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太りすぎの中年イギリス人

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昨日のニュース。イギリスの40歳から60歳にかけての中年層の、10人に8人が、食べ過ぎ、飲みすぎ、運動不足の結果、危険なほどに太っているのだそうです。10人に8人という事は、5人のうち4人・・・。かなり来てます。この割合は、過去20年で、16%の増加。あまりに太りすぎの人が多いため、普通の健康な体格というのがどんなものだか、もう認知できない人もいるのだとか。もっとも、太って見えても健康なイギリス人というのも、わりといるもので、骨太で筋肉が大きかったりすると、ちょっと太目かな、という印象がありますが、こういう人たちは腕や足の筋肉がしまっているのです。ですから、健康に害がでそうな問題の人たちは、ちょっとやわらかそうな人たち。 アメリカほどではないにしても、イギリスは、ヨーロッパで一番のデブちゃん国である、という事は、前から言われていましたが、今回のニュースは、特にサンドイッチ世代と呼ばれ、子供の世話をしながら、年を取った親の面倒も見、仕事もあるため、あまり自分の健康を顧みる時間のない中年世代に的を絞った統計です。このまま行くと、後に、すでにかなり多い糖尿病を含めた病気の激増が心配され、現在、老齢化社会の対処にきりきりまいのイギリスの医療システムNHSが、将来的に崩壊するのではないかという心配から、今のうちに何とかしようという事で発表されたニュース。 大本の原因は、車社会。一日で歩くのは、家のドアから車までと、オフィスの駐車場から自分の机まで、また、スーパーの駐車場から店まで、という人が多い。仕事も座ってコンピューターに向かう作業が多く、家に帰ってからもテレビやコンピューターの前から動かない。サンドイッチ世代は、時間もあまりないので食べるものも、ファーストフードが多い。 私は、電車通勤でしたから、家から駅までの往復20分、駅から会社までの往復30分と、一日50分は歩いており、さらに、4階にあったオフィスに、エレベーターを使わずに駆け上がっていたので、さほど時間が無くとも、適当な運動はしていたと思うのです。ジムに行かなくても。大体、ジムのランニングマシンなんぞも、家の居間でテレビを見ながら、「その場走り」をしていれば同じことなので、時間がなくても、やろうと思えば、体は動かせるものです。最近は、ちょっと運動不足かな、と思うと、居間で、ニュースを聞きながら、紐を

ラジオ・タイムズよ、お前もか!

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「ラジオ・タイムズ」(Radio Times)は、イギリスのテレビ・ラジオ番組を週ごとに網羅する情報週刊誌です。私が、この雑誌を買うのは一年に一回だけ。映画が多くかかり、他にあまりやる事もない、クリスマス期(12月後半)のダブル・イシューと呼ばれる、通常の1週間の番組案内ではなく、2週間分の番組案内が収まっているもの。今年も買って、見たい映画に丸印なんぞを付けてあります。 ラジオ番組よりも、テレビ番組の情報が主役なのに、何故に、「ラジオ・タイムズ」と呼ばれるのか・・・そのココロは、この雑誌が始めて出版されたときはテレビ番組が存在しなかったため。遡る事、1923年。テレビはおろか、ラジオもまだ創成期で、新聞等の出版メディアは、新しい媒体であるラジオなるものを、自らの販売量を減らす原因となる、ライバルとして見始めており、新聞出版協会は、BBCに対して、ラジオ番組のリスティングを新聞に掲載してほしければ、高額の料金を払えと請求。当時のBBC総督のジョン・リースは、それに対して、新聞社に頼らず、ラジオ番組のリスティングを載せた出版物を打ち上げることを考案し、 ラジオ・タイムズの初版 「ラジオ・タイムズ」が誕生することとなるのです。 早くも1928年に、ラジオ・タイムズは、実験的なテレビ放送の開始を発表し、BBCは、早朝30分間のテレビ放映などを行っていたそうですが、テレビ番組の定期的リスティングが始まるのは、1936年の11月から。これによって、ラジオ・タイムズは世界初のテレビ番組リスティングの雑誌の地位を獲得。戦時中は、テレビ放送は一時的に打ち止めとなり、再び、国民は、情報とエンターテイメントをBBCのラジオ放送のみに頼ることになるわけですが、ラジオ・タイムズ自体は発行され続け。戦後はテレビ番組の数の上昇と共にページ数も増えていき、現在では、当然BBCのみならず、すべてのテレビ、ラジオ番組を載せる雑誌となっています。なんでも、1988年のクリスマス版は、イギリスで過去発行された雑誌の中で最大の売り上げを収め、ギネス・ブック入りしているそうです。クリスマス版は、やはり、私みたいに、普段は買わないけど、この季節だけはと手を伸ばす人が出てくるのでしょう。もっとも、この季節をはずしても、未だに、ラジオ・タイムズは、イギリス内で売り上げが第3位の雑誌だと

