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七面鳥とガチョウ~小説「クリスマス・キャロル」の風景

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Turkeys do not vote for Christmas. (七面鳥は、クリスマスに賛成投票を入れない) という表現があります。 「人は、自分の不利になる事、自分の首を絞めるようになる事には賛同しない」、という意味で使われるものです。上の写真の七面鳥は、動物園で撮ったので、この方は、クリスマスの心配をする必要は無いですが。 昔のイギリスでは、七面鳥(ターキー)より、ガチョウ(グース)がクリスマスに食べられていたようです。有名なナーサリー・ライムにもこんなのがあります。 Christmas is coming, the geese are getting fat Please put a penny in the old man's hat If you haven't got a penny, a ha'penny will do If you haven't got a ha'penny, then God bless you! クリスマスがやって来る、 ガチョウが太ってきた 老人の帽子に 1ペニー落としてやっておくれ もし1ペニーが無いのなら、 半ペニーでもかまわない もし半ペニーも無いのなら、 神の御慈悲があるように! 前の クリスマス・プディング の記事でも触れた、ディケンズの「クリスマス・キャロル」は、ヴィクトリア朝のクリスマスの様子を知るには、もってこいの文献です。 「クリスマス・キャロル」内で描かれているクリスマスの風景や習慣は、100年も200年も続いて、すでに定着した伝統のイメージを受けますが、実際、ディケンズの時代に、今の馴染みのクリスマスの姿が、徐々に形つくられていった様です。 けちで、クリスマスなど糞食らえのスクルージの下で、こきつかわれながら働くのは心優しいボブ・クラッチット。貧しいクラッチト家での、クリスマスの食卓の主役は、ガチョウ。砲丸の様なホーム・メイドのクリスマス・プディングも、このクラッチット家の食卓に登場します。 船乗りのウィリアム・ストリックランドが、新大陸で、原住のインディアンから七面鳥を6羽購入し、イギリスへ持ち帰ったのは、1526年のこと。この事から、彼は、後に、七面鳥を自分の家紋に加えたと言いま

ウィンター・ワンダーランド?

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Sleigh bells ring, are you listening In the lane, snow is glistening A beautiful sight We're happy tonight. Walking in a winter wonderland. そりのベルが鳴る、聞いている? 道では、雪が光り輝き 美しい風景 今夜は心楽しく ウィンター・ワンダーランドを歩きながら Winter Wonderland を、Uチューブで聞いてみよう。 17日、木曜日の晩、ドカ雪にやられました。金曜日の朝起きると、庭に積雪20センチほど。気温が低い日が続いているので、雪は溶けず、本日も、外はまぶしいほど真っ白でした。 確かに、白銀の世界は美しくはありますが、雪慣れしていないイギリス南部にこれだけ降ると、毎度の事ながら、交通網はぐちゃぐちゃ。電車、フライトはキャンセル相次ぎ。除雪されてない道路は危険ゾーンと化し。高速でも大渋滞で、車の中で一夜過ごす人などもいたようです。 おまけに、金曜日は、学校は閉鎖。この学校閉鎖というのは、今ひとつ理解できないのですが、子供達が、学校に行く途中、または、校庭などで、滑ったりして怪我すると、学校側を訴えるような親がいるので、学校側も、手っ取り早く閉めてしまう、という事では無いかと思います。 家の外の車道なども、つるつるとなり、車はかなりののろのろ運転しないと危ない感じです。凍った急な坂を、上りきれないで立ち往生の車なども見かけました。 しばらくは、車使わないのが無難です。立派な2本の足があるし。本日は、雪景色の中、かなり長距離散歩しましたが、雪の中や凍った路上を歩くのは、足の筋肉使います。家に戻って、くたくた。 かてて加えて、ロンドンーパリを走る ユーロスター の電車が、海底トンネル内で故障を起こし動かなくなり、乗客は、15時間ほども、列車内に閉じ込められたというニュース。何でも、列車内の空気を節約するため、あまり深く息を吸うなというインストラクションまで出たとか出なかったとか。怖かったでしょうね、これは。 この故障の原因、北フランスの気温がマイナス以下と寒かったのに、トンネルの中が25度と暖かった事による気温差から、なんて言ってますが。ユーロスターのサービスは

