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9月, 2014の投稿を表示しています

フランダースの野で

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今年、2014年は、 第一次世界大戦 開始より100年目の年。そのため、あちらこちらで、大戦で命を落とした人たちのシンボルとして使用されるけしの花( ポピー )のディスプレイが目にとまります。 激戦地となったフランダースの平原で、地面が彫り上げられた事により、一気に咲き出したポピー。その様子からインスピレーションを受け、カナダ人ジョン・マクレー(John McCrae)が、1915年に書いた「In Flanders Fields」(フランダースの野で)という詩があります。 In Flanders fields the poppies blow Between the crosses, row on row, That mark our place; and in the sky The larks, still bravely singing, fly Scarce heard amid the guns below. We are the Dead. Short days ago We lived, felt dawn, saw sunset glow, Loved and were loved, and now we lie In Flanders fields. Take up our quarrel with the foe: To you from failing hands we throw The torch; be yours to hold it high. If ye break faith with us who die We shall not sleep, though poppies grow In Flanders fields. ちょっと訳してみますと、 フランダースの野でポピー(ケシの花)が揺れる 我らが横たわる場を示す 十字架の間に 列をなし 空を行くひばりは、いまだ果敢に鳴く 下に響く銃音の中かすかに聞こえ 我らは死者、数日前には 生きて、朝焼けを感じ、夕焼けを眺め 愛し、愛され、それが、今は横たわるのみ フランダースの野で 敵との戦いを続けてくれ 我らの萎えた手から君らに投げるトーチ 以後は君らが高く掲げてくれ もし我らの信頼を君らが裏切るのなら

ハムステッド・ヒースを臨むケンウッド・ハウス

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ハムステッド・ヒースの北側に立つ白い屋敷がケンウッド・ハウス(Kenwood House)。 もう四捨五入すると30年くらい前に、イギリス内に数ある、いわゆる昔の貴族の館の中で、初めて足を踏み入れたのが、確か、ここでした。ロンドンにある上、入場料もただですから。 比較的ここから近くにあった、ハムステッド・ガーデン・サバーブの英語学校に通っていたのもあって、レッスンの後に、学校の友人達と、ハムステッドヒースへ足を運ぶ事もよくありました。ケンウッド・ハウスの脇のティールームなどでお茶して、だべって。夏の間に、館の前で行われていたコンサートの際には、皆で、音楽を聴きながらピクニックなどもし。私の行っていた頃の英語学校は、ほとんどが西欧から勉強に来た子達ばかりで、資格試験コースだったのもあり、皆、良く学び、良く遊べ風。まだ、イギリス人の知り合いなどもほとんどいなかった時代、クラスメート達と英語を喋る事で、自信を付けていったんですよね。学校があった、のんびりとした環境も手伝い、もう一度経験してもいい、懐かしい時代です。現在での英語学校は、イギリスへ移り住んでくる人たちを反映し、東欧やヨーロッパ外の生徒が過半数をしめているかもしれません。時が流れました。と、老人の様に、昔の話をだらだらするのは、この辺にして、そう、懐かしのケンウッド・ハウスを、おそらく、20年以上ぶりに訪問しました。 過去のケンウッド・ハウス訪問の記憶は、内装よりも、レンブラントの自画像を初めとする数々の名画の印象がほとんど。ここで遭遇した、トマス・ゲインズバラの大きな貴婦人の絵(上の写真)を見て以来、 ゲインズバラ という画家の名もしっかり覚えた次第。ちょっと前に、改装工事が行われていたので、内部は私が最後に見たときよりもずっと綺麗にお色直しされているはずです。 この地に屋敷が建てられたのは、17世紀前半。邸宅は何度か所有者の手が変わり、1754年に、ケンウッドを購入したのが、スコットランド出身の著名判事であったウィリアム・マレー。一家は、ロンドンのブルームズベリー・スクエアに居を構え、週日はそこで過ごし、まだ、田舎であったハムステッドのケンウッド・ハウスは、週末の憩いの館。 高等法院主席判事の座にのし上がり、初代マンスフィールド伯の称号を得るこのウィリアム・マレーが、館の現在

