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6月, 2012の投稿を表示しています

プーの棒投げ橋で遊ぼう

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イーストサセックス州、ウィールドと称される地域にあるアッシュダウン・フォーレスト(Ashdown Forest)。この地は、A. A. Milne(A. A. ミルン)作、1926年出版の「Winnie-the-Pooh」(ウィニー・ザ・プー、くまのプーさん)の舞台である100エーカーの森のモデルとなった場所です。 プーが森の仲間達と「プースティックス」なる棒投げの遊びに興じた、プー橋(Pooh Bridge)または、プーの棒投げ橋(Poohsticks Bridge)も、この森の北側に見つけることができます。イギリスの森林を歩いていれば、よく出くわしそうな何の変哲もない橋ではありますが。 このプースティックスとは、どんな遊びかというと・・・橋の片側(川上)から、それぞれ小さな棒切れを川に投げ落とす、そして、誰の投げた棒切れが、橋の反対側(川下)から、一番最初に流れ出てくるかを競うという単純なもの。 また、プースティックの遊びをしていない時でも、クリストファー・ロビンも、プーも、ピグレットも、この橋から、川を眺めて時を過ごすのが好きでしたね。 私の持っている「Winnie-the-Pooh」(くまのプーさん)と2作目の「 The House at Pooh Corner」(プーコーナーに建った家)が両方収まっている本の表紙には、この橋で、1人と2匹が、川を見下ろしている姿の挿絵が使用されています。ちなみに、このプースティックスのエピソードが挿入されているのは、「プーコーナーに建った家」の方です。プー、ピグレット、ラビットとルーがプースティックスで遊んでいるところへ、川に落ちたイーヨーが、流れてくる・・・という話でした。 プーさんのオリジナルのイラストは、 「たのしい川べ」 (Wind in the Willows)のイラストも手がけたE.H. Shepard(E.H.シェパード)氏によるもの。イギリスの片田舎が舞台の物語には、プラスチック感覚のディズニーものより、シェパード氏のペンによってカリカリと描かれたものの方が、雰囲気にしっくりくるのです。 物語の登場キャラクター達の元となったのは、ミルンの一人息子で同名の少年クリストファーと彼のおもちゃのぬいぐるみたち。このぬいぐるみは、現在は、ニューヨークの公立図書館に保存されているとの事

ウィルミントンのロングマン

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石灰岩(チョーク)の地層の丘の斜面を刻むことにより、白い土壌を露出させ、草の緑を背景にフィギュアを形作る丘絵は、イングランド、特に南部イングランドにいくつか点在します。 イーストサセックス州のサウスダウンズにある、ウィルミントンの丘から、側を通るものを見下ろす巨人・・・人呼んで「Long  Man of Wilmington」(ウィルミントンのロングマン)は、その中でも最大のもの。また、これは、西ヨーロッパで一番大きい、人間の形を模したフィギュアでもあるとのことです。彼、広げた両手の其々に、長い杖の様なものを握っています。このポーズが何を意味するのか、ロングマンが、いつこの丘に刻まれたのかは、誰も知りません。 私の持っているサウスダウンズ周辺のガイドブックによると、1710年以前に、このロングマンに言及している文献は一切残っていないのだそうです。古代のものの様に見えながら、実は、16世紀、チューダー朝の時代に作られた可能性もあるらしく、ヘンリー8世による 修道院の解散 で、近郊の修道院に付随していた土地を買収した人物が、新しい自分の土地に、「これは、おいらの土地」とハンコを押すような感覚で、古い異教風の丘絵を刻んだという説もあるといいます。 いずれにせよ、ハイキングには、もってこいの場所ですので、私達も、駐車場を後に、ロングマンへ接近することとしました。 丘絵というのは、遠くから見るようにできているのでしょうね、近づくほど、段々、形がはっきりしなくなってくるのです。そして、絵の脇や、その頭上から見ると、もうほとんど何が描かれているのか、わからなくなります。 丘を登り、来た方向を振り向くと、車を泊めた駐車場も小さく。 南方には海も望めます。 丘の上の人口密度は非常に低かったです。ジョギングをして、丘から駆け下りてきた男性一人とすれ違ったのと、遠くに、カップルを2組見たのみ。 うってかわって、羊密度はなかなか高く、あちらにも、こちらにも。音と言えば、羊達の、「バーーー」という鳴声のみ。イギリスの羊達は「メー」ではなくて、「バー」と鳴きますので、あらかじめ。子連れ狼ならぬ、子連れ羊も沢山。 緑の海のように、波形の起伏のダウンズの風景には、やわらかさがあります。 この羊は、眼下に広がる景色を楽しんで