クリスマスの日の散歩

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風は強かったのですが、暖かなクリスマスの日でした。ホワイトクリスマスなどというのは、イギリス南部ではめったにないことですが、温暖化が進むにつれ、ますます、稀な現象となる事でしょう。 クリスマスの日の昼頃は、大体の家庭は料理の仕上げに励むか、そろそろ食卓を囲み始めて席に着くかで、あまり外をふらつく人はいません。よって、12月25日の昼から4時頃にかけては、道路なども、1年のうちで一番空いている時間帯ではないかと思うのです。特に伝統的なクリスマスのご馳走などを作らない我が家では、これを利用して、遊びに来ていた友達を連れ出し、隣村にウォーキングに出かけました。 この隣村へ行くには、ちゃんとした歩行者専用の フットパス が通じていないため、普段は歩いて行こうと思うと、細い田舎の道路沿いの草の上を歩かねばならないので、あまり気分の良い散歩道ではないのですが、この日は行きも帰りも、通り過ぎた車の数は、計5台程度。道中、私たちのように、道路を散歩している変人に一人だけ遭遇。同じ通りに住んでおり、数年前に亡くなってしまったおばあさんは、昔々、まだ車の量が少なかったころは、良く週末にご主人と歩いてこの隣村まで行き、村のパブで食事をして、歩いて戻ったものだ、などと言ってましたが、現在では、車に煩わされずに、こうしてのんびりと隣村まで歩けるのは、1年でおそらくクリスマスの日だけ。 これが、翌日の26日(ボクシングデイ)となると、親戚一同家の中にこもっていたのに飽きた人たちが、近郊に歩きに出たり、また、巷では、クリスマス後のセールが始まるので、車で、ショッピングに出かける人たちなども多いので、同じような静けさは楽しめないのです。 のんびりと、歩いては止まりしながら、約1時間半後に、隣村の教会にたどり着きました。24日の夜には礼拝があって開いていたはずなのですが、クリスマス当日は、扉は閉まっており、内部には入れませんでした。 そこで、教会ポーチでビスケットを食べて、村の可愛い家々を眺めながら、ちょっと一休み。村の内部でも、外を行く人はおらず、ひっそり。 帰りは、別の、普段は田舎道にしては、わりと車の量が多い道路を辿って戻りましたが、こちらも、ほとんど車を見ずに済み、我が物顔で闊歩。50年前にタイムトラベルをしたような散歩でした。 計画通りに、3時少

