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ロチェスター

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ロチェスター城からロチェスター大聖堂を望む ケント州ロチェスター(Rochester)は、メドウェイ川(River Medway)が海に注ぎ込む所にある、小さな町。古い歴史がある他にも、チャールズ・ディケンズが好んだ場所として知られています。作家として成功したディケンズは、ロチェスターからメドウェイ川を渡ってすぐ北にあるハイアム(Higham)に、ギャッズ・ヒル(Gads Hill Place)と称される大邸宅を購入、この館で亡くなっています。若き日のディケンズの作品「ピクウィック・クラブ」(The Pickwick Papers)で、お人好しの老紳士ピクウィック氏が、自らがリーダーであるピクウィック・クラブのメンバー3人を引き連れて、ロンドンからのコーチ(馬車)に乗って、最初に訪れる土地もロチェスターでした。今では、馬車に乗って、泊りがけの物見遊山をせずとも、ロンドンのキングスクロス駅から、日立が作った速い電車に乗って約40分の、日帰り圏内。 ロチェスターのハイストリート イギリスで「xxチェスター」という名の場所は、ローマ時代に大切であった町だと言われていますが、ロチェスターもそう。港町 ドーバー から、ロンドン、更には、 セント・オールバンズ へと続くローマ時代の主要道路は、ワトリング・ストリート(Watling Street)と称されましたが、この道は、ロチェスターで、メドウェイ川を渡る必要があり、そのために、この地に初めて橋を架けたのもローマ人であったようです。このローマ時代名残のドーバーからロンドンへと行く道路は、現在はA2と呼ばれる自動車道で、ロチェスターのハイストリート(目抜き通り)を突き抜けています。主要都市を結んでいた、こうしたローマ時代の道に端を発する自動車道は、この他にも、ロンドンとコルチェスター、 イプスウィッチ を結ぶA12、ロンドンからヨーク、そしてスコットランドまで続くA1など、色々あります。大体の場合、ローマ時代に遡る道路は、ほとんどまっすぐ、一直線。やはりローマ時代の3世紀にはロチェスターを囲む石壁が建設されます。 ローマ人が去ったのちのロチェスターは、一時廃れたものの、597年に、アウグスティヌスが、ローマ教皇グレゴリウス1世により、布教のために派遣され、イングランドはケント王国にやって来たのが転機と

ディック・ウィッティントンと猫

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ボウ・ベルが鳴る「ウィッティントンよ、戻っておいで」と 以前、 コックニーに関する記事 で、ロンドンのボウ教会(St Mary-le-Bow)の鐘、ボウ・ベルの音の事に触れましたが、今回は、このボウ・ベルにまつわる、別の伝説、リチャード・ウィッティントンの話を書くことにします。 リチャード・ウィッティントン(Richard Whittington)・・・一般には、リチャードの愛称であるディックを使って、ディック・ウィッティントン( Dick Whittington)として知られています。1398年、1406年、1419年と、3回ロンドンの市長(Lord Mayer ロード・メイヤー)となった人物。歴代のロード・メイヤーの中で最も有名な人物です。混乱を招かぬように書いておくと、現代のロード・メイヤーは、任期1年の、ロンドン・シティー地域のみの代表人物の事を指し、ロンドン全体(Greater London)を代表し、4年に一回の選挙でロンドン市民により選出されるロンドン市長(Mayor of London)とは異なります。ディック・ウィッティントンの時代は、ロンドンと言うと、現在のシティー地区を指したため、ロード・メイヤー=ロンドン市長であったわけですが。 ハイゲイト・ヒルにあるウィッティントン・ストーン さて、伝説によると、グロスターシャー州から、ロンドンで一旗揚げようとやって来た貧しいディック・ウィッティントン。しばらくロンドンに滞在したもののラチあかず、あきらめて、故郷へ戻ろうと、ロンドンに背を向け歩き始めます。ロンドン北部のハイゲイト・ヒルの丘をえっちらおっちら登り切った時、ロンドンの方角から、鐘の音が聞こえてきて、立ち止まるディック・ウィッティントン。道行く人に「あの鐘の音はどこの鐘でしょう?」と聞くと、「あんた、ありゃ、偉大なるボウ教会の鐘の音ですよ。」との答え。ディックは、傍らの マイルストーン に腰掛け、しばらく鐘の音に聞き入りました。すると、そのうち、ボウ・ベルが、 Turn again Whittington Thrice Lord Mayor of London Town ウィッティントンよ、戻っておいで 三度ロンドン市長となる者よ と語っているように聞こえてきたのです。そこで、ディックは、ボウ・ベルのお告げ

