投稿

8月, 2019の投稿を表示しています

走れロケット号~蒸気機関車時代の到来

イメージ
ヨーク鉄道博物館にあるロケット号のレプリカ 汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 僕らを乗せて シュッポ シュッポ シュッポッポ 早いな 早いな 窓の外 畑も飛ぶ飛ぶ 家も飛ぶ 走れ 走れ 走れ 鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな 前回の、線路というものに焦点を当てた、「 鉄道の始まり 」の記事の続きとして、今回は、イギリスにおける蒸気機関車の創成期の歴史を書いてみます。「鉄道の始まり」で記したよう、鉄道も機関車も、人を移動させるというより、重い貨物を移動させることを最大目的として開発されていったため、最初は、炭鉱、鉱山,、産業がらみで発達していきます。 日本で蒸気機関車は、時に、「Steam Locomotive」の略である「SL」という名でもおなじみ。スティームは、蒸気の事ですが、ロコモティブは、ラテン語の、ロコ(loco 場所から)という言葉と、モティバス(motivus 動く事)という言葉が合体した言葉。そして、ロコモティブは、場所の間を移動する、という意味の形容詞から、蒸気機関車の誕生に伴い、「自らの力で鉄道の上を動くエンジン」=「機関車」の意で名詞としても使用されるようになります。 蒸気のパワーを、一カ所に固定された機械に使うのみでなく、乗り物に応用しようという試みは、18世紀後半から、幾人かの人物により、行われてはいたようですが、実際に、定期的使用に耐え得るような信頼性のあるものができあがるまでは、かなりの時間がかかっています。 リチャード・トレビシックと蒸気機関車の誕生 イギリス南西部コーンウォールの鉱山のエンジニアであったリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)が、最初の、蒸気を用いた乗り物を作るのに成功した人物、ひいては、蒸気機関車の生みの親と見られています。まず、彼は、蒸気自動車を製造し、何度か道路を走ることに成功。その後、鉄道路線の上を走らせるための、蒸気機関車を作ってはどうかと考え付くに至ります。当時の鉄道は、上を馬が荷車を引いて歩くという馬車鉄道でしたので、馬に代わる、よりパワフルなものが、蒸気機関車であったのです。 トレビシックは、1804年、ウェールズのマーサー・ティドフィル(Merthyr Tydfil)という場所にあったペナダレン(Pen-y-dar

鉄道の始まり

イメージ
線路はつづくーよー、どこまでも 野をこえやまこーえー、谷こえて はーるかな町まーでー、僕たちの たーのしい旅のゆめ、つないでる らららららーら、らららららーら、らららららら、らんららーん 鉄道が、地平線に続くような景色を見ていると、旅情緒にうたれます。どこまでも、これを辿って行ってみたくなるような。もっとも、鉄道というものは、もともと、人の移動よりも、物資の移動のために作られたものなのですが。本日は、ちょっと、その線路・鉄道の歴史を見てみる事にします。 重い貨物を積んだ荷車の車輪が通るための軌道として、溝を掘った道路というのは、古代からあったそうで、ギリシャや中東などにそうした溝の軌道跡がまだ残っているそうです。また、火山爆発により失われたローマ帝国の都市ポンペイにも、この軌道用の溝を刻んだ道が、火山灰の下にそのままの姿で保存されていたと言います。車輪というものは、人類の発明の中で、最も大切なもののひとつに数えられていますが、その車輪を有効に活用するためには、それを効率よく走らせるための軌道も必要。これらの古の軌道の幅は、一様に大体1メートル半弱だそうで、現在の鉄道の軌間(ゲイジ、gauge)で、標準とされる1435ミリと、ほとんど変わらないというのが面白いです。いずれにせよ、機関車というものが誕生する以前の、ずっーと昔から、こうした鉄道のご先祖様たちは活躍していたのです。 特に、鉱山や炭鉱などで、一定の区間を、重いものを大量に移動させる必要がある場合、荷車が、地面に食い込むことなく、スムースに移動するよう、何らかの工夫は必要です。やがて、そうした場所で、木材を使用した線路が作られるようになり、馬や人力に引かれた荷車がその上を行き交いするようになります。この場合、車輪が滑って軌道からはずれるのを避けるため、L字方の線路を作ったり、または車輪の縁にフランジ(flange)と呼ばれるでっぱりをくっつけたりとの工夫がなされます。 こうした簡易線路は、イギリスでは、トラムウェイ(tramway)などと呼ばれましたが、18世紀イギリスでは、炭鉱などでの、そうしたトラムウェイ建設にあたり、木製線路が、泥の中に沈んでいかぬよう、また動かぬよう、下に枕木(railway sleeper)を寝かし、木製線路をその上に固定するようになります。枕木と枕木の間に

