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11月, 2011の投稿を表示しています

オスカー・ワイルドのサロメ

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先日、ラジオで、アル・パチーノがオスカー・ワイルド著の戯曲「サロメ」について語っている番組を聴きました。彼が監督も手がけた最新の映画「Wilde Salome」は、この戯曲とワイルドに関するドキュメンタリーだという事で、彼は、ロンドンの舞台で、イギリスの役者、スティーブン・バーコフがヘロド役をやったサロメを見て以来、この作品に、非常に惹かれているのだそうです。かなり前の話ではありますが、私も、このスティーブン・バーコフのサロメは、ロンドンで見たのです。あの時、アル・バチーノが同じ劇場内で見ていたりして。ひょひょひょ!パチーノは学生時代大ファンでしたし、サロメも好きな戯曲ですので、このドキュメンタリー映画は、ぜひ見たいところです。 サロメの筋をざっと書くと・・・ユダヤの王のヘロドは、妃の連れ子である、美しいサロメを気に入っている。サロメは、サロメで、捕らわれの身の預言者ヨカナーン(洗礼者ジョン/洗礼者ヨハネ)に魅せられ、何とか彼の気を引こうとし、接吻を要求するものの、ヨカナーンは、彼女を冷たく拒絶。ヘロドに、自分のために踊りを踊れば、何でも好きな物をやるといわれ、承諾したサロメは、踊り終えた後、褒美に、ヨカナーンの首を請求する。ヘロドが何とか説得して、褒美を他の物に変えさせようとするのだが、サロメは一切ひかず。やがて、銀の皿に盛られて、サロメの元へ運ばれてきたヨカナーンの首。その唇に、サロメが接吻するのを見、ヘロドは、彼女を処刑する。 セリフは詩的で美しいのです。特に、恋に憑かれて言い寄るサロメと、それを振り払うヨカナーンのやりとりはいいです。この戯曲を英語で読むのは、 こちら まで。 この作品は、ワイルドがパリに滞在中に、フランス語で書いたものだそうで、英語版は、後、彼の恋人アルフレッド・ダグラス(愛称ボージー)により翻訳されています。洗礼者ジョンが登場する宗教的題材を使用し、また、内容的にいかがわしいとされ、イギリスでは上演禁止となり、彼の在命中にイギリスで舞台化されたことはなかったそうですが、同性愛者であった彼が、イギリスで、わいせつ罪で逮捕され投獄中に、オリジナルのフランス語版が、パリで上演されたとの事。また、投獄中に、フランスの文筆家の友人達から激励の手紙などを受け、ワイルドの、フランス文化と文化人に対する尊敬と感謝の念は高まったようです。 サロメは

ウィロー・パターン

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イギリスの陶器の歴史に関するテレビ番組を見ている時、「これは、どこの家庭にでもありそうなウィロー・パターンの陶器・・・」と、上の写真の陶器の柄が画面に映りました。ある、ある、うちにもひとつあるのです。うちのはデザート用のボールで、一体いつ、どうやって入手したかも覚えていない。今の家の前の持ち主がおいていったものだったかもしれません。ロンドンで下宿していたころも、キッチンに備え付けでおいてあった食器がこの柄だった気がします。 ウィロー・パターン(Willow Pattern 柳柄)または、ブルー・ウィロー(青柳)と呼ばれるこの柄は、1780年に、イギリス陶器の老舗、ミントンの創始者、トマス・ミントンによって考案されたデザインで、色は青と白のみを使った、中国風デザイン。この柄には、お話がついているのですが、これは、中国の本物の伝説ではなく、この柄の陶器のセールス促進のために、デザインに組み込まれている要素を用いて作られた、イギリス製、偽伝説。 ウィロー・パターン伝説をざっと書くと・・・ 昔々、ある中国の官僚に、美しい娘がおりました。官僚に使える秘書は、この娘に恋していたのですが、官僚は、秘書ごときに、大切な娘はやれぬと、彼を解雇し、2人が会えない様に、家の回りに塀を立てます。彼は、娘を有力な貴族と結婚させる事とし、この貴族は、結婚のため、贈り物の宝を積んで、船に乗ってやってくるのです。ところが、宴の後、変装をした秘書が、館に乗り込み、娘を連れて逃げます。館の者たちは橋を渡って逃げる2人を追いかけますが、何とか逃げ切ります。その後、小さな島の館で幸せに暮らしていた2人は、やがて、官僚に発見され、殺されてしまいます。それを見ていた神は、恋人達を2羽の鳩に変え、2羽は、永遠に仲良く空を飛び続けるのです。 伝説としては、いかにも、ありそうで、まことしやかではあります。 いずれにしても、効をなして、人気となったウィロー・パターンは、次々と他の陶磁器のメーカーにも使用され、多少のディテールは違うものの、デザインは独り立ちし、200年以上経った現在も、使われ続けているわけです。めでたし、めでたし。 普段は注意も払わないような、ありきたりな身の回りのものにも、色々面白い歴史が潜んでいるものです。

