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美術館内のカメラ使用一考

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ロンドンのナショナル・ギャラリー(National Gallery)が館内でのカメラ使用禁止の規制をなくした、というニュースが昨日のロンドン紙イブニング・スタンダードに載っていました。最近は、タブレットやスマホで、絵に関する情報を読んでいるふりをしながら、禁止に関わらず、さりげなく写真を撮っている人も増えている上、監視官が、実際写真を取っているかどうか判定しずらい、それらの人々をすべて、いちいち尋問していられない、という状況が大きな理由のようです。禁止の規制がなくなることにより、絵画の前で セルフィー (自分撮り)をする人の増加を懸念し、実物の絵をじっくり見たいタイプの人々から不満の声が上がっています。そして、そのうちに、ナショナル・ギャラリーは、絵をじっくり見るどころか、名画に背を向けて、それと一緒に自分撮りする、セルフィーのメッカ(selfie central)と化すのでは、との憂いを持つ人もおり。 美術館内のカメラ使用・・・というとすぐ思い起こすのは、 ルーブルのモナリザ ですね、何と言っても。現在のルーブルの方針はわかりませんが、私が行った時は、比較的小さなモナリザの前は押すな押すなの人ごみで、ほとんどの人がカメラをむけていた。つられて、私も、これは、取ったほうがいいか・・・とやはり取ってしまったのだから、「あんな、ミーハーなやつらと、私は違う」なんてえらそうな事はここでは書けない次第。「行った、見た、取った」という証明のためにカメラをむける人がほとんどだったでしょう。たとえ私が取った上の写真のように、ピンボケでも。後で、絵葉書でも買ったほうが、細部まで良く映っていて、鑑賞にはそっちの方がいいにもかかわらず。実際、人ごみの上に、あのカメラずくめでは、じっくり鑑賞しようにも、できない、というのが事実でした。 ルーブルでは、他にも、好きな画家、シャルダンなどの絵の写真も取ったのですが、こちらの絵の前は、人っ子一人おらず、記念の写真を撮った後に、じーっくり、まじまじと眺める事も出来、大満足でありました。人気あるはずのフェルメールの「レースを編む女」の絵の前にも、なぜか、ほとんど人がいなかったのが、いまだに、とても印象に残っているのです。有名な絵・・・を何が有名にするのか、というのは不思議なものです。絵としては、フェルメールやシャルダンの絵の方が、眉...

ツール・ド・フランスの優勝は、え?イギリス人?

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1903年より始まり、今年で99回目となるツール・ド・フランス。時に周辺諸国もちょろちょろ走りながらも、フランスをぐるりと巡る自転車レース。6月30日にベルギーのリエージュを出発し、先週日曜日の7月22日に、パリにて閉幕。全ルート3496.9キロ。聞くだけで疲れます。 ウィンブルドンで、再び、「アンディ・マリー優勝か否か」の大騒ぎの挙句、ぼしゃってしまった後、イギリスのチーム・スカイで出場し、オリンピックの金メダリストでもあるブラドリー・ウィギンスが、ツール・ド・フランスで、いい線行く可能性あり、の当初のニュースも、「また、ただの空騒ぎ」と思っていたのが・・・。日が経つにつれ、これは、本当にいい線行きそうだ、そして、イエロー・ジャージー(マイヨ・ジョーヌ)を着け始め、段々と、優勝の期待が大きくなると共に、ニュースでの報道も増えて行き。ついに、先週の日曜日、本当に優勝。ツール・ド・フランスでの、イギリス人優勝は、初めてだそうです。しかも、2位も、同じチーム・スカイのイギリス人、クリス・フルーム。 ブラドリー・ウィギンスは、ひょろりと背が高く、もみあげを生やしているので、ルパン3世風いでたちです。彼、去年のツールでは、途中で、衝突し鎖骨を折るというハプニングに合い、途中でやめざるを得なくなったのでした。屈辱の・・・という優勝ですわな。 とにかく行程が長いので、毎日、最初から最後まで見ませんでしたが、時々、ちらりと見た限り、今回、一番印象に残ったシーンは、上のロバたち。レースコースの道端で、それぞれ、マイヨ・ジョーヌ(イエロー・ジャージ)、マイヨ・ヴェール(グリーン・ジャージ)、マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(ポルカ・ドット・ジャージ)を身につけて、ぼーっと立っていたこの3匹の様子には、スマイルでした。ロバたちの写真は、Cycling UKというサイトより借用しました。 お馴染み黄色のジャージ、マイヨ・ジョーヌは、個人総合時間賞。全行程での総合時間が一番早かった人物が着用するもの。 緑のジャージ、マイヨ・ヴェールは、ポイント賞。私は、さほど詳しくはないのですが、色々な事項でポイントを獲得する事ができるのだそうですが、そのポイントが一番高かった人物が着用。 白地に赤の水玉模様の、マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュは、山岳賞...

