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ロンドンへ水を運ぶニューリバー

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玉川上水のきょうだい?イギリスのニューリバーの始まり部 「大江戸えねるぎー事情」(石川英輔著)という本を読んでいて、「水事情」を書いた章に下のような記述がありました。 「神田上水や玉川上水ができた当時、本格的な水道があったのは、世界中でロンドンだけだった。1618年、つまり神田上水の11年前、玉川上水の30年前に、ロンドンでは約30キロメートル離れた高地の湧水をニューリバーという人工水路で引いて配水する民間の事業が始まっていた。玉川上水のイギリス版といえるだろう。だが、この水路の建設は難工事で、4年もかかったという。 ロンドン市内での配水は、丸太の中をくりぬいた排水管を地下に埋めずに地上に置くなどの違いこそあったが、こちらも太陽エネルギーと重力を利用したエネルギー消費ゼロの自然流下式であって、時代としても技術にしても、江戸の水道のきょうだいと言っていいほどよく似ているから面白い。 ついでに書いておくと、パリの水道はニューリバーや神田・玉川上水に比べてはるかにおくれていた。・・・」 ロイヤル・エクスチェンジにあるヒュー・ミドルトンの彫像 ニュー・リバー(New River)と聞いてすぐに頭に浮かんだのは、シティーの ロイヤル・エクスチェンジ を取り囲む彫像のひとつ、ヒュー・ミドルトン(Hugh Myddelton)の彫像。彼が、ニューリバー建設の立役者で、その業績のために、こうしてシティーのど真ん中にも、彼の彫像が残っているのです。 ニュー・リバーは、ニュー(新しい)でもなければ、リバー(川)でもありません。まあ、できた当時はニューだったわけですが。「大江戸えねるぎー事情」の記述の通り、人口水路です。ハートフォードシャーの州のウェアー(Ware)近郊で、リー川(River Lea)から水を取り、土地の高低の差を利用して、その水をロンドンへ運ぶ役割を果たしてきました。 1600年以前は、ロンドンの飲料水は、テムズ川や、周辺の支流からひいてきた水、井戸、泉に頼るもので、人口増加に伴い、汚水なども混ざり、水質も怪しげ。17世紀に入ってから、エドマンド・コルサースト(Edmund Colthurst)なる人物が、ハートフォードシャー州の泉から、きれいな水を引いてくるという考えに行き当たり、ジェームズ1世から、そのための水路建設の許可を取

ボリス・ジョンソン

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ニシンの燻製(キッパー)を振りかざすボリス・ジョンソン 記録的な熱波がイギリスを襲っています。異常な暑さの中、与党である保守党(トーリー)のリーダー、ひいては、イギリス首相に、道化師が選出されてしまいました・・・。 アレクサンダー・ボリス・ド・プフェフェル・ジョンソン(Alexander Boris de Pfeffel Johnson)。本来のファーストネームであるアレクサンダーを使わず、通常、ボリス・ジョンソンで通っている彼は、1964年生まれの55歳。一般には、単にボリス、または、ふざけてボージョーなどと呼ばれます。生粋のイギリス人とは言い難い、トルコ系、ユダヤ系、ドイツ系などの色々な血が入っている人。もっとも、度重なる移民の波で出来上がった国ですから、生粋のイギリス人という言葉自体が定義に困るところでしょう。現王室自体が、ドイツ系ですから。 以前、「Who do you think you are?」(あなたは自分を何者だと思う?)、というBBCによる、著名人が自分の祖先の歴史を探し当てる番組に出演し、ボージョーは、父方の祖父母の祖先を辿っていました。この時、祖父の父が、オスマン帝国末期のジャーナリスト・政治家であり、後に暗殺される、アリ・ケマルという人物の息子であったと判明。更に、ド・プフェフェルという、ちょっと貴族的な、妙な名の祖母の家系の方をずーっと辿ると、なんとジョージ2世にたどり着いていました。 ボリス・ジョンソンの略歴を書くと・・・ ニューヨークで生まれ、幼いころは、ベルギーのブリュッセルのヨーロピアン・スクールで学んでいます(だからこの人、フランス語喋れるのでしょう)。ヨーロピアン・スクール在学中に、母親が精神病にかかり、子供たちを残し、イギリスへ治療のために戻ってしまう。ボリスも、11歳で、イギリスの寄宿学校アッシュトン・ハウスへ送られ、その後、名門 イートン校 へ入学。そして、オックスフォード大学ベリオール・カレッジにて古典学を専攻。大学時代は、やはりイートン校からオックスフォードへと進んだデイヴィッド・キャメロンなどと共に、悪名高きダイニング・クラブの ブリンドン・クラブ のメンバー。また、討論クラブとして有名なオックスフォード・ユニオンの会長も務めています。この頃のオックスフォード大学は、現在の保守党(トーリー)の