アルフリストンは小さな宝石

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イーストサセックス州の海岸線から少々内陸に入ったサウスダウンズと称される一帯にあるアルフリストン(Alfriston)は、それは可愛らしい村であります。イングランドの昔ながらの村を想像すると、こういう感じになる、という見本のような場所。英語で言うと、リトル・ジェム(little gem、小さな宝石)と表現したくなる、そんな村です。 前回の記事 に書いたよう、夜も9時半を回り、日が沈み始めた頃にイーストボーンを出発。海岸線を離れ、くねくねした緑に包まれた狭い道路を走りぬけ、アルフリストンに予約してあったホテルにチェックインした時には、すでにイギリスの長い夏の日もとっぷり暮れ、村を見て回るのは、翌朝までおあずけ。 宿泊したホテルは、写真左手に映る、ハーフティンバーの建物、スター・ホテル(The Star)。これは、何でも、イングランドで一番古い宿のひとつだという話ですが、こういう「一番古い・・・」というのは、証明しにくいですから、話半分で聞いときましょう。ただ、古い事には間違いなく、オリジナルが作られたのは13世紀半ばで、当時は、坊さん達が営んでおり、チチェスターにある聖リチャードの聖堂を拝むため旅する巡礼者達が、その道中に泊まった宿だったそうです。現在建っているのは、16世紀に建て直されたもの。 アルフリストンは、海外からの物品の密輸なども盛んに行われた場所であったそうです。スターの外に飾ってある赤いライオンの船首像(上写真右手)は、1690年のビーチーヘッドの海戦中、イギリス海峡で沈没したオランダ戦闘船のものだと思われているようで、それが海岸線へ流れ着いたのを密輸者たちが、アルフリストンまで運んできたという、いわくの代物。当時のイギリスの王様はオランダから来たウィリアム3世、ビーチーヘッドの戦いは、イギリスとオランダが連合でフランスと戦い、敗れた海戦。ライオン君、ぱっと見ると、オランダというより、中華街に置いたら似合いそうな気もします。 そんな歴史ある宿に泊まる・・・と思いきや、部屋は、この古い建物の裏に繋がっている、新しく建てられた部分に収まっています。まあ、朝食込みで、お値段お手ごろだったし、部屋もわりとゆったりめで、清潔。快適に過ごしたので、文句は言いません。そんな事情を知らない人たちには「イングランドで一番古い宿に泊まったのじゃ。」と

かもめ飛ぶイーストボーン国際

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今年もまた、イーストボーン国際(エイゴン国際)テニスチャンピョンシップを見に、晴天の19日の火曜日、イーストサセックス州へ繰り出しました。会場の上空を、時に高く、時に観客が頭をつつかれそうなほど低く、かもめが飛ぶ、リラックスムードのトーナメントです。 見た選手と、試合内容は、去年の方が豊作だった気がしますが、私には、何より雰囲気を楽しむイベントです。センターコートで私の前に座っていたアメリカ人女性は、非常に熱心に、終始、望遠鏡をあてがって観戦していました。 (リゾートとしてのイーストボーン紹介と、イーストボーン国際については、去年の記事、 「イーストボーンそぞろ歩き」 まで。) イギリスの若手ローラ・ロブソンのプレーするコートの周りは、やはり人が多かったです。2008年、ウィンブルドンのジュニア女子シングルスで優勝し、脚光をあびた女の子。ジュニアで優勝したから、そのままプロでも世界トッププレーヤーになれるか・・・というとそういうわけにもいかんのですが。 こちらは、やはり、イギリス若手のヘザー・ワトソン。彼女の方が、ローラ・ロブソンより、素早くアスレチックな感じですが、背丈がちょいと低いんですよねー。 グランドスラムで一回も優勝経験が無いながら、小さめのトーナメントで、幾度も優勝していたためか、一時は、ワールドナンバー1だったデンマークの金髪娘、キャロライン・ウォズニアッキ。この日は・・・あーあ、負けちゃった。 今大会、男子のトップシードだったフランスのリシャール・ガスケも、オーストラリアの比較的名の知れない選手に負けてしまいました。夕暮れになり、座っていた席が、もろ日陰で、途中であまりに寒くなってきたため、この試合は、最終セットを待たずに、出ることにしました。コートの反対側の席は、まだお日様サンサンで、タンクトップ姿も見えたというのに。 残りの時間は、毎日テニス三昧をするために、1週間滞在している友達と落ち合って、外のコートの周りを歩き回り、ダブルスをひやかしながら過ごしました。 会場から見える上の写真の建物。屋根の風見鶏が、テニスをしている人の姿を模してあるのが面白いです。 もうお開きかな、という時刻に会場を後にし、イーストボーンの町内で食事。のち、腹ごなしに海岸をふらふら散歩。この日の夜は、また、サッカ