レディングの印象

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「ここはどこ、私は誰?」と思わずつぶやいてしまったこの景色。 先日、バークシャー州レディング(Reading)に住む知り合いの家へ遊びに行きました。駅まで迎えに来てもらい、更に、到着した時間が遅かったため、周辺に何があるかはほとんどわからず、夕食後かなりおそくまで居間でだべったあと、客室のブラインドも開けずに、床についたのですが、翌朝初めてブラインドを開けて、目に入った光景・・・このイスラム教のモスクに少々たじろぎました。 レディングは、色々な民族が交じり合って住んでいる町として知られていて、イスラム系、インド系、はもとより、ポーランド人なども多い場所です。英語のウィキペディアによると150もの違う言語が喋られている町、と記載されています。多民族が交わる場所とは、行く前からわかっていたのですが、何も考えずにいきなりブラインドを開けて、モスクが見えたときには、寝ている間に、飛んでイスタンブールしてしまったのかと、一瞬思いました。 レディングは、比較的民族異文化間のいさかいもなく、協和して住んでいるようで、このモスク建設にも、資金繰りに困っている時に、インドのシク教徒の団体がお金を少し寄付したという話を知り合いがしていました。西洋のあちこちの国々で、ひとつの社会の中に、多民族、多宗教を抱えたマルティカルチャリズムは、失敗した・・・という意見は昨今多いところですが、一応、押し合いへし合いしながらも、仲良く暮らしている場所もあるのです。ロンドンやニューヨークなどもそうで、だからこそ面白い、という面もあるのですが。 それでも・・・メルティングポットの一大都市ならともかく、イギリスの郊外の町や村に住んでいるからには、私は、やっぱり、朝窓を開けたら、モスクよりどちらかというと教会を見たいなと思うのです。特にキリスト教徒でもないのですけれど。結婚式のある日や、鐘の練習日である水曜日の夜に、近くの教会から鐘の音が聞こえてくると、牧歌的で、心安らぐものあります。そういう意味で、私は、レディングには、住めないですね。日本で除夜の鐘が、他の異文化習慣に取って代わられて、別の音が聞こえてきたら、「え、ちょっと違うんじゃないの?」となるのと同じ心境ではないでしょうか。 文化とアイデアの交流によって、人間は進歩を遂げてきたわけでしょうが、その反面、外から入ってきた

ホレス・ウォルポールのストロベリー・ヒル・ハウス

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真っ白のストロベリー・ヒル・ハウス ホレス・ウォルポール(Horace Walpole 1717-1797)は、イギリス初の首相と呼ばれるロバート・ウォルポール(Robert Walpole)の息子で政治家、また小説家でもあった人物。 彼が、ロンドン南西部のトゥイッケナム(Twickenham)に建てた夏の別荘、ストロベリー・ヒル・ハウス(Strawberry Hill House)は、ストロベリー・ヒル・ゴシックと称される、ゴシック建築とされていますが、メルヘンの世界から飛び出した、外を白砂糖で固めたお菓子の家の風体。かなり長い間、朽ちるにまかせてあったものが、2008年から、大金をかけた修復作業が行われ、2010年に一般公開が始まりました。修復がすべて終わったのは2014年。1797年に、ホレス・ウォルポールが死んだ時と同じ内装で修復されているとのことですが、ストロベリー・ヒル・ハウスは、内部の記述が、非常に詳細に記されている建物であったため、想像力に頼ることなく、比較的忠実に内部再現が可能であったのだそうです。 修復完成当時に新聞記事にも取り上げられ、話題となっていたので、この時に、ホレス・ウォルポールのゴシック小説「オトラント城」(The Castle of Otranto)を、どんなものかと読んでみたのですが、メルヘンと、あまり怖くないお化け話と騎士の物語を混ぜたような内容で、まあ、こんなもんかな、という感じで、とりたてて感心しませんでした。当時の人たちは、こんなのが面白かったのでしょうか。それでも、この妙なストロベリー・ヒル・ハウスは、ちょっと気になって、常々、訪ねたいとは思っていたのです。そこで、今年は、まだ一回も会う機会が無かった友人夫婦が、興味あったら一緒に行こうと声をかけてくれたのもあって、私たちも夫婦で出かけて、 リッチモンド橋 リッチモンド・ブリッジで待ち合わせしました。たまたま、トゥイッケナム・スタジアムでラグビーの試合があり、リッチモンド駅も 川沿いの散歩道 も、トゥイッケナムも、試合前に時間をつぶす、体の大きなラグビーファンのお兄さん、おじさんでいっぱいでした。 リッチモンド・ヒルからテムズをのぞむ まずは、リッチモンド・ヒルの上から、過去の芸術家たちにも愛された、テムズ川がうねうねと曲がり地平線

