投稿

8月, 2016の投稿を表示しています

映画「ブルックリン」

イメージ
人生は、選択です。少なくとも自由社会では。どの学校に行くか、何を勉強するか、どのクラブに所属するか、どんな友人を選ぶか、何の仕事をするか、誰と結婚するか・・・。それ以外でも、些細なことで、毎日の様に、数限りない選択を繰り返して現在の自分に至っている。当然、両親、生まれた場所と環境、健康体かどうかは、自分の意志では変えられないわけですが、半分以上は、自分が意識的か無意識的に行ってきた選択の積み重ね。若いころ、小さな店でアルバイトをしていた時、正社員の女性が「うちのだんなみたいな、あんな男に会って結婚してなければ、こんなところでしがない店員をしている以外に、もっといい人生もあったかもしれない。」などと、お茶の時間にため息をついているのを聞いて、若いながら、心に隙間風が吹いたのを覚えています。自分の人生がもしかしたら失敗だったと感じたとき、過去の選択を悔やんで、もう今では、間に合わない、抜けられない、と思うことほど、惨めなことはないような気がして。それと同時に選んだのは自分だし、ここで働いているのは、だんなのせいだけじゃないんじゃないか、などともちらっと思ったりもしたのですが。また、たとえ、勝者組の人生を送ってみても、あの時、ああしていれば、もっと別の人生を歩んでいたかもしれない、それはそれで、面白かったかもしれない、と思いにふけることもあるかもしれません。昔、サトウキビ畑で働かされた黒人奴隷などを思えば、選択があるというのは、かなり贅沢な話ですが、選択肢の全てが、それなりに良さそうに見えるとき、選ぶのは本当に難しいのです。 という事で、主人公が、二つの、それぞれ違った意味で魅力のある選択を余儀なくされる映画「ブルックリン」(Brooklyn)を見ました。 あらすじ 1951年、とあるアイルランドの小さな町。主人公の若い娘、エイリッシュは、母と姉のローズと3人暮らし。いじわるおばさんが経営する町の雑貨屋でアルバイトをするくらいしか職がなく、満たされない毎日。そんな妹のため、姉のローズは、ニューヨークのブルックリンに住むアイルランド人の牧師に手紙を書き、エイリッシュのために、ニューヨークでの職と下宿を探し出す。 期待と不安でアメリカに渡ったエイリッシュ。他の若い女性たちと、気のいい女将さんの営むブルックリンの下宿先から、マンハッタンのデパートで売り子とし

スマイルストーンとお茶目な道しるべ

イメージ
日本の一里塚にあたるものは、イギリスではマイルストーン(milestone)。昔、田舎からロンドンなどの大都市までよっこら歩いていくのに、道端に、「ロンドンまであとxxマイル」と書かれたマイルストーンが置かれてあるのを見て、旅人は、「ああ、もうちょっとだ。」とか、「え、まだそんなにあるの~?」などとなったわけです。マイルストーンという言葉は、また、「記念となるべき事件、画期的な事件」も意味し、 Mo Farah achieved another milestone by winning two more gold medals in the Rio Olympics this summer. モー・ファラー は、今夏、リオのオリンピックで更なる2つの金メダルを獲得することにより、新たなるマイルストーン(偉業)を達成した。 などという使い方もできます。 ついでながら、1マイルは約1.6キロで、日本の一里は約3.9キロですので、1マイルよりも、一里を達成した方が、偉業度は高い? 今春、田舎の フットパス をぽこぽこハイキングで歩いている時、上の写真のような、スマイル・フェースを描いた石が、道端に置いてあるのを見かけました。誰が置いたんだろう、面白いな、と写真を撮り、そのままになっていました。が、先日、地方ニュースを見ているとき、似たようなスマイル・フェースを描いた石が、テレビの画面に映り、「あ、私が見たやつだ!」。なんでも、これは、マイルストーンならぬ、スマイルストーンと呼ばれ、ある若い女の子が、手ごろな石を集めて、その上に、色々なスマイル・フェースを描き、あちこちに置いて歩いていたのだそうです。単なる遊び心から始めた感じですが、彼女は、正体のわからぬ謎のグラフィティーアーティスト、バンクシーの様に、素性を明かしたくないと、顔を見せずにインタヴューを受けていました。もっとも、彼女、バンクシーと違って、絵心がないから、下手だけど、とちゃんと自分で認めていましたが。 また、別のフットパスで、「PUB」(パブ)と刻まれた道しるべ(waymark)を目撃。これも、ちょっと微笑ませてくれました。この国、ビール好き多いですから、ウォーキングをしては、道中、見かけたパブに飛び込むというのは、よくあること。パブでぐびっと一杯したり、ランチをしたりするのを目

