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5月, 2009の投稿を表示しています

灰色りすと赤りすと

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 公園や森林を散歩中、ほうきの様な尻尾を揺らして駆け回っているのは灰色りす。尻尾が無ければ、ただの大型ねずみですが、この尻尾があるだけで、何故か可愛くなるものです。観光客の多いロンドン内の公園などでは、とても人なれしたものもおり、殻つきピーナッツを差し出すと、手からとって食べ、時に身体によじ登ってきたりします。大胆不敵。 以前住んでいた家では、あまりになついてしまった灰色りすが一匹、キッチンのドアを開けたままにしておくと、堂々と家の中まで入ってきていました。 このりす、キッチンで調理していると、ずぼんの裾をがしがしとひっぱり、「木の実くれ。」ダイニングで読み物をしていると、テーブルに飛び乗ってくる。ソファでテレビ見ていると、廊下でぴたぴた足音がし、次の瞬間、膝に飛び乗ってくる。 挙句の果てには、ドアがしまっていると、ダイニングの窓のすぐ外の塀にちょこんと座ってこちらを覗き込み、訴える目で「ドア、閉まってるんだけど・・・。」仕方なく立ち上がり、キッチンのドアへ行ってあけると、すでにそこで待っていて、我家同然あがりこんでくる。家のレイアウトまで、すっかり知り尽くされていたようで。 お目当ての木の実を手渡すと、喜び勇んで庭に出て埋め、泥の付いた鼻と足でまた家の中へ駆け込んでくる。また木の実をやると、また庭へ。 日が経つうちに、庭の地面に埋める場所がなくなったのか、室内の植木ポットに目をつけた様子。シクラメンの鉢に顔を突っ込み、土をカーペットに撒き散らして木の実を植える姿を見た時は、そのお馬鹿さんぶりが、可愛くて笑ってしまいました。「あんた、そんなポットに埋めて、戸が閉まってたらは入ってこれないし、木の実の回収もできないんだからね。」と諭したところで、相手はりす。やがては、ドアの後ろ、カーペットの下などにも隠し始め、掃除機をかけているとゴリッと木の実を吸い取ってしまったりしたものです。 灰色りすは、もともとは1870年代に北米大陸からこの国に導入されたよそ者です。1876年から1929年の間に、ロンドン動物園を初めとした、英国各地の動物施設から自然に解き放たれ、そのたくましい生命力で、瞬く間にイギリス中に広がります。 対して、英国の原生のりすは赤りす。灰色軍団より小柄で、耳の先にひょろっと長い毛が生えているのも愛らしく。

海に突き出したミナック・シアター

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それは、シェイクスピアの国ですので、イギリスは芝居大国です。 ロンドンに来たての頃は、足しげく劇場通いをしたものです。映画やテレビでお馴染みの有名俳優等も、毎日毎晩舞台に立つのが見れる贅沢に感激しながら。 一番初めにこちらで見た芝居は、忘れもしない、リチャード2世。映画「ミッション」や「フランス軍中尉の女」でお馴染みのジェレミー・アイアンズが主演でした。これは、2回も見に行ってしまいました。その後、ジョナサン・プライスの「マクベス」、アンソニー・ホプキンスの「リア王」と「Mバタフライ」、007シリーズにも登場するジュディー・デンチは数回違う芝居で見ました。 夏の期間、アメリカから来ていたダスティン・ホフマン扮するシャイロックでの「ベニスの商人」。これはダフ屋からチケットを買ってみました。演技が自然すぎるのか、不思議と舞台映えのしない人でしたが。かなり昔に、アル・パチーノがロンドンで短期公演をした時には、そのど迫力たるや鳥肌ものだったそうです。観たかった。 そんなこんなで、こちらで観た芝居の中で一番良かったのは?と聞かれるとかなり選択に困ります。有名俳優が出ていなくても、すばらしいプロダクションを沢山観れましたので。でも、行った劇場でどこが一番印象に残ったかと聞かれたら、迷わず、ミナック・シアター( The Minack Theatre )! イギリス南西部、コーンウォール州の海岸線にあるこのミナック・シアターは、古代のものではありません。ギリシャの野外劇場を模して、1930年代に、地元女性の尽力によって作られました。初演は、月夜、松明を掲げた中でのシェイクスピアの「テンペスト」だったといいます。題目どおりの魔法の様な夜だった事でしょう。 私は、ペンザンスという町から、ぽこぽこバスに乗って行って来ました。チケットオフィスで、調度、「ハムレット」をかけると知り、当日券を購入。役者さんたちの演技は一級品とは行かず、衣装も道具もシンプル。石のベンチでおしりもかなり痛みましたが、真っ青な海の背景は、どんな舞台装置よりも贅沢で、今も心に残ります。 劇場のすぐわきには、こんなサラサラ砂の、美しい海岸がありました。まるで地中海のどこぞの国のようです。行った時は、夏休みも終わっていたので人もほとんどおらず。 英国南西部は、雨は少々多

