ロバート・ウィッティントンが、機知に優れ、学問に通じ、あらゆる側面を持ったモアを描写するのに使った言葉だとの事です。邦題は、「わが命つきるとも」と、ど根性物のようなタイトルになっています。 さて、ヘンリー8世がアン・ブリンとの2度目の結婚に至るまでのあらましをざっと整理すると・・・ ヘンリー8世は、ヘンリー7世の次男。長男で兄のアーサーが若くして亡くなったため王位を継承した人物。兄の死後、ローマ法王からの許可を受け、兄の嫁さんであったスペイン王家出身のキャサリン・オブ・アラゴンと政略結婚。年上女房であったものの、最初の頃は、わりと夫婦仲もむつまじかったようです。が、2人の間には、女児メアリー(後のメアリー1世、ブラディーメアリー)は生まれたものの、肝心のお家をつぐ男児がいない・・・年を経るにつれ、跡継ぎの男児の無さにあせりを感じるヘンリーと、容姿も衰えるし子供を作る可能性も減っていくばかりのキャサリン。そんなヘンリーの目にとまるのが、若く美しいアン・ブリンであったわけです。 すっかりアンに熱を上げてしまったヘンリーは、彼女と結婚したいばかりに、旧約聖書の一節、「兄弟の妻と結婚するのは清いことではない。その罰として、子孫が生まれないであろう。」に着目し、兄の妻であったキャサリンとの結婚は無効であると、ローマ法王に申し立てる・・・。映画は、この辺りから始まります。 この事件で、ま

血液は偉大なり

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白血球の一種に、好中球(neutrophil:ニュートロフィル)と呼ばれるものがあります。この好中球は、外部から入ってきた細菌類やカビ等を殺し、感染を防ぐ役目を果たしています。 うちのだんなの様な、白血病患者が受けるキモセラピー(化学療法)は、悪い血球も、正常な血球も殺してしまうことは、以前の投稿 「ああ、白血病」 で書きました。よって、キモセラピー後、骨髄内で新しい正常な血液が造り始められるまでの期間、好中球を無くした患者は、ばい菌や感染に弱くなります。体内にばい菌と戦うメカニズムを無くしているこの時期の患者は、neutropenic(ニュートロピニック:日本語訳は「好中球減少性の」)と表現されます。これは、白血病に限らず、やはりキモセラピーを受ける一部のがん患者も経験する状態であるようです。 先々週の水曜日(10月20日)に、だんなは、第2回のキモセラピーが終わり、3回目が始まるまでの療養に一時退院して家に戻ってきました。前回の一時退院は、好中球の数が、平常並みに戻ってからだったのですが、今回は、前回の退院より早く、まだ好中球を持たないニュートロピニックの段階で病院を追い出され、私は、ちょっと嫌な気がしていたのです。嫌な予感はどんぴしゃで、翌日、39.6度の熱を出し、病院へ舞い戻ることとなってしまいました。 第1回キモセラピーの後での、ニュートロピニックの期間は、キモセラピーの薬品投入のために胸に埋め込んだチューブが感染し、発熱して、チューブを抜き取り、解熱剤や抗菌剤などを、血管に直接投入していましたが、今回、再び、今度は腕に埋め込んであったチューブが感染した模様で、再入院後、これを引き抜きましたが、高熱は2,3日続き。また、発熱とは別に、あごの下にできていた小さなおできが、みるみるうちに、風船のように膨れ上がり、首が見えないほど大きくなってしまって。今は、好中球の数が上がり、熱も通常に収まりましたが、おできは腫れたまま、治るのに時間がかかっています。このおでき、触るとこぶのように固い。つくづく思いました・・・血液は偉大なのです。 ニュートロピニックの間は、病院での食事も、一般の食事とは違い、徹底的に煮たり焼いたり調理してあるものが出され、皮を剥いて食べる以外の果物はだめ、生野菜はだめ、当然、寿司、刺身なんてとんでもない。要は、ばい菌類が入る