若き日のヴィクトリア

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ヴィクトリア女王(ビクトリア女王)。18歳で王座につき、在位は、1837年から1901年、なんと63年と7ヶ月。現エリザベス2世が、記録に近づきつつあるものの、今のところ、イギリス王、女王としては最長の在位。彼女の下で、大英帝国は繁栄し、日の沈まぬ国として、その領土は最大となり。 在位が長かったせいでしょうか、彼女の年を取ってからの写真や絵を目にすることの方が多く、どうしても彼女のイメージは、小さなころっとした、黒服に身をまとったお婆ちゃん。シルエットとしては、小さなティーポットみたいな人。ですが、当然、誰にでも、若い時はあったわけで。若いころの肖像などを見ると、確かに、愛らしい感じではあったのです。 DVDでThe Young Victoria(若き日のヴィクトリア)を見ました。日本では今月封切りになるようですが、邦題見たら「ヴィクトリア女王 世紀の愛」と、何だか、恥ずかしくなるような華麗なタイトル。(邦題も、意訳するのもいいですが、こういう趣味の悪いタイトルにするくらいなら、直訳して欲しいと、良く思います。) こちらで封切りになった当時は、ラジオやテレビで、ヴィクトリアの生い立ちのドキュメンタリーなども幾つかかかりました。 ヴィクトリアの父は、 ジョージ3世 の息子、ケント公。ケント公より年上の、ジョージ3世の3人の息子達が、子孫を残さなかったため、彼女が王位後継者となります。 (ジョージ3世から、現在のエリザベス2世に続く王位継承を載せた下の家系図参照。図の中のカッコ内の年代は、在位年。水色で囲ったのは、お家の名前。) ヴィクトリアの野心家の母、ケント公爵夫人はドイツ人。英語を喋ったものの、今ひとつ下手で、娘とはドイツ語で会話。夫であるケント公の死後、彼の重鎮であったジョン・コンロイが、ケント公爵一家を統制。当時、18歳以下の者が王座に付く際には摂政が必要であったため、ケント公爵夫人と共に、ヴィクトリアを手なずけ、摂政の座に着こうともくろむ。 ケンジントン宮殿 で、生まれ、育ったヴィクトリアは、母とコンロイに決められたケンジントン・システムと呼ばれる、窒息しそうな規律の中で育ちます。ヴィクトリアを、自分達の政的仲間以外には会わせない、自分達に依存する性格になるよう、ティーンエイジになっても寝室は母と一緒、階段を降りるときは

クリスマス・プディング

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いつもスーパーから、出来たものを買っていたクリスマス・プディングを、今年は自分で作ることにしました。写真は、去年買ったクリスマス・プディング。 この食べ物、色も形も、まるで爆弾。チャールズ・ディケンズも、小説「クリスマス・キャロル」の中で、クリスマス・プディングを描写するのに、「like a speckled cannon-ball」(斑点のついた砲丸のよう)と書いているので、昔の人も、似たような事を思ったんですね。 ドライ・フルーツが沢山入っており、牛脂なども使うため、とてもヘビー(重い)なデザートです。食べる前に、プランデーをふりかけて火をつけたり、クリームやら、カスタードと一緒に食べるのですから、ますますヘビー。 主人は好きなようですが、私はいつも、2,3口食べて、嫌になるのです。自分で作れば、中に入れるものを選べるので、少しは美味しいものが出来るかと期待してます。材料をボールで混ぜて、蒸し器で蒸すだけと、簡単そうですし。 という事で、インターネットでレシピを見て、材料買い揃えました。 クリスマス・プディングの作り方 を見てみよう。 上のサイト、ビデオで作り方も見れるので、なかなかお役立ちです。 材料、作り方、ざっと訳すと *所要時間:準備25分、蒸し時間4時間 *耐熱性1.2リットル容器を2つ用いて、2個クリスマス・プディングを作る材料 (1個なら、当然、材料半分) ドライ・フルーツ色々 900グラム ブランデーまたはウィスキー 150ミリリットル オレンジ 1個 バター 225グラム(牛脂を使わず、少し軽くなるそうです) ブラウンシュガー 225グラム 卵(大)4個 小麦粉 110グラム パン粉(やわらかいもの) 110グラム 砕いたナッツ(アーモンド、ヘーゼル、ピーカン)85グラム すりおろしたナツメグ 1テーブルスプーン シナモン 1テーブルスプーン フルーツやナッツは、自分の好みで手に入るもので適当に選べば良いのでしょう。 *作り方 ドライフルーツはまず、小さくカットして、ブランデー、ウィスキーをそそぐ。そこに、オレンジの皮をすりいれたもの、オレンジの果汁を混ぜ、一晩漬ける。 耐熱容器にバターをうすくぬる。 残りのバターと砂糖と一緒に、軽くなるまでボールで混ぜる。 そこへ、卵をひとつずつ加え、混ぜる。 卵を全て混ぜたら、漬けてあったフルーツをジュース