セント・マイケルズ・マウントはイギリス版モン・サンミッシェル

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満ち潮のときは離れ小島、夕暮れの引き潮時には、近くの海岸と地続きになる・・・そんな小さな島というと、フランス、ノルマンディーのモン・サン・ミッシェルを思い出しますが、イギリスにもあるのです。名前もそのまま、モン・サン・ミッシェルを英語にした、セント・マイケルズ・マウント(St Michael's Mount)。イギリスは南西に位置するコーンウォール州、ベンザンスから程近いマラジオン沖。名の由来は、5世紀に、地元の漁師が、聖ミカエル(セント・マイケル)を見たことからきていると言われています。 ロンドンから電車で辿り着いた港町、ペンザンスに滞在した際、バスでマラジオンへ行き、そのままボートで辿り着きました。 ボートから降りると、ごつごつとした花崗岩の坂を、えっちらおっちら、城が聳え立つ頂上を仰ぎながら登ります。時に立ち止まって、バスクリン色の緑がかった海を眺め。 建物は全て、島と同じ花崗岩で築かれており、12世紀から19世紀の間、時代と共に、増築、改造されています。その用途も、小修道院、城砦、巡礼の地、最後には貴族の館として現在にいたっています。 ここでさくさくっと島の歴史を見てみると・・・。 11世紀のノルマン人征服の後、この地は、やはり聖ミカエルのお告げにより建てられたとされるモン・サン・ミッシェルのベネディクト派の修道院へ寄与されます。 15世紀、フランスとの百年戦争真っ只中、ヘンリー5世は、この地をフランスの坊さんから取り上げ、のちに、ロンドン近郊の修道女達に与えられます。 そして、16世紀、ローマ法王との仲違いの末、イギリス国教会を設立したヘンリー8世の修道院解散に伴い、国が没収。エリザベス朝には、スペインの無敵艦隊の接近を見張る砦としても活躍。 17世紀、イギリス内戦の後は、クロムウェルの議会派であったセントオービン(St Aubyn)家の手に渡り、未だにこの家の末裔が城に住んでいると言う事。管理はナショナル・トラストです。 行ったからにはやはり、引き潮を見てみたいと、城の見物の後は、ちょっと南国風のガーデンをのんびり歩き回り、夕暮れを待ちます。 ほのかに赤く染まり始めた風景の中で、昼間は水にぷかぷかしていた船も、潮が引いた後は、陸におしりを座らせておりました。 海底から現れた石敷きの道を辿