ライトのコールタール石鹸

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先日、うちへ遊びに来た日本人の知り合いが、洗面台に置いてあったライトのコールタール石鹸(Wright's Coal Tar Soap)を見て、このコールタール石鹸は、日本の観光ガイドブックに、イギリスからの気のきいたおみやげ品として紹介されている、という話をしていました。 1860年代に製造され始めたライトのコールタール石鹸。当時は、名前のとおりにコールタールを含み、消毒効果があるとされ、皮膚の疾患、湿疹等に利くとされていました。 コールタールは、癌を引き起こす可能性があるとの事から、EU(欧州連合)が、コールタールの、処方箋無しでの使用を禁止したため、現在のライトのコールタール石鹸には、実際のコールタールは含まれず、他の材料が使用されています。それでも、昔ながらのコールタールの香りに仕上げ、着色料で、伝統のオレンジ色も保っています。ですから、パッケージに書かれている言葉も、Traditional Soap with Coal Tar Fragrance(コールタールの 香り の伝統の石鹸)。そして、現在のものは、トルコで製造されているのです。 この石鹸を使ったことが無い人は、「コールタールの香りなんて、アスファルトの道じゃあるまいし、何だか臭そうで嫌だね」と思うかもしれませんが、これが、なかなか良い香りなのです。少なくとも、我家では好きで、良く使っています。使ってみても、「やっぱり嫌だ、この臭い」という人がいても驚きませんが。わりと強い香りで、私が、何個か買ってきたものを、ラップからはがして出していると、隣の部屋にいただんなが、くんくん鼻を鳴らして、「コールタール石鹸のラップ開いた?」と聞いてくるくらいです。 今でも、消毒効果はあるようで、パッケージの材料リストにざっと目を通すと、「Melaleuca alternifolia leaf oil」というのが入っています。「Melaleuca alternifolia」 は、俗に言うティーツリー(ティートゥリー)で、コールタールに代わって、このティーツリー・オイルが殺菌効果を放っているのでしょう。 いずれにしても、我家では、このオレンジ色の憎い奴を愛用し続けるつもりでいます。

日本人は菜の花がお好き?

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去年、 「黄色い地平線」 という投稿で、4月から5月あたりにかけて、イギリスの田舎のあちらこちらで、菜の花が一面に咲いている・・・という事を書きましたが、先日、このまっ黄色の風景が、日本人観光客にうけており、菜の花畑の農場を訪れるという日本人向けツアーまでできた・・・という内容のニュースを読みました。 事の起こりは、日本人観光客を乗せたバスツアーで、観光目的地へむかう途中、こうした菜の花畑の風景の中を走る際、観光客が、窓から、さかんに、この黄色い光景を写真に撮っていたのを、ツアー会社が着目。ただ通過するだけでなく、グロスターシャー州の菜の花畑の農場への訪問を、ツアーの中に組み込んだという話です。 農場は、約49人を乗せたバス一台につき49ポンドを取っているということで、日本人観光客は、バスから降りて、菜の花畑を鑑賞した後、食用油を作るため、菜種から油を搾り出し、ボトルに入れる様子を見学するというもの。一人につき1ポンドくらいですので、農場が受けとる金額は、あまり大きくはないですが、おそらく、この後、観光客が、おみやげに、この農場で作ったイギリスのレープシード・オイルを買ってくれる事に期待をかけているのでしょう。このセイヨウアブラナの種から抽出するレープシード・オイル(Rapeseed Oil)は、直訳すると菜種油ですが、特に日本ではキャノーラ油と称されるものに相当すると思います。 最近では、オリーブ油よりも健康的という話で評判も高まっているレープシード・オイル(キャノーラ油)。 オリーブ油も、良質のオリーブを使って、化学手法を用いず抽出しているバージン・オリーブ・オイル、特に酸度が少ないエクストラ・バージン・オリーブ・オイルが良いと言われるよう、レープシード・オイルも、値段は少々高めでも、コールド・プレス(Cold Pressed)やエクストラ・バージンと明記してあるものが良質のようです。某スーパーで販売しているコールド・プレスド・レープシード・オイルを見てみると、「(コレステロールの上昇につながる)飽和脂肪酸の含有量が、オリーブ・オイルの半分、オメガ3およびオメガ6脂肪酸をバランス良く含み、ビタミンE豊富な油」との唄い文句がついていました。健康マニアの人達の中には、今までオリーブ・オイルを使っていたのを、こちらに切り替えたりする人もい