最北、最南、最西、最東のアメリカの州

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昨夜、ベッドの中で、BBCのラジオ4という局の、Brain of Britainというラジオ・クイズ番組を、頭が朦朧としていく中、聞いていました。 このクイズ番組、途中の余興として、一般のリスナーから質問を2つ作って送ってもらい、クイズ参加者が、その2つの質問のうち、ひとつでも答えられないと、質問を作った人は、図書券をもらえる、というのがあります。昨夜の番組で、質問を提供したリスナーは、アメリカ在住で、インターネットでこの番組を聞いているとのこと。さて、この人の作った問題のひとつが、なかなか面白いものでした。それは・・・ 「最北、最南、最西、最東に位置するアメリカの州は、それぞれ何でしょう?」 最北はアラスカ、最南はハワイ・・・そこまでは、私も、すぐ考え付き、最西も、アラスカかハワイのどちらかで、最も東なのは・・・とアメリカ東岸にある州を必至に頭でなぞりはじめ、一番突き出しているのは、北の方だろうから・・・。クイズ参加者は、最北はアラスカ、最南はハワイ、最西もアラスカ、最東はメイン州、と回答。合ってるのでは、と思いきや、最後の最東の答えが、間違いだったのです。 東と西をどう定義するか、それから地球は丸い、という事を考慮に入れて、もう一度、よく考えてみましょう。 正解は、なんと、これもアラスカでした。 (上のアラスカの写真は、National Geographic のサイトから拝借。) ロンドンのグリニッチを走るのが、グリニッジ子午線で、経度が0。ここを基準に、地球の反対側の経度180度の地点まで、東側が東経、西側が西経。 上の地図の赤点で示したのが、経度180度です。アラスカの領域は、英語のウィキペディア情報によると、西経130度から東経173度に渡っています。アラスカの南部に位置するアリューシャン列島(Aleutian Islands)の端が、180度線から少しはみ出し、東経の領域に入ってしまっているのです。したがって、グリニッジ子午線に従うと、アラスカは、米国の州の中で、最も西でありながら最も東。なるほど! ちょっとトリック問題だな、という気もしますが、なかなか賢い問題です。答えを明かした後、司会者は、 「どうりで、(前アラスカ州知事)セイラ・ペイリンが、あんなにも支離滅裂な人物であるわけだ。」なんて、ジョークを飛ばしていました。 問題を作った人は、解答者を負か