イックワースはみやげの為に建てた家

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サフォーク州にある、イックワース(Ickworth)という、こんなイタリア風丸いロトンダのある貴族の屋敷とその敷地を訪問しました。歴史的建築物や保護を必要とする自然区域を管理するチャリティー団体、ナショナル・トラスト所有です。 18世紀後半、中世からこの敷地を所有していたハービー家の、フレデリック・ハービーが、住むためと言うより、イタリア旅行で集めた数々の芸術作品を飾るショーケース用に作り始めたもので、まさに金持ちの道楽。変わり者であったというフレデリックの気まぐれにうんざりされていた奥さんからは「馬鹿げた大散財」となじられる。 当時イギリスでは、古代ヨーロッパ文化及び、ルネサンスの芸術がもてはやされ、貴族は競って「グランド・ツアー」(Grand Tour)と呼ばれた、イタリアを主としたヨーロッパ大陸への開眼の旅にお出かけ。現地で古い彫刻等の芸術品をお買い物して来るのが一大トレンドとなっていました。そうして持ち帰った芸術品をそれに似合う様な大邸宅に飾って見せびらかす。現代の私たちがおみやげをささやかに棚に飾るのとは大した違いです。 ところが、予定は未定にして確定にあらず。というのも、フレデリックがイタリアで集めまくったコレクションが、英国へ送られる前に、1798年、ローマに侵入して来たナポレオンの軍により没収されてしまう。 フレデリックは、1803年にイタリアで亡くなるまでの間、必死で没収されたコレクションの回収を試みますが、甲斐も無く。このコレクションは1804年にオークションで、あちこちに売り払われてしまったそうです。あーあ。 イックワースの屋敷は、フレデリックの息子によって完成されますが、もはや飾るものがなくなったので、ロトンダを挟んだ建物の東翼を家族が住めるように一部設計を変更したそうです。西翼は、ただ単に、左右対称になるようにと、これと言った用途もなく作ったそうで、今はナショナル・トラストのレストランとお店が入っています。 現在、屋敷は、歴代のハービー家が集めた家具や骨董品、ティチアーノ、ベラスケスを含む絵画を飾ってあり一般公開。東翼はホテルとなっていました。 家のすぐ回りはフォーマルなイタリア風ガーデン。 そしてその向こうには、羊があちこちで草を食み横たわる広大な敷地が広がっています。小さな

「子猫のトムに会いに」湖水地方今と昔

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イギリスはカンブリア州、レイク・ディストリクト(湖水地方)。その湖水地方の湖のひとつ、ウィンダミア湖西岸の小さな村、ニア・ソーリー(Near Sawrey)にあるヒル・トップ( Hill Top )は、ピーター・ラビット作家、ビアトリクス・ポターの家として有名です。 前回ここを訪れたのは、4、5年前の、この季節でした。最初に訪れたのは、はるか昔の、イギリスに来たばかりの頃の話で、なつかしさがいっぱいで辿り着くと、なんと家の内部は閉館日。しかも、家の正面は修繕工事用の足場が組まれていていました。 庭だけは開放してあったので、庭と周辺をふらっと歩き、のどかな風景にそれなりに満足しました。人があまりいなかった分、かえって、静かで雰囲気を味わえたのもあります。(これは、ただの負け惜しみか?) 1907年、ポターさんが、「こねこのトムのおはなし」( The Tale of Tom Kitten )を書いた時には、すでにこのヒル・トップを購入して1年が経過していました。 家のドアから公道へと続く、小さな細長いコテージ・ガーデン作りに励みながら書いた本だといいます。上のイラストで、トムがお母さんに引っ張られ歩いた小道のあるガーデン。ガーデンの柵のすぐむこうには羊が草食む草原が広がり。 猫のタビタ・トゥイッチット奥様が、3匹のわんぱく子ねこ、トム、ミトンズ、モペットと共に住んだ設定になっている家のモデルは間違いなくこのヒル・トップ。 お客様が来るというので、子供たちに上等な服を着せたタビタ奥様。「後ろ足で歩くよう、汚いところに行かないよう」とお母さんに言われながらも、3匹の子猫が転がりまわる庭の様子、石塀によじ登って眺めるソーリー村の景色は、ポターさんの願いのまま、今も昔も変わらない。 家の内部の様子もいくつも描かれているこの「こねこのトムのおはなし」と、やはりこの猫達が再度登場し、トムが、巨大ラット(ねずみ)のサムエルとその妻アナ・マライアに捕まって、猫まき団子にされかける「ひげのサムエルのおはなし」の2冊は、ヒル・トップを訪れる際、持参して、挿絵と実物を見比べると楽しいかもしれません。 ポターさん、後年こんな事を言っています。「道端で出会う自然で素朴な喜びを、世の子供たちが味わい楽しむことができる事に、私が少しでも貢献したのだとした

