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7月, 2015の投稿を表示しています

農場の少年(Famer Boy)

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ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)による「農場の少年」( Famer Boy)は、彼女が、自分が生まれたウィスコンシンの森の中の生活ぶりを描いた「 大きな森の小さな家 」(Little House in the Big Woods)を書いた次に発表した作品で、夫君のアルマンゾ・ワイルダーの、ニューヨーク州北部での少年時代の生活ぶりをつづったものです。 「大きな森の小さな家」同様、物語、というよりは、1年を通しての、当時の生活の記録的色合いが強く、身の回りの多くの物が手作りであった、19世紀中ごろのアメリカの、今は無き暮らしぶりが、レトロでもあり、面白くもあるのです。日常品や雑貨が、どこか遠くの国で安価に製造され、輸入されてくるため、効率的とは言え、物のありがたみと、生産過程に対する理解が欠如している現代社会においては、特に。 当時9歳のアルマンゾ・ワイルダーの家庭は、裕福な農家で、家族全員での農場経営の様子、種まき、収穫、子牛、子馬の訓練などが、時に、かなり詳細に描かれています。また、ニューヨークシティーから、ジャガイモの買い手、馬の買い手、バターの買い手などが、やってくるというのも、まだ物資の輸送が不便であった時代の風景。彼らの住んでいた農場に一番近い町は、ニューヨーク州北部の、マローン(Malone)という場所ですが、地図で見ると、この辺りは、ニューヨークシティーなどより、カナダのモントリオールの方が、距離的にはずっと近いのです。大都市ニューヨークシティーから、はるばる買い手がやって来る、というのは、地方の農家にとっては、大切な機会であったのでしょう。 カナダに近いとあって、ローラ・インガルスの生まれたウィスコンシンの森と同様、やはりメイプル・シロップの収穫なども行われ、日常使う砂糖はほとんどの場合、メイプル・シロップを煮詰めて作ったもの。お客さんなどが来た時のみ、店で買った白砂糖を使っていますが、白砂糖が、メイプル・シロップや、黒砂糖などより貴重だったというのも、現在とは反対です。得がたいものほど、有難いわけで。 農場でお父さんの手助けをするアルマンゾは、いつもお腹を空かせて、始終、食べ物のことを考えているのが愉快です。よって、食べ物や食卓の描写は、とても多いです。ローラ・インガルスよりずっと裕福

ドはドーナツのド

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前回の ポップコーン の話にひき続き、ローラ・インガルス・ワイルダー著の19世紀半ばのアメリカで、農家を営む一家の生活を描いた「農場の少年」から、今回は、ドーナツ作りの描写を引用します。 Mother was rolling out the golden dough, slashing it into long strips rolling and doubling and twisting the strips. Her fingers flew; you could hardly see them. The strips seemed to twist themselves under her hands, and to leap into the big copper kettle of swirling hot fat. Plump! they went to the bottom, sending up bubbles. Then quickly they came popping up, to float and slowly swell, till they rolled themselves over, their pale golden backs going into the fat and their plump brown bellies rising out of it. They rolled over, Mother said, because they were twisted. Some women made a new-fangled shape, round, with a hole in the middle. But round doughnuts wouldn't turn themselves over. Mother didn't have time to waste turning doughnuts; it was quicker to twist them. from "Farmer Boy" by laura Ingalls Wilder お母さんは、黄金のドウをねっていました。ドウを長く引き伸ばし、それを、巻いて二重にし、ひねって。お母さんの指はあまりに

