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1月, 2016の投稿を表示しています

ウィリアム・マーシャル

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ウィリアム・マーシャルの像、テンプル教会内 テンプル教会 の記事で、教会内に、中世で最も偉大なる騎士などと呼ばれ、騎士道の鑑の様な存在として知られる、ウィリアム・マーシャル(William Marshall)とその息子達の彫像があることに触れましたので、今回は、彼について書くことにします。 ウィリアム・マーシャルは、比較的位の低い貴族の家系に生まれたため、はっきりとした生年月日はわからないようですが、おそらく1146年か1147年に誕生。イングランドは、当時、スティーブンとマチルダが王権を争い、内戦状態。スティーブン王、プランタジネット朝第一番目の王ヘンリー2世(マチルダの息子)から、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と5人のイングランドの王様の時代を生き抜き、戦場でも名の知れた騎士でありながら、実に73歳まで生きた人。がっしりとし、背丈も6フィート(約182センチ)と、当時にしては異例の高さだったそうです。 騎士としての訓練を受けるのは、母方の故郷である、フランスのノルマンディーにて。父は死後、長男ではないウィリアムには一切何も残さなかったため、自分で、騎士として名を上げ生きていくしかない。 この頃は、プロのエリート戦士である騎士達の一種のトレーニングとして、トーナメントが各地で開かれていたようですが、マーシャルは、盛んに、北フランスなどで、こうしたトーナメントに参加。これは、多くの騎士達が2手に別れて戦うという一種のモック・バトル(偽の戦闘)のようなもの。偽、とは言え、かなり本格的なものであり、時に死者が出る事もあり、怪我人は必ずと言ってよいほど、多数出たようです。戦闘での、騎士達同士の目的は、敵を殺すことより、特に裕福そうな名のある騎士を捕まえて、身代金を得ることにあったと言います。ウィリアム・マーシャルは、いくつものトーナメントをはしごし、すぐれた騎士として名を成し、戦闘技術を磨くと同時に、身代金で、徐々に富もなして行き。また、こうしたトーナメントは、ソーシャル・ネットワークの場としても有益であり、有力な貴族達の間でも知られるようになり、やがては、王様達の目にもついていくわけです。 ウィリアム・マーシャルは、息子リチャードに反旗を翻された ヘンリー2世 に最後まで忠誠をつくしたと言われ、死後、召使に周りのものを盗まれ、着ていた物も

テンプル・バー

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セント・ポール寺院を背景にしたクリストファー・レンによるテンプル・バー・ゲイト(西側) 前回の記事 に書いたロンドンのテンプルという地域の北側を東西に走る通りは、かつては新聞社が立ち並んだことで知られたフリート・ストリート。この通りを更に西へウェストミンスター方面へ向かうと、通りの名は、ストランドと変わります。東のシティーとフリートストリートから、西のウェストミンスターとストランドを隔てる境界が、テンプル・バー(Temple Bar)。 ロンドンは、現在のシティー地域からはじまり、広がって行った町で、かつては、ロンドン=シティーであったわけです。よって、要所、要所に、シティーへと入る関、門、のようなものが設けられており、テンプル・バーはそのひとつ。特にこの通りは、西のかつてのウェストミンスター宮殿から、東のロンドン搭をつなぐ通りでもあったので、テンプル・バーは重要な門であったのでしょう。 13世紀後半には、すでにテンプル・バーの名は文献に記述されているそうです。もっとも、このころは、木製のくいの間に鎖をかけただけの簡素なものであったようですが。14世紀の中ごろまでには、2階に牢屋を持つ、木製の門が建てられます。アン・ブリンが、ヘンリー8世と結婚した際には、この門は、修正され、お色直しに塗りなおされているそうです。 クリストファー・レンのテンプル・バー・ゲイト(東側) さて、この木製のテンプル・バーの門は、ロンドン大火でも焼けずに生き延びるのですが、1670年代に、チャールズ2世の依頼により、クリストファー・レンが、新しくポートランド・ストーンを使用した石の門を作成。前回の記事に載せた近郊のテンプル教会も、同時期にレンによって、改造されていますし。新しいレンの石門の西側には、チャールズ2世のおじいさんのジェームズ1世と妃のアン・オブ・デンマークの彫像。東側には、処刑された父王チャールズ1世と、チャールズ2世自身の彫像が掘り込まれています。 ロンドン橋 の南側に、謀反人の首がさらされたのと同様、この新しい門にも、謀反人の首が朽ち果てるまでさらされるようになり、近辺では、この首が良く見えるように、望遠鏡の貸し出しなどもあったのだそうです。有名な謀反人の首だったら、見たくなる人も沢山いたのでしょうか。 テンプル・バーでピロリーにかかる