ピクチャレスク

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地平まで広がる野山と風にさわぐ木々、古代ギリシャ・ローマ風の衣装をまとった人々、そして遠くに見えるのは古の廃墟。17世紀フランス画家でローマで活躍したクロード・ロランやニコラ・プッサンの絵にはそんなものが多いです。 特にクロードの絵は18世紀のイギリス貴族にそれはもてはやされ、競って購入され、ターナーやコンスタブルなどのイギリス風景画の巨匠も彼の絵にかなりの影響を受けています。 そんな絵の風景はまた、18世紀初頭、以前の人工的なヨーロッパ宮廷風のフォーマルなガーデンに背を向け始めたイギリスの貴族、富裕者たちの理想郷でもありました。出来る限り自然に見えるような庭、遠くに広がる田舎の風景に溶けていくような庭、ランドスケープ・ガーデニングの始まりです。 庭園に水を導入するのも、幾何学的形をした池や噴水を作るよりも、有機的S字形の流れと池を作ったほうが良い。ロンドンのハイド・パークにあるサーペンタイン(蛇)湖も、そんな風潮を反映し、1730年代に、ジョージ2世の妃、キャロライン女王の依頼で作られたもの。人工でありながら、人工に見えない、世界初の湖なのだそうです。 そして遠くに廃墟なんぞが垣間見られれば尚よろしい。その廃墟が本物ならば、言う事なし。そうそう、クロードの絵のように。イギリス各地に、ピクチャレスク(Picturesque、絵のような)と呼ばれる庭園が、そんな思惑の人々によって作られ、残されています。 絵:Landscape with Cephaulus and Procris reunited by Diana by Claude (London National Gallery) 1749年から57年にかけて造形されたリーヴォー・テラスもそんなピクチャレスク・ランドスケープ・ガーデンのひとつ。眼下の谷に建つ、12世紀の修道院、リーヴォー・アベイの廃墟を望む高台の庭園です。周辺の土地と、近くにあるダンカム・パークという屋敷を所有したチャールズ・ダンカム氏が作らせたもの。 優雅にカーブした高台を歩きながら、リーヴォー・アベイを13の違った角度から眺められるようしつらえてあるそうです。13の異なった絵画ということでしょうか。全部写真取ってみようと思いましたが、途中でどれがどれかわからなくなりやめました。 高台の片端まであ

ハワースの石畳

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シャーロット、エミリー、アン。 時は19世紀前半、おなじみブロンテ姉妹が牧師の父親パトリックと、飲んだくれ放蕩の弟ブランウェルと共に住んだのが、西ヨークシャーにあるハワース。当時は、ワース川の水力を利用した羊毛織物業を主とする村で、住民は大半が労働階級、読み書きの出来る人は数少なかったということです。 このハワースを訪れたのは、しとしと雨が降る5月。低い雲に覆われた空の下、濡れたハワースの、でこぼこの石畳を登ります。昔のドレスに身を包んで、この石畳を歩くのは大変だったでしょう。 冬は寒さも厳しい場所。セントラルヒーティングもシャワーもない時代、文学での名声を除けば、ささやかで、決して楽とは言えない生活だったでしょうね。まあ、それだから、読むことと書くこと、自分たちで考え出した想像の世界に熱中したのでしょうか。テレビも無ければラジオも無いし、娯楽は自分達で作るしかないと。 坂を登ると、1820年から1861年の間、ブロンテ家が住んだ家(The Parsonage:その土地の牧師が住む為の家)。今は博物館として一般公開されています。館の隣には教会と、アンを除く家族のメンバーが眠る墓地。アンは病気養生先であった海岸のリゾート地 スカボロ で亡くなり、スカボロの地に眠っています。 博物館内には家族が使用した家具なども展示されています。姉妹が主に執筆を行ったダイニングルームには、エミリーが息を引き取ったといわれるソファ、シャーロットの部屋には、彼女のそれは小さなドレスなども飾られてありました。 このシャーロットという人は、自分を大変な不細工だと思い込んでいたようで、展示されていた手紙にも「私のような不美人は・・・」というような一行があったと記憶します。肖像を見ると、ごく普通のイギリス人的な顔。 当時のハワースは、不健康な場所だったようで、当時この地の平均寿命は24歳!幼児死亡率が非常に高く、シャーロットの38歳、エミリー30歳、アン29歳、ブランウェル31歳は平均は一応上回っていたことになります。84歳まで生きた父親はかなりのお達者クラブ。 死亡率の高い原因として、下水設備も無く、飲水が汚染されていた事があげられています。当時すでに満杯状態だったという水はけの悪い教会の墓地は坂の上。井戸は坂の下の方にあったといいます。はやり病で亡くな

