リッチモンドでテムズ川沿い散歩(リッチモンド・ブリッジからハム・ハウスへ)
イギリスにリッチモンドと呼ばれる場所はいくつかあります。「強固な丘」を意味する、「Riche Mount」 がその名の由来ですが、イギリスで一番古いリッチモンドと呼ばれる場所は、北ヨークシャー州、スウェール川沿いのリッチモンドで、これは、11世紀、ノルマン朝のウィリアム1世時代に遡る町。もともとは、フランスの地名を取って命名されたようです。このヨークシャーのリッチモンドの強固な丘の上には、ノルマン時代のお城がどっしりと立って町を見下ろしています。ヨークに住んでいる際に、2,3回訪れた、好きな町です。
一方、一番有名で外国人も知っているリッチモンドは、キュー・ガーデンからもほど遠からぬ、ロンドンのリッチモンド・アポン・テムズでしょう。荘園といくつかの漁師のコテージの集落で、当時はまだSheneと呼ばれていたこの土地に、エドワード3世が館を建てた事から、この土地と王室の関係が始まります。エドワード3世が、この館で息を引き取った後、召使いたちが指輪等を抜き取って盗んだと言うエピソードが残っています。
この地がリッチモンドと呼ばれるようになるのは、更に時が経ち、ヘンリー7世の時代。チューダー朝創始者であるヘンリー7世は、数ある王室の館のなかでも、こよなく愛したこの地をリッチモンドと呼ぶようになり、アーサー、ヘンリー(後の8世)の二人の息子達は、ここで育てられます。火事で一部焼けた後、館は再建され、これが、パレス(宮殿)と呼ばれるようになり、ヘンリー7世が当時ヨークシャーのリッチモンドを有していた事から、その宮殿と周辺の地がリッチモンドと呼ばれるようになるのです。こうして、リッチモンド宮殿は、チューダー朝の君主達のお気に入りとなります。ヘンリー7世とエリザベス女王も、この宮殿にて死去。残念な事に、共和制オリバー・クロムウェルの政権下、チャールズ1世が処刑された後、宮殿は破壊されてしまいます。それでも、後の王者達もこの土地を愛し、また、多くの富裕者、有力者達、画家文化人がここへ居を構えるのです。
というわけで、現在でも城が幅を利かせているヨークシャーのリッチモンドと違い、リッチモンド・オン・テムズの名声は、城や宮殿によるものではなく、ロンドンのみならず、英国内の町の公園としては最大のリッチモンド・パークと、丘の高台からテムズ川を臨む景観によるところ大きく、過去の王室との深い縁からも、現在も、緑溢れる高級住宅地です。
リッチモンドのテムズ川沿いにある17世紀前半の館、ハム・ハウスを訪れるため、リッチモンド駅に降り立ちました。
駅周辺と目抜き通りは、特に他のイギリスの町と変わらず、お店が並び、車がぶんぶん。お洒落なお店や、カフェがある・・・などと日本の雑誌などは書き並べそうですが、車や人の多い通りで、店を覗いたりするのが面倒な、私のようなおばさんには、うざったいだけ。「早く、静かな景色の良いところへ!」と、ぜんまい仕掛けのおもちゃの様に、足の回転フルスピードで、約5~10分。リッチモンド・ブリッジ(一番上の写真)にたどり着き、ほっと一息。この後は、車の音と排ガスに悩まされずに、ずっとテムズ川沿いを歩けるはず。
長い間、リッチモンドから対岸に渡る術は、渡し舟のみであったため、リッチモンドの人口が増加した18世紀、橋をかける必要性が強まり、5つのアーチがある、白いポートランド・ストーンでできたリッチモンド・ブリッジの建設が決まり、1777年完成。1937年に、橋の幅を広げる改築が行われたものの、ロンドン内でのテムズにかかる橋で、現存する最古のものと言われます。さっそくテムズ上流へ向かって歩き始めます。ちなみに、ここから反対の下流(ロンドン中心部方向)へ歩くとキュー・ガーデンです。
ロンドン西部はあまり足を運ぶことがないのですが、川の向こうの空を飛行機が低く飛んでいるのを何度も見て、ヒースロー空港の近さを実感。つい最近、ヒースロー空港周辺の住民の間では、(おそらく飛行機の騒音のため)比較的若いときに心臓麻痺などで死ぬ人の割合が高い・・・などという話を聞いたのですが、これはリッチモンドも当てはまるのでしょうか。この周辺は、緑の多さから来る安らぎ感に中和されて大丈夫なのかな。
