ロンドンのテンプルとテンプル教会

東はビジネスのシティー、西は行政のウェストミンスター、そして南はテムズ川、北はフリートストリートに挟まれた場所に、テンプル(Temple)と称される法律・司法関係の地域があります。

何故、ここがテンプルと呼ばれるのかというと、周辺の土地が12世紀にテンプル騎士団に寄与され、騎士団がイングランド内の本居地として使用した事に遡ります。(テンプル騎士団についての詳細は、過去の記事まで。こちら。)

1120年頃に設立されて以来、聖地を守ることに余念の無いキリスト教世界の王侯貴族の間で、お気に入りの慈善団体となったテンプル騎士団は、あちらこちらで資金や土地を寄付されます。ロンドン内では、最初は、現在テンプルと称される土地の北部(現ハイホルボーン)に拠点を設け、イギリス内の本拠地とするのですが、1160年までには、場所が足りなくなり、現在のテンプル地域へ移動。ここを、ニュー・テンプルと称し、ニュー・テンプルの中心に、テンプル教会(上の写真)を建設。テンプル教会は、ヘンリー2世の時代の、1185年より使用開始。教会の他にも、土地内には、2つのホール、クロイスター、テンプル騎士団の居住用建物が建っていたということです。

テンプル教会は、2006年の映画、「ダ・ヴィンチ・コード」のロケ先のひとつにもなっています。ストーリーの信憑性と、映画自体はいまいちでしたが、パリとロンドンの景色をちょっと楽しむことはできます。

テンプル教会は、キリストが埋葬されていた場所が建物の中心にあると言われるエルサレムの聖墳墓教会(Holy Sepulchre教会)を模して、身廊(nave)部が円形をしているのですが、身廊部が円形の教会と言うのは、イングランドには、このテンプル教会を含めて5つしか残っていないのだそうです。

教会は、1670年代に、クリストファー・レンにより改造され、19世紀前半にも、更に大幅に改装されています。

おまけに、第2次世界大戦中、1941年のドイツ軍爆撃によって、円形部分の木造の屋根が焼け、下にあった像の上に崩れ落ち、天井と像もろとも大被害。またオルガンを含む内部木製部分が焼け落ちています。これが完全に修復されるのに、17年近くかかったのだそうです。そんなこんなで、テンプル騎士団時代の面影は、少々薄れてはいますが、一見の価値はある建物です。

戦後に設置されたステンドグラスには、ドイツの爆撃で焼け落ちた、19世紀に作られた、教会の円形とんがり屋根の姿が描かれています。

教会の円形部に設置してある像のひとつは、中世で最も輝ける騎士と名高いウィリアム・マーシャル(William Marshal)。リチャード2世の忠臣、またジョン王の時代は不人気王とバロン(有力貴族たち)の調停役として、マグナ・カルタの設立にも一役買い、更に、ジョン王亡き後は、幼くして王の座に着いたヘンリー3世を守り、活躍。やはりウィリアムという名のウィリアム・マーシャルの長男の像、ウィリアム・マーシャル3男坊のギルバートの像もあります。

円形部をぐるりとアーチが取り囲み、その上に、妙な顔の彫り物が沢山飾られていますが、これは、1820年代に、中世のものを取り除いて、新しく作り直したのだそうです。

色々な顔があって、ゆっくりひとつづつ見て歩くと愉快です。耳を動物にかじられている人がいます。この彫刻は、「ダ・ヴィンチ・コード」内でもアップで写ってました。やはり、奇怪な感じがするからでしょう。

この人は、歯痛にでも悩んでいるのでしょうか。

いかにも古そうな、ノルマン様式の丸アーチを持つ西のドアは、何度か手が加えられているものの、12世紀のものだそうです。これが、一番、建設時の面影を漂わせる部分かもしれません。

教会内部には、アメリカ人観光客などもおり、年配のアメリカ人女性に、主人と一緒のところを写真撮ってくれと頼まれました。「ほらほら、ここに立って、このボタンを押してね。」「押す」というのを、このアメリカのご婦人、「マッシュ・イット!」と言ったのが、面白かったですね。同じ英語でも、アメリカ英語は多少違うものだな、と。確かにマッシュド・ポテトなんてのは、押して潰したじゃがいもなので、「マッシュ=押す」なのでしょうが、こちらでは、芋はマッシュしても、カメラのボタンをマッシュするというのは、ほとんど聞かない表現です。私が、ボタンを指差して、「マッシュ・イット?」と聞き返すと、「イヤー!マッシュ・イット!」マッシュした後、「良く撮れた!ファーンタスティック!」と、大げさなほど喜んでくれました。私、基本的に、知らない人に写真とってくれと頼まれるの結構好きなのです。自分がとってもらいたい時のことを考えると、あまり感じの悪い人には頼まないから。それに、後でこの人たちが写真を見返して、「ああ、これは、あの東洋人に取ってもらった写真だ」と、どこか遠くの、もう二度と会わないだろう人の記憶の片隅に残っていると考えるのも、何となく楽しい。最近は、セルフィーなどが増えているので、写真をお願いします・・・と言われる回数も減ってきましたが。テクノロジーは、便利であるけれど、ある意味、他人との直接のふれあいの機会を少なくする原因にもなっている気がします。と、脱線したところで、話をもどし・・・

教会の前のちょっとした広場には、コラムがあり、その上には、馬に2人乗りした騎士の彫像があります。これは、設立当時のテンプル騎士団は貧しく、騎士は2人で馬をシェアしなければいけなかったからだそうです。そんな団体が、徐々に目の玉が飛び出るほどの富を無し、最終的には、その富のために身を滅ぼすこととなるわけです。

前述の通り、今では、ロンドンのテンプルというと、騎士団ではなく、司法関係の地域です。近くには王立裁判所もありますし。この地と、法律の関係は、13世紀に遡り、テンプル騎士団が、法のアドバイザーとして、数人の法律家達をテンプルに招く事に始まります。1312年に、テンプル騎士団が解散となり、土地が聖ヨハネ騎士団の手に渡る事になった後も、法律家達は居残り、ヘンリー8世の時代まで、テンプル内の建物は、法律家達に賃貸されることとなります。1608年、ジェームズ1世の時代に、王は、教会及び、周辺の土地を、教会の手入れをする事を条件に、法律家達に与え、現在にいたっています。

イギリスで法廷弁護士になるためには、ロンドンにある4つのインズ・オブ・コート(The Inns of Court、法学院)に所属する必要があり、テンプル地区にある、インナー・テンプル(Inner Temple)とミドル・テンプル(Middle Temple)はそのうちの2つ。更なる2つ、グレーズ・イン(Gray's Inn)、リンカンズ・イン(Lincoln's Inn)は、テンプルから北の、一番最初にテンプル騎士団が根を下ろした地域にあります。まあ、この事は、いつの日か、別の機会に、詳しく書くことにします。

コメント