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9月, 2011の投稿を表示しています

セントラル・ステーション

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リオデジャネイロの中央駅・・・人生へのあきらめからか、シニカルでドライなハイミス、ドーラ。元教師の彼女、駅の構内にテーブルを出して、読み書きの出来ない人々のために、手紙を書いてあげる代筆業者として生計をたてていますが、「郵便で出しておく」と約束した手紙でさえ、帰宅後破って捨ててしまうような、モラルなどくそ食らえの、ちょっと荒んだ心の持ち主。髪はぼろぼろ、顔はしわが刻み込まれた、このドーラ役の女優さん(フェルナンダ・モンテネグロ)のかもしだす生活感はとても現実味あります。文盲の人など、まだまだ沢山いるのですね、ちょっと驚きでしたが。貧しければ、学問どころか、小さいうちから日々の糧を稼ぎ出す事が第一ですか、確かに。 そんなドーラの元へ、ある女性が息子(ジョズエ)を連れてやってきて、「一度も父に会った事がない息子が頼むので、飲んだくれで、しばらく会っていない夫に手紙を書く」とドーラに代筆を頼む。数日後に、「前の手紙は、少し口調がきつすぎたので書き直して欲しい」と再びやってくる母と息子。その帰りに、駅の前で、この母親は車にはねられ死亡。ドーラは、母の他に、リオに身寄りの無いジョズエを預かることに。 最初は、ジョズエを、新しいテレビを買うために、人買いに売ってしまう(!)などという行動を取るドーラですが、後悔して、ジョズエを人買いから無理やり取り戻し、共に、ジョズエのの父親を探しに旅に出る。そして、舞台はセントラル・ステーションの雑踏から、広々としたブラジルの田舎へと移っていきます。アフリカのサバンナにも似たような風景の中の珍道中で、二人の間に友情が生まれ、ドーラ自身も、やさしい気持ちを取り戻していく。自分だけを頼りにして無我夢中で生きてきても、他人との暖かい絆は、人間、やはり必要なのです。 2人が、別々の人生へと別れて行くラストシーンは・・・かなり泣かせてくれます。 この映画、英語の字幕つきでしたら、Uチューブで見れます。パート1は、 こちら まで。 ニューヨークやロンドンを「人種のるつぼ」などと呼んだりしますが、リオデジャネイロなどのブラジルの大都市は、両親やご先祖様の人種が混ざり合っているという意味で、人種が一番ミックスしているのだ、という話を聞いたことがあります。この映画の出だしで、ドーラに手紙を書いてもらいに入れ代わり立ち代り現れる人々は、確かに、お肌の色や、顔の感

フランケンシュタイン

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最近、テレビで、メアリー・シェリーとフランケンシュタインに言及するドキュメンタリーを2,3見ました。 この小説が書かれたきっかけは、今では伝説のごとく、かなり有名な話です。メアリー(旧名メアリー・ゴドウィン)は、1816年5月、妻子ある恋人、パーシー・シェリー、血の繋がらぬ妹のクレア・クレモントと共に、バイロン卿と、彼の主治医ジョン・ポリドーリが借りていたスイス、ジュネーブ湖(レマン湖)畔のディオダディ荘に滞在。連日の悪天候で屋内にとどまる事となる一行は、余興に、それぞれ、怪奇小説を書くことになる。こうして、メアリーは、「フランケンシュタイン」の出筆を開始。出版は、1818年となります。 このディオタディ荘での集いがある前年1815年4月には、インドネシアのタンボラ山が大噴火。噴出したガスが太陽光線を反射して、地球の気温は下がり、1816年は、低温で雨の多い「夏の無い年」となります。これが、バイロンと客人一行が、屋内に留まる原因となり、また、雨風と雷が、ゴシックのイメージを沸き立たせ、間接的に、フランケンシュタイン誕生に繋がります。 メアリーとパーシーは、1816年後半に、パーシーの妻が、ハイドパークのサーペンタイン湖で投身自殺した直後、結婚しますが、パーシーは、イタリア沖の帆船の事故で1822年に、若くして死亡。 テレビ・ドキュメンタリーの中で、メアリーのオリジナルの原稿を見せていましたが、ところどころに、パーシー・シェリーが修正や書き足しをした部分があるのが面白かったです。詩人としての感覚を生かした表現的修正の他に、シェリーは共和主義に共鳴していたようで、共和制のジュネーブと王制のイギリスを比べ、ジュネーブの方が、良い社会である、のような政治的な下りを書き足したりしています。 内容を知っているようで知らない小説、というのは多々ありますが、そのひとつであった「フランケンシュタイン」を、今回初めて読んでみました。出だしが、探検のため、北極へむかう船に乗り込む若者の話から始まるのが、意外でした。また、後の世の、色々な映画やテレビドラマのおかげで、フランケンシュタインのモンスターは、コミカルなイメージもあったりするのですが、これが、とても可哀想なのです。 小説は、この北極探検を試みる青年ロバート・ウォルトンが、イギリスの妹へ宛てた手紙としての形式を取っています。この青年