アデルの恋の物語

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この映画の原題の直訳、「アデル H の物語」のHは、ユゴー(Hugo)の省略。「レ・ミゼラブル」で知られる、フランスの文豪、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の次女、アデル・ユゴーの狂気に至る片思いの物語で、実話が元となっています。アデル役は、感情を赤裸々に表現する役をやらせたら天下一品の、イザベル・アジャーニ。うら若き彼女の、出世作でもあります。 共和主義者であったユゴーは、1851年に、フランスでナポレオン3世が台頭した後、一時ベルギーに亡命、後にガーンジー島(イギリス領、イギリス南部とフランス北部の中間にある島)に居を構え、ナポレオン3世失脚まで、そこで暮らす事となります。娘のアデルは、ここで、イギリス軍人、アルバート・ピンソンと出会い、恋に落ちるのです。ピンソンが軍と共に、カナダの東岸に位置するハリファックスに駐屯となり去った後、彼を追って、ハリファックスへと一人海を渡る。映画は、彼女がハリファックスの港に辿り着くところからスタート。 父が、世界に名の知れた文豪だという事を隠すため、偽の姓を使い、気のよい老婦人の家に下宿しながら、ピンソンを探し当てたものの、美男子でプレーボーイのピンソンにとって、アデルはすでに、過去の女。結婚を迫る彼女に、彼は冷たく、ガーンジーへ帰れと言う。 アデルは、毎日の様に恋文をしたため、彼を追い回し、彼の元へ、自分からのプレゼントだと、売春婦を送りつける様な事まで始めるのです。ピンソンがつれなくすればするほど、アデルの偏執ぶりはエスカレートし、ついには精神のバランスを失う。母の病状の悪化の通知にも、やがての訃報にも、ヨーロッパに帰る気配をみせず。そして、ピンソンの軍がバルバドス島へと移ると、再び後を追い、バルバドス島へ。浮浪者の様にポロをまとい、朦朧とバルバドスの道を歩き回る彼女。もはや、ピンソンの顔も認識できぬほど狂ってしまう。奴隷制度反対者としても有名であったヴィクトル・ユゴーのためにと、現地の心ある黒人女性は、道で倒れたアデルを看護した後、彼女をエスコートし、父の元へ送り返すのです。アデルは、精神病院で、長い余生を送る事となります。映画によると、ガーデニングと書き物に勤しんで過ごしたと。 ハリファックスの本屋で、アデルはいつも手紙用の紙を買うのですが、当時の紙は、けっこう硬そうな漂白されていないも...