イギリスで一番古い教会

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他に何も無い平原の中、ローマ時代に遡るまっすぐな道を辿って海に向かって歩くと、ポツンと地平線に現れるのが、それはシンプルな形をした教会、セント・ピーター・オン・ザ・ウォール(St Peter-on-the-wall)。エセックス州東部に位置する、ブラッドウェル・オン・シー(Bradwell-on-sea)にあり、原型に近い形で、イギリスに残る最も古い教会のひとつと言われています。 この教会の歴史を語るには、イギリスにおけるキリスト教の夜明けの話から・・・ ローマ帝国時代、イギリスのヨークにて戴冠した、 コンスタンティヌス大帝 がキリスト教を公認したものの、英国内におけるキリスト教は、ローマ帝国衰退、アングロ・サクソン人の侵入と共に、西へと追われます。特にアイルランドの地にて、キリスト教の火は灯されたまま生き残り、ローマを中心とした地中海諸国の、政治がらみのキリスト教から離れ、アイルランド独自のキリスト教を確立していきます。 やがて、6世紀後半から、アイルランドとローマの、多少異なった2つのキリスト教が、其々の地からやって来た宣教師達によって、当時、暗黒時代などと呼ばれていた、アングロ・サクソンのイギリスに再導入される事となります。 まずは、ローマ陣営。597年、ローマ法王、グレゴリウス1世(Gregory I)は、アウグスティヌス(Augustine、英語読みはオーガスティン)に率いられた僧達を、現ケント州に送り込みます。彼らは、ケント王国のエゼルべㇽト王に迎えられ、カンタベリーに定着し、アウグスティヌスは、初代カンタベリー司教となり、布教活動を開始。 一方、アイルランドからは、まず、563年、セント・コルンバ(St Columba)が、スコットランド西岸のアイオナ島(Iona)にて修道院を築き、さらには、635年、アイオナ島の修道僧のひとり、セント・エイダン(St Aidan)がイギリス北東岸沖(現ノーサンバーランド州)にあるリンディスファーン島(Lindisfarne)に修道院を設立、イギリス布教への足がかりを作ります。  653年、リンディスファーンにて、セント・エイダンから教えを受けた若い宣教師のひとり、セント・ケッド(St Cedd)が、現ブラッドウェル・オン・シーに上陸し、セント・ピーター・オン・ザ・ウォールを設立する

O2アリーナでテニス

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ロンドンのノース・グリニッチにあるO2アリーナ。2000年のミレニアムの記念のために建てられた当時の名は、ミレニアム・ドーム。巨大マッシュルームに、数本の刺が生えている様な形です。 1999年11月に公開された、OO7映画「The world is not enough」の冒頭のテムズ河のボート・チェイスのシーンに、出来立てのほやほやの姿で登場していました。ボンドが、ドームの屋根から釣り下がるところで、オープニングの曲が入ったのでした、確か。私が、唯一、映画館で見たボンド映画です。 ボート・チェースのシーン でミラニアム・ドームを見てみよう。 最近では、マイケル・ジャクソンが This is It と銘打ったコンサートを行う予定のヴェニューでもありました。  さて、毎年この時期に開催される男子テニス・ワールド・トップ8が競う、ATPワールド・ツアー・ファイナルが、今年から5年間、このO2アリーナで行われることとなりました。来週末に予定されている男子国対抗のデビス・カップの決勝を除けば、一年最後のテニス・トーナメントです。 ここぞとばかりに、チケットをかなり前から予約。 当大会の対戦方は、4人ずつ、2グループにわかれての、ラウンド・ロビン(round robin)・・・どういう意味かと言うと、それぞれのグループ内で、1人の選手が他の3人全員と対戦し、うち、勝ち数、得点の多い2人が、準決勝、決勝へと進出します。 このラウンド・ロビンという言葉は、元はフランス語のrond(円形の)ruban(テープ・リボン)から来た言葉の発音が崩れて、こうなったという事ですので、鳥のロビンとは関係ないのです。スポーツで、この様に、1人が他の全員と対戦する意味の他に、上の者に抗議、反対の手紙などを提出する際、抗議者達が、サインを上から順番にするのでは無く、誰が抗議のリーダーかわからない様にするため、抗議者全員が、円形になるようにサインをした事を指すそうです。元は、船乗りに使われた言葉だと手持ちの辞書にはありました。 私達のチケットで当たった試合は、ラファエル・ナダルと相対するは、アンディー・ロディックが怪我で欠場のため、代わりに入った、スウェーデンのロビン・ソデルリング。 プレイの仕方から、体にボロが早く来て、もしかしたら選手寿