透明人間

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H.G.ウェルズ著、1897年作の「The Invisible Man」(透明人間)は、 「フランケンシュタイン」 や 「ジキル博士とハイド氏」 よろしく、化学の力によって得られる可能性に陶酔し、自分を見失うサイエンティスト、グリフィンが主人公。サイエンスというのは、進歩にも繋がるが、悪に通じる事もある、という理由からか、こうした、道をはずした化学者、気違い化学者の話は多いのです。 ***** 吹雪のある夜、イギリスはウェストサセックス州の小さな村、アイピング(Iping、実在の村)にある、ホール夫妻経営のイン(居酒屋兼宿屋)に妙な男が現れ、部屋を借りる。コートに帽子、手袋の他に、頭は包帯でぐるぐる巻き、ゴーグルの様なメガネをかけ、部屋に入った後も、人前では、コートすら取ろうともしない。長期、宿に滞在しながらも、日中は、なにやら部屋にこもったまま、実験の様な事を繰り返し、外の世界との交渉はほとんど無く、村の噂の種となる。 数ヶ月経ち、滞った宿代の事で、ホール夫妻との言い争いの後、この謎の人物は、捕らえようとする村人達を相手に、透明人間であったという事を利点に、服を脱ぎ捨て、大暴れをしながら村から逃げ出す。たまたま道で見かけた浮浪者のマーヴェルを脅かし、自分のアシスタントとする。彼に、宿に置いてきた、実験の記録を綴る3冊の本を取ってこさせるのだが、マーヴェルは、本を抱え、更には盗んだ金も持って、透明人間をまいて、港町まで逃げる。怒った透明人間は、マーヴェルの隠れる居酒屋へ乗り込むが、町民の一人にピストルで撃たれ、命からがら、近くの屋敷に逃げ込む。この屋敷がたまたま、ロンドンの大学で共に学んだドクター・ケンプの家であった。透明人間は、ケンプに、宿と食べ物を請い、自分はグリフィンであると告げ、いかにして透明人間になるに至ったかを説明する。 グリフィンの話によると・・・彼は、ロンドンのグレート・ポートランド・ストリート周辺の貧民街に宿を借り、身体を透明にする研究に日夜励んでいた。金が尽きた際、父から金を盗み、必要な道具や薬品を購入する事までする。この盗んだ金は、父が借金した金であったため、返済のできなくなった父は自殺。父の葬式に参列しながらも、事実を告げ、父の汚名を晴らす事もせず、後悔を感じるでもなく、夢中で研究を続ける。透明になる術をマスターしたグリフ