リトル・ダンサーとケス

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テレビで映画「ビリー・エリオット」(Billy Elliot、邦題はリトル・ダンサー)がかかっていたので、見たことがないというだんなと一緒に、私は久しぶりに見てみました。 あらすじは イングランド北東部の炭鉱の町が舞台。11歳のビリー・エリオットの父と兄は共に炭鉱で働く。少々ぼけてしまっている祖母も同居。時代背景は、1984年から85年にかけての炭鉱ストライキ。国営であった炭鉱の効率の悪さから、時の首相マーガレット・サッチャーの方針で、徐々にイギリス各地の炭鉱、重工業への補助金の削減と、炭鉱の閉鎖が続き、それに反対するストが各地で展開された時代。ビリーの父と兄もストライキに参加。やさしかったビリーの母は死んでおらず、ビリーは常に母を恋しく思う。 ボクシングを習うために通っていた体育館で、ある日、ビリーは、おなじ場所で行われたバレーのレッスンに興味を持ち、父に内緒で、女の子に混じって、バレーを習い始める。やがて、バレーの先生から、ロンドンのロイヤル・バレー学校のオーディションを受けるよう薦められるものの、地元に巡回してきたオーディションを家庭事情で逃してしまうビリー。父は、一時は息子のヘンな趣味にショックを受け、怒るものの、ビリーの踊る姿を見て気を変える。ストライキ中で収入も無く、妻の遺品のアクセサリー類を売り払い、その金で、自らロンドンへビリーを連れてオーディションへ。無事、通過したビリーは、成功し、バレーダンサーになる。 ボクシングとバレーのレッスン一回につき50ペンスというのに時代を感じます。また、バレーの先生と、ビリーの兄の言い争いで、兄の口から、ミドル・クラス(中流階級)の ポッシュ な家に住んでるあんたによけいなおせっかいされたくない、ような言葉が飛びだすのにも、延々と残るイギリス階級社会の亀裂が見られ。 原題:Billy Elliot 監督:Stephen Daldry 言語:英語 2000年 だんなの感想は、あまりにもシンデレラ物語過ぎて、ちょっと現実味に欠けるというもの。本当の北部の炭鉱の町で、労働者階級の家庭に生まれた子供の生活を見たかったら、ケン・ローチ監督の1969年映画「Kes」(ケス)の方が、いいよん、というので、さっそく、こっちも見てみました。 「ケス」の舞台はヨークシャー南部の炭鉱の町。時代は、

スコットランド独立投票結果にほっと一息

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明け方、ひどい稲光と雷ごろごろの音で目が覚めました。昨夜は、 スコットランド独立 を聞くスコットランド国民投票。結果は本日早朝にわかることになっており、この雷様は、もしや、スコットランド独立を告げる天からのお告げか・・・などと5時半にラジオを入れると、「スコットランドの独立は、ノー(反対)派が勝利の見込みです」のニュースで、とりあえずは、まあ、良かったなと。6時ちょっとすぎには、独立反対勝利がまちがいなく確定。ポンドは上昇、スコットランド企業の株も上昇。ユニオンが生き延びて、胸を一撫でした人は、沢山いたのでしょう。ラジオでも、アナウンサーが、「嵐と雷があちこちで起こっていましたが、これがスコットランド独立を告げるものかと思った人は、ご安心あれ、スコットランドはユニオンに留まる事を決定しました。」なんて言っていました。そうそう、私も、天気に世の出来事の兆しを見る、という原始的な反応をした人のひとりです。 独立にイエスかノーかで、特に今月に入ってからは、ほぼ毎日ニュースで大幅にとりあげられ、イエス陣営の勢いが強くなっていたため、あせりを感じたウェストミンスター議会の政治家達が次々、スコットランドを訪れ、必死の「ノー」キャンペーン。ぎりぎりになって、パニくったか、ウェストミンスター3大政党の党首達が、独立反対派が勝った場合には、スコットランド議会に今までより多くの決断力を与えると約束。 イエス(独立賛成)陣営は、一部、非常に感情的となり、「ノー」というやつはスコットランド国民の恥さらしといわんばかりの態度を見せていました。どこぞの軍国主義国家が、家の前に国旗を掲げないと、「非国民だ」と指差し、軍部に通報するようなのと同じメンタリティーで、非常に見ていて嫌な気がする事もありました。反対陣営のキャンペーン資金に巨額を寄付した、ハリポタ作家、J.K.ローリングなども、「売れないシングルマザーの時は、エジンバラで生活補助を受けて世話になったくせに。裏切り者の、非国民め!」と多くのイエス陣営が反応し、ネット上で悪態をさんざんつかれていました。 そのためか、独立賛成側は大騒ぎで、早くから意思表示をしていたのに対し、反対陣営は比較的おとなしく、身をひそめている感じでした。攻撃的な賛成側に、お前は真のスコットランド人じゃない、非国民め、などとなじられるのが嫌な人も多くいた