前をお母さんの手を握っていて歩いていた男の子が、いきなりその手を振り切り、「カウを見るんだ!」と走り出しました。しばらく行くと、左手に広がるのは、牛が草食む、ピーターシャム・メドウ。リッチモンド・ヒルを背景にしたポッシュな牛たちのお食事風景です。
ハム・ハウスは川沿いにあるので、しばらく良い気分で歩いていたのはいいが、そのうち、道しるべに、ハム・ハウスという名前が消えてしまったのに気づき、「あれ、入り口通り越したかな・・・」と不安になり、たまたま、そばを通ったおじいさんに、「ハム・ハウスは、まだこの先ですよね。」と質問。「そうそう、そのうち左手にちょっと曲がって入るところがあるよ。ハム・ハウスに行くの?同じ方向に歩くから、曲がる場所教えてあげるよ。」と言われ、ありがたく、しばし一緒に歩きました。
「先月の、ロンドンのオープン・ハウスで、ハム・ハウスに無料で入ってきたよ。列もできて、混んでいたけれども、まあ、無料だったから、文句言えないね。」
オープン・ハウスというのは、歴史的建物を、一般に無料で公開する日で、こういった普段有料の屋敷や、または、普段は一般人が一切入れない建物も一部開いています。
「あ、私は、ロンドン・オープン・ハウスで、ロイズ・ビルに入ったことありますよ。」
「あー、ロイズか。外側にパイプなんかがある建物だよね。60年代に、妹が、ロイズの昔の建物内で働いていたよ。」
「同じ場所にあったんですか?」
「多分、そうだったと思う。」
「最近は、ウォーキー・トーキーなんかもあるから、今のロイズもさほど変わっていると思えなくなりましたよね。」
「たしかに。色んなのできてるからね。」
対岸に白い建物(上の写真)が見えてくると、おじいさん、
「対岸のあの建物は、マーブル・ヒルで、あれも中には入れるよ。あっちは、イングリッシュ・ヘリテージかな。」
イングリッシュ・ヘリテージは、ハム・ハウスを所有するナショナル・トラスト同様、歴史ある建物等を保護管理するチャリティーです。
「ハム・ハウス見て、まだエネルギーがあったら、いってみると良いよ。ボートで対岸に渡れるはずだから。」
「多分今日は、ハム・ハウスだけで力尽きそうだから、マーブル・ヒルは、また別の日に行って見てみますよ。ハム・ハウス内でお勧めあります?」
「うーん、絵画なんかも沢山あるけれど、一番印象に残ったのは、ザ・フィールド・オブ・ザ・クロス・オブ・ゴールド(金襴の陣)の絵だな。」
「あ、ヘンリー8世のですか?」
「そうそう、ヘンリーとフランシス1世の会合を描いたやつ。ヘンリーがフランシスを感心させようと、贅を尽くしたっていう会合だよ。」
「本の中でプリントされたのを見たことありますよ。」
「テントや建物などが細かく描かれていて面白かったよ。」
ヘンリーが、フランスのカレー付近(当時のイギリスの領土内)で、フランシス1世を迎えるために、一時的に宮殿まで建て、贅をこらした、「金襴の陣」については、いつかまた、別の投稿で書くことにします。
そんなこんなで、わりと楽しく喋っているうちに、おじいさん、
「あ、ここ、ここ。ここから入って。建物と入り口が見えるから。」
道しるべには、たしかに、そちらの方向を指して、ハム・ハウスの文字が。
「サンキュー・ヴェリー・マッチ。」
「ザ・フィールド・オブ・ザ・クロス・オブ・ゴールドの絵、見て来なよ。題名はフランス語で書いてあるから、見逃さないように。」
このまま、川を辿って更に上流に進み続けると、やがては、ハンプトン・コートの宮殿にたどり着くのですが、自転車ででも行かないと、ハンプトン・コートまでは、わりと時間がかかるかと思います。ハンプトン・コート宮殿は、失われたリッチモンド宮殿と運を分けて、共和政時代に、破壊の憂き目に合わず生き残り、現在に至ります。その理由は・・・オリバー・クロムウェルが、ちゃっかり、自分で移り住んだからなんですね。なんともはや、共和制とは言いながら、人間、権力を手に入れると、皆、やがては王の様に振舞い始めるものです。
