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9月, 2010の投稿を表示しています

ランス・アームストロング

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「長い間病院じゃあ、退屈だろう。」と、だんなのテニスクラブの友達が、本を4冊ほど買って、うちに持ってきてくれました。全冊、スポーツ関係の本。だんなにどれが読みたいかと聞いたら、「一番短いの持ってきて。」 一番短かったのは、これ、ツール・ド・フランスを1999年から2005年まで、連続7回全優勝した、米のサイクリスト、ランス・アームストロングの自伝、「It's Not About the Bike」(直訳は「それは自転車とは関係ない」:日本で翻訳出版されている邦題は、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」)。 だんなは、「読み出したら止まらなかった。」と、2,3日で読み終えていました。ランス・アームストロングは、将来のある若手サイクリストとして名声が高まる中、25歳で癌(睾丸腫瘍)となり、本は、癌との闘病生活がかなり大きな部分を占めるので、非常に、共感しながら読めるところもあったようです。それじゃ、私も、と読んでみました。 ***** 17歳で彼を生んだ母。実父と母は、彼が生まれてすぐ別れ、母は後に、2度再婚するものの、ほとんど、母一人子一人で育ち、貧しい中、働きながら、自分を大切に育ててくれた母親への愛着は非常に強い感じです。対して、父権を簡単に放棄した実父と、何かにつけ体罰を与えた継父に対する態度は手厳しく、こきおろしています。 サイクル・レースの途中で、苦しくて脱落しそうになると思い浮かぶのも母との会話、 「そんなのやめちゃえばいいじゃん。」 「お前、決して、物事を途中で投げ出してはだめなのよ。」 何でもすぐあきてやめる私には耳の痛いお言葉。 また、もうひとつ、彼の力となる母親の言葉は、 「全ての逆境をチャンスに変えなさい。」 最初は水泳に熱中、そしてトライアスロンのレースに参加してこずかい稼ぎを初め、自転車を始めるのは16歳の時。その後は、自転車一筋。段々と、注目を集めていく。この頃の彼は、貧しい家庭に育って、馬鹿にされたくない、自分の価値を証明してやる、と好戦的な「怒れる若者」だったようで、レースの仕方もその性格を反映していたようです。映画 「炎のランナー」 のエイブラハムスの様なタイプだったのでしょう。 将来の見通しは明るく、レースにどんどん勝ち、スポンサーも付き、家も買い、ポルシェも買い・・・そしてや

母国で外人となるロンドンっ子

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現在、うちのだんなは、ばい菌や感染に弱い状態なので、病棟内の個室を割り当てられていますが、入院して最初の4,5日は、何人か他の人たちと一緒でした。その際、だんなのむかいのベッドにいた体の大きな壮年男性は、ばりばりのロンドンっ子で、その南ロンドン訛りもなかなか強烈でした。 南ロンドン訛りは、映画「マイ・フェア・レディー」のイライザ・ドゥーリトルでお馴染みの、コックニーと呼ばれる東ロンドンのワーキング・クラスに独特の訛りと、私には同じように聞こえるのですが、聞く人が聞けば、多少の違いはあるようです。スピーチの専門家でないの深入りしませんが。 外人の多い看護婦さん達の中には、この男性の言っている事がわからない人も多く、そんな看護婦さんのひとりが、「あなたの母国語は英語ではないの?」なんて聞く始末。ロンドンっ子おじさんも、これにはびっくりして「ウワット!?」(What!? なんだって!?)また、ロンドンっ子おじさんの娘さんが見舞いに来た時、どこかに椅子はないかと探しながら「チイエアアー(椅子)はどこだ?」と看護婦さんに聞いても、彼女はしばらく、チイエアアーが何かわからなかった様子。 その土地の昔ながらのアクセントで喋る人たちも、最近のロンドンは減ってきているのでしょうか。コックニーなども、あと2、30年もすれば、死滅などという事もあるのか・・・。 だんなも言っていました。「彼なんて、これ以上ないってほどの生粋のロンドンっ子で、しかもこの辺りの出身だろうに、母国にいながら外人みたいな存在だな。」ニュージーランド、アメリカ、イタリア、マルタ、フィリピン、スロバキア、ナイジェリア、シエラレオネ・・・等などのスタッフに囲まれ、彼は、「ここはどこ、私は誰?」の心境でしょうか。

