誰がために鐘は鳴る

デヴィッド・ボウイが死の直前に発表した「Lazarus」という曲のビデオを見ました。ラザラス(ラザロ)は、新約聖書のヨハネによる福音書の11章で、キリストの友人であり、死の4日後に、キリストが墓から蘇らせた人物。ともあれ、ミュージック・ビデオの中で、ミイラのように体を布切れで巻きつけた姿で、自分の死を演ずるボウイの姿に、イギリスの形而上詩人ジョン・ダンの死の事を思い出しました。

ジョン・ダン(John Donne 1572-1631)は、詩人であり、司祭でもあり、セント・ポール寺院の主席司祭を勤めたことでも知られています。愛妻アンの死後、また自分自身も、一時病気で死にかけて以来、特に、死が常に生の中に存在するのを強く意識していた人物。もっとも、彼の時代は、無宗教が多い今のイギリス人に比べ、あの世の存在を、ほとんどの人間が信じていたわけですが。

ダンは、自分の死の数か月前に、肖像画を依頼。これが、経帷子に体を包み、目を閉じた死者のポーズをとったものなのです(上の絵)。経帷子が頭の所でお花のように結ばれているのが、ちょっとご愛嬌。できあっがったこの絵を、彼は部屋に飾っていたのだそうです。セント・ポール寺院内に埋葬された彼の記念碑としては、この肖像をもとにした、ダンの彫刻があります。この彫刻は、1666年のロンドン大火で、焼け落ちた旧セント・ポール寺院内で焼けずに残った数少ないもののひとつ。ダンは、また死の1ヶ月前に、チャールズ1世の前で、最後の説教を行い、これも死に関するものであったようです。

ジョン・ダンという人物の名を聞くのが初耳の人には、ヘミングウェイの小説の題名ともなった「誰がために鐘は鳴る」(For whom the bell tolls)というのは、彼の有名な書き物の一節から取ったものです。

Devotions upon Emergent Occasions(非常時においての祈祷、1623年)と題された一連の説教のうちの、瞑想第17(Meditation 17)は、一時的に、瀕死の重病で病の床に就いていたジョン・ダンが、他者のための弔いの鐘を聞きながら考察したものであると言い、

Now this bell, tolling softly for another, says to me, Thou must die.
今、他者のために静かに鳴り響く弔いの鐘は、私に告げる、「お前も死ぬのだ」と。

の一文で始まります。そして、この中の一番有名な一節が、

No man is an island, either of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main.  If a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friend's or thine own were; any man's death diminishes me, because I am involved in mankind and therefore never send to know for whom the bell tolls: It tolls for me.

ざっと訳すと、

「いかなる者も、孤立した島ではない。全ての人間は、大陸の一片であり、大きなものの一部である。もし、海の波で、土砂が流されれば、ヨーロッパは小さくなる。岬が流され、友人の荘園、または自分の荘園が流されれてしまうのと同様に。いかなる人間の死にも喪失を感じずにはいられない。私は人類の一部であるのだから。したがって、誰のために弔いの鐘が鳴っているのかを聞く必要は無い。鐘は私のために鳴っている。

人類は、生と死の事実を共有する運命共同体であるわけです。本日は、また、デヴィッド・ボウイと同年で、やはり癌で、俳優のアラン・リックマンが死んでしまったというニュースが入りました。死者を演じると言えば、彼も、「愛しい人が眠るまで」という映画で、死んだ後、消沈する恋人を慰めるために幽霊になって戻ってくる役をやっていましたっけ。いい映画でした。

・・・誰のために鐘が鳴っているのかを聞く必要は無い。鐘は私のため、また、あなたのために鳴っている。

コメント