ブラッドショーのガイドブック

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"Just look up the trains in Bradshaw," said he, and turned back to his chemical studies. from "The Adventure of the Copper Beeches"  by Arthur Conan Doyle, 1892 「ブラッドショーで電車の時刻を調べてくれ。」とホームズは言うと、再び、化学の実験に戻った。 アーサー・コナン・ドイル著「ぶな屋敷」より 日本で、イギリスを含めたヨーロッパの列車の時刻表と言うと、トーマス・クック社のものが有名で、東京の大手の本屋でも売っていたと記憶します。一方、 シャーロック・ホームズ が、事件の調査のため、電車に乗る際に、頼りにしていたのは、ブラッドショーの電車時刻表。冒頭の引用は、1892年発表の「ぶな屋敷」( The Adventure of the Copper Beeches) からで、シャーロック・ホームズは、「明日の昼、ウィンチェスターのブラック・スワン・ホテルに来てくれ」との電報を、捜査依頼人から受け取り、ワトソンに、電車時刻の確認を頼むシーンです。単にブラッドショーと呼ばれている事からも、しょっちゅう使われ普及されていた様子がわかります。 さらに、コナン・ドイルのシャーロックもの長編で、1914年発表の「恐怖の谷」(The Valley of Fear)の冒頭では、ベーカー街に送られて来た暗号を解読するにあたり、ある本をもとにすると察したホームズは、ワトソンに、「比較的厚い本で、誰でも手元に持っており、印刷が標準化されているため、版によって、ページのレイアウトが違わないもの」とヒントを出して、当てさせようとするのです。最初、ワトソンは、「ブラッドショー!」と推測するのですが、基本的に時刻表ですから、文字はさほど多くない、最終的には、この読解に必要な本は、当時良く購入されていたという、Whitaker's Almanack(ウィタカー年鑑・その年にあった事件、時事などをまとめたもの)であったのですが。 ジョージ・ブラッドショー(George Bradshaw、1800~1853年)は、地図の製図家であり、地図を主とした印刷業を営んでいましたが、

牡蠣の町、ウィスタブル

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今から25年ほど前の、1994年発行された、古いイギリスのガイドブックを、まだ捨てずに、とってあります。これで、ケント州ウィスタブル(Whitstable)の項を読んでみと以下のように書かれていました。(少々略して、私が英語から日本語に訳したものです。) 「古典古代の時代から、この地独特のシルト(沈泥)と、適当な塩分濃度は、牡蠣の生息には非常に適した場所であり、ローマ人は、周辺で取れた、この海の珍味に舌鼓を打った。1950年代には、海岸沖5000エーカーに渡る牡蠣の生息地、そしてさらには、漁業と観光で、町は栄えていたが、その後、牡蠣生息地域の汚染、及び、観光客の志向の変化で、ウィスタブルは、もっと、つつましい存在に甘んじることとなった。今日では、小規模な造船と、少々ボヘミアンな雰囲気が、この町を、ケント州北岸に位置する町の中で、数少ない魅力的な場所の一つとしている。」 前回の記事、「 イギリスでの牡蠣の歴史 」で触れたよう、エセックス州、ケント州海岸線で多く取れた原産のヨーロッパヒラガキ(学名:Ostrea edulis)は、取りすぎ、汚染、天候などの理由で、60年代には、産業として成り立たなくなるほどの大打撃を受けています。更には、スペインなどでの海外でのホリデーが人気となるにつれ、かつては、観光目的地として栄えたイギリス国内の海岸リゾートの多くが退廃の一途を辿ります。 このガイドブックの通り、ケントの北岸の町は、廃れてガラが悪いという評判。ウィスタブルから、さらに海岸線を東へ行ったマーゲイトは、かつて画家 ターナー が足しげく通った場所で、美術館建設などで、新たな町おこし努力をしているようでいながら、やはり、ガラの悪さが取りざたされる場所ですし。(この偏見があり、まだ、行った事がないので、断言はしませんが。)北海岸ではありませんが、ケント州ドーバーへ行った時も、 ドーバー城 、 ホワイト・クリフ のウォーキングなどは楽しかったものの、町の中心地で、昼間からビール瓶を握って、酔っ払い、罵りあっている何人かの男性を目撃し、ちょっと怖い思いをしたため、ドーバーの町自体へはあまり良い印象を得なかったのは確かです。もっとも、海岸線の町だけにとどまらず、イギリス内、どんな大都市に行っても、酔っ払いや、「麻薬をやってるんじゃないか」の様な人間がはびこるとこ