コーラス

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1949年、大戦後のフランス。戦争孤児や問題のある家庭の子供を集めた寄宿学校を舞台にした物語。学校の名は、いかにもダメそうな「沼の底」。素行が悪く、校長から、きつい罰則を食らってばかりいる子供たち。校長の方針は、アクション・リアクション。アクション(悪さ)をした子供には、リアクション(体罰を含む厳しい罰則)で対応する、というもの。 そこへ、雪の中、新しく赴任して来る教師が、クレマン・マチュー。作曲家となる夢は捨てたものの、まだ音楽を愛する彼は、子供たちに歌う事を通して、自然に規律と良い行いを教えていく。初日から、子供たちに「禿げ頭!」と罵られる彼の、お人よしのおじさん的風貌が好感です。 彼の存在によって、人生が変わった2人の生徒が50年ぶりに再会するところから、映画は始まります。1人は戦時中のナチスの占領下で、両親が死んでしまったにも関わらず、「いつか、お父さんが土曜日に自分を迎えに来る」と信じ、いつも土曜日に学校の門で外を眺め立っていた少年、ペピノ。もう1人は、仕事に追われる母親しかおらず、問題児となり学校に預けられたが、音楽の才に恵まれた「天使の顔をした小悪魔的悪がき」であった少年、ピエール・モランジュ。クレマンが結成した学校のコーラスで、歌う事で、人生の目的を見つけたモランジュは、やがて、著名な音楽家へと成長するのです。 壮年のモランジュの元へ、ペピノが、クレマンが「沼の底」で教鞭を取っていた期間につけていた日記を抱えて訪れる。2人は、その日記を開いて、共に読み初め、クレマンが「沼の底」へ赴任してから、去るまでの、物語の本筋が始まります。 悪がきどもを、音楽の力で変えていく事によって、クレマンも、捨てかけた音楽への情熱が再浮上し、子供達のコーラスのために一生懸命作曲も始めるのです。いつも悲しそうで、勉強や他の事への気力があまりないペピノには、特に気を使い可愛がり、また、モランジュの音楽の才に気づくと、彼が、後にスカラーシップを取り音楽学校へ行けるよう手助けをする。そして、学校を訪れてくる、モランジュの美人の母親に、ちょっと惚れてしまうというエピソードもあります。歌も歌えないペピノは、先生のアシスタントとして、メトロノームのわきにちょこんと座り、とんでもない音痴の子は、人間楽譜台の役を果たすのも微笑ましいです。そうして、夏が来る頃には、子供た...

エターナル・サンシャイン

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恋愛などで傷心したとき、相手の記憶を脳から全て取り除いてしまえば、幸せになれるでしょうか?そんな手当てをしてくれる医者がいたら、使いますか?フランス人ミッシェル・ゴンドリー監督のこの作品は、そんな事がテーマです。 少々、内向的なジョエル(ジム・キャリー)と開けっぴろげなお姉ちゃんクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)は恋人同士。すれ違いが始まり、2人の関係が悪化したとき、クレメンタインは、好ましくない記憶の除去手術を行うラクーナ社(lacuna:空白の意)に依頼し、ジョエルの事を完全に自分の記憶から削除してしまう。それがわかると、ジョエルも、自分も同じ手術に臨みます。ところが、その過程で、2人で作った数々の、他愛なくもやさしい思い出を捨てがたくなり、脳から消されていく記憶の中を、クレメンタインを連れて、何とか、逃れようと駆け回る。 ジム・キャリーは、血管ぶっちぎれそうな、めちゃくちゃコメディーでの役柄より、こういう普通の役をしている方が、なんか、ちょっいと可愛らしくていいです。「トゥルーマン・ショー」の彼も良かったですが。 さて、この映画の原題の「Eternal Sunshine of the spotless mind」(翳り無き心の永遠の陽光)は、18世紀イギリスの詩人、アレキサンダー・ポープの「Eloisa to Abelard」(エロイーズからアベラールへ)からの引用。この詩は、修道院に入ったエロイーズが、ずっと年上の自分の師であった過去の恋人、アベラールとの恋愛の思い出を嘆くもので、そうした記憶が無いと、どれほど楽か、のような感傷が含まれます。かなり長い詩ですが、映画内で、その一部が暗証される場面があります How happy is the blameless vestal's lot! The world forgetting, by the world forgot. Eternal sunshine of the spotless mind! Each pray'r accepted, and each wish resign'd 清きウェスタの巫女の、なんと幸せである事か! 忘却された世界により、世界は記憶を失くし。 翳りなき心の永遠の陽光! 全ての祈りは受け入れられ、全ての願いは放...

