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8月, 2013の投稿を表示しています

トイレをたずねて三千里

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イギリスのトイレ協会によると、イギリスで一番最初に公衆便所が設置されたのは、1852年の2月。ロンドンはシティーのフリートストリートであったということです。この公衆便所の到来は、新聞にも報道され、シティー内でもビラが配られ宣伝されたということ。初期の頃の女性用の公衆トイレは、ドアに1ペニーのコインを挿入して鍵をかける方式のものが多くあったため、今でも、「トイレに行く」と言うのに、時に「スペンド・ア・ペニー」(spend a penny、1ペニーを使う)という婉曲表現を用いる事があります。私も、わりと使う表現です。私が、初めてイギリスに来た時は、ドアの錠のところに、10ペンスを挿入するタイプのものがありましたが、今では、ほとんどこの形式のトイレは見かけません。 いつだか、イギリスの消費者社会がいかにして始まったか、という内容の本を読んでいる時、デパートにトイレが設置されるようになってから、女性が、お出かけ、お買い物に町中に繰り出す頻度がぐっと増えた、と書かれていたのを覚えています。それはそうですよね。 私も、ロンドンのよく足を運ぶ区域では、大体、どこにトイレがあるか、というトイレマップが頭の中に納まっていて、行きたくなった時は、「ここからだと、あそこのトイレが無料だし、一番近い・・・」という情報を引き出すことが出来ます。また、位置を覚えておく以外に、夜は閉まるトイレが多いため、何時から何時まで開いているか・・・というのを把握しておくのも必要。以前、土曜日の朝に、いつもだったら開いているトイレに行こうとし、着いたら閉まっていた・・・やられたっ!そのトイレは、週末は10時にならないと開かないと、その時気づき、大慌てで、別の場所の有料トイレまで駆けて行ったのでした。街中のトイレなどが夜間閉まるというのは、夜、良からぬ連中の巣窟になってしまったり、こもって麻薬などをやる者が出てきたり、施設の破壊行に走る輩もいるからでしょう。 トイレの場所を熟知している事は、とても大切な町歩きサバイバル能力だと思います。ロンドンに比べ、トイレ地図が私の脳に納まっていない外国の町では、これが結構、問題となりますから。以前、母が遊びに来たとき、パリに連れて行ったのですが、ルーブルを出て20分くらい経ってから、「おトイレ!」などと言うのです。パリのおトイレマップは私の脳にはインプット

ダフネ・デュ・モーリアの「鳥」

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昨日のニュースによると、今年の夏は、人間に襲い掛かるかもめの数が増えており、RSPB(王立野鳥保護協会)へ、「迷惑かもめ何とかならんか」の電話が殺到しているとか。かもめの子育て時期が、少々遅れた年であり、比較的暑い天気が原因だという話です。子育て期のかもめは、かなり気が荒くなるといいます。ラジオの報道では、ヨークシャー州海岸沿いに住む老女が、外に出る度にかもめの襲撃を受けるので、ドアから外に出るときは、頭に金属の水切りボールを被っているという話を紹介し、更には、イングランド南西部コーンウォール州のセント・アイブスで、ホリデーを楽しむ人たちや住人たちの、暴れん坊かもめに関するインタヴューなどもありました。そのうちの一人の女性は、「かもめの数多すぎるのよ。ゴミ箱の内容物を全部かきだしたりして冗談じゃないわ。大掛かりなカル(集合的に害のある動物を殺すこと)でもしてくれないかしら。」などと強硬意見を述べていましたが・・・ イギリスで、かもめの数は減少しているそうです。大型で、ロンドンなどの街中でも見かけ、それこそ人間のごみなどもあさるから、目に付きやすく、どこにでもいる・・・なんて気がするだけで、上昇しているのは、かもめの数ではなく、人間と、その人間の営みが生み出すごみの量なのでしょうね。イギリスは、ヨーロッパの中では、人口上昇率がかなり高い国ですし、世界人口もあがる一方。比較的小さい国で、人口が増えるばかりだと、野生との衝突が増えるのは必至。そして、大胆で、大型、見た目が怖いかもめのような鳥は、悪者になることも必至。最近のかもめに関する別のニュースでは、ランカシャー州の滑走路で、飛行機のエンジンなどにかもめが巻き込まれる危険性を考慮して、周辺のかもめを殺すことが決まったそうです。 飛行機墜落の恐れほどの危険性の無い、かもめのごみあさりに関しては、食べ物をポイ捨てするのも人間で、この強硬意見おばさんなども、ファーストフードなどを子供達と一緒に、むしゃむしゃっとやって、食べられないと、ゴミ箱にぽいっとしているかもしれない。かもめも、自分の子供に餌をやるのに死に物狂いなのです。人間が自分達の行動を省みずに、一方的に野生を悪者にするのも考え物です。かもめは、餌が見つけられなければ、雛は死ぬ。自分の子供を自分で育てられない窮境になったら、政府が多少の助けを出してくれるイ