ロンドンのテンプルとテンプル教会

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東はビジネスのシティー、西は行政のウェストミンスター、そして南はテムズ川、北はフリートストリートに挟まれた場所に、テンプル(Temple)と称される法律・司法関係の地域があります。 何故、ここがテンプルと呼ばれるのかというと、周辺の土地が12世紀にテンプル騎士団に寄与され、騎士団がイングランド内の本居地として使用した事に遡ります。(テンプル騎士団についての詳細は、過去の記事まで。 こちら 。) 1120年頃に設立されて以来、聖地を守ることに余念の無いキリスト教世界の王侯貴族の間で、お気に入りの慈善団体となったテンプル騎士団は、あちらこちらで資金や土地を寄付されます。ロンドン内では、最初は、現在テンプルと称される土地の北部(現ハイホルボーン)に拠点を設け、イギリス内の本拠地とするのですが、1160年までには、場所が足りなくなり、現在のテンプル地域へ移動。ここを、ニュー・テンプルと称し、ニュー・テンプルの中心に、テンプル教会(上の写真)を建設。テンプル教会は、 ヘンリー2世 の時代の、1185年より使用開始。教会の他にも、土地内には、2つのホール、クロイスター、テンプル騎士団の居住用建物が建っていたということです。 テンプル教会は、2006年の映画、「ダ・ヴィンチ・コード」のロケ先のひとつにもなっています。ストーリーの信憑性と、映画自体はいまいちでしたが、パリとロンドンの景色をちょっと楽しむことはできます。 テンプル教会は、キリストが埋葬されていた場所が建物の中心にあると言われるエルサレムの 聖墳墓教会( Holy Sepulchre教会)を模して、身廊(nave)部が円形をしているのですが、身廊部が円形の教会と言うのは、イングランドには、このテンプル教会を含めて5つしか残っていないのだそうです。 教会は、1670年代に、クリストファー・レンにより改造され、19世紀前半にも、更に大幅に改装されています。 おまけに、第2次世界大戦中、1941年のドイツ軍爆撃によって、円形部分の木造の屋根が焼け、下にあった像の上に崩れ落ち、天井と像もろとも大被害。またオルガンを含む内部木製部分が焼け落ちています。これが完全に修復されるのに、17年近くかかったのだそうです。そんなこんなで、テンプル騎士団時代の面影は、少々薄れてはいますが、一見の価値はある建

コックニーは生粋のロンドンっ子

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コックニー(Cockney)という言葉があります。現在では、ロンドン東部を出身とする労働者階級の人間を指し、彼らが喋るなまりも、やはりコックニーと称されます。 コックニーという言葉が初めて記述されたのは、14世紀に遡るそうで、古い英語の言葉2つ、「coken」(雄鶏の)と 「ey」(卵)が結びついてできた言葉。そのままの意味は「雄鶏の卵」ということですが、若い雌鶏が産む事のある、小さく、形のいびつな卵を指した言葉だそうです。そこから、「ひ弱に育てられた子供」、「女々しい男性」・・・等の意味で使われるようになります。ジェフリー・チョーサーも「カンタベリー物語」の中で、コックニーを、上記の意味で使用しているそうです。 16世紀前半までには、コックニーは、田舎の住民が、ひ弱で、女々しく、田舎での生活ぶりや農業に関しての知識が皆無の都会人を、少々、馬鹿にして呼ぶ言葉へと変化していきます。そして、更に17世紀になると、コックニーが意味する都会人は、ロンドンっ子(ロンドナー)のみへと限られていくのです。そして、当時の、生粋のロンドンっ子というものの定義は、 Born within sound of Bow Bells (ボウ・ベルの音が聞こえる範囲で生まれる) こと。ボウ・ベルとは、現金融の町シティーにある通り、チープサイドにあるボウ教会(正式名St Mary- le- Bow、セント・メアリー・レ・ボウ教会)の鐘を指し、この鐘が聞こえる範囲で生まれた人間・・・ということになるのです。ロンドンは、もともと、現在のシティーから始まり、広がって行った町なので、かつてはロンドンと言えば、シティー界隈を指していたわけですので。もっとも、騒音が少ないころは、この教会の鐘は、かなり広範囲、ロンドンの外でも聞こえたようですので、実際のところは、鐘の音が聞こえる範囲というよりは、この教会の近くで生まれた・・・という事でしょう。 ロンドンが拡大し人口が増加するにつれ、シティーはビジネスのみの場所となり、実際に住む人は減っていき、ボウ教会近くに住む人間などもほとんどいなくなるわけです。そんなこんなで、コックニーは、後に、シティーよりも更に東の比較的貧しい地域だった場所に住むロンドンっ子を指す言葉となっていきます。 この東ロンドンの住人の喋るコックニー訛りで、一番、気が付く