マルコーニも食べたイングリッシュ・ブレックファースト

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イギリスの料理は不味いものばかり・・・観光客や、他国人が良く口にする、お定まりの言葉です。 イギリスの食べ物は、ゆでただけ、とか、揚げただけ、とかで、見た目にも、味にも芸のある代物でないのは確かです。アメリカに次いで、世界第2位のおデブ国なのも、お腹にどんとくる、カロリーたっぷりなものが多い影響もあるかもしれません。 それでも、ホテルやB&Bなどに泊まった時の朝食に、フル・イングリッシュ・ブレックファースト(full English breakfast)と軽いコンチネンタル風の朝食のチョイスがあったら、やはり、前者を注文します。 トースト、目玉焼き、ベイクト・ビーンズ、ソーセージ、ベーコン、焼きトマト、マッシュルーム、などなどが皿ににどんとのって出てきたものを、紅茶と一緒に平らげて、観光へ繰り出すと、ランチは取らなかったり、かなり軽いもので済ませても、夕食まで、エネルギーレベルを保ってフル回転可能。 一部カフェや、ティー・ルームでは、メニューにオールデイ・ブレックファーストを出しているところがあり、午後でもこのボリューム料理にありつく事ができます。上の写真もカフェでお昼に食べたもの。 ちなみに、この日にランチをしたカフェは、上の写真の建物内の最上階に位置しており、調理場は、外に突き出している部分にありました。眺めは良かったですが、強風の日などは、ユラユラとちょっと怖いものがあるかもしれません。 The Old Granary(旧穀倉)と呼ばれるこの建物は、現在は、アンディークセンターとして使用されています。突き出し部分は、昔は、真下にワゴンなどを置いて、小麦の搬入を出来るようにしたためでしょうか。 ***** 食べ物の美味しい他国から来ても、フル・イングリッシュ・ブレックファーストのファンになる人はいるようです。 グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)。イタリア人の父、アイルランド人の母を持ち、イタリアで生まれ育った無線研究家、発明家の彼は、イタリア政府が、自分の研究に全く興味を示さず、支援も受けられないのに見切りをつけ、1896年に、ロンドンへ渡ります。 英国の郵便局などからの支援を受け、無線の開発、実験を進め、1899年には、イギリス海峡を超えた、イギリスーフランス間の無線メッセージを送り、

ウェディング・ケーキの教会

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1666年、 ロンドン大火 の後、セント・ポール寺院を初め、焼失したロンドン内の多くの教会を設計したのはクリストファー・レン。写真の尖塔を持つ、セント・ブライズ教会( St Bride's Church )も、レンのデザインによるもの。大火後、レンが建て直した数ある教会の中で、一番経費がかかっています。また、レン設計による数ある教会の中でも、大火後、比較的に早めに建てられたもので、これは、当教会関係者が、レンを近くのタバーンに連れて行ってご馳走した、というのがその理由のひとつとやら。 イギリスの新聞業界やジャーナリズムの代名詞のように使われる、ロンドンのフリートストリート(Fleet Street)をちょっと入ったところにあるため、「フリート・ストリートの聖堂」「インクの通りの教会」などとも呼ばれ、ジャーナリストの教会のイメージが強いです。 セント・ブライド教会の有名な尖塔の、もとの高さは、71メートルだそうですが、18世紀半ばに雷に打たれ、2,4メートルほど短くなってしまったそうです。 この地は、過去7つの別の教会が入れ代わり立ち代り建てられた跡地だという事ですが、6世紀に建てられた石作りの教会が、アイルランドの聖人、セント・ブライド、St Bride(またはセント・ブリジッド、 St Brigid)を祭ったものであったため、現教会も、この名で呼ばれています。セント・ブライド(453-525)は、セント・パトリックなどと同じくアイルランドの守護聖人。アイルランドのキルデア(Kildare)に修道院を設立し、当修道院は、学問と精神の中心としての名声を得。彼女が亡くなった2月1日は、彼女の聖人の日(feast day)で、生前の彼女がしたように、豊穣や富みを、貧民に分け与え祝うという事です。 さて、教会に話を戻します。1940年、12月29日、第2次世界大戦中のドイツ軍の爆撃により、かなりの被害を受ける事に。この日の爆撃は、「第2のロンドン大火」などと呼ばれ、シティー周辺にかなりの被害を出し、近くのセント・ポール寺院の巨大なドームが、炎と煙の中に浮かぶ船の様に見えたと。 爆撃で、教会内部は焼け、鐘は、解けて落下したと言いますが、尖塔は、レンの強固なデザインのおかげで、なんとか、その形をとどめ。現在は、きれいに修復された姿で立っていま