霜はまだ・・・

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しばらく、ぐずぐずとした天気の、雲に覆われた日が続いた後、久しぶりの実に気持ちの良いお天気の日曜日となりました。 Remembrance Sunday(レメンブランス・サンデー、追悼の日曜日)の本日は、例年通りに、ホワイトホールにある戦争慰霊碑(Cenotaph、セノタフ)の前で式典がありました。今年は、第一次世界大戦に参戦した生存者が全て亡くなってしまい、第一次大戦の直接の記憶を持つ人物いない最初の式典となります。 *レメンブランス・サンデーについては、過去の記事 「全ての戦争を終わらせるための戦争」 をご参照下さい。 式典で演奏する、この人の真剣な表情、何とも言えません。 まだ木々に残る葉に、そして、ホワイトホールを挟む建物にふりそそぐ秋の陽光も美しく。 ***** まだ、木々に残る葉・・・そうなのです、今年は、まだ霜が降りておらず、10月、11月と妙に暖かい天気が続いているため、落葉樹は、まだ半分近く、枝にその葉を残している感じです。庭では、フクシアの、ランタンの様な赤い花も咲き続けており。思い起こせば、 去年の11月末 は、大雪に見舞われ、大変な騒ぎとなったのでした。 先日、スーパーマーケットで、雪かき専用シャベルが売られているのを見て、うちのだんなが、また前回の冬の様になったら大変だと、これをひとつ購入。シャベルを持ち上げ、ショッピング・カートに入れながら、そばにいた人に、「こういうのを買う時に限って、雪は降らなかったりするもんですよね。あはは・・・。」と話しかけ。この、どうしようもないジョークに対し、話しかけられた人は、「そういうもんですよ。あはは・・・。」と、お行儀よく答えてくれていました。そして、また、レジについてからも、レジの女性に、「こういうのを買う時に限って、雪は降らなかったりするもんですよね。あはは・・・。」と、性懲りも無く、まったく同じセリフを繰り返していました。 うちのだんなは、今月末から、骨髄移植のため、かなり長い間入院となり、おそらく年が明けるまで、退院はできそうもないので、その間、雪にやられたら、私が、この新規購入のシャベルで、雪かき係をすることになります。今年は、なんとかこのまま、この暖かさが少しでも長く続いて、雪の無い、短い冬になってくれると助かりますが。「こういうのを買う時に限って、雪は降らなかったりするもんですよね。」という

過ぎ行くものへの封印

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この絵は、英国ヴィクトリア朝のラファエル前派のうち、私が一番好きな画家、ジョン・エヴァレット・ミレーによる、Autumn Leaves(秋の落ち葉)。今時分の田舎の風景を、枯葉を踏みながら歩く時、また、どこかから、かすかな焚き火のにおいがする時、この絵を、よく思い浮かべます。 ひとつの季節が終わり、その残骸を燃やした煙が、冬も間近の空へ舞い上がる・・・。葉を燃やすモデルとなった少女達も、いつかは年を老う。彼女達は、キャンバスにその若い姿を留めながら、当然、もうこの世にはいない。 手持ちの画集の説明によると、ミレーは、 「枯葉を燃やすにおいによって目覚めさせられる感覚ほど、すばらしいものはあろうか?私にとっては、過ぎ去った日々の思い出を、これほど甘く伝えてくれるものは無い。それは、旅立つ夏が、空に捧げる別れの香(こう)であり、過ぎ去ったもの全てに、時が静かに封印をしたという、幸福な確信をもたらしてくれる。」 と言ったそうです。 焼き払った秋の葉の灰は、風に運ばれ、空に舞い、羊が点在する野に落ち、海の波に飲まれ、いつの日か、また、他の生物、事物に形を変えて再生し。 ここで一句、 去る時を とどめるすべは 知らずとも  たたえよ 金の残照の中 *当記事は、2009年11月21日、ヤフージャパンにて投稿したものを多少書き直したものです。