教会探検家になろう

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ロンドンの ウェストミンスター寺院 のような名のある大聖堂もさることながら、特に名も知られていない、小さな古い教会を見かけると、ひょろりと入り込むのが大好きです。往々にして、教会は、周辺で一番古い建物である事が多く、現代生活の中にあって、身近に、歴史や、昔の人間の生活の余韻に、直接触れられる場所でありますから。また、こういったしっかりした素材を使った建物は、もう今は、建築される事もないので、大切に残しておいて欲しいもの。以前、日本で、何の変哲も無い小さな寺の周囲を、白人が、カメラを持って、興味深げに色々眺め、うろうろしているのを目撃した事がありますが、私がイギリスの教会たちに抱く気持ちと、同じ感覚かもしれません。 そこで、 新年の抱負 として、今年は、闇雲に教会を訪れ、きょろきょろするだけでなく、もう少し、それぞれの教会を読めるようになるということ。教会の外の作りや、中の装飾などを理解できれば、もっと教会めぐりが楽しくなるのではないかと。そこで、「教会探検家のためのハンドブック」、「教会を読む」・・・などというタイトルの古本を何冊か購入し、教会を覗きに出かけるときには、リックにつめていこうと思っています。「教会探検家」(Church Explorer)という言葉自体大変気に入っていますが、何百年も同じ場所に立ってきた建物の中に隠されている、過去の歴史をひもとく意味では、教会探偵と言った感覚もあります。シャーロック・ホームズの帽子を被り、虫眼鏡を持って。 ここで、教会探検家になるための、ごく基本情報だけ、記述しておきます。 集落の住民にとって重要な場所であったため、イギリスの教会(他の国でも同じかもしれませんが)は、周辺より少し高い場所に立っている事も多く、私の家から徒歩5分の教会も、かつては、市が開かれていた、ちょっとした丘の上にあります。 グラストンベリー・トー の頂上に立つセント・マイケル教会の廃墟ほどの劇的効果は無いですが、多少離れた場所からでも目に入るのです。こうして、誰でも、すぐ見える場所にあるため、日時計や後に時計が教会の塔に備え付けられるようになったのも、当然と言えば、当然。 例外はありますが、建物の方角としては、祭壇が東側を向いており、塔が西側という、東西に軸を置くものが一般的です。祭壇が太陽が登る東の方を向いている、とい

誰がために鐘は鳴る

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デヴィッド・ボウイ が死の直前に発表した「Lazarus」という曲のビデオを見ました。ラザラス(ラザロ)は、新約聖書のヨハネによる福音書の11章で、キリストの友人であり、死の4日後に、キリストが墓から蘇らせた人物。ともあれ、ミュージック・ビデオの中で、ミイラのように体を布切れで巻きつけた姿で、自分の死を演ずるボウイの姿に、イギリスの形而上詩人ジョン・ダンの死の事を思い出しました。 ジョン・ダン(John Donne 1572-1631)は、詩人であり、司祭でもあり、セント・ポール寺院の主席司祭を勤めたことでも知られています。愛妻アンの死後、また自分自身も、一時病気で死にかけて以来、特に、死が常に生の中に存在するのを強く意識していた人物。もっとも、彼の時代は、無宗教が多い今のイギリス人に比べ、あの世の存在を、ほとんどの人間が信じていたわけですが。 ダンは、自分の死の数か月前に、肖像画を依頼。これが、経帷子に体を包み、目を閉じた死者のポーズをとったものなのです(上の絵)。経帷子が頭の所でお花のように結ばれているのが、ちょっとご愛嬌。できあっがったこの絵を、彼は部屋に飾っていたのだそうです。セント・ポール寺院内に埋葬された彼の記念碑としては、この肖像をもとにした、ダンの彫刻があります。この彫刻は、1666年の ロンドン大火 で、焼け落ちた旧セント・ポール寺院内で焼けずに残った数少ないもののひとつ。ダンは、また死の1ヶ月前に、チャールズ1世の前で、最後の説教を行い、これも死に関するものであったようです。 ジョン・ダンという人物の名を聞くのが初耳の人には、ヘミングウェイの小説の題名ともなった「誰がために鐘は鳴る」(For whom the bell tolls)というのは、彼の有名な書き物の一節から取ったものです。 Devotions upon Emergent Occasions(非常時においての祈祷、1623年)と題された一連の説教のうちの、瞑想第17( Meditation 17 )は、一時的に、瀕死の重病で病の床に就いていたジョン・ダンが、他者のための弔いの鐘を聞きながら考察したものであると言い、 Now this bell, tolling softly for another, says to me, Thou must die. 今、他

