フランダースの野で

今年、2014年は、第一次世界大戦開始より100年目の年。そのため、あちらこちらで、大戦で命を落とした人たちのシンボルとして使用されるけしの花(ポピー)のディスプレイが目にとまります。

激戦地となったフランダースの平原で、地面が彫り上げられた事により、一気に咲き出したポピー。その様子からインスピレーションを受け、カナダ人ジョン・マクレー(John McCrae)が、1915年に書いた「In Flanders Fields」(フランダースの野で)という詩があります。

In Flanders fields the poppies blow
Between the crosses, row on row,
That mark our place; and in the sky
The larks, still bravely singing, fly
Scarce heard amid the guns below.

We are the Dead. Short days ago
We lived, felt dawn, saw sunset glow,
Loved and were loved, and now we lie
In Flanders fields.

Take up our quarrel with the foe:
To you from failing hands we throw
The torch; be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die
We shall not sleep, though poppies grow
In Flanders fields.

ちょっと訳してみますと、

フランダースの野でポピー(ケシの花)が揺れる
我らが横たわる場を示す
十字架の間に 列をなし
空を行くひばりは、いまだ果敢に鳴く
下に響く銃音の中かすかに聞こえ

我らは死者、数日前には
生きて、朝焼けを感じ、夕焼けを眺め
愛し、愛され、それが、今は横たわるのみ
フランダースの野で

敵との戦いを続けてくれ
我らの萎えた手から君らに投げるトーチ
以後は君らが高く掲げてくれ
もし我らの信頼を君らが裏切るのなら
我らが眠る事はないだろう、ポピーがなびく
フランダースの野で

ジョン・マクレーは、第二次イーぺル(Ypres、ベルギー内)の戦い(1915年4-5月)で戦死した同国カナダの友人を埋葬した夜に、ペンを取り、この詩を書き始めたと言われています。死体埋葬に使用した地に、日が経つに連れ、どんどん増えていく十字架の数。明け方には、詩の通りに、ひばりの声も十字架の上の空から聞こえたのだそうです。戦争初期の頃の作品なので、最後の節は、まだまだ、敵を倒すまで戦うぞ・・・と好戦的です。戦争後期に詩をしたためた兵士達が、戦争の空しさを歌ったのとは、対照的に。

西部戦線、激戦地のひとつであるイーペル。1914年後半、イーペルを抜け海岸へ到達しようとしたドイツ軍とイギリス軍は衝突(第一次イーペルの戦い)。多くの死者を出しながらも、なんとかドイツ軍を押し留めます。翌1915年の春、ドイツ軍は、再びイーペル攻略を試みます(第二次イーぺルの戦い)。この際、ドイツ軍により、西部戦線においては最初の、大規模な毒ガスが使用が行われます、再び、多数の被害者を出しながらも、連合軍はドイツ軍の侵略をなんとか抑え。1918年春に、ドイツ軍は、最後のイーペルへ向けての出撃をかけるものの、イーペルに辿りつく前に息切れ。

ドイツ軍の手には落ちなかったものの、戦争が終わった時、哀れ、中世織物の町イーペルの歴史ある建物は、ほぼ全滅。今日見る、中心部の昔ながらの建物はドイツからの資金で再建されています。未だ、毎夜、8時になると、一時車の通行が止まり、埋葬された場所が定かではない5万4千人の兵士の名が刻まれた町へと入る門(Menin Gate)で、ビューグル(ラッパ)による、ラスト・ポスト(The Last Post)が演奏されます。

上の写真は、以前買った雑誌に載っていたものですが、戦後直後(1919年)に、観光客が、バスでイーペルのマーケット広場を行く様子。戦いが終わるや、即行で観光が始まったというのも、たくましいものです。写真内の、バスの後ろに立つ廃墟は、14世紀に遡る中世のクロス・ホール。今は、再建され、「In Flanders Fields Musuem」という第一次大戦の博物館になっています。

100年・・・などというと、若い頃は、大昔のような気がしたものですが、自分も年を経た上、80、90まで生きる人もざらな昨今、100年という単位も、さほど今自分が立っている時点からかけ離れたものではない気がしてきました。それでも、この頃は、まだ女性参政権もなかったし、テレビ、洗濯機、冷蔵庫なども無かったのですよね。当たり前に思う、現代の先進国の便利な生活は、石油のおかげも手伝い、本当に近年になって一気に手に入ったもの。こうした社会の変化が大きかったのも手伝い、100年前の長いドレスを着た女性の白黒写真などを眺め、イメージ的に遠く感じたのもあるのでしょう。

今から100年後、現世代の子孫は、どんな生活をしているのでしょうか。今の我々の写真を見て、「なんて原始的な事をしていたんだ、うちのじじばばは!」などと思うのか。それとも、歴史は繰り返すで、人類は愚行を繰り返し、第3次世界大戦でも起こっているのか。今の先進国の文化生活は滅びてしまっているかもしれないし。「猿の惑星」のラストシーンの様に、自由の女神も砂に埋もれて。

以前、原発事故のあったチェルノブイリの跡地で、にょきにょきと色々な植物が、コンクリートを押し割って生えている様子をテレビで見て、自然の力とはすごいもんじゃと、感心した事がありました。100年後、人間社会がどんなになってしまっていても、あちこちの野原で、ポピーはまだ、風に揺れていることでしょう。

コメント

  1. Take up our quarrel with the foe
    のTake upの部分はシェイクスピアの作品からの引用で、意味は「好意的に収束させる」なので
    この文の意味は「敵との戦いを終わりにしよう」が適切です。

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    1. 返信申し上げます。書いた時も現在も、いろいろ文献も読み、ドキュメンタリーも見、調べましたが、この訳であっていると考えます。

      コメントをいただいた後、さらなる確認のため、Ontario Heritage Trust (マクレーはオンタリオ出身です)があげている、カナダの歴史家J. Granasteinのこの部分の解釈のビデオなども見ましたが、敵との戦いを続けよ、との呼びかけが元の意味であるのに関わらず、この詩が書かれてから100年以上たった今、考え方が変わってきたため、平和的な間違った解釈がなされる事もあるという話でした。これは、ユーチューブで、Ontario Heritage Trust、J. Granasteinとサーチすれば、すぐ出てくると思います。

      なお、シェイクスピアの引用というのが、私は、どうしても探し出せないのですが、何という作品のどの部分、どういう背景に出てくる言葉なのでしょう。「好意的に収束させる」と、なぜ訳せるのかが、背景を知らず、読み取ることもできませんし・・・。

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