フランケンシュタイン

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最近、テレビで、メアリー・シェリーとフランケンシュタインに言及するドキュメンタリーを2,3見ました。 この小説が書かれたきっかけは、今では伝説のごとく、かなり有名な話です。メアリー(旧名メアリー・ゴドウィン)は、1816年5月、妻子ある恋人、パーシー・シェリー、血の繋がらぬ妹のクレア・クレモントと共に、バイロン卿と、彼の主治医ジョン・ポリドーリが借りていたスイス、ジュネーブ湖(レマン湖)畔のディオダディ荘に滞在。連日の悪天候で屋内にとどまる事となる一行は、余興に、それぞれ、怪奇小説を書くことになる。こうして、メアリーは、「フランケンシュタイン」の出筆を開始。出版は、1818年となります。 このディオタディ荘での集いがある前年1815年4月には、インドネシアのタンボラ山が大噴火。噴出したガスが太陽光線を反射して、地球の気温は下がり、1816年は、低温で雨の多い「夏の無い年」となります。これが、バイロンと客人一行が、屋内に留まる原因となり、また、雨風と雷が、ゴシックのイメージを沸き立たせ、間接的に、フランケンシュタイン誕生に繋がります。 メアリーとパーシーは、1816年後半に、パーシーの妻が、ハイドパークのサーペンタイン湖で投身自殺した直後、結婚しますが、パーシーは、イタリア沖の帆船の事故で1822年に、若くして死亡。 テレビ・ドキュメンタリーの中で、メアリーのオリジナルの原稿を見せていましたが、ところどころに、パーシー・シェリーが修正や書き足しをした部分があるのが面白かったです。詩人としての感覚を生かした表現的修正の他に、シェリーは共和主義に共鳴していたようで、共和制のジュネーブと王制のイギリスを比べ、ジュネーブの方が、良い社会である、のような政治的な下りを書き足したりしています。 内容を知っているようで知らない小説、というのは多々ありますが、そのひとつであった「フランケンシュタイン」を、今回初めて読んでみました。出だしが、探検のため、北極へむかう船に乗り込む若者の話から始まるのが、意外でした。また、後の世の、色々な映画やテレビドラマのおかげで、フランケンシュタインのモンスターは、コミカルなイメージもあったりするのですが、これが、とても可哀想なのです。 小説は、この北極探検を試みる青年ロバート・ウォルトンが、イギリスの妹へ宛てた手紙としての形式を取っています。この青年...

17歳の肖像

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An Education(邦題:17歳の肖像)という映画がテレビでかかっていたので見ました。以前、当映画の主人公のモデルとなった女性(イギリス人ジャーナリストのリン・バーバー)のインタヴューをラジオで聞いて、もともと興味はあった映画ではあります。 60年代初頭、ロンドン郊外に両親と住む16歳の少女ジェニー。私立の女子高に通い、ラテン語以外は成績も良く、チェロを弾き、フランスが好き、顔も可愛く、目指すは、オックスフォード大学。お家の感じや生活ぶりをみると、両親は、ロワー・ミドル・クラスでしょうか。ホワイト・カラーの仕事だけれども、取り立てた高給取りというわけではない家庭。ただ、子供の教育には、熱心。 ある日、ジェニーは、実業家(?)風男性、デイヴィッドと知り合い、そのうち2人は恋仲に。デイヴィッドは、どうやら金持ちらしく、彼女を、コンサートや高級ナイトクラブ、レストラン、オークションなどへ連れ出す。話し上手で社交巧みな彼は、やがて、ジェニーの両親も魅了し、彼女をオックスフォード旅行、更には17歳の誕生日に、パリ旅行にまで連れ出すのを許され。ジェニーは、次第に、デイヴィッドがどうやら、金儲けのため、いかさまめいた事も行っているのに気づくのだけれども、行動派の彼の魅力から離れられず、プロポーズを受けると、OKするのです。両親も、金持ちと結婚して、彼女の将来も安泰と大喜び。ジェニーは、プロポーズを機に、学校をやめ、オックスフォードへ行く目的も捨て・・・。ところが、デイヴィッドは、実は妻子があったのです。 当時は、まだ、女性の社会進出の機会が限られていた時代。デイヴィッドと付き合い始めてから、「大学に行って、どうなる?たいした面白い仕事につけるわけでもなく、何のための教育か。」という考えが、ジェニーを悩まし、女性学校長や、ハイミスの女性教師にも、「あなた達みたいになりたくない」の様な事まで言っていたのに。こうして、学校もやめてしまい、結婚もできず、となってみると、人生、どうしてくれよう・・・と嘆くジェニー。最終的に、彼女は、学校の女性教師の助けを受けて勉強を再開。翌年、オックスフォード大にトライし、受かるのです。無事、オックスフォード学生生活を始めたジェニーの姿で、映画は終わり。 良い大学、特にオックスブリッジを出ると、色々な事への可能性のドアが開く。出てしまってから、何にな...

