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ブレグジット騒動は続く

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ホンダがウィルトシャー州スウィンドンに約30年以上存在している工場を2021年に閉鎖するアナウンスを聞きました。サンダーランドにある ニッサン 同様、今ではスウィンドンというとホンダという方程式の様に定着した感があるのに。両社とも、私がこの国に来た時と、大体同じ時期にイギリスにやって来ているので、この撤退には、一抹の寂しさを感じます。 スウィンドンもサンダーランドも、日系企業が、 ブレグジット を望まないという態度を示していたに関わらず、国民投票では、大幅に、EU離脱に投票した街なので、たとえ、この結果、大量失業が出て、町がすたれて行っても、自業自得とも言えるのですが。ホンダは、閉鎖決断はブレグジットとは関係ない、と言っているものの、製造した車の90%を、ヨーロッパとアメリカに輸出している工場の閉鎖に、ブレグジットが関係ないわけがない。しかも、サッチャーさんに、「EUの拠点として、イギリスはいいですよ~」と熱いラブ・コールを送られた結果、80年代にやって来て、それぞれ、長期的視野で辛抱強く投資を展開してきたのに、このブレグジット騒動には、イギリスにしてやられた、という苦い気持ちも、両社とも持っている事でしょう。しかも、日本とEUが貿易協定を結んだ後とあって、もう、現在の信頼おけないイギリスに義理を尽くす必要もないですから。 日本の母親と電話で喋っていて、「そっち、大変みたいだけど、何が何だかわからない。」などと言っていました。気分が暗くなるので、ブレグジットの事は、しばらくブログに書かなかったのですが、これを機に、この後、どういう風にブレグジットに突入するのか、または、突入しそうなのか、簡単に説明を書くことにしました。 まず、イギリスがEUのメンバーでなくなるのは、3月29日なので、あと、1か月とちょっと。それまでに、イギリス政府が何をすべきかというのは、EUとの離脱協定(Withdrawal Agreement)を結ぶこと。去年の11月25日に、テレーザ・メイとEUの間で、とりあえず合意した現状の離脱協定案には、3つ大切な要素が入っていますが、それは、 離脱に当たり、イギリスがEUに支払う金額(今の段階では39兆ポンドほど) イギリスに住むEU市民、EUに住むイギリス国民のそれぞれの権利の保護 北アイルランドとアイルランドの境界に関する予備

ロンドン塔の囚人たち

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ロンドン塔は、ヘンリー8世の時代中頃までは、時に、王宮としても使用されていましたが、不穏の世の中では、外の危険から身を守る砦となり、また、その時代時代に、君主にとっての、不安分子と見られる人物を幽閉する牢獄としての役割も果たしてきたわけです。 前回の記事に書いた、 ロンドン塔での斬首刑 の話や、何人もの著名人たちが、ロンドン塔へ送られ、幽閉されたり、時に拷問、殺害なども起こった事から、おどろおどろと、暗く恐ろしいイメージが一番強い場所ですが、最初から牢獄として建てられたわけではないので、数々の幽閉された者たちは、その時に空いている塔、空いている場所に住処を当てがわれ、特に、「囚人を閉じ込めるのは、ここのみ」と指定されていた場所は無いようです。待遇も、幽閉される人物によりピンキリで、高貴な身分の人物は、閉じ込められる、と言っても、比較的、良い待遇で扱われ、ロンドン塔塀の外には出られないが、ホテル暮らし、のような感覚。家族などの訪問滞在も許されたりもしていたようです。 砦としてのロンドン塔 最初に、ロンドン塔を砦としてたてこもったのは、スティーブン王で、ヘンリー1世の死後、スティーブンが、ヘンリーの娘マチルダと政権を争い、イングランド中が内戦状態に陥った時。 また、少年であったリチャード2世は、人頭税問題で巻き起こった ワット・タイラーの乱 で、ロンドン塔にたてこもっています。反乱軍から身を守るため、やはり塔内にいたのは、人頭税の生みの親、人民の敵とみなされたカンタベリー大司教で大法官でもあった、サイモン・サドベリー。リチャード2世が一時ロンドン塔を出て行った際、塔の門番は、押し入る暴徒たちを止めることもせず、門を開け、哀れ、不人気のサイモン・サドベリーは、タワー・ヒルまで引きずり出され、首を切られて死亡。砦などと言っても、門番が協力してくれなければ、こういう事もあり・・・。ワット・タイラーの乱の際は、果敢に スミスフィールド へ乗り込み、反乱軍と対面し、事を収めたリチャード2世も、後に、いとこで、ランカスター家のヘンリー(後のヘンリー4世)により、今度は、ロンドン塔に幽閉され、塔内で、王座を去る宣言をする結果となります。ついでながら、過去のイギリス君主の中で、自ら退位するはめになったのは、このリチャード2世と、アメリカ人、ウォリス・シンプソンと結婚

ロンドン塔での処刑

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ロンドン塔内タワー・グリーンから、ホワイト・タワーとタワー・ブリッジを望む こんなクイズを見かけました。 悪名高きロンドン塔内で、処刑された人の数が一番多い世紀はいつでしょうか。 a.16世紀 b.17世紀 c.18世紀 d.19世紀 e.20世紀 この手のクイズの御多分に漏れず、これも、ひっかけ問題です。「ロンドン塔で処刑・・・斧を振り下ろされて、首ちょんぱ・・・これは、 チューダー朝 の時代が一番多いに違いない、ということは、16世紀かな?」と、考えがちですので。 答えは、「e」で、20世紀。 実際に、塀で囲まれたロンドン塔の敷地内で処刑になった人間というのは、意外と数が少ないのです。大体の、著名事件、著名貴族の処刑は、ロンドン塔敷地すぐ外の、 タワー・ヒル (Tower Hill)にて行われた事が多く、 トマス・モア などが処刑されたのも、タワー・ヒルでの事。 ロンドン塔敷地内にある、タワー・グリーン(Tower Green)と称される小広場で処刑されたのは、公共の目にさらされる処刑から免れた、王妃を含む、少数のかなり位の高い人間がほとんど。 下がロンドン塔敷地内のタワー・グリーンで、 打ち首による処刑 を受けた人物の名ですが、7人のみ。 1483年 ウィリアム・ヘイスティングス(William Hastings) エドワード4世の忠臣であった有力貴族。エドワード亡き後、エドワードの弟リチャード(後のリチャード3世)に忠誠を誓いながら、リチャードにより反逆罪に問われ、処刑されたとされています。 1536年 アン・ブリン(Anne Boleyn) 言わずと知れた、ヘンリー8世の2番目の妻で、後のエリザベス1世のママ。斧での打ち首は、うまく1回で切れずに、何度か斧を振り下ろされるという悲惨な事もあったため、そんな事態を避けるために、フランスからわざわざ、剣の達人を呼び寄せ、剣の一振りで死亡。 1541年 ソールズベリー女伯、マーガレット・ポール(Margaret Pole) 彼女の父親は、エドワード4世と、リチャード3世の弟にあたる、クラレンス公ジョージで、母親は、ばら戦争の時代「キング・メーカー」と称された有力貴族リチャード・ネヴィルの娘のイザベラ・ネヴィル。 彼女は、ヘンリー8世と最初の妻キャサリン・オブ