ということで、この日は、テムズ沿い散歩はここまでとして、草原を横切り、ハム・ハウスへと乗り込みました。この館については次回の記事まで。
一方、一番有名で外国人も知っているリッチモンドは、キュー・ガーデンからもほど遠からぬ、ロンドンのリッチモンド・アポン・テムズでしょう。荘園といくつかの漁師のコテージの集落で、当時はまだSheneと呼ばれていたこの土地に、エドワード3世が館を建てた事から、この土地と王室の関係が始まります。エドワード3世が、この館で息を引き取った後、召使いたちが指輪等を抜き取って盗んだと言うエピソードが残っています。
この地がリッチモンドと呼ばれるようになるのは、更に時が経ち、ヘンリー7世の時代。チューダー朝創始者であるヘンリー7世は、数ある王室の館のなかでも、こよなく愛したこの地をリッチモンドと呼ぶようになり、アーサー、ヘンリー(後の8世)の二人の息子達は、ここで育てられます。火事で一部焼けた後、館は再建され、これが、パレス(宮殿)と呼ばれるようになり、ヘンリー7世が当時ヨークシャーのリッチモンドを有していた事から、その宮殿と周辺の地がリッチモンドと呼ばれるようになるのです。こうして、リッチモンド宮殿は、チューダー朝の君主達のお気に入りとなります。ヘンリー7世とエリザベス女王も、この宮殿にて死去。残念な事に、共和制オリバー・クロムウェルの政権下、チャールズ1世が処刑された後、宮殿は破壊されてしまいます。それでも、後の王者達もこの土地を愛し、また、多くの富裕者、有力者達、画家文化人がここへ居を構えるのです。
というわけで、現在でも城が幅を利かせているヨークシャーのリッチモンドと違い、リッチモンド・オン・テムズの名声は、城や宮殿によるものではなく、ロンドンのみならず、英国内の町の公園としては最大のリッチモンド・パークと、丘の高台からテムズ川を臨む景観によるところ大きく、過去の王室との深い縁からも、現在も、緑溢れる高級住宅地です。
リッチモンドのテムズ川沿いにある17世紀前半の館、ハム・ハウスを訪れるため、リッチモンド駅に降り立ちました。
駅周辺と目抜き通りは、特に他のイギリスの町と変わらず、お店が並び、車がぶんぶん。お洒落なお店や、カフェがある・・・などと日本の雑誌などは書き並べそうですが、車や人の多い通りで、店を覗いたりするのが面倒な、私のようなおばさんには、うざったいだけ。「早く、静かな景色の良いところへ!」と、ぜんまい仕掛けのおもちゃの様に、足の回転フルスピードで、約5~10分。リッチモンド・ブリッジ(一番上の写真)にたどり着き、ほっと一息。この後は、車の音と排ガスに悩まされずに、ずっとテムズ川沿いを歩けるはず。
長い間、リッチモンドから対岸に渡る術は、渡し舟のみであったため、リッチモンドの人口が増加した18世紀、橋をかける必要性が強まり、5つのアーチがある、白いポートランド・ストーンでできたリッチモンド・ブリッジの建設が決まり、1777年完成。1937年に、橋の幅を広げる改築が行われたものの、ロンドン内でのテムズにかかる橋で、現存する最古のものと言われます。さっそくテムズ上流へ向かって歩き始めます。ちなみに、ここから反対の下流(ロンドン中心部方向)へ歩くとキュー・ガーデンです。
ロンドン西部はあまり足を運ぶことがないのですが、川の向こうの空を飛行機が低く飛んでいるのを何度も見て、ヒースロー空港の近さを実感。つい最近、ヒースロー空港周辺の住民の間では、(おそらく飛行機の騒音のため)比較的若いときに心臓麻痺などで死ぬ人の割合が高い・・・などという話を聞いたのですが、これはリッチモンドも当てはまるのでしょうか。この周辺は、緑の多さから来る安らぎ感に中和されて大丈夫なのかな。
前をお母さんの手を握っていて歩いていた男の子が、いきなりその手を振り切り、「カウを見るんだ!」と走り出しました。しばらく行くと、左手に広がるのは、牛が草食む、ピーターシャム・メドウ。リッチモンド・ヒルを背景にしたポッシュな牛たちのお食事風景です。
