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2月, 2021の投稿を表示しています

イギリスの赤い郵便ポスト

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イギリスの街並みを歩いて目に入る赤いもの・・・過去「 イギリスの赤い電話ボックスの歴史 」という投稿をしましたが、残念ながら電話ボックスはもはや、以前の目的で使われているものはほとんどない。赤いもので、現在も同じ目的で立ち続けるのは、赤い郵便ポスト。今回はこちらの歴史をざっと書いてみます。 以前にも、当ブログで紹介した、 ローランド・ヒル という人物により行われた、全国一律、1ペニーの切手で配達を行う事を含む、当時はGPO(Genral Post Office)と呼ばれた郵便局の改革により、手紙というものが、日常的に使用され、広がっていく中、さて、それを回収する場所となると、以前の通り、自ら、いくつか点在する回収場所へよっこら歩いて持っていく必要がありました。住んでいる地域によっては、かなりの距離を歩く事もあり、不便極まりない。 そこで、大陸ヨーロッパで行われていたという、鍵のついた、鉄製の収集箱をある程度の間隔を置いて、道路わきに設置するというアイデアを導入。これを考え付いたのは、当時GPOの職員として働いていた、英作家のアントニー・トロロープ(Anthony Trollope)。彼は、チャンネル諸島や、南西イングランドで、郵便配達ルートの調査や確立などの仕事をしている時期があったそうで、そのため、英国初の郵便ポストは、チャンネル諸島のジャージー島に設置される事となります。1852年11月の事。翌年には、イギリス本土にも設置され始めます。ジャージー島の、郵便ポスト第1号は、赤色であったようですが、その後、1859年くらいまでに形も色も一定化し、色は、殆どが、当時ファッショナブルであったとかいう濃い緑色であったのだそうです。 ただし、ロンドンなどの大都市ならともかく、田舎で緑となると、風景に溶け込んでしまい、遠くから見ると、それとはっきりわからないため、見つけにくいという問題が浮上。そこで、カモフラージュでもあるまいし、「やっぱり目立つ赤がいいんじゃないの?」となったようで、1884年くらいまでには、新しいものは赤、古い物も塗りなおしが行われ、現在に至っています。 イギリスの郵便ポストの形は、最初は6角形などもあったようですが、主に鉄製の円柱型で、てっぺんは、投函口に雨が振り込まぬよう、丸型の浅い帽子のようなものでおおわれています。柱の様であるため、post box

クロッカス

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今週は、かなり気温が上がり、本日は16度くらいもなるという嬉しい予報。とにかく、イギリスのグレイな冬の日々は、年と共に嫌になり、ながーく感じるのです。明日が、冬の間は中止されていた、今年初のグリーン・ビン・デイ(庭の枝や刈った芝など、緑のゴミを、トラックが回ってきて各家庭から、2週間に一回収集する日)なので、昨日は、あちこちの庭から芝刈り機や、藪を刈り込む音などが聞こえてきていました。私も、昨日から、久しぶりの本格ガーデニング・モードへ入り、小さな木やバラなどを掘り起こし、新しい場所に植え変えました。また、洗濯物が、外で干せるようになるのも助かり、ここ2,3日、近所の庭でも洗濯物がはためいています。2軒先のおばあさんの家の庭に、鯉のぼりもびっくりの、彼女のそれはカラフルなパンツが何枚も、washing line(洗濯ロープ)に並んで干してあるのを見て、にんまりし。 さて、イギリスの花の歳時記で、年の初めに、春の兆しを告げるのは、以前にも何度か書いた、スノードロップ( 待雪草 )ですが、スノードロップの咲くころは、まだ気温が低く、また白い花というのは可憐ではありますが、やはり、そろそろ色が欲しくなる。そして現れるのがクロッカス。 クロッカスも、スノードロップ同様、イギリス原生ではありません。時々、野原や自然の中にも見られますが、これもやはりスノードロップ同様、もともとは庭で栽培されていたものが、何かのきっかけで外へ逃げ出し、繁殖したものであるそうです。クロッカスは、アヤメ科の植物であるという事。 わが家の庭にも、私は植えた覚えがなく、おそらく、かなり昔、この家の以前の持ち主が植えたものの子孫と思われる真っ黄色のクロッカスが毎年ちょこちょこ黄色い顔をのぞかせます。また、前庭の芝生には、やはり植えた覚えのない、ほんのり紫のクロッカスが数個顔を出し、この同じ種ものは、隣の家、更にはその隣の家の芝生からも生えてくるので、一体、どうやって繁殖するのだろうと、それは不思議に思っています。 真っ黄色だけでなく、少々別の色のものを増やして見ようと、去年の秋、私が良く使う、その名も「クロッカス」というオンライン植物ショップから球根を注文しました。白地に薄紫の線が走っているもの、下の方が黄色く全体は紫のもの、それからクリームのやらかい黄色。これを、いくつかの鉢にまとめ植えをし、それは咲く