フィリピンの看護師さん

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白血病のうちのだんなに、第一回目のキモセラピー(化学療法)の薬を投入してくれたのは、フィリピン出身の男性看護師さんでした。この最初の投入は、看護師が、約30分ほどベッドの傍らに座って行う必要があり、たまたま私も居合わせたので、この間、3人で色々話をしました・・・特に、彼の身の上話を。 彼がフィリピンで看護師となる訓練を受けた頃、フィリピンでは、看護師の資格を持つ者が増えすぎ、職が探せず、資格を持ちながら、飛行機のスチュワーデスやスチュワードなど全く別の仕事をする人も多かった。彼も、セールス関係の仕事に就いていたようです。どうしても、看護師として働きたければ、アメリカやイギリスへ出るしかない。やがて、セールスの売り上げ成績の数字で頭がいっぱいの毎日に嫌気がさし、イギリスへやってきた彼。 やはりフィリピン人の奥さんも看護婦さんだそうで、キティーちゃんが大好きの娘が一人。私が日本人だとわかると、キティーちゃんの頭の形をした建物は、成田空港のそばにあるのか、などと聞かれ、それほど頻繁に日本に帰らない私は、そんなものがある事も知らなかったので、「しばらく帰ってないからよくわからない。」と言い訳。何でも、お嬢ちゃんが行きたいと騒ぐのだそうです。彼も、彼の奥さんも、憧れの日本にはいつか行ってみたいのだと。私が「ぜひ行ってよ。」と言うと、彼はニコッと笑ってました。 後で、故郷には毎年帰るのか、という話をした際、「うーん、残念ながら、3,4年に1回しか戻れない。」故郷に帰るのも経済的にままならなければ、日本に家族旅行だ何て、現段階では、彼らにとっては、夢のまた夢なわけです。故郷の両親へ仕送りなどもしているかもしれませんし。「ぜひ、行ってよ」なんて、何も考えずに言ってしまうのは、富裕国に生まれた人間のうかつさ。 彼はフィリピンの政治汚職の多さを嘆いていましたが、同時に故郷の近くにあるマヨン山(Mt Mayon)の事をなつかしそうに話していました。富士山と同じく、完璧な円錐形。普段はシャイで、雲に隠れ、姿が見えない事が多いけれど、姿を現すと畏敬の念を感じる人も多いそうです。ウィキペディアで調べてみると、確かに美しい山です。(写真上。ウィキペディアより拝借。)彼に言われるまで聞いたことも無かった山。当たり前ですけれど、また新たに、世界は広いなあ、と感じました。富士山の方が知名度が高いのも、

ああ、白血病!