トゥルー・カラーズ

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昨日は、ぐっと気温が下がり、普段は歩いていると暑くなるロンドンの巷も、ズボンの下のおしりが冷える寒さでした。今年は、紅葉が比較的綺麗だったので、11月中に何度か、森林や、庭園を歩き、できる限り、秋の風景を楽しみましたが、それも終わりです。 紅葉と日本語では書くものの、モミジなどの少ないイギリスでは、黄葉とした方がよさそうな感じです。それでも、日差しが強い時などは、黄色の葉が金色に輝き、美しくはあります。 夏の間に、光合成を行うため、お日様の光を吸収する役割を果たすクロロフィル(葉緑素)の存在のおかげで、エネルギー製造工場である木の葉は、緑色をしているわけです。秋となり、日の光も乏しくなってくると、木は、葉に残っているできる限りの養分を取り込み、クロロフィルは分解して消えうせる。そして、葉の中に他に存在しており、夏季はクロロフィルの緑に隠され見えなかった、キサントフィル(Xanthophyll)カロチン(Carotene)などの黄色、オレンジ色の色素が現れてくる・・・。よって、紅葉は、クロロフィルの存在で見えなかった本当の色が、魔法の様に秋の風景を染めるという現象なのだそうです。また、ある種の木は、更に化学変化により、葉の中にアントシアニン(Anthocyanin)色素が登場し、赤や紫に変化。 英語で show one's true colours 本性を表す(直訳:自分の本当の色を見せる) というイディオムがあります。 この語源は、紅葉や木の葉とは関係が無く、昔、大海原を航海中の船が、お互いの国籍などを識別できるのは、マストに掲げた旗の色であった事に由来するそうです。海賊が、標的とした商船などと同じ色の旗を掲げて、相手を惑わし、接近してから、「この旗嘘だよ!実は俺たち海賊だー!」と本性を現して、お宝頂戴攻撃をかけた事からきたのです。黒地にどくろマークのトゥルー・カラーズは、最初は隠しておかないと。 潜在的に持っていた木の美しいトゥルー・カラーズ(本当の色)の只中を歩くのは、意気高揚する経験ですが、何かがきっかけで、人間のたてまえが崩れ落ち、そのトゥルー・カラーズが見えたとき、当然ですが、その色は人によりまちまち。今年、ポピュリズム政治の結果、西洋諸国あちこちで数々起こる事件の中で、目をそむけたくなるような、人の心に潜ん

チャタムのロイヤル・ドックヤード(チャタム工廠)観光

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チャタム・ドックヤード内の19世紀後半の艦船、HMS Gannet 先月、ケント州にある、 ロチェスター (Rochester)を訪れた時の話を書き、少々、間が空いてしまいましたが、本日は、それと同じ日に訪れた、ロチェスターの隣町のチャタム(Chatham)の事を書くことにします。 チャタムは、ロチェスター同様、チャールズ・ディケンズゆかりの地で、ディケンズが、幼少の頃に一時住んだ場所であり、彼にとって、子供時代の最高の思い出のある場所とされています。お金を湯水のように使ってしまうディケンズの父は、この後、チャタムからロンドンへ引っ越した後、ついに借金に首が回らなくなり、債務者監獄である マーシャルシー監獄 に投獄。このため、チャールズは、12歳にして一時学校を去り、悲惨な状況でテムズ川沿いの工場で働く・・・という羽目になりますから、それは、チャタムで、周辺を自由に走り回ったころの生活が夢のように感じた事でしょう。 ディケンズがチャタムに住んでいる時、父と、ロチェスター北部のハイアムにあるギャッツ・ヒルという屋敷の前を通りかかり、その時、父が、「一生懸命働けば、いつかこんな屋敷を買って住めるようになる。」と息子に言って聞かせ、その後、幼いディケンズは、幾度かわざわざチャタムから歩いて、この憧れの屋敷を見に行っていたのだそうです。ディケンズは、人生の後半の1856年に、この館が売りに出ているのに気づき購入、お気に入りの館となり、1870年、当館で息を引き取ることとなります。 などと、ディケンズの事をたくさん書きながら、私が今回チャタムを訪れた目的は、ディケンズの足跡を辿るためや、ちょっと子供だまし的なディケンズのテーマ・パーク、ディケンズ・ワールドを訪れるためではなく、チャタムに約400年間存在した、広大なロイヤル・ドックヤード(Royal Dockyard、チャタム工廠)を訪れるため。ここは、イギリス海軍の造船と船の修復を行ってきた、かなり大規模なドックヤードでしたが、いまは博物館となって一般公開されています。チャールズ・ディケンズの父は、イギリス海軍の事務を司っていたため、チャールズの生まれた、やはり軍港のポーツマスから、ケント州のシアネス、そして、チャタムへと転勤になり、ディケンズ一家は、一時的にここに住んでいた次第です。 さて、このチャ