河豚太鼓、日本におけるワクチン事始

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ワクチン、英語ではvaccine(ヴァクシン)。ラテン語で牛を意味するvaccaに由来する言葉です。 過去、多くの人の命を奪い、更には、命は助かっても、あばた後を残したり、または、伊達政宗の片目を奪ったりした天然痘。これをやっつけるために、色々な実験がなされ、 かなり以前に「 エドワード・ジェンナーとワクチン 」という投稿で書いた様に、イギリスの田舎医師であったエドワード・ジェンナが、牛の乳しぼりをする女性たちが天然痘にかからないのに着目し、牛の天然痘であり人体にはひどい被害を及ぼさない牛痘にかかることにより、人間が天然痘にかかるのを妨げる効力があるのではと着目したわけです。ワクチンは、こうした天然痘退治のための牛痘の接種により始まったため、今も「牛」の名残をその名に残しています。丑年の今年に、コロナ感染を抑えるためのワクチン接種が始まるというのも、なんともぴったりです。 さて、前回の記事で話題にした、岡本綺堂作「 半七捕物帳 」のうちに、「河豚太鼓」という作品があります。これが、日本における、この牛痘を用いたワクチン事始と、牛痘法というこの新しい医療に対する一般庶民の不安が原因となってもちあがる事件を扱っており、大変、興味深いものがありました。以下、少々、この作品の冒頭からの抜粋。(一部分、はしょってあります。) 種痘の話が出た時に、半七老人はこんなことをいった。 「今じゃあ種痘と云いますが、江戸時代から明治の初年まではみんな植疱瘡(うえぼうそう)と云っていました。その癖がついていて、わたくしのような昔者は今でも植疱瘡と云っていますよ。日本の植疱瘡はなんでも文政頃(1818ー1829年)から始まったとかいう事で、弘化4年(1847年)に佐賀の鍋島侯がその御子息に植疱瘡をしたというのが大評判でした。それからだんだんに広まって、たしか嘉永3年(1850年)だと覚えていますが、絵草紙屋の店に植疱瘡の錦絵が出ました。それは小児が牛の背中に跨って、長い槍を振り回して疱瘡神を退治している図で、みんな絵草紙屋の前に突っ立って、めずらしそうに口をあいてその絵を眺めていたものです。」 「なにしろ植疱瘡ということがおいおいに認められてきて、大阪の方が江戸より早く植疱瘡を始めることになりました。江戸では安政6年(1859年)の9月、神田のお玉が池(松枝町)に種痘所というものが官許の看板