魔女狩り

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米作家アーサー・ミラーの戯曲に「The Crucible(るつぼ)」という作品があります。17世紀末、北米マサチューセッツ植民地の村セーラムで起こった魔女狩り(Salem witch hunt)がテーマ。 原作は読んだことがありませんが、ダニエル・デイ・ルイスとウィノナ・ライダー主演の同名の1996年の映画を見ました。映画の方の邦題は、そのまま日本語読みにした「クルーシブル」。この映画化の脚本もアーサー・ミラーの手によるもの。 史実としては、セーラムの、ある家の9歳の娘が、狂ったような言動を起こし始める。少女は、周囲の3人の女性を「この人たちは、魔女だ」と名指し、自分の奇行の原因は、この魔女たちによるものと糾弾した事から、セーラムでの大騒動が始まります。 瞬く間に、セーラムの村人、ひとり、またひとりと、「あいつは、魔女だ。こいつは魔法使いだ。」と指差され、魔女だとされると、絞首刑。告白をしないと、拷問にあい、無理矢理告白させられたりもしたようです。 魔女狩りは、マサチューセッツ内の他の村や地域にも広がり、一時期ボストンの刑務所は、魔女や魔法使いだと容疑をかけられた囚人が100人以上いたそうです。地域の有力者なども糾弾され始め、逃げられる人は、寛容であったニュー・ヨークへ逃げ。 映画の中でも、思いを寄せる男性の妻を陥れる為に魔女と指差す、土地を手に入れる為に隣人を糾弾する、または自分が助かるよう告白し第3者を糾弾するなど、それはひどいもの。実際、絞首刑にあったのは、他人を糾弾するのも拒否、また、嘘をつくのは嫌だと偽の告白も拒否した、モラルのある人達が多数というのも皮肉。 15世紀後半のヨーロッパで、カソリック教会の異端審問官によって「魔女に対する鉄槌」と呼ばれる本が書かれます。迷信や、古い物語を織り交ぜた、魔女に関する百科事典の様なもので、魔女の判明や糾弾に使用され、その後200年以上も、ヨーロッパ、アメリカのキリスト教世界に影響を与えたとされます。 これによると、例えば、魔女は乳が3つあったそうで、第3の乳は、仲間内の悪魔の親族を養う為だとか。魔女と呼ばれた人物の胴体に、ほくろや、おできでもあろうものなら、法廷で第3の乳の証拠として使われたそうです。 不幸が起こった時、異常な事があった時、その原因を、社会の中

スタイルのむこうの風景

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イギリスの良いところは、大きな町でも、少し外に出ると、野原、田畑、森林の緑が広がっている事でしょうか。コンクリートや広告板などがほとんど無いのも魅力です。 そんな緑の中、パブリック・フットパスなるものがあちこちに通っています。一般市民が、「ここはおいらの土地だ!」と追い立てられる心配をせず、気ままに散歩したり、犬を歩かせたりできる小道です。あまり、人もいない田舎のフットパスで他の人と通り過ぎると、大体の場合、ハローを言ってくれます。 野原と野原の間、家畜が超えられないように作ってある柵を、人間だけがまたげるように付けてあるスタイル(stile)と言われる踏み台が所々に現れますが、これを「よいしょ」とまたぎ超えるのも、ひとつの風景から別の風景へワープするようで楽しいものです。 パブリック・フットパスは大体表示してありますが、時折、パブリック・ブライドルウェイというのもお目見えします。これは、歩行者だけでなく、馬も通ることができる道。 馬と言えば、曲がりくねった田舎の狭い車道で、時折、馬に乗った人を見かけます。運転していて、前を歩いていた馬に近寄りすぎ、後ろ足で思いっきり車に蹴りを入れられた、などという話も聞いた事があります。 この写真の馬には、牧場のわきのフットパスを歩いている時に遭遇しました。毛が目にかかるほど長いその姿が、つっぱりティーンエイジャーの様で可笑しかったので、鞄をがさごそ開けてカメラを取り出しましたら、何か食べ物をもらえると思ったか、近づいてきました。おかげで、こんなアップの写真。 その後、顔をぽんぽんと叩いてやったりしていましたが、私が美味い物を持っていないと気づくと、「何もくれないやつに、用はない」とばかり、そっぽ向いて離れていってしまいました。現金なところもティーンエージャーそっくり。 まだ青々した小麦畑で、こんな方たちにも出会いました。 2羽のカナダ・グース。夫婦でしょうね。池からどんどん離れて、畑のはるかかなたの田舎家へ向かってぎゃーぎゃー言いながら、えっちらおっちら歩いていましたが、何しに行ったんでしょうか。 飛んだ方が早くないかなと思いながら後姿を見ていましたが。