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うちのだんなは酒もたばこもやりません。頑丈で食いしん坊なので、常時体重はやや平均をオーバー気味。それでも時折のフィッシュ・アンド・チップス以外、ジャンク・フードにはほとんど手を出さない食生活も良好な人。テニスとサイクリング大好き。若い頃こったスカッシュでひざが時々痛む以外は、10年以上も家庭医にも行かないような人でした。 8月に入ってから首のリンパが腫れて、元気が出ない、と言っており、医者に行ったらと促しても、「サイクリングに行けば治る」「2,3日様子みる」と、そうなんです、男性はなかなか医者に行かないのです。そのうち、庭や野原で、イギリスの貧弱な蚊に何箇所か腕や足を刺され、そのさされた部分が、数日後、紫色に変色してあざのようになっている・・・。これは、やっぱりどこかおかしいんじゃないか、とやっと病院で血液検査。翌朝早く、病院より電話で「血液に異常あります。すぐ来てください。」 病院へ着くと、血液課のコンサルタント(専門医)が出てきて、挨拶をされました。いきなり、最初からコンサルタントが登場した段階で、私は、「これは重病かもしれない」と思ったのです。「急性骨髄性白血病(Acute Myeloid Leukaemia、通称AML)です。明日、入院してください。今週中にはキモセラピー(Chemotherapy:化学療法)を始める必要があります。」アースナル・フットボール・クラブのマネージャーのアーソン・ヴェンガー氏にそっくりのこのコンサルタントの顔をぼうっとながめながら、私は頭は空っぽ、言葉も出ませんでした。後で、他の人たちにも言われました。「他の人ならわかるけど、あの人が?あんなに元気そうだったのに。」白血病とは、そういう病気なのかもしれません。老人に限らず、子供も若者も中年も壮年も、いきなり・・・かかるのです。 宝くじの1等賞は自分は、まず、当たることがないと思う。けれど、どこかで誰かが大金を当てているわけで。白血病にかかるのも、災害に巻き込まれるのも、自分には起きることはないと、思っていたのは昨日まで。だんなは、宝くじではなく、不運くじをひいてしまいました。 以前までは病気の話は苦手、病院へ出入りするのも嫌い、闘病記などは読むのも嫌で避けてしまっていた私です。こういう人はわりといると思います。健康体の人間の無意識の拒否反応で、ある意味では自然な反応と言えるかもしれ

Business as usual

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第2次世界大戦中、1940年9月7日、ドイツ空軍(Luftwaffe: ルフトヴァッフェ)は、ロンドンを初め、イギリス都市とその市民を対象にした爆撃(ブリッツ:Blitz)を開始します。ロンドンは特に東部とテムズ周辺が一番の被害を受け、その後しばらく、市民はサイレンの音と爆弾の恐怖、避難先の地下鉄の駅での寝起きなどを日常として生きることになります。 ロンドンのイースト・エンドが燃え上がる中、セント・ポール寺院は、奇跡的に倒壊を逃れ、ブリッツを経験した人たちは、「黒炎の中、セント・ポールの金色の十字架が輝いているのが見えた」とか、「見えない手が、セント・ポールのドームの上空にかざされて、爆撃から守っているように思えた」など、の感想をもらしていました。周囲は瓦礫の山と化しながら、どーんと建ち続けた寺院は、周辺住民の心の支えにもなったようです。今年は、ブリッツの70周年記念。先週火曜日の9月7日に、そのメモリアル・サービスが行われたのが、セント・ポール寺院と言うのは、まあ、当然の感じです。 現在、白血病で入院中のうちのだんなは、第一次、第二次世界大戦の歴史に興味を持ち、非常に詳しい人です。(戦争を知らない世代だから、悲惨な事項も歴史として見れる、というのもあります。)メモリアルの日に、セント・ポール寺院の前に、バトル・オブ・ブリテンの立役者、名機スピットファイヤー(spitfire)が展示されると聞いて、写真を撮ってきてだんなに見せようと、足を向けました。 寺院の前でのパレードを見。 パレード中、上空を飛んだのは、爆撃機ランカスター(Lancaster bomber)に率いられたスピットファイヤー機。 やっぱり、展示されていたスピットファイヤーの周りは人だかり。いまだに、大人気です。 近くに寄って、ぽんぽんと、軽く翼を叩いてきました。 今年は、5月に、まずダンケルクの戦い(英語発音はダンカーク:Dunkirk)70周年、引き続き、バトル・オブ・ブリテンの70周年記念、そして、このブリッツの70周年と、第二次大戦の式典続きです。 ***** ダンカーク(Dunkirk evacuation, Operation Dynamo) ベルギー国境にほど近い北フランスの海岸線にある港町ダンカーク。第2次大戦中1940年、30