まさかの世界

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え、冗談でしょ?まさかの世界に突入してしまいました。 イギリスのブレグジットも、アメリカのドナルド・トランプ勝利も、最初の予想が外れたのは、実際にブレグジットとドナルド・トランプに投票した人間の一部が、自分がどう投票するか、恥ずかしいから黙っていたか、嘘をついたためという話が出ています。両方とも、ブルーカラーの労働者が多く投票したという事になっていますが、郊外に住む比較的富裕な保守的壮老年層の支持も、かなり多かったという話。黙っていたのは、こういうタイプかもしれません。特にアメリカでは、本当に生活が大変な層では、ヒラリーに票を入れる人が多かったのだとかいう話も耳にしました。自分の子や孫のためにトランプに入れたなどとインタヴューで言う人もいましたが、それなら、地球温暖化を信じない人間に入れるでしょうか?たとえ、100%証明できなくても、念のため、温暖化対策をしておこうと思わないのかな? 世界の水準から行くと、ずっと豊かな社会でありながら、グローバル化の中、将来の自分の生活が良くなるより、悪くなるという危機感を感じた場合、「移民が悪い、他の国々が悪い。そいつらをブロックすれば、この国は栄える。」と非常に簡単な解決策を提案する人間を信じてしまうものでしょうか。西洋諸国の現政権が、移民対策に関することは、すべて、人種差別だと、タブーとして、冷静な話し合いにつながらず、代わりに移民の話題を極端に避けてきたのも原因のひとつなら、グローバル化は避けられないので、自国の国民自身がそれに対処し、変わる必要があるという事実をはっきり言わないのも、こうした結果につながっていったのでしょう。あとは、少数でも、汚職やスキャンダルを起こす政治家への不信感の蓄積。 世界が変わる中、自分が、そのまま、ずーっとやってきたことを続けるのは無理な話です。例えば、炭鉱夫なら、将来も、自分の子供もずーっと炭鉱で働き続けるんだ、というのも。そして、「そうだよ、ずーっとそのままでいいんだよ、悪いのは、あんたがやっていることを、もっと安く、または、効率よくやろうとする他国のせいだから、外を遮断すればいい・・・」と言ってくれる人に、アメリカは飛びついてしまった感じです。大昔、勢いをつけ始めた日本の自動車産業を目の敵としたアメリカ人が、野球のバットで日本車を殴っている姿を、テレビのニュースで見て、「こ

宇宙戦争

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No one would have believed in the last years of the nineteenth century that this world was being watched keenly and closely by intelligences greater than man's and yet as mortal as his own; that as men busied themselves about their various concerns they were scrutinised and studied, perhaps almost as narrowly as a man with a microscope might scrutinise the transient creatures that swarm and multiply in a drop of water. (...)  Yet across the gulf of space, minds that are to our minds as ours are to those of the beasts that perish, intellects vast and cool and unsympathetic, regarded this earth with envious eyes, and slowly and surely drew their plans against us. 19世紀も終わりに近づいた時代に、この世界が、人類より優れた知能をもちながら、人類と同様に有限の命をもった生体により、熱心、かつ入念に観察されていようとは、誰が想像し得たであろう。これらのものたちは、一滴の水に潜むはかない命の微生物が群れを成し、倍増するする様子を、顕微鏡により、詳細に観察するように、人類が、各人の都合で右往左往する姿を、事細かに観察し、研究していたのであった。(中略)空間を越えたかなたから、我々が自分の知能を絶滅した動物の知能と比較した場合の様な優越した知能、卓越し、そして、冷たく、同情を持たない知性が、この地球を羨望の目で見つめ、人類に対して、ゆっくりと、確実に計画を練っていたのであった。 1898年出版、H.G