デヴィッド・ボウイの逝き方

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18ヶ月も癌と戦っていたと知らなかったので、いきなりデヴィッド・ボウイ(David Bowie)が死んでしまったのには、やはり、びっくり。先進国では、80歳までは軽く生きられるなどという感覚が強くなっているので、69歳は少々若く感じますし。 また、デヴィッド・ボウイが50歳になった時、仕事の後、一緒に食事をしたファンの友人が、新聞についてきた雑誌のグラビアをながめながら、「ボウイ、50歳だって。私の上司と同い年しなのに、かっこよさの度合いがぜんぜん違う。」などとつぶやいていたのも、まるで昨日の事の様に覚えています。それが20年近く前の話だと思うと、改めて、時が過ぎていく速さにびっくりしたりもします。 細い鼻筋と細いくちびる、やはり長くちょっと並びの悪い感じの歯。(アメリカ人の白く並びのいい歯に比べ、イギリス人は比較的歯並びの悪い人が多いのです。最近は変わってきているのかもしれませんが、アメリカ人に比べ、イギリスは、子供の歯の矯正をする人というのが少ないのだと思います。特に彼は、南ロンドンのワーキングクラス出身なので。)全体的にひょろ長い感じの人で・・・とてもイギリス人的な感のある美男子。大ファンではありませんでしたが、熱狂的ファンが多いのはわかる妙な魅力のある人でした。あの歯も、ある意味、その不思議な魅力に一役買っている気もします。 予告の様に、死の2日前の誕生日に、死を歌った曲を含むアルバムを出して、家族と親しい友人以外には何ももらさず死んでしまうというのは、とても見事な逝き方。 少々、話がずれるようですが、大昔に見た、「フライド・グリーン・トマト」(Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe)というアメリカ映画内で、心に残っていた台詞を思い出しました。主人公の親友が死んでしまい、悲しむ主人公にむけての台詞です。 It's all right honey. Let her go. Let her go. You know, Miss Ruth was a lady. And a lady always knows when to leave. ほらほら、泣かないで。行かせてあげなさい。行かせてあげなさい。ミス・ルースはレーディー(気高い女性)だったのだから。レーディーは、いつも、いつ

イギリスの田舎をアルパカぱかぱか

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イギリスの田舎で草を食むアルパカ イギリスの田舎で、アルパカの群れに遭遇するということは、羊の群れに遭遇するより、当然、まだ稀です。けれども、アルパカを飼う農家や個人は着実に増えているようで、先日の散歩で見かけた、このアルパカたちも、イギリスで始めて見たものではありませんし。 イギリスの農家で見たラマ アルパカは、ラマと良く似ていますが、ラマより小型。双方南米のアンデス山脈そそり立つ中西部、ペルー、チリ、ボリビアの周辺出身。6000年ほど前に、アルパカは野生のビクーナ(vicuna)から、ラマは野生のグアナコ( guanco)という動物から、前者はその毛を目的に、後者は荷物運搬用に、南米原住民により家畜化されたもの。ラマも、アルパカほどではありませんが、イギリスでも、時折、見かけるようにはなってきました。 1532年に、スペインが南米に侵略すると、原住民の数、ひいては彼らが育てていた、アルパカとラマの数も激減。一説によると、90%もの原住民が、スペイン侵略の後に死に絶えたたなどと言います。当時のスペイン人は、アルパカの代わりに、牧草地に羊を導入し、アルパカに価値を見出さなかったようです。したがって、アルパカとラマは、生き残った原住民たちによって、高山地帯で、細々と飼育されながら、それでも絶滅を逃れ。昨今、人気となってきているアルパカの毛の需要増加につれ、南米でのアルパカの数も、再び増えて行っているようです。 イギリスで、アルパカの毛が本格的に織物業に使用されたのは、1836年頃のこと。ヨークシャー州ブラッドフォードに織物工場を有した、実業家タイタス・ソルト(Titus Salt)によるものです。タイタス・ソルトは、1851年に、工場労働者たちが、良い環境の中で生活できるよう考慮したモデル・ヴィレッジのソルテアの建設者としても知られています。彼の工場で製造されたアルパカの毛織物の影響で、アルパカ製品は、ビクトリア朝イギリスで人気のファション・アイタムとなるのです。 動物のアルパカ自体がイギリスで飼育され始めるのも19世紀ですが、この時代は、動物園で飼育されたものがほとんど。もっとも、ヴィクトリア女王とアルバート公は、ペットとして、白黒一匹ずつのアルパカを飼っていたそうです。1995年と、わりと最近になって、チリから300頭のアルパカがイ