ランス・アームストロング

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「長い間病院じゃあ、退屈だろう。」と、だんなのテニスクラブの友達が、本を4冊ほど買って、うちに持ってきてくれました。全冊、スポーツ関係の本。だんなにどれが読みたいかと聞いたら、「一番短いの持ってきて。」 一番短かったのは、これ、ツール・ド・フランスを1999年から2005年まで、連続7回全優勝した、米のサイクリスト、ランス・アームストロングの自伝、「It's Not About the Bike」(直訳は「それは自転車とは関係ない」:日本で翻訳出版されている邦題は、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」)。 だんなは、「読み出したら止まらなかった。」と、2,3日で読み終えていました。ランス・アームストロングは、将来のある若手サイクリストとして名声が高まる中、25歳で癌(睾丸腫瘍)となり、本は、癌との闘病生活がかなり大きな部分を占めるので、非常に、共感しながら読めるところもあったようです。それじゃ、私も、と読んでみました。 ***** 17歳で彼を生んだ母。実父と母は、彼が生まれてすぐ別れ、母は後に、2度再婚するものの、ほとんど、母一人子一人で育ち、貧しい中、働きながら、自分を大切に育ててくれた母親への愛着は非常に強い感じです。対して、父権を簡単に放棄した実父と、何かにつけ体罰を与えた継父に対する態度は手厳しく、こきおろしています。 サイクル・レースの途中で、苦しくて脱落しそうになると思い浮かぶのも母との会話、 「そんなのやめちゃえばいいじゃん。」 「お前、決して、物事を途中で投げ出してはだめなのよ。」 何でもすぐあきてやめる私には耳の痛いお言葉。 また、もうひとつ、彼の力となる母親の言葉は、 「全ての逆境をチャンスに変えなさい。」 最初は水泳に熱中、そしてトライアスロンのレースに参加してこずかい稼ぎを初め、自転車を始めるのは16歳の時。その後は、自転車一筋。段々と、注目を集めていく。この頃の彼は、貧しい家庭に育って、馬鹿にされたくない、自分の価値を証明してやる、と好戦的な「怒れる若者」だったようで、レースの仕方もその性格を反映していたようです。映画 「炎のランナー」 のエイブラハムスの様なタイプだったのでしょう。 将来の見通しは明るく、レースにどんどん勝ち、スポンサーも付き、家も買い、ポルシェも買い・・・そしてや...

殉教者の丘にて

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白いお菓子の宮殿といった感じのサクレクール寺院が聳え立つ丘、モンマルトルの丘。モンマルトル(Montmartre)は、ラテン語のMons Martyrum(「殉教者の丘」の意)から由来した名。 遡ることローマ時代の258年、パリ初のキリスト教司教で、御年90歳であったドニは、ローマ皇帝の神聖性を否定したとして、逮捕され、2人の支持者と共に、マーキュリーの神殿があったというこの丘で、斬首刑となります。言い伝えによると、処刑のあと、ドニは、ひょいと打ち落とされた自分の首を髭をつかんで持ち上げると、近くの流れで洗い、それを抱えたまま、しばらくトコトコ歩き続け、現在のサン・ドニ(聖ドニ)に到着したところで倒れた、という事。彼の遺体は、サン・ドニに埋葬され、後にその場に建てられるのは、代々のフランス王の埋葬の地となるサン・ドニ大聖堂。そして処刑のあった場所は、「殉教者の丘」と呼ばれ。 前回モンマルトルに来たときも、大変な人出だったのですが、今回はまた、日曜日とあって、こみこみでした。階段をひーこら登って、寺院の前に辿り着き、振り返るパリのパノラマ。ああ、来たかいがあった。 寺院内は日曜日のミサが行われており、観光客のほか、ミサに参加する人々でも満員御礼でした。 1870年に勃発した普仏戦争により、ナポレオン3世は瞬く間に失脚し、第3共和制が設立。戦時中パリは、プロシア軍に包囲され、猫やねずみ、動物園の動物まで食べて飢餓を忍ぶ事となります。この間、外とのコミュニュケーションを取る手段とし、週に、2,3回の頻度で、北駅周辺や、モンマルトルの丘から気球を飛ばします。ただ、この気球は一方通行で、出て行くと戻って来れないという落ち度があり、外からパリへの伝達事項は、伝書鳩が使われたと言います。放たれた伝書鳩の数は302羽。うち、無事パリに到着し任務を遂行したのは59羽。残りは鷹などに取られたり、寒さで死んだり、また、お腹をすかせたパリ市民のパイの中身になってしまったと! プロシアの包囲に続くは、多大な死者を出す事となった、パリ・コミューンと一時ヴェルサイユにおかれた政府との流血騒ぎ。そんなこんなの大騒動の後、1875年に着工開始されたサクレクール寺院は、ようやく訪れた平和と希望の象徴のようなものだったのでしょうか。1914年に完成したものの、今度は、第一次世界大...