マーシャルシー監獄

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イギリス人は、多額の借金をする事に対して、あまり抵抗の無い国民性という印象を受けます。クレジットカードを多用し、毎月最低限だけの返済をして、利子がどんどんついても、お構いなしの様な人も結構いるようです。また、一般的に、借金を返せない人間に対しても、比較的寛容な国の気がします。返せなければ、破産宣言して、出直せばいいじゃん、とそれで終わり。 昔はそうではなかった・・・昔は、借金を返せない人間には、泣く子も黙る債務者監獄(debtor's prison)があったのです。その中のひとつ、ロンドン南部のサザーク区にあったマーシャルシー監獄(Marshalsea Prison)は、チャールズ・ディケンズが12歳の時に、父であるジョン・ディケンズが、パン屋への借金が返済できずに、3ヶ月投獄された場所。また、ディケンズの小説「リトル・ドリット」の舞台ともなっています。 A prison taint was on everything there. The imprisoned air, the imprisoned light, the imprisoned damps, the imprisoned men, were all deteriorated by confinement. As the captive men were faded and haggard, so the iron was rusty, the stone was slimy, the wood was rotten, the air was faint, the light was dim. Like a well, like a vault, like a tomb, the prison had no knowledge of the brightness outside; and would have kept its polluted atmosphere intact, in one of the spice islands of the Indian Ocean. 牢獄の腐敗は、内部のあらゆる物に感じられた。閉じこめられた空気、閉じこめられた明かり、閉じこめられた湿気、閉じこめられた者達、その全てが、閉鎖によって腐敗していっていた。投獄された者たちが、萎え衰えてゆくよ

ピーピング・トム

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この映画の原題「ピーピング・トム」(Peeping Tom)とは、俗に言う覗き魔の事。女性連続殺人の話ですが、殺人場面自体は、ほとんど無血で、グロテスクな描き方はしていない、心理スリラーです。題材がショッキングであったため、公開当時は、批判を受け、マイケル・パウエル監督のキャリアに、傷が入った作品と言われています。邦題は、「血を吸うカメラ」・・・蛭か、ドラキュラの手下じゃあるまいし。 生物学者の父を持ったマーク。幼い頃から、父の実験の対象とされて育ちます。父は特に、神経が「恐怖」に対しどういう反応を示すかに興味があり、ベッドに眠る息子の顔に懐中電灯をちらちら当てたり、トカゲを布団の上に投げたりし、息子が恐がって鳴いたり叫んだりする様子を録画録音。こんな変な親に育てられたら、精神的にひしゃげた物を隠し持ち成長してしまっても、無理は無いのです。 マークは、お上品なお坊ちゃま風。多少おどおどした感じで、物腰も柔らか。彼の夢は将来映画を作ること。映画撮影のカメラマンの一人として働き、また、時に、お色気モデルの写真を取ったりする毎日。ビデオカメラを肌身離さず、どこへ行くにも持ち歩く彼。そのビデオカメラの三脚の脚のひとつが、先の尖った凶器となり、彼は、何人かの女性を、その凶器で突き殺しながら、女性の死に際をビデオで取り、それを、あとで自宅で現像し、家庭映画館で鑑賞。女性達が、死に直面し、恐怖におののく顔を見るのが好きと言う、変な殺人鬼と化していたのです。 そのうち、マークは、同じ建物の一階に、めくらの母親と住む、明るく社交的なヘレンに恋心を抱き始める。そして、彼女と、彼女の母親を、殺そうとする衝動と戦う事となります。母親は、目の見えない人間の鋭い第六感で、マークの精神が病んでいるのに気づく。彼が、窓の外から、ヘレンと彼女のいる室内を覗いている時なども、「首の後ろに視線を感じる」と気づくほど。 ヘレンは、マークを、ビデオカメラを持たずにデートへ誘う事に成功し、マークは、ビデオから離れられた開放感を味わい、「もっと早くヘレンに会っていれば」と思う。ラストは、警察に自宅までつけられたマークが、ヘレンの見る中、三脚の脚の凶器を使い、首を刺して自殺するのです。「ヘレン、僕は怖いが、うれしい。」と言いながら。 余談ですが、ヘレンが部屋へ遊びに来ると、飲むものが他に無いからと、マークがいつも