フィッシュ・アンド・チップス

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フィッシュ・アンド・チップス・・・今では、すっかりお馴染みで、英国の代表的お国料理のひとつではありますが、その歴史はさほど長くないのです。 フィッシュ(白魚のフライ)とチップス(ポテトの揚げ物)をコンビとして一緒に食べるようになったのは、1860年代頃であろうと言われますが、フィッシュとチップスを、別々には、すでにその半世紀前から食べられていた模様。一説によると、移民が多くいた東ロンドンで、ユダヤ人移民の料理であるフィッシュと、フランスまたはアイルランド移民のもちこんだチップスが、合体して出されるようになり、以来、この組み合わせは、瞬く間に人気となり、イングランドのみならず、アイルランド、スコットランドでも頻繁に食べられるようになったとか。 フィッシュは主にコッド(鱈、cod)かハドック(haddock)。英和辞典を見ると、ハドックも「鱈の一種で、codほど大きくない」と載っていました。 チップスは、魚のフライだけでなく、他のメインコースの付け合せにも良く登場します。「Chips with everything(何でもチップスで)」なんていう題名の、英劇作家アーノルド・ウェスカーによる戯曲もありました。私が、いつでもキッコーマンのマイ・ボトルをテーブルに置いて、何にでもしょうゆをかけるのを見て、昔フラットシェアをしていた人に、「Soy with everything(何でもしょうゆで)」とからかわれた覚えがあります。ちなみに、日本で言うおやつのポテトチップスはこちらではクリスプス(crisps)ですので。 フィッシュ・アンド・チップスはパブで食べる他、料理をするのが面倒なとき、テークアウェイで買って来て食べる事もしばしば。テークアウェイの時は、大体、マッシーピーというグリーンピースをつぶした物も買ってきます。フィッシュ・アンド・チップスのテークアウェイ店は、香港チャイニーズの人達の経営のものも多く、ちょっと不思議な光景です。移民たちの持ち込んだ食事から出来上がった、今や最もイギリス的な食べ物が、別の移民によって販売されているわけです。ある意味では、そんな光景こそが、非常にイギリス的なのだ、とも言えます。 北部出身のうちのだんなによると、イギリス北部では、フィッシュ・アンド・チップスは、植物油でなく、牛脂で揚げる事が多いので、味が濃厚で美味しいのだそうです。また、フィ

冬のライオン

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英国プランタジネット王朝の創始者ヘンリー2世。一般的には、カンタベリー大司教トマス・ベケットを暗殺させた人物、と、有り難くないイメージで歴史に名を残してしまった王様です。その領土はイングランドのみならず、南はピレネー山脈までの現フランス西部一帯を含む広大なもの。 もともとは、舞台劇であった「冬のライオン」は、このヘンリー2世の治世の後期を時代背景とし、ヘンリーと、政治的影響力の強かった女性と言われる、ヘンリーの妻、アクイテインのエレノア(Eleanor of Aquitaine)が主人公。表立ては、王一家のクリスマスの集いとしながら、2人の間に生まれた、3人の息子達(リチャード、ジェフリー、ジョン)の誰が王位を継承するかの、いがみ合いが繰り広げられます。 この頃の英国王家は、ヘンリー自身も、大陸ヨーロッパとの絆が強く、実際に使用した言葉もフランス語。ですから、映画の中で、登場人物達が英語で会話する事自体、もう、間違いなのですが、まあ、そんな固い事を言っても仕方がない。主人公達の迫真の演技と、巧妙に書かれたセリフを楽しみましょう。ヘンリーはピーター・オトゥール、エレノアはキャサリン・ヘップバーン。息子リチャード(後の獅子心王、リチャード1世)は、アンソニー・ホプキンス。 映画の最初に、エレノアは、イングランド内の城で軟禁状態の捕らわれの身となっていますが、これは、1173年に、息子達が、父ヘンリーに反旗を翻した際に、彼女が息子達側に組したため、以後は、夫の事実上の囚人となり、領土内の城に、常に軟禁されていた事情によります。彼女が、夫と会うのは、セレモニー等のため、召集された時のみ。 ということで、1183年、エレノアの軟禁の始まった10年後のクリスマス。エレノアは、夫に、フランスのシノン(Chinon)へ、息子達と共に招集されます。同時にシノンへやってくるのは、フランス王フィリップ2世。フィリップは、腹違いの妹アリスと、ヘンリーの世継ぎとの結婚を要求するが、ヘンリーは、末息子ジョンに、エレノアはお気に入りの息子リチャードに、其々王座を継がせたい。両親のどちらからも愛されていないジェフリーは、フィリップと組んで、陰謀を企てようとする。そこへもってきて、ヘンリーは、ちゃっかりアリスを自分の愛人にしてしまっているのです・・・。各人、お互いの腹を探りながら