モンパルナス墓地の朝

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今回のパリでのホテルは、モンパルナスにあったので、ホテルでの朝食を取る前に、近くのモンパルナス墓地を散歩して来ました。 この墓地、シャルル・ボードレール、サルトルとボーヴォワール女史、ジーン・セバーグ、サンサーンス、サミュエル・ベケット、セルジュ・ゲインスブール、 ドレフュス事件 のアルフレッド・ドレフュスなどのお墓があると言います。どこに誰のお墓があるのやら、墓地の図の入ったガイドブックを部屋に置いてきてしまったし、あまり時間もなし、特に捜し求める努力もせずに、ただ、雰囲気だけどんなものかと、かっちりと区画された墓の間を通る並木道の木陰をそぞろ歩きました。 墓地というよりは公園の趣で、近道をするためすり抜けた通勤風の人や、お散歩風の人が数人歩いているほど。観光客風はほとんど見かけませんでした。墓地の整備のお兄さん達に通りすがりに挨拶され。 墓地のほぼ中心に立つ像は、「永遠の眠りの天使」。 上の写真の、空ににょきっと突き出しているのは、巨大な墓石・・・ではなく、モンパルナス=ビヤンヴェヌーのメトロ駅の上に建つ、モンパルナス・タワー(Tour Montparnasse:トゥール・モンパルナス)。210メートル、59階建てのこのタワーは、現段階ではフランス国内で1番高いビルということ。レストランと見晴台があるらしいですが、今回は登りませんでした。絶景でしょうね。パリに合わない、醜い、と出来上がった後、不満の声が多かったようで、これが建てられすぐ、パリ中心部での高層ビルの建設は禁止になったとか。当のビルはそ知らぬ顔で、小人の国のガリバーとして周囲を見下ろしています。 こんなタイル張りの猫のお墓がありました。有名人のものではないようですが、冷たい感じの墓石より、死んだ人の楽しい性格を感じるようで、良いものです。それに、このお墓から出てくる幽霊なら、普通の墓石の陰からドロドロと出てくる幽霊より、怖くない気がします。私だったら、どんな墓を作ろうか、きのこの形なんてどうだろう、としばし考えていました。 ささっと歩いて、お腹もぐるぐるしてきたところで、朝ごはんへ戻りました。