弾け、ポップコーン

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Popcorn is American. Nobody but the Indians ever had popcorn, till after the Pilgrim Fathers came to America. On the first Thanksgiving Day, the Indians were invited to dinner, and they came, and they poured out on the table a big bagful of popcorn. The Pilgrim Fathers didn't know what it was. The Pilgrim Mothers didn't know, either. The Indians had popped it, gut probably it wasn't very good. Probably they didn't butter it or salt it, and it would be cold and tough after they had carried it around in a bag of skins. from "Farmer Boy" by Laura Ingalls Wilder ポップコーンはアメリカのものです。 ピルグリム・ファーザーズ が北米にやって来るまで、インディアン以外は、誰もポップコーンを食べたことがありませんでした。プルグリム・ファーザーズにより、一番最初に祝われた感謝祭(サンクスギビング)の日に、インディアンたちも食事に招かれましたが、彼らは、招待に答えて現れ、テーブルの上に、大袋いっぱいに入っていたポップコーンをあけたのです。ピルグリム・ファーザーズは、それが何だかわからず、ピルグリム・マザーズも、それが何だかわかりませんでした。インディアンが、とうもろこしを、熱し、弾いて作ったのですが、この時のポップコーンは、あまり美味しくなかったかもしれません。バターも使わず、塩もまぶさなかったでしょうから。それに、皮製の袋に入れて持って来たので、固く冷たくなってしまっていたことでしょう。 ローラ・インガルス・ワイルダー著「 農場の少年 」より 「 大草原

サーロインはお貴族さま

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先日、テレビの旅行番組を見ていて、ランカシャー州の貴族の館、ホートン・タワー(Hoghton Tower)が登場しました。 上の牛の図の、黄色で囲んだ部分は、いわゆるサーロイン(Sirloin)と呼ばれる部分の牛肉ですが、何でも、このホートン・タワーで、ビーフのロイン肉(Loin)が、ナイト(Sir、サー)の称号を受けて、サー・ロイン(Sir Loin)となり、ここから、サーロイン(Sirloin)呼ばれるようになったのだ、とやっており、今更、「へえ」なんて、感心しました。サーロイン・ステーキとか、サーロインなど、ただの名だと流していて、そんな由来があるなどと知らなかったので。一緒に見ていただんなに、「知ってた、これ?」と聞くと、「ロインが王様にナイトの称号を受けて、サー・ロインになったという話は聞いたことがあるけど、どの王様かは知らなかった。」ちなみに、「loin」という英語は、人間の体で言うと、下半身の太ももに近いあたりを指しますが、牛の場合は、肋骨の下辺りの、もちょっと中央胴体部ですね。日本語では、「loin」は、腰肉などと訳されていますが。 さて、この伝説によると、1617年に、3日間、この館に宿泊したジェームズ一世、至れり尽くせりの接待を受け、ご馳走も沢山。おいしそうな巨大なロイン肉(loin)のローストが運び込まれてきた時、ジェームズ一世は、召使に、ロインののった皿を自分の足元に持ってくるように告げ、短剣を取り上げると、それで、ちょんちょんと、ロインの両端をたたき、その後、王は、 「Arise, Sir Loin!」(立ちたまえ、サー・ロイン!) とのたまい、周りからやんやの喝采があがったのだと。 王様、女王様が、サーの称号を与える際、称号の受け手は、王の前にひざまずき、王がその人物の両肩を、剣でちょんちょんと叩いて、「Arise, Sir xxx !」(立ちたまえ、サー・xxx!)とやるのがしきたりですから。 うちのだんなが、どの王様だったか覚えていない、というように、ロインをナイトにしたのは、ジェームズ1世ではなく、他の王様であったという説もあるようです。ちなみに、王様、女王様を接待するのは、非常にお金がかかる事で、わざと、王様が泊まりにこれないように、自分の館の屋根を焼いてしまう貴族までいたのだとか。ホートン・タワーで、ジェ

シルバー・レイクの岸辺で(By the Shores of Silver Lake)