メアリー・アニングと化石たち

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She sells sea-shells on the sea shore; The shells that she sells are sea-shells I'm sure. So if she sells sea-shells on the sea shore, I'm sure that the shells are sea-shore shells. 彼女は浜辺で貝殻を売る 彼女が売る殻は、貝殻に違いない だから、彼女が浜辺で貝殻を売るのなら その殻は、浜辺の貝殻に違いない おなじみ英語の早口言葉です。これは、19世紀はじめに、イングランドはドーセット州の村ライム・レジス(Lyme Regis)の海岸線で、数々の恐竜の化石を発掘した有名な化石ハンターであるメアリー・アニング(Mary Anning 1799-1847)の事である、と言われています。 前回の記事に書いた、 クリスタルパレス公園 に設置されている、ヴィクトリア時代に作られた恐竜たちのひとつに、上の写真中央のイクチオサウルス(Ichthyosaurus 魚竜)がありました。その名は、魚トカゲの意味で、骨組みが、魚とトカゲの中間にあたるため。 1811年に、この恐竜の頭の部分の骨の化石を、最初に発見したのが、メアリー・アニングの兄のジョセフ。翌年、13歳であったメアリーは、同じイクチオサウルスの首の部分の骨を発見し、これを発掘。現在では、イクチオサウルスは、クリスタル・パレス・パークのものよりも、もっとイルカに似た恐竜であったとわかっていますが、これが、掘り起こされた時は、地元の人々には、ワニと呼ばれていたようで、模型も、ワニ風になっています。なお、模型では目玉はパイナップルの輪切りの様に、ぎょろっとしていますが、これは、皮膚の下の目の構造を見せてあるものだそうで、実際の外観の目は、もっと小さめ。 彼女は、1832年に、最初のものよりも、もっと完璧な形をしたイクチオサウルスを発見。その他、1823年、世界初のプレシオサウルス(Plesiosaurus 首長竜)も掘り当てています。こちらは、上のクリスタルパレス公園の写真内左手の恐竜です。 メアリー・アニングが発見したイクチオサウルスとプレシオサウルスの化石は両方、ロンドンの 自然史博物館

クリスタル・パレス・パークで恐竜に会おう

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クリスタル・パレス(Crystal Palace、水晶宮)とは、1851年のロンドン万国博覧会のべニューとして建築された、ガラスと鉄でできた建物。これを設計したジョセフ・パクストン(Joseph Paxton)は、もともとは、造園家であったため、巨大温室の風体の建物でした。クリスタル・パレス建設に、使用された鉄は4000トン、ガラスは400トンというので、そのスケールの大きさがわかるでしょうか。 ロンドン万博期間中は、ハイドパークへ設置されていた水晶宮ですが、万博後、テムズ川南のシドナム(Sydenham)の地へ移動され、拡大され、内部に仕切りが作られます。建物は、コンサート、劇場、展示会等の各種イベントに使われ、また、周辺の地には、公園及び、スポーツ施設が作られます。もともと鉄道の走っていた場所だった事も手伝い、足の便が良く、前回の アレクサンドラ・パレス に関する記事に書いたよう、ロンドン市民の間で人気の場所となります。定期的に行われた花火でも有名だったようです。 ところが、約80年後の1936年11月、クリスタル・パレスは火事で消失してしまうのです!高台に建っていたため、その焼け落ちる様子が、かなり遠くからでも見れたのだとか。そのため、現在、この地に、ヴィクトリア朝の名残として残るのは、クリスタル・パレスの土台の廃墟と、公園(Crystal Palace Park、クリスタル・パレス・パーク)内に、1856年に作られた恐竜達のみ。 恐竜の置いてある公園などは、最近では良く目にするもので、私の住んでいた日本の団地内にも、上に登れる恐竜が何個か置いてああり、良く遊びましたが、クリスタル・パレス・パークの恐竜達が一味違うのは、何と言ってもその古さ。そして、その製作と設置には、ロンドン 自然史博物館 の設立にも一役買い、Dinosaur(ダイナソー、恐竜)という言葉を作った生物学者リチャード・オーウェン(Richard Owen)も携わったのですから、まさに、元祖恐竜公園なのです。池の周りに点在する恐竜達に、触ったり登ったりはできませんが、周りに生えている植物なども手伝い、ジュラシック・パークっぽい雰囲気はかなりでています。 ただし、当時はまだ、化石の発掘なども勢いがついてきたばかりで、その数も少なく、発見された骨や化石から、実際にどんな形をし