蜂のいない世界

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スウィートピーの間をブンブンと飛んでいた蜂が一匹、そのささやかな体重で、スウィートピーの花びらを押し開け、花の中に侵入したと思うと、後ろ足で、器用に花粉をこすり取り、集め始めました。同時に、花の奥から蜜までちゃんと吸っている様子。体を後ろにそらせて見事なアクロバット・ポーズを見せてくれたこの蜂は、リーフカッターと呼ばれるソリタリービー(単独で行動する蜂)です。リーフカッターという名の由来は、植物の葉を切り取って巣に押し込む習性から。ごらんの通り、非常に優秀なポリネーター(受粉者)であります。 前回は、 蝶のためになる庭造り の事を書きましたので、今回は蜂に焦点をあてることにします。花蜂の中には、ミツバチやマルハナバチ(バンブルビー)のように、女王を中心としたコロニーを作り集団生活をするものの他に、このリーフカッターの類のソリタリービーがいます。なんでも、イギリス内だけで、ソリタリービーの種類は260あるというのですから。受粉者=ミツバチ(またはマルハナバチ)だけではないのです。われらが食卓に、本日も色々な食べ物が並べられ、「おー美味そうじゃ、どれから食べようか・・・」という贅沢が出来るのも、これら数々の花蜂や、その他の小さな受粉者たちあってこそ。ありがたや~。 人間の食べるものの大部分が、蜂たちの無料受粉作業の賜物であるために、蜂の数の減少は、直接人間の生活に影響が出てくる、よって、その年々の減少に不安の色を見せる人も増えてくるわけです。プロの園芸家達の間でも、「蜂SOS」を説く人は多く、最近は、ガーデンセンターなどでも、蜂が好きな植物コーナーがあったり、「ビーフレンドリー」と書かれた札のついた植物が売られていたり。常時、何かしら蜂達に食べ物があるように、蜜と花粉をふんだんに提供できる植物を庭に植える奨励が続いています。 蜂の数がほぼ全滅状態になり、果樹園などでの果物の受粉は、人間がはけを手にして行うような状況になると、果樹園の規模にもよりますが、それにたずさわるマンパワーと人件費は、結構なものになるのではないでしょうか。それに、かなりはけさばき上手くやらないと、人間が手で行う受粉の効率の良さと巧みさは、蜂には到底かなわず、下手な受粉をさせた果実は、その形も少々いびつで悪質なものとなるようです。 何故、蜂の数が過去50年減り続けているのかというの

蝶に良い事、何かやってる?