ライフ・オブ・ブライアン

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モンティ・パイソンの映画、ライフ・オブ・ブライアンは、うちのだんなによると、公開当時、「キリスト教をこけにした」と、一部の怒りを買い、イギリス内では全面公開禁止は無かったものの、場所によって、放映禁止を取った地方自治体もあったそうです。また、アイルランドを初め、幾つかの国では、しばらく公開禁止。 イエス・キリストと同じ日に、マリア様がキリストを生んだすぐ側の納屋で生まれたブライアン。星に導かれ、救いの御子を一目見ようとやって来た 東方の三賢者 達は、このブライアンをイエスと間違え、其々持ってきた贈り物を、マリア様とは程遠いがめつい母親に手渡すのですが、即、間違いに気づき、贈り物を取り返し、本物のイエスのいる納屋へ。こうして始まるフライアンの生涯。 青年になったブライアンは、ユダヤの地がローマに支配される事に反対するゲリラ・グループのひとつに参加。こういった反ローマのゲリラグループは多々あるものの、一致団結してローマを追い出すことよりも、グループ間で、くだらぬ事での小競り合いにエネルギーを費やすため、まったく、埒が明かない。また、それぞれのグループの活動も、子供のいたずらの様な事ばかり。やがて、ゲリラ活動参加中に、ローマ軍に追われ、民衆に演説をぶつふりをして追っ手を逃れるうち、今度は、聴衆たちに、「救いの御子」だと勘違いされ、多くの信棒者を集めてしまう。全くもって、意味の深い演説をぶったわけでも何でもないのに。やがて、ローマ軍に捕まったブライアンは、他の罪人達と共に十字架にかけられてしまうのです。こうして、イエスと間違えられて始まった人生が、イエスと間違えられて終わる・・・。 当然ストーリーはおとぼけ放題、ナンセンスなギャグで綴られていきます。メンバーは、一人何役も、違う役で登場。 キリスト教信者たちを一番怒らせたのは、ラストの十字架のシーンで、十字架にかけられた者たちが、皆で、「Always Look On The Bright Side of The Life」を口笛し、合唱するところだったようです。 いつも人生の明るい面を見ていこう・・・ と陽気に歌う様子が、キリストの苦しみを馬鹿にしていると映ったようです。歌自体は、メロディーも歌詞も、いつ聞いても、なかなか元気が出るものなのですが。すぐに怒ってしまうタイプのクリスチャンは、やは

サットン・フーのヘルメット

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1939年、サフォーク州サットン・フー(Sutton Hoo)。周辺の地主であったエディス・プリティー婦人は、自分の土地にある幾つかの古墳風のぽっこりとした小山の調査と発掘を、地元の歴史家に依頼。そうして、掘り起こした古墳から出てきたのは、なんと7世紀アングロサクソン時代に遡る27メートルの船の残骸。定かではないものの、イースト・アングリア地方一帯を支配した王、レドウォールド(Raedwald)が内部に埋葬された船墓とされています。 船内からは、数々の貴重な埋葬品が共に発掘。戦士にふさわしい剣や盾の他、金や銀のブローチ、皿、リラ、角でできたカップ・・・これらの中でも、最も有名なのが、上の、儀式用ヘルメット。アングロサクソンの戦士、というと、すぐにこのサットン・フーのヘルメットを頭に浮かべるのは、この国では、私だけではないはずです。発掘品は全て、国に寄贈され、現在は、 大英博物館 に展示。ヘルメットは、館内のイギリス関係の展示物の中では、おそらく、最もアイコニックで、最も大切な一品のひとつ。 この船墓は、墓掘り泥棒に荒らされた形跡も無く、全て埋められた時のまま。まさに、タイムカプセルを開ける様な作業であった事でしょう。ただし、上のヘルメットの写真からも分かるように、一部の発掘品はかなり朽ちてしまっています。このヘルメットも、大英博物館の研究所で、ボロボロの破片を、ひとつひとつ継ぎ合わせて、時間をかけて再生されたとの事です。また、船の中心部に置かれていたであろう王の遺体自体は、周囲の酸性土により消えて無くなってしまい。遺体が置かれていた辺りには、おそらく王の皮のベルトにつながれていたという豪華な模様を施した財布の金具、そして625年頃の金貨が発見されています。あの世でも、お金に困らぬように、死体にもお財布を付けていた、ということでしょうか。埋葬品の中には、海外からの品も含まれ、海外との物流が盛んであった事も忍ばせています。 上の写真は、朽ちる以前のヘルメットは、こうであったろう、というレプリカ。 1939年と言えば、第2次世界大戦勃発の年ですので、それは大忙しでの探索で、この際には、王の船墓の納まった古墳と、やはり小規模の船が埋められていた古墳(こちらは、1860年にすでに簡単な調査が行われていたそうです)の発掘のみで終わっていますが、サットン・フーにあ