アレクサンドラ・パレスとパーク

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ロンドン北東部に位置するアレクサンドラ・パレス(Alexandra Palace)。ここからのロンドンの眺めは、ハムステッド・ヒース、そして プリムローズ・ヒル からの眺めに匹敵するなどといわれています。学校の夏休みも終わった秋晴れの日に、ちょいと出かけてきました。 アレクサンドラ・パレスのアレクサンドラは、ヴィクトリア女王の息子エドワード7世の奥さんで、デンマークからお嫁に来たアレクサンドラ妃の名から取ったもの。女好きプレーボーイであったエドワードの浮気をじっと我慢して、彼を大切にしたお妃様です。これが、建設された時代は、ヴィクトリア女王まだまだ健在で、エドワードは皇太子、アレクサンドラは皇太子妃でしたが。 ロンドンの南部にあり、花火やスポーツイベント、各種べニュー、市民の憩いの場として、当時人気であった クリスタル・パレス (現在は消失してありません)とパークに対抗して、「ロンドン北部にも似たようなものを」というのが、アレクサンドラ・パレスとそれを囲むパークを作った理由のひとつの様です。1873年、ヴィクトリア女王の54歳の誕生日にオープン。ところが、一大オープニング・セレモニーの16日後、熱い石炭から発火し、パレスは焼け落ちてしまうのです。あーあ。それでも、めげずに、すぐに再建され、1875年に再オープン。 巨大ホール、コンサート用の部屋、劇場、オフィスなどを有した建物となります。敷地内には、アーチェリーや、クリケットのスポーツ施設、その他、日本風の村を模したものもあったとやら。音楽フェスティバル、フラワー・ショー、わんちゃんや馬のショーなどに使用されたそうです。クリスタル・パレスとパークをへこますまでの人気にはならなかったようですが。 1936年より、アレクサンドラ・パレスの建物の一部は、BBCのテレビジョン・スタジオとして使用され始め、テレビ塔が建てられます。そして、同年、世界初のハイ・ディフィニッション(高精細度)テレビジョン放送を、一般的に行うようになった場所となるのです。当然、当時の「高精細度」は現在の定義よりもずっと劣るものではあったわけですが。それを記念するブループレークが、テレビ塔の下の壁にとりつけられてあります。1955年には、実験的カラー・テレビのテストも、ここで行われます。 第1次世界大戦中に、アレ