リンゴの実が熟す頃

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リンゴの実が熟す頃、巷に現れるのは酔っ払いの動物達・・・。そんな事件が先日ニュースになっていました。 スウェーデンの民家の庭に、熟して発酵したリンゴの実を食べ過ぎた結果、酔っ払い、リンゴの木に体がもつれ、身動きができなくなったヘラジカが出現。警察と救助隊がかけつけ、リンゴの枝を切り落として、ヘラジカは自由の身になったものの、へべれけ状態で、庭で2,3日休養を取って行ったそうです。このニュースを載せたガーディアン紙記事は、 こちら まで。 一方、我家では、先日、キッチンで皿洗いの最中、庭を、妙にジグザグな飛び方で横切った、 マグパイ (magpie:かささぎ)を目撃しました。そして、直後に、開け放した窓から、ドサッという音。何だと思って、外へ出てみると、隣の家の壁に激突したのか、さっきのマグパイが、ころりと横になって倒れている。死んだのかと、近寄ってみると、お腹が膨らんだりへこんだり、息はしているのです。どうしたものかと、眺めていたら、ヨロヨロと起き上がり、しばらく呆然と、その場にたちつくしておりました。 マグパイはカラス科の賢い鳥で、警戒心が強いので、人が近づくとすぐに飛び去る事が多いのですが、私が1メートルくらい側で見ていても、そのまま、目をしばしばさせて動かない。壁にぶつかって脳しんとうでも起こしたのかと、放っておくと、おぼつかぬ足取りで歩き始めて、隣の家の鉄の門に、足とくちばしを使って、這い上がり、振り子のごとく、ゆらゆら揺れながら、門の上にとまっておりました。やがて、ふらふらとうちの庭まで飛んできて、どすんと芝生に不恰好な着地。再び、呆然とした後、やっと、どこかへ飛び去ったのです。 マグパイは雑食で、何でも食べますから、この方も、今の季節、そこいらに転がっている、熟したリンゴや梨、その他もろもろの果実を食べ過ぎて酔っ払ったのか。リンゴ酒、梨酒、梅酒のちゃんぽん?何せ、飛び方からして、本当にふらふらで、「酔っ払い運転しちゃいかんぞ。」という感じでしたから。 今年は、妙に 暑かった4月 の影響か、イングランドのリンゴは稀に見る豊作で大変美味なのだそうです。うちの庭のリンゴは、果肉がやわらかいタイプで、地面に落ちるとすぐに痛んだり、鳥につつかれてしまうので、例年、ダメージのないものを少量、思い出したように集めて食べるくらい。確かに今年は、味がいつもより甘い気がしま

