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10月, 2013の投稿を表示しています

嵐のあと

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1987年10月15日。当時のBBCのお天気おじさん、マイケル・フィッシュが午後1時のテレビ天気予報に登場。「ハリケーンが来るっていうが、本当か、と先ほどBBCに電話をかけた女性がいましたが、もし見ていたら、心配しないように。ハリケーンは来ませんから。強風とはなりますが、その経路は主にスペイン方面です。」 この夜、イギリスにやってきたのが、1987年のグレート・ストームと呼ばれる大嵐。死者18人、風速は115マイルまで達し、木々はなぎ倒され、イギリス各地は大被害。嵐の後、各メディアは、気象庁が、的確な警報を出さなかったと非難をはじめ、哀れ、マイケル・フィッシュ氏は、グレート・ストームを予測できなかったお天気おじさんとして、イギリスの社会史に名を残す事となります。彼が「心配しないで・・・(ドント・ウォーリー)」と呼びかける、天気予報のビデオは、その後も、事あるごとに、何度も何度も流されることとなり、なんと去年のロンドン・オリンピックのオープニング・セレモニーでも、このビデオが登場していました。 そんな苦い経験もあってか、昨日は、かなり早くから、「日曜の夜と月曜の朝にかけて、25年ぶりの大嵐となる恐れがあります」と報道が繰り返され、運転を控える鉄道路線も多かったのです。朝起きてみると、風は嵐という感じとは程遠く、経路はずれたかな、と、ラジオのスイッチを入れました。「こんな大した事のない強風に、大騒ぎするなんて」という批判のメールやらテキストやらがBBCのスタジオへ多く送られてきているとアナウンサーが言っているのを聞き、「嵐が来ないから大丈夫」というと非難ごうごう、「嵐がくるぞー」と言ったら非難ごうごう、気象庁も気の毒に・・・と紅茶をすすりながらボーっと思っているうちに、7時を回り、「え、なんだか、風が強くなってきたぞ・・・」そして、その後約2時間、しばらくぶりに見る強い嵐が吹き抜けていったのです。2階の窓から、隣の家の塀が倒れるのを見、庭の木が、地面と平行になる感じでなびくのを見。 嵐がいくらか静まった9時に、空は快晴。ちょっと外がどんな様子か見て来ようと、出かけてみる事に。とにかくなぎ倒された木が多かったのには、びっくりしました。あんな短い時間で。 上の写真の木は、本当に根こそぎ、という感じで、最近雨が多く地面が湿っていたのも手伝ってか、脇に埋

ハトのクーちゃん

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2週間前、家の前で雨樋の修理をしていただんなが、「おーい!おーい!」と呼ぶのです。何かと思って家の前を覗くと、前庭に面した道路に、ハトが一羽うずくまり、だんなは、脱いだ靴を片手にかざして、向かいの家の前で、そのハトをじっと見ている三毛猫を脅かしていました。「あの猫に襲い掛かられて動けない鳩がいるから、何か、鳩を入れられる箱持ってきて。」私が、そそくさと箱を渡すと、だんなは、ちじこまるハトを箱に移して、お遊び用の獲物を逃した猫を尻目に、うちの裏庭に移動。 花壇の片隅に、箱から出して鳩を置くと、そのままじとっと、羽を膨らませうずくまっている・・・。だんなは、庭の小鳥用の餌を、常時10キロくらい蓄え持っている隣の家に行って、餌を少し分けてもらい、それを鳩の顔の前に置くと、しばらくじっとそれを眺めていたもののやがて立ち上がって、むしゃむしゃむしゃ。 見た目から、まだ雛に毛が生えたくらいの若いハトでしょう。血も出ておらず、あからさまな外傷は無いものの、飛ぶ様子は一切見せず、歩き出しても、のろのろ。片足を少しかまれたのか、ひょこひょこ引きずっている・・・まだ良く飛べないうちに巣から転がり落ちて、猫に押さえつけられたのかな。これだけ食欲があれば、面倒見れば生き延びるかも;と、大き目の浅いダンボール箱にハトを移し、トマトの苗を引き抜いて整理したばかりのグリーンハウス(温室)を、臨時のハト・ホテルとすることにしました。お泊り、おひとり様ー! このハトは、Collared Dove(コラード・ダヴ、シラコバト)。英語の直訳は、「首輪バト」とでも言うのか、首の周りに黒い首輪か襟のような線が入っているのが特徴です。「クークーククー、クークーククー」とい う、のどかな鳴き声でもおなじみ。イギリスの生き物辞典によると、シラコバトは、1930年代までは、ヨーロッパではバルカン半島辺りにしか生息していなかったものを、その後、大変な勢いで生息地域が増え、1950年代に、イギリスでも見られるようになり、今では、イギリス国内で沢山見られる鳥です。 うちの庭に来る、いわゆる「ハト」は、このシラコバトのほかに、Wood Pigeon(ウッド・ピジョン、モリバト)がいます。上の写真がそれ。こちらは、シラコバトより、ずっと大型で、イギリスで一番大きいハト。身体も見るからに重そう。飛び