奴隷制を廃止せよ

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(前回の記事 「白い金、黒い奴隷」 に続きます) 強欲の皮を突っ張らせ、黒人を物同様に扱い金儲けをする人間がいる中、良心と良識に従って、社会悪に物申す人間もいるものです。 18世期イギリスで、奴隷制廃止主義者(アボリショニスト)達は、奴隷制で儲けた社会の有力者を相手に戦いを挑んだわけですから、かなりの精神の強さと信念が要った事でしょう。 彼らは、市民レベルでの理解を深めるため、実際に奴隷たちがプランテーションでどのような扱いを受けているかの説明を始めます。何気なく飲み物に落とす砂糖がどういう環境で作られたか、考えたことも無かった人も多数いたでしょうから。 また、黒人が、自分たち白人より劣ると言うのは間違いであるとして、実際に英国に住む洗練された黒人達を生き証人に、世論を、奴隷制反対へと傾けていきます。 茶器の製造でお馴染みのウェッジウッド。創始者のジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgwood)は、コーヒー、紅茶、更には砂糖の人気上昇のおかげで、商売繁盛したのですから、奴隷制にもしっかりお世話になっていたわけです。 奴隷貿易廃止の気風が高まる中、ジョサイア・ウェッジウッドは、積極的に廃止運動に参加。「我は、同じ人間であり兄弟ではないのか」とのうたい文句を掲げた奴隷制廃止キャンペーン用のメダリオンを自費製造し配布します。モチーフはひざまずいた黒人奴隷のカメオ。廃止支持者はこのメダリオンを帽子につけたり、ブローチ、ネックレスとして身に着けたり、または嗅ぎタバコの箱につけたりなどしたようです。(ちなみに、ジョサイア・ウェッジウッドは、チャールズ・ダーウィンの祖父でもあります。) こうして、反奴隷を唄うことが、段々ファッショナブルになっていき、砂糖のボイコット・キャンペーンなども起こります。 ただ、奴隷制廃止を支持する人物の中にも、ユダヤ人、アイルランド人など別な人種への蔑みを隠さぬ人もいたというので、少々、偽善的な部分があったことも否めないようではあります。また、イデオロギーはともかく、風向きが変わって来て、皆と逆方向に立っていたくないと、奴隷反対派に便乗する人もいた事でしょう。 奴隷制廃止のヒーローの座を占めるのは、やはりウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)。 裕福

白い金と黒い奴隷

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織物を初めとした、製造加工品や武器を積んだ船がイギリスの港を出、西アフリカに辿り着く。アフリカの港で、これら製品と交換に船に詰め込むのは、現地の奴隷商人から得た黒人奴隷達。奴隷を乗せ、船は荒れる大西洋を渡り、新大陸と西インド諸島へ。ここで、奴隷と交換に、砂糖、ラム、たばこ、綿等を得て、船はイギリスへと戻る。・・・これが、大西洋三角貿易です。 イギリスが、アフリカの黒人奴隷に目をつけるのは、エリザベス朝に遡ります。1562年、船乗ジャック・ホーキンスは、黒人奴隷が、スペイン植民地で、金になる物品として扱われているのに着目。そこで、彼は、西アフリカへ出向き、300人の奴隷を船に乗せ、大西洋を渡る。そして、カリブ海スペイン植民地で、その奴隷達と交換に、皮、砂糖、真珠等を入手し持ち帰ったのが始まり。 1600年代初頭、新しい砂糖の栽培方法が、英領西インド諸島のバルバドスに導入、砂糖プランテーシン設立。英国の主な奴隷市場先となります。 1665年にオリバー・クロムウェルがスペインからジャマイカを頂戴。 そして、スペイン王位継承戦争の後のウトレヒト条約(1713年)の結果、スペインから、植民地での奴隷販売の権利を得る事になり、がばがば儲かる大西洋三角貿易はいよいよ波に乗り。 英国内でのコーヒー、紅茶の需要拡大につれ、人気が高まる「白い金」と呼ばれた砂糖、及び、英国織物業の原料となる綿や麻のプランテーションでの生産と輸入において、奴隷は、重要な労働力であり、無くてはならない物品。 特にイギリス大西洋側の港町、ブリストル、リバプールなどは、こうした奴隷貿易で巨額を築き上げます。築かれた富は、産業革命に向けての新しい技術や事業に投資されていますので、イギリスの富は奴隷貿易の上で築かれたとも言えるのでしょうか。 西アフリカで船に乗せられた奴隷は、ぎゅう詰め状態で、ろくに飲食物も与えられず、目的地に着く前に、船内で死んだ者も多数。 そして、悪名高きゾング号の事件。 1781年に奴隷を積んでアフリカを出発しジャマイカへ向かったゾング号。船中、奴隷達の中で病気が発生し、他の船員に移る事を恐れた船長が、133人の奴隷を、手かせ足かせをつけたまま、海に投げ捨てます。もちろん、全員死亡。一説では、船中での飲料水が不足したので、奴隷を海へ捨てたという話もあ