ティリーハット

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先週の土曜日、だんなが、第2回目のキモセラピー(化学療法)コースを終えて、症状が落ち着いたところで、一時の自宅療養に退院してきました。 キモセラピーは、毒をもって毒を制す。白血病細胞、癌細胞も殺すけれども、他の正常な器官や機能も、これによってやられてしまいます。そのため、抗菌剤その他数々の薬も、しばらくはどっさり飲み続けねばならず。1回目のキモで、白血病細胞が残ってしまい、寛解が達成できなかったので、今回のキモは、かなり強烈な薬を投入し、5日のコースが終わった後、疲れ果て、参っていました。唾液や、消化器官の液の量も減ってしまったとかで、飲食物が喉を通り、胃に入るまで、飲み込むのが非常に痛い、という症状も出て、「まるで紙やすりを飲み込むみたい」とか。これは、ようやく、治まってきましたが、食べ物大好き人間にとって、食事時間が苦痛というのは、げんなりだったようです。 この他、キモの影響として、紫外線に弱くなる、というのもあるようです。入院中に、近くのベッドに、白血病の治療の後、皮膚がんになってしまった人がいたとかで、うちのだんなも、それが心配になった様子。お天気の日の長時間の外出の際に、はげ頭を、お日様の有害紫外線から守るため、さっそく、愛用できる帽子を買いに出かけていました。軽くて、それでいて風に飛ばされず、汗をかいたら洗えるもので、つばも含め全て布製が良い・・・そんな帽子ないかな、と言いながら。 そんなこんなで、アウトドアの店で、ティリーハット(Tilley Hat)なるものに行き当たり、少々高めであったけれど、希望する事項、全て合格で、買って帰ってきました。2年以内に、帽子が紛失、盗難、または破損した場合、原価格の半額で購入できるという保証も付いています。「nearly indestructible」(ほぼ破壊不可能)などという、うたい文句で、よほどの事が無い限り、一生物だそうです。ちなみに、帽子のサイズを選ぶ際は、かぶった時に、額の前に指が2本入るくらいがグッド。 つばの脇を上に折り返して、ボタンで留められるようにもなっています。ちゃんと顎ひもがついてますから、風が吹いても「だいじょーぶ!」 ティリーハットは、カナダ人、アレックス・ティリー氏によって考案された帽子。アート・ディーラー、アート・コンサルタントであった彼の趣味は、セーリング。彼は、セーリング用に、風に

或る夜の出来事

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ロマンチック・コメディーの類に入るのでしょうが、「元祖」と付けたくなるほど良くできた、とても、とても好きな映画です。雨後のタケノコの様に、最近も、毎年の様に、それは沢山作られているラブ・コメディーの数々も、これをお手本にもっとグッとくるものを作って欲しい。 気の利いた会話がちりばめられた脚本、途中おセンチなポップ・ソングなどは一切挿入される事なく、魅力満開の主役の二人が、最初はぶつかり合いながら、段々お互いに気に入っていく様子を最後まで楽しく見れるのです。 ***** 自分の意思で、何かをさせてもらった事が無い富豪の娘エリー(クローデット・コルベール)は、父が大反対する恋人と結婚してしまう。実際に、2人が初夜を迎える前に娘を連れて返って監禁した父は、何とか娘を説き伏せて、結婚を無効にしようとするのですが、エリーは、父の元を逃れ、父が送った追っ手を撒いて、ニューヨークにいる名目上の夫と合流するべく、一人夜行バスに乗り込む。そこで、隣の席に座るのが、新聞記者のピーター(クラーク・ゲーブル)。結婚を反対され行方不明となった富豪の娘として、新聞一面記事になった彼女の素性に気づいたピーターは、父の追っ手に捕まらないよう、彼女がニューヨークへ辿り着く手助けをする引き換えに、スクープ記事が書けるよう、彼女と夫との情報を、自分に独占的に与えてくれる約束を取りつける。 彼女を探しだせば、父親から高額の謝礼をもらえると新聞に載ってしまったため、人目を避ける必要性から、バスでの旅行を続けられなくなった2人。モーテルで部屋を共用し、ヒッチハイクをし、野宿をし、何とか見つからずにニューヨークへ辿り着こうとする。そうこうするうち、ピーターが好きになってしまうエリー。(そりゃ、クラーク・ゲーブルですから!)「甘やかして育てられたわがまま娘」とエリーをけなし、「悪がき」(brat)と呼びながらも、彼女が愛しくなっていくピーター。エリーが見つかった後、父親は、折れて、娘の結婚を認め、正式な結婚式を催す事となりますが、結婚式の日、エリーは「イエス」を言う直前に、ピーターと一緒になるべく花嫁姿で式場からスタコラ逃げ出す。 ***** この映画の一番有名な場面はおそらく、ヒッチハイクのシーン。ピーターが親指を立てて車を止めようとするものの、何台も何台も行過ぎてしまう。エリーが「私がやる」と道へ出て、近づい