H.G.ウェルズのタイム・マシン

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SFで有名な英作家、H.G.ウェルズの1895年作品「The Time Machine」(タイム・マシン)は、未来小説であるだけでなく、イギリスの階級社会の問題を描いた小説でもあります。ウェルズは、社会主義傾向があり、生物学を勉強したのだそうですが、その影響が垣間見られる内容です。 ざっとあらすじを書くと 主人公は、小説内、特に名前を与えられず、ただタイム・トラベラー(時間旅行者)と呼ばれる化学者・発明家。ロンドンのリッチモンドに住む彼が、自宅に友人達を招き、時とは何か・・・という議論を闘わすところから物語りは始まり、この場にいあわせたナレーターが、その後に起きた出来事を語っていく事となります。この際、タイム・トラベラーは、時間旅行の可能性を説き、友人達の前で、タイム・マシンの小型モデルを使用しデモンストレーションをしてみせる。そして、実物のタイム・マシンも間もなく完成すると語る。 翌週、また同じような集いにタイム・トラベラー宅へ訪れた友人達。ところが、指定された時間に、なかなか本人が現れない、ついに、主人無しで食事を・・・というところへ、ぼろぼろの姿で登場するタイム・トラベラー。彼は、完成したタイム・マシンを使って、未来の旅から戻ったばかりだった。くたびれ果て腹を空かせた彼が、服を代え、食事を終えてから、未来でどんな体験をし、何が起こったかを、信じられない面持ちの友人達に語り始める・・・ 彼が訪れた未来の世界は、タイム・マシンの目盛によると、802701年。タイム・マシンは、場所は飛ばないわけなので、未来のリッチモンド周辺に忽然と現れる事となります。彼は、そこで、エロイ(Eloi)と称される人間達に遭遇。エロイは、現在の人類よりずっと華奢。見た目には愛らしいが、性格や頭脳は、まるで子供のよう。単純で、深い思考、思想を行う能力が欠如。労働は一切せず、その辺りに実っている果実などを食べ生活。周りの風景は、過去の偉大な建物などが廃墟として残るものの、文明が自然に飲み込まれて少しずつきえていっている気配。 やがて、このエロイ達が、タイム・トラベラーの世界の上流、富裕層の人間達の将来の姿だとわかるのです。労働を、下層階級たちにまかせ、自分達にとっての理想社会を作り上げ、人生に心配も無く、環境を向上させる必要もなくなった彼らは、考える必要が無くなり、頭

初のカラーテレビ体験は?

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女王のダイヤモンド・ジュビリー の記事内で、女王の戴冠式の放送を見るため、テレビを買った人が多数いた・・・という事を書きましたが、1953年のBBCのエリザベス女王戴冠式の放送は、まだ白黒で、カラーテレビは巷にほとんど出回っていなかった時代です。 うちのだんなの、初のカラーテレビ体験は、エリザベス女王の長男、チャールズ皇太子が20歳になった年、北ウェールズのカーナヴォン城 (Caernarfon)で行われた、The investiture of the Prince of Wales(プリンス・オブ・ウェールズ叙位・授位の儀式)だったといいます。実家の近くに、電気機器会社、フィリップスに勤めている人がおり、その家庭が早くからカラーテレビを持っていたので、お母さんに連れられて見に行ったのだそうです。他にも、何人か近所の人たちが見に来ていたというのが、笑ってしまいます。ある意味では、物がさほど溢れていなかった時代の方が、近所との交流も多く、コミュニティー意識が高かったのかもしれません。 式が行われたのは、1969年7月1日のこと。世界各国で、これをテレビで見た人は、5億人、その内、英国内での視聴者は1900万人、ウェールズ内では、それまで過去最高のテレビ視聴率を獲得したイベントだったそうです。 プリンス・オブ・ウェールズは、古くから、英国王、女王の長男(皇太子)に与えられる称号です。(この称号に関しては、過去の記事 「公爵という称号」 に書きましたので、そちらを参考下さい。)チャールズ皇太子は、9歳の時にすでに、女王からプリンス・オブ・ウェールズの称号を受けていたものの、実際の式典は、彼が年長になり、事情がわかるまで延期。The investiture of the Prince of Walesは、言ってみれば、王女王の戴冠式に相当するものだそうです。儀式の前、しばらくの間、チャールズ皇太子は、ウェールズの言葉、歴史、文化のお勉強をし、式後は4日間ウェールズを回るツアー。 ウェールズ内には、反イングランドの気持ちを、もんもんと持ち続ける民族意識の強い一部の人間もいるため、当儀式は、ウェールズ人に対する侮辱だ、とのプロテストなどもあり、爆弾騒ぎの噂も流れ。かつては、北ウェールズで家を買ったイングランドの人間が、反感を持つウェールズ人に、家を焼かれてし