ルーム

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秋風が吹き始めると共に、うちの旦那は、さっそく、どこぞから風邪菌をもらってきて、私もうつされてしまいました。計画していた外出もキャンセルとなり、ここ2,3日、ティッシュペーパーを絶えず抱えて、鼻ずるずる、咳こほこほ。数日だけでも、室内にこもりきりは、段々、耐えられなくなってくるのです、これが、何年も、小さな場所に閉じ込められたきりであったら、どんな事になるやら。考えただけで、気が狂いそうです。ということで、去年(2015年)公開になって話題を呼んでいた映画「ルーム」を、これを機会にお茶の間鑑賞しました。 何年も行方不明になっていた女の子が、ある日突然、なんの変哲もない郊外の家の庭におかれていた小屋や、民家の地下室に軟禁されていたのを発見され、家族と再会するる・・・などというニュースが時々あります。「ルーム」は、18歳の時に誘拐され、変な男(オールド・ニック)の家の庭にある、改造した小屋に閉じ込められ、7年もそこで過ごしたジョイと、そこで生まれた彼女の子供で、5歳になったばかりのジャックの物語。 2人がルームと呼び、住む小屋には、暗証番号を入れなければ開かない鍵がついており、脱出は難しく、窓もなく。外界が見えるのは、屋根についている小さな四角いスカイライトと、おんぼろテレビのみ。トイレもお風呂もベッドも、小さな台所、流しも、すべてこの小さな空間にあり、飲食料、その他必要なものは、オールド・ニックが夜、届けに来る。 最初から、ほぼ最後の方まで、こうした監禁生活の話かな、と思いきや、映画の中盤で、死体を装い、無事、小屋から担ぎ出された後、脱出したジャックのおかげで、警察がこの小屋を探し当て、母子ともども、自由の身となるのです。そして、後半は、新しい外の世界での生活に適応できずに落ち込むジョイと、徐々に外の世界を受け入れていくジャックの様子が描かれています。 ジョイがルームで、オールド・ニックの虜となっている間に、ジョイの両親は離婚。ジョイのお母さんは、別の、優しそうな彼、レオと一緒に、昔の家に住んでおり、救出されたジャックとジョイは、そこに同居。本当のジョイのお父さんは、犯罪者、オールド・ニックの子供であるジャックを孫として受け入れられず、話しかけることはおろか、面と向かって見ることもできない始末。 ジョイは、失われた青春の7年間を嘆くとともに、ル

ロチェスター

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ロチェスター城からロチェスター大聖堂を望む ケント州ロチェスター(Rochester)は、メドウェイ川(River Medway)が海に注ぎ込む所にある、小さな町。古い歴史がある他にも、チャールズ・ディケンズが好んだ場所として知られています。作家として成功したディケンズは、ロチェスターからメドウェイ川を渡ってすぐ北にあるハイアム(Higham)に、ギャッズ・ヒル(Gads Hill Place)と称される大邸宅を購入、この館で亡くなっています。若き日のディケンズの作品「ピクウィック・クラブ」(The Pickwick Papers)で、お人好しの老紳士ピクウィック氏が、自らがリーダーであるピクウィック・クラブのメンバー3人を引き連れて、ロンドンからのコーチ(馬車)に乗って、最初に訪れる土地もロチェスターでした。今では、馬車に乗って、泊りがけの物見遊山をせずとも、ロンドンのキングスクロス駅から、日立が作った速い電車に乗って約40分の、日帰り圏内。 ロチェスターのハイストリート イギリスで「xxチェスター」という名の場所は、ローマ時代に大切であった町だと言われていますが、ロチェスターもそう。港町 ドーバー から、ロンドン、更には、 セント・オールバンズ へと続くローマ時代の主要道路は、ワトリング・ストリート(Watling Street)と称されましたが、この道は、ロチェスターで、メドウェイ川を渡る必要があり、そのために、この地に初めて橋を架けたのもローマ人であったようです。このローマ時代名残のドーバーからロンドンへと行く道路は、現在はA2と呼ばれる自動車道で、ロチェスターのハイストリート(目抜き通り)を突き抜けています。主要都市を結んでいた、こうしたローマ時代の道に端を発する自動車道は、この他にも、ロンドンとコルチェスター、 イプスウィッチ を結ぶA12、ロンドンからヨーク、そしてスコットランドまで続くA1など、色々あります。大体の場合、ローマ時代に遡る道路は、ほとんどまっすぐ、一直線。やはりローマ時代の3世紀にはロチェスターを囲む石壁が建設されます。 ローマ人が去ったのちのロチェスターは、一時廃れたものの、597年に、アウグスティヌスが、ローマ教皇グレゴリウス1世により、布教のために派遣され、イングランドはケント王国にやって来たのが転機と