トト・ザ・ヒーロー

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人生はこまごまの忘れられぬ思い出のつぎはぎ。今までの人生を振り返ると、あれやこれやの場面がこれといった順番もなく浮かんでは消え・・・。 老人ホームに住むトーマスの一生を、フラッシュ・バックを使って、彼の視点から映像化してあるこのベルギー映画、大好きです。公開された時、映画館で見て、ずっと記憶に残っており、最近になってDVDも入手。 トーマスが、自分の人生を思い返すとき、「何も起こらなかった、失敗の人生」と感じる。その要因は、幼い頃むかいの家に住んでいた金持ち息子のアルフレッド。本来ならば、自分がその家の子供であるのに、生まれたばかりの病院で火事があり、アルフレッドとすりかわって、違う家にもらわれてしまったと固く信じ、アルフレッドに自分の人生を盗まれたと恨む。 ファンタジーめいた半分夢のような場面を含む子供時代、愛に悩む青年期、アルフレッドへの復讐を決行しようとする老年のシーンを行きつ戻りつしながら、話は進行します。 思い出の重要な部分を占めるのが、トーマスとアルフレッドにとって人生最愛の女性となるトーマスの姉アリス。陶器のお人形のような顔をしたおませで奔放なアリスは、少女から大人への移行する時期に、しっかりとこの2人の心をとらえ、死んでしまう。アリスの死の原因も、間接的にはトーマスのアルフレッドへの嫉妬から。 青年になって、2人が恋に落ちる女性はアリスに似たエヴリン。このエヴリンにアリスとそっくりな洋服を着せようとするアルフレッドに、ヒッチコックの映画の中で、私が一番好きな「めまい」を連想しました。 映画の一番好きなセリフは、アリスが両手を宙にかざし、トーマスに「私の右手と左手、どちらが好き?」という他愛ない質問。エヴリンが偶然、同じ質問を青年になったトーマスに尋ねる時、彼は、思い出のつらさに耐えられなくなり泣き出してしまう。 アルフレッドへの執念がなければ、幸せでありえたトーマスの人生。失敗としながらも、強く心に残る美しい瞬間が散りばめられている人生。もともと、人生に失敗、成功などあるのでしょうか。 トーマスの子供時代、陽気なお父さんがピアノを弾いて歌う歌が、この映画のイメージソング。フランスのシンガーソングライター、シャルル・トレネ(Charles Trenet)が1930年後半に書いた人生謳歌、 Bou

古い物のある庭

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庭のデコレーション用に、訪れたアンティークセンターの中にあった、廃材やら古いテーブルやら、古い置物やらを売っている店を覗いてきました。昨今、多少、錆ているような古い物を庭に置くのがお洒落なのだそうです。 そこで、我家の庭も、お洒落な庭になるよう、安かったら何か買おうかな、とも思ったのですが、値札をひとつずつ取り上げてみて、その度にあきらめ。見ようによっては、ただの「がらくた」の様なものが、結構値段するものです。昔形のブリキのじょうろやバケツを植木鉢にしたもの、刃物研ぎ用のマシン、洗濯物の水絞り機、古い煙突、荷車の車輪、錆びた鉄製のテーブル、ランプ、街灯、手押し車、樽・・・。 その「がらくた」の中で特に気になったのが・・・ 古いトイレを植木鉢にした代物。 トイレの座椅子をはずした便器に、パンジーが沢山植えてあったのです。お店の人は、きっと「すばらしい考えだ」と思ったのでしょう、同じようなのが3つもありましたから・・・。 50ポンド以上も出して、古いトイレを買って、家の庭に置きたいか?私は、「ノー」です。トイレは汚い、という偏見より、形がさほど良いとは思えないのと、50ポンド出せば、同じくらいの大きさで、新品の綺麗な色や形の植木鉢が3つは買えるだろうな、という経済的理由から。 ・・・教訓は、しっかり作ってある古いものは、捨てる前に、じっくり考えよう、という事でしょうか。こんなもの要らぬ、と思ったような品物が、わりといい値段で、どこかで売られているかもしれません。実際、ここで売られていたものの中に、義理の両親の家からもらってきた、古い温室用ブリキのヒーターなどもありましたから。 古い便器ですら、捨てる前に、他に使用法は無いか一思案、というのは悪いことではないでしょう。ふと思いました、日本風のしゃがみ形便器は、スリッパの様で、庭のデコレーションとして、西洋物より、いい味出すかもしれません。 軒を並べて、似たようなお店が幾つかあり、そのうちの一軒で、お馴染みイギリスの赤い電話ボックスも売りに出されているのを目撃。この赤電話ボックスのお値段は、配達を頼むと1400ポンド、自分で持って帰ると1200ポンドだそうで。大きな庭だったら、こんなのはあると楽しいでしょうね。以前も、歩いていて、何度か、この電話ボックスが置かれている庭を見