団地っ子純情~昭和の公団団地へ捧ぐ

イメージ
今回、イギリスの事でなく、日本の話となります。 去年の6月、日本に帰国した際に、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館を、幼馴染と訪れたことは、 ブログ記事 にしました。その展示物のひとつに、日本住宅公団により、1960年代に建てられた団地の玄関、風呂場、キッチンなどを実物大で再現しているものがあり、団地っ子の私たちは、それは感銘を受けたのです。(赤羽台団地を復元したものだそうです。)なにしろ、その様子が、私たちが育った団地とほぼ同じであったので。自分の子供時代が、歴史と化している事実、そして、団地という環境が、いかに当時の私たちにとって、すばらしい場所であったか、思い出が一気にわーっと沸き上がり、幼馴染は、一言、「涙が出る。」 *佐倉国立歴史民俗博物館の現代(1930-1970年)展示場に関するサイトは、 こちら まで。見どころたっぷり、おすすめ博物館です。 最近、団地という言葉をネットで検索してみましたところ、貧乏、ガラが悪い、治安が悪い、などと言う、ネガティブなものが沢山目につき、中には、団地育ちは下流階級と断言しているものもあり、私の経験とあまりに違い、あっけにとられた次第。インターネットの悪いところですね。良く知らない人が、独断と偏見で、意見を下し、大声で宣言できるというのも。大体、下流階級という感覚自体が、私の子供時代には、ピンとこないものであったのです。私個人としては、団地育ちだと差別された覚えもなかったです。別の高校へ行った幼馴染は、「高校時代に、団地だからと、見下した物言いをする子は、いる事はいた。」とは言ってますが。 人は、両親の仕事により、裕福な家庭と、さほど裕福でない家庭があった、それは当然。ただし、当時の日本は、基本的に、モラルは同じ、教育も同じ。裕福でないから、教養がない、常識がないという方程式は、まったく当てはまらなかった。ある意味、多少、金の無い家の子の方が、頑張って勉強していた感もあります。ですから、イギリスに来て、貧しさと、親の子供のしつけと教育に対する興味の無さが、比例する、こちらの階級社会にびっくりしたものです。日本は、一億総中流の時代でしたから。日本で言う「中流」とは、衣食住を賄う生活ができるという事を前提として、あとは、金持ちである、という事より、人間としてきちんとした生活をする、知的文化的好奇心を持つ、