中世の面影残すアールデコの館、エルサム・パレス

イメージ
エルサム・パレスのエントランス・ホール 「エルサム(Eltham)は、スティーブン・コートールド(Stephen Courtauld)によって改築されていて、彼が私を迎えてくれた。彼ら(コートールド夫婦)が建てた館は、とても近代的であるものの、14世紀に遡る大広間も、美しく修築されていた。館内と、魅力的な、堀を利用した庭園を見て回り、広間でティータイムを取った。楽しい訪問だった。」 これは、1938年の6月に、時の ジョージ6世 の母であり、現エリザベス2世の祖母にあたるクイーン・メアリーが、ロンドン南東部にあるエルサム・パレス(Eltham Palace)を訪れた時の感想だそうです。彼女の言葉通り、エルサム・パレスは、当時モダンの最先端を行くデザインを取り入れた、アールデコ(Art Deco)風インテリアで知られていますが、中世に遡る面影を留める場所でもあるのです。(注:クイーン・メアリーは14世紀と称していますが、グレートホールは、実際は15世紀のものです。) この地の、堀に囲まれた館と荘園が、当時まだ皇太子であったエドワード2世(在位1307-27)に与えられたのが1305年。エドワード4世(在位1461-83)の時代に、大掛かりな改造が行われ、現存するグレート・ホールも彼の治世の1470年代に建築されています。 チューダー朝に入ってから、ヘンリー7世は、この館を子供たちを育てる場所としたため、ヘンリー8世は、幼少期をこの館で過ごしています。召使を含めるチューダー時代の宮廷人は総計800人ほどおり、それをすべて宿泊させることができた規模の王宮はイングランド全国で6つのみだったという事ですが、エルサム宮殿はそのひとつ。やがて、王となったヘンリー8世が、 ハンプトンコート宮殿 を獲得してからは、王家は、エルサムより、ハンプトンコートとグリニッジにあった宮殿を主に使用するようになっていきます。エリザベス1世がこの館を訪れたのは、ほんの数回。チャールズ1世が、この館を訪れる最後の君主となります。 ピューリタン革命後、議会派によって没収され、王政復古で王家に変換されたものの、ずっと農家の一部として使用され、朽ちていく。時が経ち、20世紀になってから、スティーブンとヴァージニア・コートールド夫婦が、新しくアールデコ内装の館を建てて復活させるので

夏の日のウォルトン・オン・ザ・ネイズ

イメージ
夏なので、一回ぐらいは、海岸へ出かけてみようかと、ウォルトン・オン・ザ・ネイズ(Walton on the Naze)に、電車で行ってきました。ウォルトン・オン・ザ・ネイズは、エセックス州北東部の北海に面した海岸線にある小さな町。この辺りの海は、イギリス南部の青い海の色に比べるといささか灰色っぽい感じですが、さらさらの砂のビーチは気持ち良いのです。また、ここへ行くのは、海を楽しむのと同時に、駅から少々北に歩いた場所にあるネイズ・タワー(Naze Tower)を訪れるのも目的でした。 駅から降りるとすぐ、海岸へと降りていく階段があり、カラフルな色に塗ったビーチハット(beach hut)の向こうに、792メートルと、イギリスで3番目に長いといわれる桟橋(ピア)、ウォルトン・ピア(Walton Pier)が伸びているのが目に入ります。最初のウォルトン・ピアは、1830年に、イギリスで、最初に建設されたもののひとつですが、これは1871年の嵐で崩壊。2回目に建てられたものも壊れ、現在のピアは、1895年に建てられたもの。ついでながら、イギリスで一番長いピアは、やはりエセックス州にあるサウスエンド・オン・シー(Southend-on-Sea)のもので、こちらは、なんと2158メートルと、ウォルトン・ピアの倍以上の長さです。 ビーチハットという代物は、内部にちょっとした台所設備や、テーブル椅子などが置けるほどのスペースで、所有者に、海を見ながらのんびり過ごす場所を提供しています。基本的に寝泊りはできないのですが、こんなビーチハットを買おうと思うと、結構高く、以前、売りに出されている値段を見てびっくりした覚えがあります。 まずは、ネイズ・タワーへ登ろうと、そんなビーチハットに縁どられた海岸線をずっと北へ向かって歩きました。風は強かったのですが、太陽は心地よく、子供たちはきゃっきゃと騒いで水に飛び込み、 または砂のお城を作り。 やがて、ちょっと危なげな崖の上にぽつねんと立つレンガの煙突のようなものがネイズ・タワー。高さ26メートル。ここから湾を越えた北側にある、重要な港町であった ハリッジ (Harwich)を出入りする船の安全な運航を援助するため、1720年に、ナビゲーション・タワー(灯台の前身ようなもの)として建設。当時は、塔の上にかが