全ての戦争を終わらせるための戦争

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本日は、Remembrance Sunday(追悼の日曜日)でした。11月11日に一番近い日曜日。 1914年の6月28日に、バルカン半島、サラエボで響いた一発の銃声に端を発するThe Great War、こと、第一次世界大戦は、1918年、11月11日の午前11時にて、終結。11月11日は、Armistice Day(終戦日)と呼ばれています。回避しようという気があれば、回避できた戦争であったと言いますが、1914年の8月にはすでに、ヨーロッパ7カ国が参戦、終戦の際には、世界30カ国が巻き込まれていました。 終戦後、時の英国王ジョージ5世(現エリザベス女王の祖父)が、この日の11時に、死者のために2分間黙祷を捧げるよう促して以来、その伝統は今でも続いています。 そしてその式典は、Remembrance Sundayに、行われるしきたりです。現在は、第一次、第二次、及び、全ての戦争の犠牲者のために祈りを捧げる日。 上の写真は、南は国会議事堂と、北はトラファルガー広場を結び、南北へ走る官庁街、ホワイトホールの南端の道の真ん中に立つ、Cenotaph。もともとは、第一次世界大戦で、命を落とした戦士達の慰霊碑として作られましたが、今では、全ての戦争で命を亡くした者の慰霊碑でもあります。 毎年、Remembrance Sundayの式典が行われるのが、この慰霊碑の回り。英国王室メンバー、政治家などが一同集まりますので、イギリスの要人が一挙に会したのを見たかったら、絶好の時と場所でしょう。 11時のビッグベンの鐘の音が鳴り響くと、全員2分間の沈黙。エリザベス女王が、国民とイギリス連邦を代表してポピー(けし)の花輪を捧げ、その後次々と他の参列者が花輪を置き、儀式後は周りがポピーの花輪でいっぱいになります。 本日の追悼式の様子は、 こちら 。  ポピーがシンボルとして使われるのは、第一次大戦中のヨーロッパの戦場跡で、無数のポピーの花が風に揺られて咲いていた為。長い間、地内に埋まったままだったポピーの種が、戦闘で土地がほじくり返されたことから、一挙に咲き出したと言われています。 10月中ごろから、巷では、胸につけるための紙でできたポピーを売る、ポピー募金が始まります。ブリティッシュ・リージョン(The British Legion