ハム・ハウスは川沿いにあるので、しばらく良い気分で歩いていたのはいいが、そのうち、道しるべに、ハム・ハウスという名前が消えてしまったのに気づき、「あれ、入り口通り越したかな・・・」と不安になり、たまたま、そばを通ったおじいさんに、「ハム・ハウスは、まだこの先ですよね。」と質問。「そうそう、そのうち左手にちょっと曲がって入るところがあるよ。ハム・ハウスに行くの?同じ方向に歩くから、曲がる場所教えてあげるよ。」と言われ、ありがたく、しばし一緒に歩きました。
「先月の、ロンドンのオープン・ハウスで、ハム・ハウスに無料で入ってきたよ。列もできて、混んでいたけれども、まあ、無料だったから、文句言えないね。」
オープン・ハウスというのは、歴史的建物を、一般に無料で公開する日で、こういった普段有料の屋敷や、または、普段は一般人が一切入れない建物も一部開いています。
「あ、私は、ロンドン・オープン・ハウスで、ロイズ・ビルに入ったことありますよ。」
「あー、ロイズか。外側にパイプなんかがある建物だよね。60年代に、妹が、ロイズの昔の建物内で働いていたよ。」
「同じ場所にあったんですか?」
「多分、そうだったと思う。」
「最近は、ウォーキー・トーキーなんかもあるから、今のロイズもさほど変わっていると思えなくなりましたよね。」
「たしかに。色んなのできてるからね。」
対岸に白い建物(上の写真)が見えてくると、おじいさん、
「対岸のあの建物は、マーブル・ヒルで、あれも中には入れるよ。あっちは、イングリッシュ・ヘリテージかな。」
イングリッシュ・ヘリテージは、ハム・ハウスを所有するナショナル・トラスト同様、歴史ある建物等を保護管理するチャリティーです。
「ハム・ハウス見て、まだエネルギーがあったら、いってみると良いよ。ボートで対岸に渡れるはずだから。」
「多分今日は、ハム・ハウスだけで力尽きそうだから、マーブル・ヒルは、また別の日に行って見てみますよ。ハム・ハウス内でお勧めあります?」
「うーん、絵画なんかも沢山あるけれど、一番印象に残ったのは、ザ・フィールド・オブ・ザ・クロス・オブ・ゴールド(金襴の陣)の絵だな。」
「あ、ヘンリー8世のですか?」
「そうそう、ヘンリーとフランシス1世の会合を描いたやつ。ヘンリーがフランシスを感心させようと、贅を尽くしたっていう会合だよ。」
「本の中でプリントされたのを見たことありますよ。」
「テントや建物などが細かく描かれていて面白かったよ。」
ヘンリーが、フランスのカレー付近(当時のイギリスの領土内)で、フランシス1世を迎えるために、一時的に宮殿まで建て、贅をこらした、「金襴の陣」については、いつかまた、別の投稿で書くことにします。
そんなこんなで、わりと楽しく喋っているうちに、おじいさん、
「あ、ここ、ここ。ここから入って。建物と入り口が見えるから。」
道しるべには、たしかに、そちらの方向を指して、ハム・ハウスの文字が。
「サンキュー・ヴェリー・マッチ。」
「ザ・フィールド・オブ・ザ・クロス・オブ・ゴールドの絵、見て来なよ。題名はフランス語で書いてあるから、見逃さないように。」
このまま、川を辿って更に上流に進み続けると、やがては、ハンプトン・コートの宮殿にたどり着くのですが、自転車ででも行かないと、ハンプトン・コートまでは、わりと時間がかかるかと思います。ハンプトン・コート宮殿は、失われたリッチモンド宮殿と運を分けて、共和政時代に、破壊の憂き目に合わず生き残り、現在に至ります。その理由は・・・オリバー・クロムウェルが、ちゃっかり、自分で移り住んだからなんですね。なんともはや、共和制とは言いながら、人間、権力を手に入れると、皆、やがては王の様に振舞い始めるものです。
ということで、この日は、テムズ沿い散歩はここまでとして、草原を横切り、ハム・ハウスへと乗り込みました。この館については次回の記事まで。
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