「年上の女」と「フロス湖畔の水車小屋」に思う女性美

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シモーヌ・シニョレが、野心的な労働階級の若者と恋に落ちる中年既婚女性を演ずる映画、「年上の女」。原題は「最上階の部屋」(Room at the top)。 戦後間もないイギリスはヨークシャー州の工業都市。労働階級出身の青年ジョーは、安定してはいるが、高給ではない仕事につき、それを一生続けてささやかに生きていくつもりはない。町の産業界の有力者の娘スザンをなんとか誘惑し、逆たまを狙いたいところ。スザンの両親は、娘につきまとうジョーを良からず思う。どこの馬の骨とも分からぬ男を、娘の婿などには問題外。 スザンと2人きりになれるチャンスを作るため、彼女が属するアマチュア劇団に参加するジョー。そこで知り合った既婚で年上のフランス女性アリス(シモーヌ・シニョレ)に徐々に心を開き、恋仲に。ジョーは、他では虚勢を張り生きているものの、アリスの前では自然体になれるのです。 不幸な結婚生活を送るアリスと逢引を続けながら、やはり逆たまの夢捨てきれぬジョーは、スザンの誘惑に成功し、やがて妊娠させてしまう。スザンの両親は世間体を守るため、ジョーに良い職を提供し、娘と結婚させる事に。このニュースに傷ついたアリスは、泥酔したまま車を運転し、事故死してしまいます。心底ではアリスを愛していたジョーは、アリスの死に愕然。重い心で結婚式を迎える。夢見る夢子さんのような、精神的に幼く、単純なスザンと、裕福ながら、会話もなく、心満たされない結婚生活を送っていくのでしょうか。 男がうんと年上のカップルと言うのは、よーくある話ですが、女性が10以上も男性より年上だと、悲劇に終わる事が多い感じです。女の価値は、若さと美しさで計られる事が多いのは、昔から変わってませんから、いまだ、シワ取りクリーム業界は、大繁盛です。男は、かなりの年になるまで子供を作れるので、おじいさんになっても、子供を生める年の女性を本能的に好む、という生物学的理由もあるようですが。アリスも、ジョーが見ていないときに、鏡で、自分の顔に衰えが出ていないかチェックしたりするシーンもあり、これは、2人、もし結ばれていても、後々、彼女が、何かにつけて、体の衰えを気にして、辛い事になっていたかもしれません。自分の彼女にしわがあっても、ふけて見えても気にしない、彼女の精神が好きだ、などという男性は、素敵ですが。 原題:Room at the

修道僧になってもいい?

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廃墟と化したイングランド内の中世の修道院を、過去、いくつか見て回りましたが、その中でも一番印象深かったのが、こちら、ノースヨークシャー州にある、マウント・グレース・プライオリー(Mount Grace Priory)です。カルトジオ修道会(Carthusian)により、1398年に創立されたもの。 カルトジオ会は、1084年、聖ブルーノにより、フランスのグランド・シャルトルーズ(Grande Chartreuse)に設立された宗派。カルトジオ修道会が他の宗派と異なるところは、修道僧たちの間ですら、あまり他者と交わらず、個別に祈りと労働に身を捧げる、隠遁者(ハーミット)的生活を旨とすること。初期の頃は、グランド・シャルトルーズの僧たちは、掘っ立て小屋の様な簡素な建物に住み、身につける衣もほとんど加工されていないようなもので、ほぼ一日独房にて祈りと瞑想と労働の日々を送ったとか。そんな厳しい生活ぶりから、「キリストの貧しい民」(Christ's Poor Man)の異名を取ったと言います。 イギリスに初めてカルトジオ会の修道院が設立されるのはサマセット州で、1178~1179年のこと。カンタベリー大司教であったトマス・ベケット暗殺への罪の意識から、贖罪の意味で幾つかの修道院を建てることとした、ヘンリー2世の招きによります。 隠遁者のように、個人が個別に祈りを捧げ生活するという、この宗派の特性から、マウント・グレースの修道院は、大きなクロイスター(回廊)の周りを取り囲むように、其々の僧達が住み、一日の大半を過ごす独房があるのです。修道僧が一堂に会して祈りを捧げ、共に生活する事を旨として作られているほかの宗派の修道院とは、かなり違う作りです。現在は、この部分も、ほぼ皆廃墟と化していますが、ひとつ、昔の独房の様子を再現して作り直してあるものがあり、内部を見学。 独房というと、暗くてじめじめして、狭い、牢獄の様なイメージですが、これが、庭付き2階建て小型屋風なのです。クロイスターからのドアを開け、中に入るようになっていますが、内部は暖炉つきの居間や、書斎、ベッドルーム、2階には、労働用の部屋で機織り機が置いてありました。そして、薬草などを育てる小さな庭(上の写真)と、庭の脇には、個別のトイレまである!食事も其々の独房に運ばれていたそうです。「キリストの貧しき民」が一人で住