オスタリー・パークとハウス

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ロンドンの地下鉄ピカデリーラインに飛び乗り、ヒースロー空港駅の5つ前の駅、オスタリーで下車。駅のすぐ前は、車が多い広い道路。ちょっとさびれた雰囲気だな・・・と思いつつ、オスタリー・パークの道しるべを頼りに、途中、コインランドリーなども立つ道を、徒歩10分。駅周辺の風景からは別世界のオスタリー・パーク&ハウス(Osterley Park and House)にたどり着くのであります。 それは見事なたたずまいのオスタリー・ハウス。西側はすぐ、ヒースロー空港であるため、飛行機が、まるで邸宅の屋根に激突するように、角度を落としていきます。 エリザベス女王の金融アドバイザーで、大変な富と権力を誇ったトーマス・グレシャムによって建てられた館を土台に、18世紀に大幅に改築されたものが現在のオスタリー・ハウスです。1773年に、この館を訪れたホレス・ウォルポール(イギリス初代首相ロバート・ウォルポールの息子、政治家、文筆家)は、「金曜日に、我々は、ああ・・・宮殿中の宮殿とでも言える様なすばらしい館を見に行った。サー・トーマス・グレシャムが建てた古い館を何度か見たが、これが、すばらしく改善され、美しくなっていた・・・」との印象を記しています。たしかに、三角屋根の白いポルティコがどーんと正面で出迎えるこの建物、ロンドン内で見たいわゆる昔の大邸宅の中では、ぴか一の威厳です。 ロンドンはシティーのビショップスゲイトにタウンハウスを構えていたトーマス・グレシャムは、オスタリーに農家を有していました。やがて、シティーと、その中で時に蔓延する黒死病の災いから離れたこの地に、レンガ作りの館を建築。周辺の土地の囲い込みも行っています。イギリスの「囲い込み」というと、18~19世紀のものが有名ですが、すでに、それ以前から始まっていた現象です。エリザベス女王は、このオスタリーのグレシャム邸宅に、少なくとも2回訪れ、お泊りをしたという記録が残っています。この女王のお泊りの際に、グレシャムが行った囲い込みに対するプロテストとして、女性が2人、敷地の周りの塀の一部を焼き落としたという事件もありました。 トーマス・グレシャムの死後、館は、数人の手を経て、やがて、1726年に銀行家フランシス・チャイルドの所有となります。彼は、自分自身はこの館に住むことなく、この館の購入理由は、銀行の預金を