イギリスでの牡蠣の歴史

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日本にいたころ、牡蠣(オイスター)を食べた記憶と言えば、うちのばあちゃんの得意料理であったカキフライがほとんどで、後は鍋でした。酢漬け以外では、生で食べた事はほとんど無かったと思います。また、ばあちゃんのカキフライの、一回に作る量、かなりのものがあったので、日本では比較的低価格で手に入るものであったのでしょう。 イギリスに来てから食べた牡蠣は、すべて生。食中毒を避けるため、水揚げ後は、最低42時間ほど浄化されてから出されているようです。そのお値段たるや、レストランなどで、生牡蠣を一回に6つほど食べただけで、15~20ポンドくらいは取られます。日本で、フライにして、一挙にばく食いしていた日々が、嘘の様です。牡蠣に関しては、生魚を食べるという文化の日本では、調理したものが主であるのに、ヨーロッパでは生で食べるのが主流という、少々、変わったケースです。特にイギリスなど、魚とくれば、なんでも、 フィッシュ・アンド・チップス のように、フライにしてしまえ!のようなお国柄ですから。 牡蠣というのは、人類の歴史上、世界各地で、非常に長い間、食べ続けられてきたと言います。極端な気候でない限り、川が海に注ぎ込む河口の海岸線であれば、簡単に採ることができ、硬い殻に入っているため、そのままの運搬も比較的簡単、そして、たんぱくのみならず、ビタミン、ミネラルも含み、栄養も豊富というスーパーフード。 自然のものを、必要に駆られ、勝手に採って食べるだけではなく、牡蠣の風味を楽しみ、養殖をイギリスで開始したのは、やはり、ローマ人でした。特に、 ローマ帝国下のイギリス における最初の首都コルチェスター(Colchester)沖で取られ、養殖された「コルチェスター・オイスター」は、味覚の洗練されたローマ人達には、ありがたがられ、わざわざ、イタリアまで、生きたままのコルチェスター・オイスターを持って帰ったりしていたそうです。ローマからは、帝国内の、あか抜けない辺境の地と見られていたイギリスにおいて、牡蠣は「イギリスの唯一の、いいもの。」であったのです。 中世のキリスト教社会では、金曜日など、肉を食べられない、という日が多かったため、魚の代用としても重宝され。やがて、宗教改革後、イギリスがプロテスタントの国となってからは、肉と牡蠣を一緒に混ぜてパイにするというレシピも多々使用される

サウスエンド・オン・シー

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世界一長いサウスエンド・ピアの上を走る列車 「ピア(桟橋・埠頭)と言えば、サウスエンドであり、サウスエンドと言えば、ピアである。」 (The Pier is Southend, Southend is the Pier.) と、ヴィクトリア朝に建てられた建築物の保護を唱え、 セント・パンクラス駅舎 を取り壊しから救った、列車好きの、かつての桂冠詩人、ジョン・ベッチャマン(John Betjeman 1906-1984)は言ったといいます。・・・確かに!私たちが、エセックス州サウスエンド・オン・シー(Southend on Sea)へ出かけた理由も、2158メートルという世界一の長さを誇る、そのサウスエンドのピアを見るためでしたから。かつて訪れた、やはりエセックス州の ウォルトン・オン・ザ・ネイズ のピアは、イギリス国内で3番目の長さを誇るものでしたが、サウスエンド・ピアは、軽くその倍以上の長さがあります。地図上で見ても、テムズ川河口の北岸から一直線に飛び出しているこのピアは、「お、こりゃ、なんじゃ?」と、ぱっと目につきます。 そして、サウスエンド・ピアの、更なるアトラクションは、その上を列車が走っている事。2台ある列車の一台は、サー・ジョン・ベッチャマンと名付けられ、もう一つは、サー・ウィリアム・ヘイゲイト。このウィリアム・ヘイゲイト(William Heygate)という人物は、19世紀初頭の政治家で、 ロード・メイヤー にもなった人物。サウスエンドにピアを建設する運動に尽力した功績から、列車に、その名が記念されています。 最初に、ここに、まず木製のピアが建設されたのは、昔々の1830年に遡り、それが、現在のピアの土台となる鉄製のものにに作り直されたのが1889年。観光客を乗せてやってくる蒸気船の数が増え、それらを碇泊させるため、ピアを更に延長させたのが、その約10年後。現在の長さの2158メートルまで延長されるのは、20世紀に入ってからの、1929年となります。(余談となりますが、蒸気船で、ロンドンから、海辺のリゾートに出かけると言うと、画家ターナーの人生後半部を描いた映画「 ターナー、光りに愛を求めて 」内で、ターナーがロンドンから蒸気船に乗って、彼のお気に入りであったケント州の海岸線の町、マーゲートに出かけるシーンがあったのを思い起こ