ザ・ダーリン・バッズ・オブ・メイ(The Darling Buds of May)

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さんざし(hawthorn ホーソーン)の白い花が家の近くで、甘い香りを放ちながら咲いています。時に、淡いピンク色をしたさんざしも見かけます。さんざしは、イギリス原生のバラ科植物で、枝は、バラと同じく、刺を持ちます。 通常5月に花を咲かせるため、メイ・トリーとも言われているさんざしですが、”Never cast a clout until May be out” 「メイ(さんざし)が咲くまで、冬服をしまうな」などという、古くからの言い伝えもあります。 そんなさんざしの花が揺れる光景に、頭をよぎるのは、シェークスピアの有名なソネットの一節。 Rough winds do shake the darling buds of May, And summer's lease hath all too short a day. 荒い風が、うるわしき5月の(さんざし)のつぼみを揺らす そして、夏の日々はあまりに早く過ぎて行き このThe Darling Buds of May(ザ・ダーリン・バッズ・オブ・メイ)という言葉で更に連想ゲームをすすめると、思い起こすのは、いまやハリウッドA級スターとなったキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。 1991年に、タイトルもずばり、The Darling Buds of May(ザ・ダーリン・バッズ・オブ・メイ)という、 H.E.ベイツ著の同名の小説 を基にした、連続テレビドラマに出演したウェールズ出身のキャサリン・ゼタ=ジョーンズ。波打つ黒髪と小麦色の肌の、自然でさわやかな美しさで、あっという間にイギリス国内のダーリンとなりました。舞台となったのは、戦後間もなくの「イギリスの庭」と称される、美しいケント州の田舎。いちご畑や、果樹園、木立の中、にっこり微笑む彼女に胸キュンとなった男性はかなりいたようです。うちのだんなも、その一人。 この時期、イギリス各地の森林の木々の下を青く染めるのは、ワイルド・ヒヤシンスとも呼ばれるブルーベル。これも、シェークスピアの時代から変わらぬ、5月のイギリスの森の風景でしょうか。先日行った森の中も、ブルーベルの湖の中を歩くようでした。新緑の香りと甘い花の香りが漂い。 姿を見るのは難しいという ナイチンゲール(nightingale) の声を聞き、遠くではカッコ