ハム・ハウス

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リッチモンド駅から、テムズ川沿いに歩くこと約20~30分のところに、ハム・ハウス(Ham House)はあります。(この館へ辿りつくまでの道中の風景は、 前回の記事 をご覧下さい。) ハム・ハウスは、ジェームズ1世の時代の1610年、王室の高官であったトマス・ヴァーヴァサーにより建設された館。1637年に、ウィリアム・マリー(第一代ダイサート伯)が住むようになってから、約300年間、ナショナル・トラスト所有となるまで、ダイサート伯爵家の人々の住処となります。庭園を含め、内部も、大幅な改造を受けることなく、比較的17世紀の雰囲気をそのままに残す事で知られている館です。 このウィリアム・マリーという人物は、子供の頃、ジェームズ一世の息子、チャールズ(後のチャールズ1世)のウィッピング・ボーイだったそうです。ウィッピング・ボーイなるものは、王子様が悪さをした際や、まじめにお勉強しない時などに、当の本人に代わっておしおきを受けるという、なんともいたたまれない役割の子供の事ですが、その甲斐あって、チャールズ1世との絆は深く、こんな立派なお屋敷も住まわせてもらえた上、ダイサート伯爵号も獲得。現在では、当然ウィッピング・ボーイのような習慣はなくなっていますから、自分の息子を、ウィリアム王子とキャサリン妃の王子様、ジョージのウィッピング・ボーイにして、後々は立派なお屋敷を手に入れさせようなんて企んでも無駄です。また、もともと、ウィッピング・ボーイも、貴族の息子が選ばれていたようなので、一般庶民の子供が選ばれる事もなかったわけですし。 ウィリアムの死後は、ウィリアムの一人娘のエリザベスがダイサート女伯爵号を受け、また自分の息子に伯爵号を世襲させる権利を獲得。当然、王党派であったため、ピューリタン革命とその後の共和政時代、エリザベスは、細心の注意を払ってサバイバルするのです。オリバー・クロムウェルを巧みにかわしながら、王党派と王政復古のための、スパイまがいの闇の努力も行うという、かなり肝の座った女性で、機知に富むとの評判もあったようです。彼女の2度目のだんなとなるローダデイル公も、共和政時代は、監禁状態となったものの、王政復古で、チャールズ2世が王座に着くや、政治的にパワフルな人物として返り咲き。この二人が結婚した1672年、夫婦は、自分達の身分にふさわしく、ハム・ハウ

リッチモンドでテムズ川沿い散歩(リッチモンド・ブリッジからハム・ハウスへ)

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イギリスにリッチモンドと呼ばれる場所はいくつかあります。「強固な丘」を意味する、「Riche Mount」 がその名の由来ですが、イギリスで一番古いリッチモンドと呼ばれる場所は、北ヨークシャー州、スウェール川沿いのリッチモンドで、これは、11世紀、ノルマン朝のウィリアム1世時代に遡る町。もともとは、フランスの地名を取って命名されたようです。このヨークシャーのリッチモンドの強固な丘の上には、ノルマン時代のお城がどっしりと立って町を見下ろしています。ヨークに住んでいる際に、2,3回訪れた、好きな町です。 一方、一番有名で外国人も知っているリッチモンドは、キュー・ガーデンからもほど遠からぬ、ロンドンのリッチモンド・アポン・テムズでしょう。荘園といくつかの漁師のコテージの集落で、当時はまだSheneと呼ばれていたこの土地に、エドワード3世が館を建てた事から、この土地と王室の関係が始まります。エドワード3世が、この館で息を引き取った後、召使いたちが指輪等を抜き取って盗んだと言うエピソードが残っています。 この地がリッチモンドと呼ばれるようになるのは、更に時が経ち、ヘンリー7世の時代。チューダー朝創始者であるヘンリー7世は、数ある王室の館のなかでも、こよなく愛したこの地をリッチモンドと呼ぶようになり、アーサー、ヘンリー(後の8世)の二人の息子達は、ここで育てられます。火事で一部焼けた後、館は再建され、これが、パレス(宮殿)と呼ばれるようになり、ヘンリー7世が当時ヨークシャーのリッチモンドを有していた事から、その宮殿と周辺の地がリッチモンドと呼ばれるようになるのです。こうして、リッチモンド宮殿は、チューダー朝の君主達のお気に入りとなります。ヘンリー7世とエリザベス女王も、この宮殿にて死去。残念な事に、共和制オリバー・クロムウェルの政権下、チャールズ1世が処刑された後、宮殿は破壊されてしまいます。それでも、後の王者達もこの土地を愛し、また、多くの富裕者、有力者達、画家文化人がここへ居を構えるのです。 というわけで、現在でも城が幅を利かせているヨークシャーのリッチモンドと違い、リッチモンド・オン・テムズの名声は、城や宮殿によるものではなく、ロンドンのみならず、英国内の町の公園としては最大のリッチモンド・パークと、丘の高台からテムズ川を臨む景観によるところ大きく、過去の