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世界で始めて、蝶のライフサイクルを、最初から最後まで、観察記録したとされる、17世紀イギリスの自然科学者、John Ray(ジョン・レイ)は、蝶について、こう語りました。 You ask what is the use of butterflies? I reply to adorn the world and delight the eyes of men; to brighten the countryside like so many golden jewels. To contemplate their exquisite beauty and variety is to experience the truest pleasure. John Ray(1627-1705) 蝶が何の役に立つのかと聞かれたら、私はこう答える。この世を美しく飾るため、人間の目を楽しませるため、いくつもの黄金の宝石の様に、田舎の風景を輝かせるため、だと。蝶の繊細なる美しさと、その多様性に思いをめぐらす時、最も純粋なる喜びを経験する事ができる。 ***** ジョン・レイの語る、「最も純粋なる喜び」を、庭で経験するため、去年の春ブッドレア バズを通信販売で購入し、 ブログ記事 にしました。花の蜜の豊富なブッドレアは、蝶を引き寄せるのに良い植物とされますが、さて、その結果はいかに・・・と、ここで、バズの蝶々呼び寄せ効果結果報告をします。 去年は、3株とも鉢に植えたためか、1年目であったためか、それとも雨が多い夏であったためか、花の房の長さは比較的短く、雨空の嫌いな蝶も、期待したほど多くは飛んで来なかったのですが、それでも、晴れ間にはたはたと訪れ、蜜を飲んでいく姿は何回か目撃。上の写真は、1年目の夏に、バズにとまっていたスモール・トータスシェル(コヒオドシ)。 2年目の今年は、春に株を短く刈り込んで、鉢から地面に移しました。花の房も、1年目より大きいものとなっています。7月に入ってからの好天気も手伝い、順調に何かしらの蝶を引き寄せています。上の写真の中に、5羽の蝶がいるのがわかるでしょうか。数多いモンシロチョウのほかには、今のところ、 ピーコック(孔雀蝶) が、常連となりつつあり、 コンマ(シータテハ)も目撃。コンマは、羽を閉じたときに

マルドンの水辺・・・塩、バイキング、オイスターそしてテムズ・バージ

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チェルマー川とブラックウォーター川が、エセックス州ブラックウォーター河口にて合流し、北海へと流れ出る・・・この河口の南側にある小さな町がマルドン( Maldon、英語発音はモルドンに近い気がしますが )。前回の投稿で書いた マルドン・ソルト の塩産業を始め、当然その過去の歴史は、海と水路とに深い関わりがあるのです。 この町の名が始めて歴史的に記述された出来事は、10世紀に進入してきたバイキングとの戦いである「マルドンの戦い」。アングロ・サクソン時代の古い英語で書かれた「マルドンの戦い」という詩が残っており、オールド・イングリッシュを研究する学者達には貴重な資料となっているようです。「指輪物語」で有名なトールキンも、こうしたオールド・イングリッシュの学者であり、この「マルドンの戦い」の後に何があったかを書いた短い戯曲なども出版しています。 当時、イギリスの海岸線の土地は、デーン人などのバイキング達がどんぶらこっこと船で現れては大暴れすることしばしば。特に990年代は、デーン人の侵入は激しく、略奪、地元民との戦いなどが繰り広げられていたのです。この結果、やがては、政権が一時サクソン人の手から離れ、1017年から1042年にかけて、デーン人のクヌートとその息子たちがイングランドの王座に就くに至るのですが。 さて、デーン人支配の先駆けとなるマルドンの戦いとは・・・ ブラックウォーター河口に浮かぶ小島ノージー島にやってきて、キャンプをはったバイキング達。バイキングの大暴れを抑えるため、イングランド各地からやってきた兵士でなる、アングロ・サクソンの軍を率いていたのはブリスノス(現在は、Brithnothと綴られる事が多いようですが、過去はByrhtnothなど、スペルは色々。また発音もまちまちの感があり、とりあえず、ブリスノスとしておきますが、当時の真なる発音からは少し離れているかもしれませんので、ご了承あれ。 )。ノージー島のバイキング達は、ブリスノスに、お宝をよこせば、土地を荒らさずに帰ってやるぞ、と脅迫。ブリスノスは、そんなことをするくらいなら正々堂々と戦うぞ、と相成ったのです。 そして991年8月10日、ブラックウォーター河口の潮が引いて、島とモルドンをつなぐ土手道が現れた時、ブリスノスは、ご大層にも、バイキング達をわざわざ本土に渡らせ、彼らが