ラリングストン・ローマン・ヴィラ

前回の記事で書いた、ケント州にある、ラリングストン・カッスル(Lullingstone Castle)から徒歩10分の場所にあるのが、ラリングストン・ローマン・ヴィラ(Lullingstone Roman Villa)。イギリスがローマの支配下にあった時代(西暦43年から約400年間)に、田舎に、いくつか、ローマ風の屋敷が建築されるのですが、これもそのひとつ。

1949年からはじまった発掘作業により、その全景が明らかになり、現在は、歴史ある建造物を守る慈善団体イングリッシュ・ヘリテージの管理下、ヴィラの廃墟は風雨によるダメージを避けるため、大きな建物内に保存されています。このヴィラが建てられたのは、西暦100年くらいで、その後、約300年もの間住み続けられ、その間、改造、拡大されていったということ。考えて見ると、大昔に、300年間、戦闘などに巻き込まれることなく、同じ場所に、平和に住み続けたというのも、かなりの快挙です。今年(2019年)9月は、第2次世界大戦勃発80周年ですから、現在のヨーロッパの平和も、まだ80年も続いていないわけですから。やがては、ほろびてしまったものの、ローマ帝国の統制力というのは、やはりすごかった。

ローマン・ヴィラと比べるのもなんですが、我が家は1960年建築なので築約60年。私たちの前に、3人ほど住んだ人たちがおり、それぞれのオーナーは、自分たちなりの改造を行っています。居間に薪ストーブを入れた際にもブログ記事にしたのですが、私たちも、ちょこちょこと、あちこち手直しをしており、その上、去年は、非常に狭かったキッチンダイナーの拡大工事をしました。60年で、それですから、300年の間にローマン・ヴィラがどんどん、新しい設備の導入、流行性、社会の変化、オーナーのニーズに従って、変わっていったというのは、よくわかるのです。去年の、うちの拡大工事は、なかなか大変で、日本のように、一気に壊してしまい、一から出直した方が簡単でいいなどと思いました。いつまで、この家に住むかわかりませんが、300年後のこの家、どうなっているんでしょう。タイムマシンを持っていたら、乗って、見に行きたいものです。核戦争が始まって、無くなっていたなんて事が無ければいいけれど。失われた文明の庶民が住んでいた家の址として、観光客が来ていたりして!

話を、しがない我が家から、立派なローマン・ヴィラに戻します。ケント州内には、ローマ時代、約60の屋敷が存在したのではないかと言われていますが、そのほとんどが、ケント州北部に集中していたそうです。特に、ヨーロッパ大陸への入り口となる、ドーバーなどの、ケント州海岸線に位置する主要港から、イギリスの要所をつなぐ道路として、ローマ人が使用した東西に走るワトリング・ストリート(Watling Street 、現在はA2と呼ばれる高速道路)の周辺や、ワトリング・ストリートを南北に横切る、メドウェー川(River Medway)、ダレント川(River Darent)沿いなどに多く点在したようです。ラリングストン・ローマン・ヴィラも、ダレント川沿いに位置します。

上の地図は、ここで買った、イングリッシュ・ヘリテージによるガイドブックに載っていたもので、水色と紫色の点が、こうしたローマン・ヴィラの存在したとされる場所。

それぞれのヴィラには、ローマ人が住んでいた場合もあり、またはローマ化した富裕現地人が住んでいた場合もあり。ラリングストンのものは、もしかしたら、後の皇帝になったような人物が住んでいたとか、地方統治者の別荘であった、などという憶測もあるようですが、実際に誰が住んでいたかは不明。

300年の間に渡り、拡大されていく中、床下暖房、広々したローマ風呂などが取り入れられ、段々、豪華になっていきます。上の図は、建てられた当初のヴィラの様子を描いた復元図。

こちらは、4世紀も後半のヴィラ周辺の様子。拡大された邸宅の敷地内、川のわきには、個人の邸宅としては、稀に見るほど巨大な穀物倉庫があり、邸宅裏手には、最初は神殿として使用された霊廟も建てられていたということ。

特に、このラリングストン・ヴィラで注目されているのは、キリスト教を信仰するための部屋の存在。この部屋は、他宗教の神々(水の神など)を祀るための部屋の上に設けられており、コンスタンティヌス帝が、キリスト教を公認した313年以降に築かれたとされます。よって、一時的に、邸内には、異教の神々を祀る部屋と、キリスト教を祀る部屋が、同時に存在したという事になります。

ダイニングルームであったとされる部屋の床に、4世紀中ごろにしつらえられたというモザイクが一部残っています。


邸宅の裏手の霊廟に埋葬されていた24歳の男性の骸骨も場内に展示されていました。

犬の骸骨もありました。番犬か狩猟用の犬であったのではないかということ。

ヴィラは、5世紀に火災に見舞われた形跡があるようで、その後、放置され、朽ちていったようです。その時期には、ローマ人も去って行き、アングロ・サクソン期に突入していますし。

ラリングストン・ローマン・ヴィラ公式サイトは、こちら。上に載せた、2つのヴィラの復元図は、当サイトより拝借しています。

さて、ラリングストン・キャスルとラリングストン・ローマン・ヴィラを訪れるのに、私たちは、アインスフォード(Eynsford)という駅から歩いたのですが、駅へ戻る前に、アインスフォードの村にも足を延ばし、ついでに村の中にある、アインスフォード城(Eynsford Castle)の廃墟も覗いていくことにしました。ヴィラの裏手の丘に登って、鉄道の走る高架橋のかかる景色を眺めながら、畑の脇の遊歩道を歩き、村へ向かいます。良い景色。

アインスフォード村のフォード
アインスフォードという名の通り、村の中心には、フォードがあります。フォードは、川の浅い部分が道路を交差する場所で、日本語では「洗い越し」と呼ばれるものです。「xxフォード」と、地名についている事は多々あります。

アインスフォード城跡は、村の目抜き通りの裏にひっそりと隠れていました。ただの屋敷を、城と呼んだ、ラリングストン・カッスルと違い、こちらは、本物のお城だった場所です。

ノルマン人征服後すぐの1085年に、ウィリアム・ド・アインスフォード(William de Eynsford)なる人物により建築。13世紀中ごろに、アインスフォード家が途絶えた後に、城と土地は、2つの家族に分けられ相続されたものの、この2家の間で、紛争が絶えず起こり、ついには、それがエスカレートし、1312年、城は破壊を受けるに至り、その後、人が住むことはなかった・・・というお粗末な結果となっています。後の時代に、ラリングストン・カッスルを所有するハート・ダイク家の手に渡り、城は、厩、または狩猟用の犬を飼う場所として使われるまでに、身をやつします。

現在は、無事、その歴史的価値を認められ、やはりイングリッシュ・ヘリテージにより管理されています。良くある話で、内部は廃墟が残るのみなので、入場は無料。

アインスフォード城公式サイトは、こちら

アインスフォードは、小さな場所ですが、半日で、ラリングストン・カッスル、ローマン・ヴィラ、そしてアインスフォード城と、3つの違った観光場を回ることができ、ちょっとした田舎道ハイキングも楽しみ、満足して、駅へと向かいました。難を言えば、村の目抜き通りを含め、道路わきは、車の量が多く、歩くのが、あまり気持ちの良いものではなかったことくらい。そうですよね。観光客は、皆、車で訪れていたようで、電車と歩きでやってきたのは、私たちくらいでしたから・・・。いつも、感じる事ですが、この車のみに頼る社会、なんとかならんかな。

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