リュクサンブール公園の午後

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15年以上も前の事、初めてロンドンからパリを訪れる直前に、何度もパリへ行った事がある知り合いに、お勧めスポットを聞いた事がありました。彼の答えは、「リュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)がいい。」とにかく綺麗で、ずっと座っていたくなるから・・・と。その後、パリを訪れるたび、行こう行こうと思いつつ、それは見所の多い首都の常で、この人のお勧めスポットは行き逃していたのを、今回、やっと訪れてきました。 セーヌ左岸にあるリュクサンブール宮殿と公園は、17世紀に、良王アンリ4世の後妻でルイ13世の母、マリー・ド・メディチ(フランス読みはメディシス)が、故郷フィレンツェを思い起こせるよう作られたもの。(参考までに、アンリ4世の前妻は、 マルグリッド・ド・ヴァロア 。)この公園を勧めてくれた人はイタリア人なので、イタリア風というのも気に入った理由でしょうか。 アンリ4世が、1610年に、カソリック狂信者に殺された後、若きルイ13世の摂政となったマリー、1612年に、この土地を購入し1615年、建設開始。 宮殿装飾用には、当時の巨匠画家ピーター・ポール・ルーベンスに、自分と夫、家族の栄光を讃えた、マリー・ド・メディチ・サイクルと称される20枚以上の巨大画を依頼しています。決して美人とは言えぬ、ぽっちゃり顔の彼女を出来るだけ神々しく描く・・・画家も大変です。その分、見返りは非常に大きいですが。絵は現在はルーブル美術館に。下の絵は、メディチ・サイクルの中から、アンリ4世の死と、マリーの摂政時代の始まりを描いたもの。 宮殿完成の1631年には、彼女は、ルイ13世の枢機卿リシュリーによりフランスより追われ、亡命。 午後5時ごろ、宮殿前の噴水の周りには、暖かな初夏の日を楽しむ人々が、のんびりと椅子に座り、喋り、読書し、または、眠りこけ。私も、一日歩き回って疲れた足を休ませるのに、ひとつの椅子に陣取り、しばし、うとうと。シュロの木の様なものがあるところが、南欧風です。 憩いの場所としては、どちらかと言うと、私は、緑がもっと深く、自然に近い風景のロンドンの公園たちの方が、パリの公園よりも好きですが、パリの公園の良いところは、とにかく、その椅子の数。どんなに人がいっぱいいても、絶対どこか気に入った場所で、椅子を確保できる事。まあ、ロンドン...

バラの花咲くロダンの館

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パリ滞在中の、お天気の良い午前中、ロダン美術館へ足を伸ばしました。 彫刻家オーギュスト・ロダンが、1908年から亡くなる1917年まで住み、製作を行ったビロン館。彼の死後、国に寄贈された作品の数々が、この館内と美しい庭のそこかしこに展示されています。ゴッホ、ルノワールの絵数点も、館内にあり。手持ちの小型ガイドブックには、ピースフルな美術館、などと書かれていたので、比較的人が少なく静かな美術館かと思いきや、2000本はあるというバラの香りに誘われてか、観光客でにぎわっていました。 上の写真の背景に垣間見られる丸屋根は、通りを隔てた向かいに位置するアンヴァリッド(旧軍病院)のドーム教会の屋根。ナポレオンの柩があるところです。 前庭にある「考える人」も、暖かな陽射しを受け、バラの中、「うたたねする人」にも見えなくもない・・・。 とにかく、試作なども含め、がんがん製作に余念がなかった感じです。 館内には、ロダンの愛人であり、モデルであり、本人も彫刻家であったカミーユ・クローデルの作品を展示した部屋もありました。2人の年の差、約20歳・・・。ロダン氏、製作のみならず、私生活でも大忙しだったわけで。 長年の内縁の妻ローズを離れられないロダンとの関係をめぐり、後に狂気にいたる情熱の美女カミーユというと、イザベル・アジャニー主演の映画、その名も「カミーユ・クローデル」を思い出します。この映画のDVDが館内のショップで売られているのを目にしました。彼女、どうしてもロダンの愛人のイメージが先行しますが、作品見ると、特に彫刻に精通しているわけでもない私には、十分すばらしく見えたのですが。 また、ヨーロッパで活躍した日本人女優で、ロダンの唯一の日本人モデルとなった花子さん(大田ひさ)の実物大よりずっと大きな頭像もあり。 上の写真の奥に見えるのが、ダンテの「神曲」に書かれている地獄を表現した「地獄の門」。「考える人」もこの門の上部に組み込まれた要素のひとつ。 「地獄の門」の一番上に立つ、頭を下げ、片手を下に差し伸べる3人の像のポーズは、映画「カミーユ・クローデル」の中では、カミーユがとっさに取ったポーズからインスピレーションを得たものとされていたと記憶します。(かなり前に見た映画で、100%断言できませんが。) 「キス」も当初は、「地獄の...