燃える馬糞パワー

イメージ
煙があがる馬糞の山 馬糞は、 植物の肥料 にはもってこいの存在です。肥料としては、馬のお尻から落ちた後のほやほやを即効で使うことはできないので、土壌に混ぜる前に、しばらく積み上げ、数か月、腐敗を待つこととなりますが。 先日、山と積まれた馬糞から煙があがっている脇を通りました。誰が火をつけたわけでもなく、自然にくすぶり始めたのでしょうが、馬糞が腐敗の過程で放出する熱にはかなりのパワーがあるのでしょう。そのため、馬糞は、肥料としての他にも、かつては、この腐敗の間に放出する熱を利用して、冬季の寒い間に、植物を育てるのにも重宝されてきたのです。昔読んだ、ガーデニングの歴史の本によると、古くは、ローマ時代、ローマ皇帝ティベリアスは、きゅうりが大好きであったそうで、年がら年中きゅうりを食べられるように、冬季には、リヤカーのごとく、下に車輪がついて移動ができるプランターに、馬糞を詰め、その上にコンポストを入れてきゅうりを育てたという話です。プランターに車輪がついていた、というのは、お日様の当たっているところに移動できるように。 まだ、農家や街中でも馬が沢山活躍していたイギリスのヴィクトリア朝でも、馬糞は冬の間の植物の育成のためのホットベッド(温床)に、ヒーター代わりに盛んに使われたようです。肥料の時とは逆に、ホットベッド用の馬糞は、出来立てのほやほやのものを、藁などとまんべんなく混ぜたものが良く、ホットベッドの底に、均等に馬糞と藁のミックスを敷き詰め、その上にコンポストを入れ、コンポスト内に植物の種や苗を植えたり、種、苗を植えたトレーをその上に乗せたりしていたそうです。植物が直接、腐っていく馬糞に接触するとアチアチと焼けてしまうので、その点は注意のようですが。また、上にガラスの蓋などをすると、さらに効果は抜群。ただ、オーバーヒートしないように、温度の確認は必要。12月あたりに、できたてほやほやの馬糞を敷き詰めたホットベッドは、3月くらいまで熱を発してくれるようです。 当然、現在では、馬の数も少ないですし、電力も普及、また植物も冬の寒さに耐えながらぐんぐん育つものも開発され、馬糞熱パワーを庭で使う人はほとんどいなくなっていますが。多く存在したものを、有用に再活用するという昔ながらの人間の知恵は、燃料危機などが懸念される将来、また必要になってくるかもしれません。

労働者のいないハーベスト

イメージ
藁を四角にまとめ落としていくベーラー 再び、ハーベストの時期が訪れ、小麦等の穀物収穫が着実に進んでいるようです。ここのところ、雨も少なく、毎日、収穫日和のような感じですし。去年、 収穫が終わったばかり の茶色の農地を歩いたのを懐かしく思い出しながら、先週、再び、春は緑だった農地の脇を歩きました。この時、一台のベーラー(baler)が、刈り込まれた小麦の藁を拾い上げ、圧縮し、四角に固めて、畑に落としている光景に出くわし、しばし、この様子を眺めていました。この固められた藁をベール(bale)と呼ぶのですが、丸いベールもあれば四角いベールもあり。一人の農家の人が運転する一台のベーラーで、かつては、大変だったであろう、こんな仕事もいとも簡単にこなしていく・・・。ベール作りもさることながら、今では、収穫も脱穀も、コンバインハーベスターさえあれば、人力に頼らず、一気にできます。 昔は、小麦(wheat)、大麦( barley)、エンバク( oats)の穀物を収穫する、ハーベストの時期というと、村の人間は総出の上、季節労働者なども雇い、小麦畑の中は人がいっぱいで、にぎやかだったのでしょう。穀物を刈って、束ねて、乾かすために積み上げて、その後、乾いたものを少しずつ脱穀。刈った小麦の積み上げ方は、地方によって色々バリエーションがあったようです。老いも若きもで、小さな子供なども、労働者のためのお昼やおやつ、飲み物などを運ぶのを手伝い。 人がいっぱいの昔の収穫風景 上の写真は、トーマス・ハーディーの小説を元にした映画「遥か群衆を離れて」(Far from the Madding Crowd)のハーベストの場面。機械がない代わりに、人がいっぱい。収獲の後は、大仕事が終わってお疲れさま、とハーベスト・フェスティバルなどが開かれ、飲めや歌えやと賑やかな騒ぎ。時に乱痴気騒ぎに陥ることもあったようです。若き日のシェイクスピアも、知り合いのハサウェイ家が、大豊作を祝うハーベスト・フェスティバルに出向き、どんちゃん騒ぎの中で、 アン・ハサウェイ と好い仲となり、できちゃった結婚へと繋がったなどと言われていますし。 収獲のための刈り込み機械(reaper)がパトリック・べルにより、スコットランドで発明されたのは、1828年ですが、なかなか、一般的に使われるようにはならず、18