みじかくも美しく燃え

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前回の投稿 でトゥールーズ・ロートレックの事を書きながら、ふと頭に浮かんだ別の映画は、スウェーデンの「Elvira Madigan エルヴィラ・マディガン」(邦題:みじかくも美しく燃え)。いい映画だからと、友達に勧められ、ロンドンの名画座のようなシネマで見たのです。実話がもとになっています。 デンマーク人エルヴィラ・マディガンは、サーカスの綱渡り。スウェーデンでサーカスが掛かっている時に、スウェーデンの軍の中尉シクステンに見初められ、二人は瞬く間に恋に落ちます。彼は妻子のあある身の上、彼女はサーカスの稼ぎ所とあり、2人は駆け落ち。映画は、この駆け落ちの直後から始まります。筋と言っては、特に無く、北欧の森や野原の中を行く、彼らの熱愛の様子を追い、最後に、お金もなくなり、どうすればよいかの選択肢も無く、共に自殺。シクステンは、デンマークの森の中でピクニック後、野原で蝶々を追っているエルヴィラを射殺し、その後、自分もズドン。 エルヴィラのヘアスタイルは、 不思議の国のアリス 風。金色の前髪を抑えるのに、こちらでは、アリス・バンドと呼ばれるU字型のヘアバンドをしているのが、少女風で良かった。実際、彼女が死んだときは、まだ21歳だったといいますし。 サーカスについて、転々とヨーロッパの色々な土地を巡ってきたエルヴィラ。ヴェニスの思い出話をしたり、また、幼い頃、おそらく普仏戦争中のパリで、爆撃でサーカスが燃え、動物たちの焼けた匂いを覚えているなどとも。 さて、何故に、ロートレックの事を書いていて、この映画を思い出したかと言うと・・・エルヴィラがパリのカフェで座っている時、奇形の男性がこれを描いてくれたと、彼女の似顔絵が映るのですが、たしか、この似顔絵に、ちゃんとロートレックのサインも入っていたのです・・・二人は食う足しにと、やがて、この絵を売るのですが、奇形が書いたスケッチなどにあまり出せないと、わずかな金しか稼げない・・・あーあ。この逸話は事実かどうかは知りませんが、2人の駆け落ち、そして自殺の年、1889年は、パリでムーラン・ルージュがオープンした年。ロートレックも、この後、だんだん、パリでは有名になっていくわけですので、もうしばらく手元に置いておいて、その後、きちんとしたところに持っていって売っていれば、わりといい値がついたかもしれない。これが、現在だ

トゥールーズ=ロートレックとムーラン・ルージュ

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パリのモンマルトルの丘のふもとにある赤い風車が、ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)。今回の投稿で話題にする映画の「ムーラン・ルージュ」(邦題;赤い風車)は、椿姫を基にしたニコル・キドマンのミュージカルではなく、1952年製作の、画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの人生の物語です。 当時、金が無くて苦労した画家は、 ヴァン・ゴッホ をはじめ多くいますが、ロートレックは貴族の家に生まれ、一生、金に不自由しなかった人。彼のフルネームは、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa)と、仰々しくも由緒正しそうなもの。でも、彼には、金では解決できない他の悩みがあった・・・両親がいとこ同士で結婚したためか、子供時代に、階段から落ちた事故の後、足の発育が止まり、上半身のみは普通の大人でありながら、足の短い小人であったこと。いとこ同士の結婚など近親間での結婚は、貴族にはざらだったでしょうから、皮肉な事に、富裕な家に生まれた故の障害。 絵は子供の時から才を示し、スケッチなども絶妙だったようです。奇形となってしまってからは、それまで、乗馬を共に楽しんでいた父親との交流も無くなり、画家の道をとるべくパリへ。自分の階級の人間と共に過ごすより、パリの通りや、居酒屋、売春宿などで遭遇する人間たちとの友情を好み、絵の題材も当然、そういった層の生活ぶりを反映するもの。非常に頭の回転早く、ウィットに飛んだ人間で、気の利いた台詞を飛ばし。 映画「赤い風車」の中でも、パリのボヘミアンな生活を捨て、自分たちの屋敷に戻って、そこで絵を描けばいい、と薦める母親に対して、「自分の友達にヴァン・ゴッホという人物がいる。彼は麦畑などの戸外で絵を書くのを主としているけれど、自分にはそれはできない。自分は、街の生活を描く画家(ストリート・ペインター)だから。」という場面があります。日本の浮世絵に大幅な影響を受けたロートレックですが、題材的にも、歌舞伎役者などを描いた浮世絵と同じく、彼も大衆演芸や世間の生活がテーマ。言ってみれば、ロートレックはパリの「浮世」を描写いた画家であるわけです。 1889年に、その扉を開くや、パリで一大センセーションとなるモンマルトルのクラブ、ム