ユグノーさん、いらっしゃい

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この絵は、ヴィクトリア朝の英国画家、ジョン・エヴァレット・ミレーによる「ユグノー」。ユグノー(Huguenot)とは、16~18世紀フランスのプロテスタント信者の総称です。 カトリックとプロテスタントの宗教戦争で揺れるフランス。打開策として、1572年、8月、プロテスタントのナバラ王アンリ(後のブルボン王朝の創始者、良王アンリ4世)と、王女マルゴ(カトリックのバロア朝フランス王シャルル9世の妹)の政略結婚が執り行われる。その結婚式の数日後に起こるのが、結婚式のためパリに大勢集まったユグノーの大虐殺、聖バーソロミューの虐殺。パリだけで2500人が殺害され、暴動はその他の都市にも飛び火し、総計で約10000人のユグノーが殺されたと言います。 絵の中で、反プロテスタントの不穏な空気を恐れたカトリックの女性が、ユグノーの恋人を助けたい一心で、彼の腕に、カトリックのシンボルである白い布を巻こうとするのを、彼が、彼女を諭しながら、「妥協はできないと」取り外そうとしています。この絵のインスピレーションとなった同名のオペラによると、この後、忠実な彼女は、彼と運命を共にすべくプロテスタントに改宗し、彼と結婚。2人はともに虐殺の犠牲者となる。2人の背後に描かれたツタは、忠実と逆境における親愛の象徴。 おセンチな絵ではありますが、似た様な運命を辿った恋人たちも実際いたのでしょう。 絵:The Huguenot by John Everett Millais この虐殺の後、大勢のユグノー達は、海を渡りイギリスへと逃げます。 1598年、アンリ4世がナント勅令で信仰の自由を認めたものの、ユグノーへの弾圧は常にふつふつ。1685年、ルイ14世が、ナント勅令を廃止し、各地でユグノーの血が再び大量に流れ始めると、ユグノーは、前回にも増し、大挙してイギリス、また周辺の国々へ脱出。 心ある近所の人々にかくまわれた後、夜、港へと走り、船中のわらに隠れ、ワインの樽にうずくまり、石炭の山の下で息を殺し、海峡の荒波に揺られ、文無しで辿りつくイギリス。 フランスのカトリックのユグノーに対する残虐さは、パンフレットや印刷物で、知れ渡り、同情を買っていた上、「宿敵フランスの敵は我等が味方」とユグノー達は一般に、暖かく迎えられ、教会で食べ物の給付を

ハムステッドのフェントン・ハウス

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ハムステッドは、ロンドン北部に位置する高級住宅地。金融のシティや、ショッピングのウェストエンドへ出るのにも便利でありながら、すぐ側に、広大な丘の上の緑地帯ハムステッド・ヒースが広がり、田舎の雰囲気も味わえます。 鉄分を含んだこの地の井戸水が、身体に良いなどと言う噂も手伝って、すでに17世紀から、人気が出始め、18世紀には、中流階級富裕層が好んで住む土地としての地位を確立。詩人キーツ、画家コンスタブル等の芸術家、精神科学者フロイトも住んだ場所です。 そんなハムステッドの一角に、フェントン・ハウスという屋敷があります。 17世紀中に作られ、1952年にナショナル・トラストに寄贈されるまで、弁護士、商人、貿易商、エンジニアなどの所有者とその家族が移り住んだ屋敷。 フェントン・ハウスの名は、19世紀前半にこの館に住んだバルト海貿易商、ジェームス・フェントンの名から来ています。フェントン家は、催し物や、ディナー・パーティーをよく開き、週一回のダンス・レッスンなどもこの家で開き、近所の人々なども誘い、当時のハムステッドの社交に貢献したようです。また、彼は、ハムステッド・ヒース土地開発の話が持ち上がった際も、反対キャンペーン運動に参加。ヒースは後、1871年に、無事、リクリエーションの場所として公共の手に渡り、開発をまぬがれます。 高級住宅街というのは、大体高台にあり、周囲を「おほほん」と見下ろしているものですが、この屋敷の窓からも、ロンドンが遠くまで見渡せ、現在経済危機に大騒ぎのシティの建物なども空を背景にくっきり浮かんで見えました。 建物よりも、フェントン・ハウスは、ガーデンが良かったです。 高いレンガの塀に四方をしっかり囲まれた庭は、1982年から、約10年がかりで、ナショナル・トラストの手で現在の姿に作り直されています。スタイルは17世紀の「オールド・イングリッシュ」風を、少しやわらかくしたものだそう。 庭の中心は、サンクン・ガーデン(沈んだ庭園)で、レンガの壁の脇の小道より、少し下に掘り込まれたところにあります。風の強い日なども、きれいに刈り込まれた生垣を背に、花の間のベンチに腰を下ろして、気持ちよく時を過ごす事ができるでしょう。まるで、 秘密の花園 。 花園のむこう側には、小さなコテージとキッチン・ガーデンがあり、