ハイゲイト墓地の歴史と東墓地訪問

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ロンドン北部の高級住宅地ハイゲイトにある、ハイゲイト墓地(Highgate Cemetery)は、ロンドン中心部の、教会に付随する墓地が、過去の度重なる埋葬によって、ぎちぎちになってしまった結果の産物です。 かつては、火葬というのがありませんでしたから、ロンドン内に限らず、教会の墓地というのは、何百何千という死体を次から次へと葬ってきたため、教会の建物の立つ地面よりも、盛り上がって高くなっているという事が多々あります。 そんなこんなで、19世紀初頭には、ロンドンでの死者の埋葬場の不足は、もう無視できない一大問題となり、私営企業が乗り込んで、1830年代から、1840年代にかけて、ロンドン郊外の緑地に、いくつかの墓地が新設されることとなります。こうした新墓地のインスピレーションとなったのは、パリのペール・ラシェーズ墓地(Pere Lachaise Cemetery)であったという事。 ハイゲイト西墓地への入り口 この新墓地のひとつであったハイゲイト墓地は、ロンドン・セミトリー・カンパニー(London Cemetery Company)により、1839年にオープン。この際に作られたのは、現在、西墓地(Highgate Cemetery West)と呼ばれる区画。墓地といえども、ビジネスですから、富裕な中流階級を引き付けるため、美しく造園され、エジプト街、レバノン回廊などの、目を引く、呼び物的建築物も建てられ。また、当初から、観光地として一般公開する事もすでに頭に置いて造園されたようです。墓地内には、一部、イギリス国教会以外のプロテスタント信者(Dissenters 非国教徒)のための埋葬場も設けられます。 1850年代になると、ロンドン中心部での埋葬が禁止となり、需要拡大に対処するため、ロンドン・セミトリー・カンパニーは、西墓地に隣接する更なる土地を獲得し、1860年に、現在の東墓地(Highgate Cemetery East)がオープンとなるのです。夫君アルバート公の死に嘆き悲しみ、 長い喪に服すヴィクトリア女王 の影響もあって、墓地というものにロマンを感じるヴィクトリア朝の人間は多かったのか、観光地としてのハイゲイト墓地は、すでにガイドブックなどにも紹介されていたと言います。 ビジネスとしての墓地の弱点は、埋葬場がつきてしまう

ウッドブリッジの潮力水車

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ウッドブリッジのタイド・ミルについて サフォーク州のウッドブリッジ(Woodbridge)はデベン川(River Deben)沿いにある趣の良い小さな町。この部分のデベン川は、河口に近いため、潮の満ち引きがある場所です。 川沿いの散歩も気分よく、また、小さな可愛らしい店が並ぶ街中の目抜き通りをひやかしに歩くのもいいですが、特記すべきなのは、ここにあるタイドミル(Tide Mill)。タイドミルというのは、潮力を利用した下射式水車の事で、ウッドブリッジのタイドミルは、イギリスで初めて使用された潮力水車のひとつであり、更に、現在も起動されている唯一のものだという話です。 1170年にはすでに、潮力水車小屋がここにあったという記録が残っており、その後、約350年、ヘンリー8世による 修道院解散 により王家によって没収されるまで、アウグスチノ派修道院により所有されていたという事。28年間、王家所有であったものを、エリザベス1世が、ウッドブリッジ出身の有力者トマス・セックフォード(Thomas Seckford)に売り、セックフォード家が後の100年間所有。幾人かの手に渡ったのち、1793年に、現在の水車小屋が、以前のものと同じ場所に建て直されることとなります。さすがに20世紀に入ると、水車も時代遅れとなっていき、1950年代には、すでに国内で動いている最後の潮力水車小屋となり、1957年についに閉鎖。1968年に保存が決まり修復され1973年に一般公開が始まります。近年、また一時的に閉めて修復作業をしていたと記憶します。 せっかく行くなら水車を動かしている時間、更には、週に1回行われている、実際に粉をひく日に行ってみようと、出かけました。満ち潮の時に、水車小屋の裏にある貯水池に水が溜まり、干潮時に、そこから水を放出して歯車をうごかす仕組み。かつて、この貯水池はもっと大きかったようですが、現在、その半分はヨットハーバーとなってしまって、以前より小さくなっています。 潮の満ち引きは、当然、日によって時間が違うので、前もって、引き潮の時間と水車を動かす時間を見ていく事は必至です。この日の水車起動は、夕方の4時。 ウッドブリッジ潮力水車用貯水池 3時45分くらいに館内へ入ると、内部の係りの人たちは、みな非常に親切で、色々、水車の仕組みを説明し