ヘンリー8世と修道院解散

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フランスなぞでは、青い空を背景に、いまだ、国内各地に中世の修道院がそのままの形でたたずんでいたりするのでしょう。それとは対照的に、イギリスで、中世の修道院といえば、どんよりとした空の下、そのほとんどが廃墟と化した姿で建っています。その理由は・・・お騒がせ王ヘンリー8世の下、1530年代に行われた修道院解散(Dissolution of the Monasteries)。 修道院解散が行われる前のイギリスには、尼の修道院も含め、約800の種々な修道院があったと言います。イングランド各地の町や村から、約1キロも歩けば、何らかの修道院に行き当たり、修道院での祈りの時間を告げる鐘の音は、周囲に住むものには馴染みの音であったわけです。 修道院の宗派は、ベネディクト修道会、シトー修道会、アウグスチノ修道会、その他いろいろ。ヨーロッパの本家となる修道院との関係は強く、ラテン語、更にはフランス語を共用語とする国際的感覚のある組織でもあり。宗派によって其々、特徴と違いはあれ、やはりキリスト教団体ですから、一番大切なのは祈り。そして、残りの時間は種々の労働。労働は、修道院の生計を立てるための農業、羊牧、そして養蜂なども行い、また、聖書の勉強、写本、挿絵・・・等。ただ、やはり、定期的お祈りの時間を告げる鐘の音が鳴ると、どんな労働をしていても中断。 さて、ヘンリー8世は、第一番目の婦人であった、キャサリン・オブ・アラゴンを離縁し、若きアン・ブリンと結婚するため、ローマ法王と袂を別ち、1534年、首長令(Acto of Supremacy)で、イギリス国教会の長となります。彼の目が、多くの土地を有し、富裕なものも多かった修道院に行かないわけはない。 修道院の解散を実際に計画施行したのは、ヘンリーの右腕であったトマス・クロムウェル。王様や権力者は、汚いことは手下にやらせて、自分は手を汚さずに、何食わぬ顔。良くある話です。トマス・クロムウェルは、まず手始めに、1536年に法令(Dissolution of the Lesser Monasteries Act:小修道院解散令)を通し、約400の小さめの修道院を閉じます。 そして、1537年の終わりから38,39年にかけ、こちらは、最初は法令も通さず、残りの大型修道院を全て閉鎖。ほぼ全て閉鎖してしまった後、1539年になってから

