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ウィリアム・チャーター

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上の写真は、ウィリアム・チャーター(William Charter)と呼ばれる文書で、1067年に書かれた、シティー・オブ・ロンドン保有の文献の中でも一番古いものです。チャーターとは勅許状の事。 こちらは、ウィリアム・チャーターに付いていた、ウィリアム1世の印章。 前回の バーカムステッド城 の記事で触れた通り、1066年、ヘイスティングスの戦いで勝利したノルマンディー公ウィリアムは、テムズ川を隔てて、ロンドン(シティー・オブ・ロンドン)の南岸に位置するサザックへやってきて、そこからロンドンに侵入しようとしたのですが、それは失敗に終わり、そのまま、今度は、ロンドン北部のバーカムステッドへ軍を移動して、そこで、イングランド側からの降伏を受諾して、イングランド王座を正式に手にしています。 行く先々の町や村を焼き尽くして大暴れをしたウィリアム1世ですが、戴冠の後、ロンドンの富裕な住民たちと、その商業の場としての重要さを考慮して、ロンドンは、敵に回すより、味方につけることに決めます。そこで、昔からあるシティーの権利を認める旨の勅許状を、シティーに渡し、「これからよろしく、仲良くしようね。」という態度を示したのです。しかも、ウィリアム・チャーターで使用されている言語は、彼の母国語であるノルマン系フランス語ではなく、当時の古い英語。要するに、ロンドン市民たちの言葉で書かれているところがまた、気を使っています。 内容は 我、ウィリアム王は、ロンドン司教ウィリアム、ポートリーブ(当時の市長のような存在)であるジェフリー、そしてフランス人、イギリス人を含むすべてのロンドン市民たちに親しみを込めて挨拶する。我は、ここに、エドワード王の時代から存在する、諸君の権利や習慣を守るつもりであると伝えたい。全ての息子たちは、父が亡き後、その財産を継ぐものとし、われは、何人にも危害を加える意図は無い。神の恵みがあらんことを。 といった感じのもの。 上の絵は、 ロイヤル・エクスチェンジ 内にある壁画の一部で、ウィリアム1世が、ロンドン市民にウィリアム・チャーターを手渡すところを描いています。かなり想像に頼っている絵画ではありましょうが。 こうして一応は、仲良くやっていくこととなった、ウィリアムとシティー。それでも、富と影響力を持つロンドン市民たちが、自分に

バーカムステッド城

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去年の今頃は、 大雪騒ぎ を経験したイギリスですが、先週は、記録的に暖かい日が続き、陽気に誘われ、ハートフォードシャー州バーカムステッドにある城跡訪問と周辺のハイキングへ出かけました。 バーカムステッド(Berkhamsted)という地名は、英語のウィキペディアによると、「berk」の部分が、丘か、カバノキを意味し、 「hamsted」とは「homestead、ホームステッド」の事で、土地つきの家・館を意味するので、「丘またはカバノキに囲まれた荘園」の様な意味になるそうです。 1066年10月14日に戦われた ヘイスティングスの戦い で、イングランド王ハロルドの軍を破り、勝利したノルマンディー公ウィリアム。1週間ほど、ヘイスティングスに留まり、ウィリアムをイングランド王と認める、イングランド側の正式な服従を待ったものの、それは来ず、ウィリアムは、兵を上げロンドンへと向かいます。その過程で、まず、港町 ドーバー を焼き尽くし、キリスト教会の大切な根拠地 カンタベリー を落とし、11月には、テムズ川南岸にあるサザックへ到着。サザックから、 ロンドン橋 を渡った対岸のロンドン(シティー・オブ・ロンドン)に侵入するのに失敗したウィリアムは、その後、行く先々を焼き尽くしながら、テムズ川南岸を西(上流)に移動し、12月初旬、オックスフォードシャー州のウォーリングフォード(Wallingford)でテムズ川を対岸へ渡ります。ここから軍の一部を、要地であるウィンチェスターへ送り、ウィンチェスターを抑え、ウィリアムは、そのままチルターン丘陵を沿って、ロンドンの北西約42キロの場所に位置するバーカムステッドにやって来るのです。要は、ロンドンの南部のサザックから、ロンドンを軸とした感覚で、ぐるりと時計回りに半周してバーカムステッドにたどり着いたわけです。 そして、このバーカムステッドの地で、ウィリアムは、ハロルド王亡き後、イングランドの王位継承者と見られていた14歳のエドガー・アシリングとアングロ・サクソンの重鎮たちを迎い入れ、彼らの降伏を受諾し、イングランド王と認められます。さんざん、あちこちの村や町を焼き落されて多くの犠牲者を出した後の服従とあって、早めに状況判断をして、とっとと降参していれば、被害も少なく済んだのに、という批判もあるようですが。そして、クリスマスの日