ヨーロッパの語源となったエウロパ

イメージ
この絵は、ヴェニスの巨匠ティツィアーノによる、米のボストンにあるイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館蔵、「エウロパの誘拐」(The Rape of Europa)。エウロパ(日本語では、エウローペーとも)の誘拐をテーマにした絵画の中でも最も知られているものだと思います。白い牡牛にさらわれるエウロパが、「あーれー!助けてー!」と叫んでいる様子が、ダイナミックに描かれています。 こちらは、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある17世紀前半に活躍したボローニャの画家、グイド・レーニによる「エウロパの誘拐」ですが、この絵のエウロパは、興奮も過ぎ去り、落ち着き払った様子を見せています。衣装も、ギリシャ・ローマというより、中世風。 さて、それでは、ギリシャ神話のエウロパ(エウローペー)の誘拐とは、どんな話かというと・・・ フェニキア王、アゲノール(Agenor)の娘であったエウロパ(Europa)。彼女が、海岸線を、女友達と、花を摘みながらそぞろ歩いていたところを、主神ゼウスの目に留まります。エウロパの美しさに一目ぼれしたゼウスは、白い牡牛に姿を変えて、乙女たちの前に姿を現す。大人しく、美しい、牡牛に、エウロパは近づき、やがて、その背中に這い上がる。これぞ、チャンスと、牡牛はいきなり、エウロパを背に乗せたまま走り出し、海にざぶんと入ると泳ぎ始める。きゃー!と大騒ぎする、他の乙女たちを海岸線に残して。やがて、ゼウスは、エウロパをクレタ島へと連れていき、エウロペはゼウスの愛人となり、ゼウスとの間に子供を作ることになります。幸い、ゼウスのやきもち妻、ヘラは、エウロパの存在には気が付かずに、エウロパは、ヘラの嫉妬に悩まされる事もなく。 2人の間に生まれた3人の息子は、ミノス、ラダマンテュス、サルペードーン(Minos, Rhadamanthus, Sarpedon)。特にミノスは、青銅器時代クレタ島に栄えた文明、ミノス文明の名のもとになっています。 エウロパをたいそう愛したゼウスは、彼女に3つの贈り物を与えます。ひとつは、彼女の護衛のための、タロス(talos)と呼ばれる青銅の人間。獲物は絶対に逃がさない狩猟犬ライラプス(Lilaps)。そして、目的を必ず射貫く投げやり。 エウロパは、やがてクレタ王アステリオス(Asterius)と結婚し、クレタ女王

ラリングストン・ローマン・ヴィラ

イメージ
前回の記事で書いた、ケント州にある、 ラリングストン・カッスル (Lullingstone Castle)から徒歩10分の場所にあるのが、ラリングストン・ローマン・ヴィラ(Lullingstone Roman Villa)。イギリスが ローマの支配下にあった時代 (西暦43年から約400年間)に、田舎に、いくつか、ローマ風の屋敷が建築されるのですが、これもそのひとつ。 1949年からはじまった発掘作業により、その全景が明らかになり、現在は、歴史ある建造物を守る慈善団体イングリッシュ・ヘリテージの管理下、ヴィラの廃墟は風雨によるダメージを避けるため、大きな建物内に保存されています。このヴィラが建てられたのは、西暦100年くらいで、その後、約300年もの間住み続けられ、その間、改造、拡大されていったということ。考えて見ると、大昔に、300年間、戦闘などに巻き込まれることなく、同じ場所に、平和に住み続けたというのも、かなりの快挙です。今年(2019年)9月は、第2次世界大戦勃発80周年ですから、現在のヨーロッパの平和も、まだ80年も続いていないわけですから。やがては、ほろびてしまったものの、ローマ帝国の統制力というのは、やはりすごかった。 ローマン・ヴィラと比べるのもなんですが、我が家は1960年建築なので築約60年。私たちの前に、3人ほど住んだ人たちがおり、それぞれのオーナーは、自分たちなりの改造を行っています。居間に 薪ストーブ を入れた際にもブログ記事にしたのですが、私たちも、ちょこちょこと、あちこち手直しをしており、その上、去年は、非常に狭かったキッチンダイナーの拡大工事をしました。60年で、それですから、300年の間にローマン・ヴィラがどんどん、新しい設備の導入、流行性、社会の変化、オーナーのニーズに従って、変わっていったというのは、よくわかるのです。去年の、うちの拡大工事は、なかなか大変で、日本のように、一気に壊してしまい、一から出直した方が簡単でいいなどと思いました。いつまで、この家に住むかわかりませんが、300年後のこの家、どうなっているんでしょう。 タイムマシン を持っていたら、乗って、見に行きたいものです。核戦争が始まって、無くなっていたなんて事が無ければいいけれど。失われた文明の庶民が住んでいた家の址として、観光客が来ていたりして!