ソマリアから来たイギリスのスポーツ・ヒーロー

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韓国の大邱で行われていた陸上世界選手権が本日で幕を閉じました。調度、テレビのハイライトを見終わったところです。話題は、やはり、ウサイン・ボルトの100メートル決勝での失格騒ぎ、200メートルでの屈辱を果たす金。そして本日大会最後を飾る競技、4x100メートル国別リレーで、アメリカがこけて転び、イギリスがバトンを落とす中、ボルトがアンカーを務めたジャマイカが、世界新記録での金。 来夏のロンドン・オリンピックで、 ジャマイカの走者達 を、この目で見たかったので、オリンピックのチケットが売り出しになった際に、私も申し込みしました。が、競争率の高い人気の種目は、くじ引き制。やっぱり、外れてしまいました。ちぇ!まあ、無理だとは思ったんですが。知り合いで、オリンピック人気種目のチケットを入手できたという人は、一人もいません!知り合いの知り合いすら、当たった話は聞きません。一人、何枚でも、何競技でも申し込めるシステムだったので、懐深い金持ちが、幾つもの競技に、何枚も、片っ端から申し込みをし、人気種目チケットは、皆、そういう人達へ行ってしまったという話です。要は、全部当たってしまったら総額1万ポンド払わなければならない、などという申し込みの仕方をした人たちが、一人で何枚も色々な競技のチケットをゲットし、2,3種目の競技に、其々少ない数のチケットを細々と申し込んだ一般庶民は、一枚も当たらずに終わる・・・というケースが多かったようです。オリンピック開催側は、金持ちが何枚ものチケットを得るに至った、このチケット購買システムに関して、非難を受けていました。 さて、話を今回の世界選手権に戻して・・・。イギリスは、金メダル2つ。ひとつは、ウェールズ出身のダイ・グリーンによる400メートル・ハードル。もうひとつは、本日行われた、5000メートルの決勝で、モー・ファラー(モハメッド・ファラー、上の写真右側の走者)が獲得。彼、10000メートルは、ぎりぎりで金を逃しての銀を獲得しています。5000メートル、10000メートルなどの長距離は、どういう計画で走るか、どの時点で最終のスパートをかけるか、また他の走者がどう出るかに反応してのかけ引きなどもあり、短距離とは別の意味で、見ていて面白いところがあります。 モー・ファラーは、ソマリア出身。母国での政情が危なくなり、父親がイギリスで生まれ育

バウンティ号とピトケアン島

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南太平洋にあるピトケアン諸島(Pitcairn Islands)は、イギリスの海外領土です。正式名は、ピトケアン・ヘンダーソン・デュシー及びオエノ諸島(Pitcairn, Henderson, Ducie and Oeno Islands)。人が住むのは、うち、ピトケアン島のみで、住民は50人前後・・・この人たちは、何度も映画化されている「バウンティ号の反乱」(Mutiny on the Bounty)を引き起こした英国船乗りの末裔達です。 それでは、史上最も有名な船上でのmutiny(ミューティニー:上官に対する反逆、反乱)であると言われる、その「バウンティ号の反乱」とは・・・ 1787年12月23日、タヒチにむけ、イギリスを出発したバウンティ号。船のキャプテンは、キャプテン・クックの第3回目の航海に同乗した経験を持つウィリアム・ブライ。バウンティ号航海の目的は、タヒチでパンノキ(breadfruit)の苗を入手し、それを西インド諸島(特にジャマイカ)へ輸送すること。パンノキを西インド諸島で育て、その実を、現地プランテーションで働く黒人奴隷の、安価な食物に利用しよう、というせこい計画の一環です。 ウィリアム・ブライは、当初は、南米の最南端、ホーン岬(Cape Horn)を回って南太平洋へ出、タヒチに辿り着く計画だったものの、危険とされる、この海路、悪天候のため、1ヶ月近くトライしてらちがあかず、最終的にあきらめ、東海路で、アフリカの喜望峰(Cape of Good Hope)を回り、インド洋経由となりました。タヒチに着くのは翌年、1788年の10月。タヒチ到着後は、パンノキの苗をある程度の大きさに育てる必要から、船員たちは、数ヶ月滞在する事となるのですが・・・ タヒチ、良いとこ、一度はおいで 酒は美味いし、姉ちゃんはきれいだ という感じで、当時のタヒチは地上の楽園。お日様サンサン。綺麗なビーチ。半裸の美しくおおらかな女性達。そして、島民からの歓迎、歓待を受け、イギリス、更には船上での厳しい生活とはうって変わった夢の様な日々。多くの乗組員が現地女性と恋仲にもなり。約1世紀後の、19世紀後半、今度は、フランスの画家ゴーギャンが魅了され描く、あの女性達です。(残念ながら、西洋とのコンタクトが増えるにつれ、タヒチの社会は、今まで無かった西洋人が持ち込