お江戸のシャーロック・ホームズ、半七捕物帳

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初めて「半七捕物帳」を書こうと思いついたのは、大正5年(1916年)4月頃と覚えています。そのころ私は、コナン・ドイルのシャアロック・ホームズを飛び飛びには読んでいたが、全部を通読したことがないので、丸善へ行ったついでに、シャアロック・ホームズのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて3冊読み終わると探偵ものに対する興味が悠然と沸き起こって、自分もなにか探偵ものを書いてみようという気になったのです。(中略) いざ、書くという段になって考えたのは、今までに江戸時代の探偵物語というものがない。大岡政談や板倉政談はむしろ裁判を主としたものであるから、新たに探偵を主としたものを書いてみたら面白かろうと思ったのです。もう一つには、現代の探偵物語をかくと、どうしても西洋の模倣に陥り易い虞れがあるので、いっそ純江戸式に書いたらば一種の変わった味のものが出来るかも知れない思ったからでした。幸いに自分は江戸時代の風俗、習慣、法令や、町奉行、与力、同心、岡っ引きなどの生活に就いても、一通りの予備知識を持っているので、まあ何とかなるだろうという自信もあったのです。 岡本綺堂「半七捕物帳の思い出」(1927年)より 綺堂が丸善で買ったという、The Adventures of Sherlock Holmes、 The Memoirs of Sherlock Holmes、 The Return of sherlock Holmesの三冊の短編集は、それぞれ書かれたのが、1892,1893,1904年、更には、ホームズ物は、1920年代まで書き続けられているので、彼は、ほぼリアルタイムでこうしたものを読んでいたわけです。英語ができたというので、オリジナルを読んだのか、すでに翻訳されていたのかは、わかりませんが、アドヴェンチュアなどとカタカナで書いている所をみると、英書を買ったと想像します。 岡本綺堂という作家の作品としては、私は、「修善寺物語」という戯曲しか知りませんでした。それというのも、母が、女学生の頃に、学校で、その登場人物中の姉娘の役をやり、大人気だったと、耳にタコができるまで聞かされていたためです。 ごく最近になってようやく、綺堂のお江戸の探偵もので、捕り物帳の元祖とされる、この「半七捕物帳」を読んでみようと思い立ちました。これがまた面白く、全69

日記ノススメ

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思い返せば、去年の今頃は、調度、コロナ感染が広がりつつある日本へ到着し、1か月ほどの滞在をしました。マスクが売り切れで入手できず大騒ぎをしていた時分で、ガーゼのハンカチを折ってゴムを付け、なんとも不格好で巨大な即席マスクで、顔の半分を覆うという犯罪者のような姿で、電車に乗り、比較的近郊で、毎日の様に、 梅見 に出かけていましたっけ。その後のイギリスでの生活と比べ、あの日本での日々は自由だった・・・そんな事を、日本の母親と電話で喋っていると、「もう1年。早いわねえ。階段を転げ落ちるように早い。」 この「階段を転げ落ちるように」という、あまり詩的でない比喩が、普段から道で転んだり、階段から落ちて、骨折でもしないようにと、つま先からでなく、かかとから着地して歩くように気を付けているという老人の言葉らしく、無性に可笑しかったのですが、それはさておき。母親と話をするたびに、あまり変わりのないような彼女の生活ぶりと、ロックダウンのイギリスのそれを比べ、違う惑星に住んでいるような気さえ起こります。 日本がコロナで大騒ぎをしていた1年前、イギリスは対岸の火事とのんきに何もしていなかった。もっと近いイタリアでもコロナ騒ぎが始まった当初も、平気でイタリアのスキーリゾートへ行く人もいた。私が日本から戻った時に乗った ロンドンの地下鉄 や、住む町へ帰る電車の中で、マスク姿は一人も見ず、ごほごほ、口も押えず咳をしている人もおり、恐怖を感じて、半分息を止めていたのを思い出します。 そうして、イギリスに戻ってから、すぐ、それまでの無策の結果、野放し状態に感染が広がり、それを抑えるため、3月24‘日から 1回目の全国的ロックダウン 。イギリスの開けては閉め、開けては閉めの、拉致のあかないコロナ対策のはじまり、はじまり。 1回目のロックダウンが緩和されたのが、約3か月後の6月15日。のど元過ぎればで、夏に羽を広げた結果、9月には再び広がりを見せた感染は、当初政府が予定していた、局地的に対策を取るという、 モグラ叩き方法 ではおさえきれず、ついに、 第2回全国的ロックダウン が、11月5日から行われました。とにかくクリスマス前までには何とかしたいと始めたものの、クリスマス前とクリスマスホリデー中の規制緩和の影響と、ケント州で発生した変異ウィルスのため、感染はまた火の粉のように舞い上がり、現在は、今年(