薔薇の名前

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テレビで、映画「薔薇の名前」がかかっていたので、実に久しぶりに見てみました。イタリアの作家ウンベルト・エーコ原作、14世紀前半、北イタリアのベネディクト派修道院を舞台にしたなぞの殺人事件の顛末を追う物語。当修道院を、弟子アドソを連れて訪れるのは、フランシスコ派の僧バスカビルのウィリアム(ショーン・コネリー)。ショーン・コネリーが出ている映画で見た中では、一番好きなものです。彼は、マネキンの様なかつらをつけていたジェームズ・ボンド時代より、この辺りからの方が、渋みが増してよいのです。物語は、年を取ったアドソが、過去を振り返って書き留めるというナレーションによって、語られます。 あらすじ キリスト教教義についての会議に出席すべく、ウィリアムとアドソは、山の上のベネディクト会修道院を訪れる。修道院では、彼らが到着する直前に、若く美しい装飾写本者の僧が塔から墜落死するという事件があり、僧達の間では、院内に悪魔の力が潜んでいるのではと、不穏の空気が流れていた。過去、異端審問官であった経験のあるウィリアムに、院長は、事件解決のための相談をもちかけ、ウィリアムは、シャーロック・ホームズよろしく、独自の調査を始める。ワトソンを引き連れるようにアドソを引きつれ、現場を観察しながら「エレメンタリー!」などと言うところも、ホームズを髣髴。 その後、いくつかの殺人が起こる。殺害された者達のひとさし指と舌は、なぜか真っ黒に染まっていた。事件のなぞは、図書館係りの者と、盲目の長老以外の立ち入りが禁じられている塔内の図書館に収められた本にある、と睨むウィリアムは、夜中、アドソと共に図書館に侵入。塔の中にあったのは、貴重本を多々含む、キリスト教世界の中で、最もすばらしい図書館であった。ウィリアムが、事件が院内の者による殺人である事を院長に告げると、スキャンダルを恐れる院長は、異端審問官、ベルナルドを招く。ベルナルドは、過去、ウィリアムが異端審問官であった時代に、意見を対立させた宿敵であり、彼のせいで、ウィリアムは一時命を落としかけたという過去がある。 ベルナルドは、頭の弱いせむし男と彼の保護者、そして、たまたま修道院に居合わせた貧しい娘を捕らえ、彼らが悪魔の力で殺人を犯したとして、火あぶりの刑を命じる。ウィリアムは、彼らの無実の証明のため、再び図書館へ侵入。内部で、存在が定かで

北から眺めるロンドン・スカイライン今昔

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ロンドンのプリムローズ・ヒル(Primrose Hill)は、 リージェンツ・パーク のすぐ北にある公園。中世の時代は、鹿やイノシシもいた森であったのを、エリザベス朝に木々が取り除かれ牧草地となります。プリムローズ・ヒルという名前は、かつて、この地一面に咲いていたプリムローズからきたもの。 他の有名なロンドンの公園に比べると比較的小さめですが、この63メートルの丘の上から、南斜面を臨んだ地平線には、遮るもの無く、ロンドンのスカイラインが一面に広がります。私が前回ここに立った時は、当然 シャード なども無く、地平線から突き出す建物の数はもっと少なかったはずです。そして、時代をもっと戻せば、木々のかなたに望めるのは、セント・ポール寺院のドームと、今は高層ビルの陰に潜む多くの教会の尖塔だけだったのでしょう。 セント・ポールのあるシティー西側は、寺院のドームの眺めの阻害にならないように、高層ビルの建設には規制がかけられているようですので、昨今の新しい高層ビル建設は、主にシティーの東側に集中します。どれだけ奇抜な形のビルを作れるか・・・の競争のような感じで、次から次へと、妙な建物がにょきにょきと地平線から生えてくる感じです。今話題の新しいビルは、地階に比べ、上階が外に突き出している、頭でっかちのビル・・・人呼んでウォーキートーキー(トランシーバーの意)。上の写真の左手のものです。今年の夏のとある暑い日、このウォーキートーキーの上階のガラスに、お日様がぎらぎらと照りつけ、その反射した日差しで、ビルの下にとまっていた高級車の一部が溶けてしまった、というお笑いの様なニュースがありました。虫眼鏡で日の光を集め、紙に焼き穴を開けた、子供時代の化学の実験を思い出した次第。 1964年に完成したテレコムタワー(上の写真右)は、建設当時はロンドンで一番高い建物でしたが、今やご老公様で、「最近の若い者は背が高いのう。」というところでしょう。ちなみに、一番上の写真でテレコムタワーが、一番背が高く見えるのは、距離が他の高層より近いためですので、あらかじめ。 上の絵は、18世紀後半に描かれた、風刺画家アイザック・クルックシャンクによる「パスタイム・オブ・プリムローズ・ヒル(プリムローズ・ヒルでの余暇)」。すでにこの頃から、ロンドンの景色を楽しむ丘として、この絵の様に、