ラリングストン・カッスル

イメージ
城ではなくお屋敷のラリングストン・カッスル ケント州にあるラリングストン・カッスル (Lullingstone Castle) を訪れてきました。ラリングストンという土地は、アインスフォード(Eynsford)という駅から、南へ歩いて15分ほどの場所にあります。アインスフォードまでは、ロンドンからは、各駅のゆっくり電車で、約50分ほどかかるのですが、距離的には、ロンドンをぐるりと囲む環状高速道路M25のすぐ外と、さほど遠くはないのです。 ラリングストン・カッスルと言う名で呼ばれながら、実際は、城でありません。現在残る建物は、15世紀末に遡り、建設された当時からずっと同じ家族(ハート・ダイク家、Hart Dyke)が住んでいるお屋敷です。昔は単に、ラリングストン・ハウスと呼ばれていたのを、18世紀中ごろ、威厳を持たせるために、「カッスル」と変えたのだそうです。まあ、「An Englishman's home is his castle. (イギリス人の家は、彼の城)」などと言われますから、それもありか。 威風堂々ゲイトハウス 本物の城へ入る門の様な立派なゲート・ハウスと、「やっぱり、これは城じゃなくて、屋敷だね。」といった、それでも立派な建物が、広大な池の脇に佇んでいます。 ラリングストンに住むハート・ダイク家の、現世継ぎ、トム・ハート・ダイク氏は、園芸家、植物収集家で、2000年に、ランの収集のため、南米のコロンビアを旅行中に、コロンビア革命軍のゲリラに誘拐されるという経験の持ち主。「殺す」と脅されながら、9か月拘束された後、いきなり釈放され、無事帰国。このコロンビアでの誘拐中、生きて帰れたら何をするかと色々考え、故郷のラリングストン・カッスルに、色々な国から集めた植物を地域ごとに分けて育成するワールド・ガーデン(World Garden of Plants)を作るというアイデアに行きついたという事。 帰国後、コロンビアでの経験を描写した本を出版、さらに、コロンビアで夢見た庭園の実現化に向けて漕ぎ出し、2005年にワールド・ガーデンはオープン。翌年には、BBCにより、「Save Lullingstone Castle」(ラリングストン・カッスルを救え)という番組も放映され、知名度が広まり、訪問者はうなぎのぼり。災い転じて福とな

バーリントン・アーケイド

イメージ
屋根のあるショッピングアーケイドは、にわか雨に降られた時などのウィンドーショッピングには便利です。特に、ロンドンの ピカデリーサーカス 近郊、ピカデリー街とバーリントン・ガーデンズ街をつなぐ、バーリントン・アーケイド(Burlington Arcade)内は、宝石や、ファンションなどの高級店が並び、私のような一般庶民は、それこそ、できるのはウィンドーショッピングくらい。内部に軒を連ねる小さい店内に足を踏み込むのも、何となく気おくれします。 1819年にオープンした、バーリントン・アーケイドは、長さ179メートル。ジョージ・キャベンディッシュ、第一代バーリントン伯爵(George Cavendish 1st Earl of Burlington)の命によって建設。彼は、アーケイドのすぐ東に隣接するバーリントン・ハウスに住み、ここで死去しています。バーリントン・ハウスは、現在は、その中庭に面した北翼に位置するロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院 Royal Academy of Arts、 通称RA)の本拠地として有名です。その他にも、王立天文学会、ロンドン地質学会などのそうそうたる協会が、バーリントン・ハウスを本拠地としています。 このジョージ・キャベンディッシュという人ですが、「 ある公爵夫人の生涯 (The Duchess)」という映画でもおなじみの、故ダイアナ妃のご先祖、ジョージアナ・スペンサーの夫君であった、ウィリアム・キャベンディッシュ(第5代デヴォンシャー公爵)の弟です。ジョージ・キャベンディッシュは、バーリントン・アーケイドを作らせる数年前の、1815年に、ジョージアーナとウィリアムの一人息子で、甥にあたる第6代デヴォンシャー公爵から、バーリントン・ハウスを買い取っています。 バーリントン・アーケイド誕生の由来の一説によると、ロンドン庶民が、バーリントン・ハウスの脇を通りながら、食べ終わった 牡蠣 の貝がらや、その他のゴミを、塀のむこうの、バーリントン・ハウスの庭に放り投げていたため、これを避けるため、アーケイドを作らせた、というもの。ふとどきな奴らから、邸宅を守るためのバリアのようなものです。 また、別の説によると、ジョージ・キャベンディッシュが、夫人と彼女の友達が、良からぬ人間が徘徊するロンドンの雑踏に紛れて買い物をする