トーマス・カーライルの家

イメージ
前回の記事で、ビクトリア朝文豪 ディケンズのロンドンの家 の事を書いたところで、今回は場所を、ロンドンのブルームズベリーからチェルシーへ移し、ディケンズの同時代人で、ディケンズにも影響を与えたというトーマス・カーライルの家の事を書いてみます。訪れたのは、2年前の事なのですが。上の写真は、彼の住んでいた通りの入り口を背景に、テムズ川を臨むように座っているカーライルの銅像。 思索家、評論家、歴史家として、当時は、イギリスの知識人にかなりの影響を与えた人物であったのですが、現在では、その知名度も落ち、学者でない限り、実際に、彼の書いた本を読んだという人も、かなり少ないことと思います。かくなる私も、彼の本は手に取ったこともありません。以前、トーマス・カーライルの著は、シェイクスピア全集と共に、 ヒトラーの愛読書 であったという話を聞いたことがありますが。その著は、名前だけ知れているところで、「英雄崇拝論」「フランス革命史」「オリバー・クロムウェル」など。 スコットランド出身のトーマス・カーライルと妻ジェーンが、現在は超高級住宅地のチェルシーにあるCheyne Row(チェイン・ロウ)に引っ越したのは、1834年。その後、カーライルは、死の1881年まで、47年間、同じ住所に住み続ける事となります。なんでも、入居した際の家賃は、年間35ポンド。現在の値段に換算していくらになるかはわかりませんが、比較的安めの家賃であったという事。これが、死ぬまでずっと同じ値段だったというので、インフレなかったのですね。チェルシーは、この頃はまだ、さほどファッショナブルな場所とは思われていなかったようです。 この家を訪れる前に、イギリス在住のアメリカ人人気作家ビル・ブライソンによる「At Home」(直訳:家にて)という本を読みました。今の段階で、日本語の翻訳は行われていないようですが、この本は、主にイギリスの家、家庭の歴史を記した雑学ノートのような内容で、キッチン、バスルーム、庭などの項目に分けて、過去、イギリス人は、どういう家庭生活を送ってきたかをつづっています。やはり、ブライソン著の科学史「人類が知っていること全ての短い歴史」(A Short History of Nearly Everything)のおうち版の様な内容です。という事で、トーマス・カーライルの家の訪

ロンドンのチャールズ・ディケンズの家

イメージ
ロンドン内で、小説家チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)が住んだ家で残っているのは、ただ一つ、 48 Doughty Street。チャールズ・ディケンズ博物館として一般公開されています。 チャールズ・ディケンズが、妻キャサリンと結婚したのが1836年4月。その後、しばらく別の住所で間借りし、第一子が産まれた後の、1837年3月から1839年12月までと、約2年間この住所に住んでいます。当時のロンドンと言うと、やはり購入より賃貸が一般的であったようで、ディケンズ夫婦も、一応は3年の契約でこの家を賃貸。 若夫婦の他に、チャールズの弟と、妻キャサリンの17歳の妹メアリーも、共に移り住み同居。この義理の妹メアリーを、ディケンズは大変気に入っていたようなのですが、彼女は、1837年に、いきなり病気になり、あっという間に死んでしまうのです。ディケンズの腕の中で息を引き取ったのだそうですが、この若い死に、大ショックを受け、しばらくは、筆も進まず、仕事が手につかなかったと言います。死もあれば、生もあるで、この家で、更に2人の子供が生まれ、家が手狭になったことと、小説家としての名声もどんどん上がり、経済状態もかなり良くなったことから、2年で、別の更に大きな家へと引っ越し。 奥さんのキャサリンとの間には、総計10人の子供を設けたのですが、1858年に、おそらく、ディケンズの浮気が原因で別居へ。レイフ・ファインズがディケンズを演じ、彼の愛人となった、うら若き女優ネリーとの関係、キャサリンとの結婚の破たんを描いた、2013年の映画「The Invisible Woman」というのがありました。日本では、公開されていないようです。題名を直訳すると、透明人間ならぬ、透明女ですが、名目上は結婚している著名人ディケンズの世間体を守るため、影の女としてしか存在できなかったネリーを指したもの。この映画の中、ちょっとおデブになってしまった妻キャサリンも、文学や芸術をわかってくれない女性としてディケンズとの間に溝ができており、この映画を見る限りにおいては、ディケンズの両方の女性に対しての取り扱いは、いただけないものがあります。不公平な社会を批判し、慈善を唱え続けた作家でも、個人生活の面では、完璧な人間ではないのです。自分の書いた小説内の良い人間のようでありたいと思いな