ガイ・フォークスとガンパウダー・プロット

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11月5日のガイ・フォークス・ナイト(Guy Fawkes Night)が近づいてくると、毎夜、あちこちで花火の音が聞こえます。近所の庭で花火をあげる人もいるので、家の窓からミニ花火大会を楽しめる事もあります。 最近は、アメリカから逆輸入されてきた様なハロウィーンに押され、印象が薄くなってきているなどと言われるこの日です。何でも、季節的イベントで一番、国民がお金をかけるのは、上から順番に、クリスマス、イースター、ヴァレンタインズ・デイ、そしてハロウィーン・・・なのだそうで、商業的にも、魔女コスチュームなどなどのおかげで、ハロウィーンが上位にのし上がってきているとの事。 さて、ガイ・フォークス・ナイトは、何を記念するかというと・・・ 「ヴァージン・クイーン」として一生を終えた為、当然子供がいなかった、プロテスタントのエリザベス1世。彼女の時代が終わると、カトリックであったメアリー・スチュワートの息子であり、すでにスコットランドではジェームズ4世として君臨していたジェームズが、イングランドのジェームズ1世となります。 ジェームズの戴冠に、イングランド内カトリック信者達の間では期待がふくらみます。「新王はカトリックに、もっと同情的かもしれない・・・。」。しかし、この期待は、すぐに蒸発。ジェームスは、宗教に関しては、エリザベス時代の態度を変える気配が無い。 そこで幾人かのカトリック信者たちが、国会開会日に、国会に集まったプロテスタントの有力者達を、国王もろとも、爆弾で吹っ飛ばそうとの謀反を企てます。ガンハウダー・プロット(The Gunpowder Plot)と呼ばれるテロ計画です。 プロットは事前に漏れ、決行予定日1605年11月5日の前夜、国会の地下で、ごそごそしていた一味の一人、ガイ・フォークスが多量の爆薬と共に発見され逮捕。翌朝、事がばれたとわかった他の参謀者たちは、逃げ散ったものの、やがて捕まり、処刑。 このころの謀反人に対する処刑は残酷で、 Hanged, Drawn and Quarteredと言われ、 まず、殺さぬ程度に縄で首吊り、その後、生きているうちに、腹を割き、内臓を引きずり出し、火にくべる。後は、体を4つに切り、首ちょんぱ。そして、遺体はしばらく、見せしめにさらされたりしたのでしょう

ロビンと秘密の花園

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赤い胸当てをしたような小鳥、 ロビン 。日本では、ヨーロッパコマドリと呼ばれるこの鳥は、クリスマス・カードのデザインにも頻繁に使われる事でもおなじみです。細い足と小さなくちばし、大きな黒い目は、まるでおもちゃ。 ヨーロッパコマドリは、庭仕事をしていると、掘り起こした土の中の虫やみみずを目当てに、近くに飛んできたりすることから、ガーデナーズ・フレンド(庭師の友達)などとも呼ばれています。 地面に突き立ててある庭を耕すためのシャベルやガーデン・フォークの取っ手に、ちょこんととまっているコマドリの絵は、良く目にするものです。ピーター・ラビットの絵本で、畑でにんじんをかじるピーターの脇にも描かれていました。 上の写真、植木鉢のふちにとまっているの分かるでしょうか。こっち見てます。 可愛い・・・のですが、縄張り意識はわりと強い鳥の様で、結構凶暴な面もあります。以前住んでいた家の庭の奥に、いつもいたコマドリ、他のコマドリが飛んで来ると、大変な剣幕で追いかけ、追い払ってました。人も鳥も、見かけによらないのです。 ***** さて、フランシス・ホッジソン・バーネット(Frances Hodgson Burnett)の「秘密の花園」(The Secret Garden)を読みました。 まだ大英帝国の下にあったインドで育った少女メアリー・レノックス。両親にほとんど無視され、インドの召使達に、育てられ、わがままで、ひねくれた彼女。コレラで両親が死亡した際、イギリスのヨークシャーに住む、せむしの叔父の豪邸に引き取られる。 叔父は、妻が、館の庭園内にある壁に囲まれた花園の木から落ちて死んでから、すっかり落ち込み、始終、館を留守にするようになっていた。妻が生存中は、2人でこよなく愛したこの花園は、10年間、鍵をかけられたまま、誰も入ったものがいない。 メアリーはこの花園の話を聞いてから興味がわき、その花園への鍵とツタに覆われたドアの場所を知りたがるのですが、メアリーを、その秘密の場所へ導くのが、館の庭に住み着いていたロビン(ヨーロッパコマドリ)。メアリーが、徐々に元気な普通の少女へと変身する、最初のきっかけも、このロビンと仲良しになった事から。 やがて、ムーアのコテージに住む自然を愛する少年ディッコンと共に秘密の花園を生き返らせ