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「シルバー・レイクの岸辺で」(By the Shores of Silver Lake)は、ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)著、「インガルス一家の物語」の「 プラム・クリークの土手で 」に続く作品で、1879年から1880年にかけてのアメリカ西部開拓の話となります。 前回の物語の後、ミネソタのプラム・クリークで数年を過ごしたインガルス一家。新しく赤ん坊のグレイスが生まれ、家族メンバーが一人増えています。話のはじめで、淡々と、その間に起こった災難が語られます。それは、お母さん、メアリー、キャリーが猩紅熱にかかり、うち、メアリーは、その結果、目が見えなくなってしまう。お父さんは、一人で畑仕事、ローラは、家族3人の看病と家事で疲れきっていた上、農場での収穫も、思ったほど良くない。 そこへ、思いがけぬ訪問者として、ローラの叔母さんが現れ、西へと伸びる、アメリカ大陸横断の鉄道建設の請負業を行っている夫(ローラの叔父さん)が、ダコタでの鉄道建設にあたり、総務会計業,、店の番等を手伝ってくれる信頼できる人間を探しているから、と、ローラのお父さんを鉄道の仕事に誘うのです。常にうずうずと開拓者精神が胸の奥に眠り、更に西への旅立ちを夢見ていたお父さんは、誘いを受け、一家は、今度は、ミネソタから、ダコタへと移動。 プラム・クリークを去る前に、過去ずっと、ローラと一家を、熊、狼、インディアン、その他もろもろの外的から守ってきた、愛犬ジャックが老死。これで、ローラは、これからは、自分で自分の面倒を見なければならないと、子供時代から、完全にさよならを感じる。また、ローラは、お父さんから、目が見えなくなったメアリーの目になってやるように、と頼まれ、過ぎ行く風景や、周囲で何が起こっているかを、細かく、メアリーに描写して説明するようになるのです。何事も言葉で描写する、この習慣が、後に、「インガルス一家の物語」を書くのに役立ったのではないでしょうか。 お父さんは、叔母さんと共に、先にダコタへ移動し、仕事をはじめ、落ち着いた数ヵ月後、残りの家族は、新しくできた鉄道を利用して、はじめて汽車に乗り、お父さんに合流するため、路線が続く限り、途中まで、旅するのです。 ダコタの、シルバー・レイク湖畔には、鉄道の労働者達が寝泊りする仮の町(シャンティ

イギリスの木炭

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イギリスの森林での木炭作りの風景 学校も、そろそろ夏休みに入り、お天気の良い週末には、庭でバーベキューをする家庭も増えてくることでしょう。バーベキューと言えば、木炭(charcoal)。木材を、木炭窯(キルン、kiln)の中で加熱し、熱分解することで、水分、および、その他不純物を取り除き、炭素含有量の高い燃料となる木炭。ここで、ちょっと、イギリスでの木炭の歴史を振り返ってみることにします。 イギリスでは、木炭は、すでに青銅器時代の始まる紀元前2000年までには使用されていたという事です。普通の木の枝を燃やす事では、青銅を作るための、スズと銅を溶解できる高温度を得る事が難しく、木炭の使用が必要であったのです。最後の氷河期以降、イギリス全土は森林で覆われていたものの、農耕地を得るため、多くの森林が伐採されますが、そうして得た木材が、木炭作りに使用され、青銅器が一般的なものにも幅広く使われ始めると、木炭の需要もあがり、紀元前1000年までには、イギリスの森林の50%は、消えうせることとなります。 ローマ時代に入り、今度は鉄の製造に、益々、木炭は必要となります。ただ闇雲に、森林を伐採していくのみでなく、ローマ時代以前から、ちょこちょこと開始されていた、萌芽更新(Coppicing)が行われるようになり、根元まで木を切り込むことにより、新しい枝の育成を促す、管理された雑木林も増えて行き、製鉄の場所は、こうした萌芽更新が行われる森林の側に設置されることが多々あったようです。 時代飛んで、18世紀始めより、木ではなく、石炭を蒸し焼きにして、不純物を取り除く事で得られるコークス(coke)が鉄鋼業、やがては、蒸気機関車に使用されるようになり、コークスが産業革命の原動力となっていく傍ら、後の1世紀にかけて、木炭の使用は、徐々に減っていき、イギリス国内でも生産も、下降線をたどるのみ。 そして、現在、木炭というと、思い浮かぶのは、青銅でも、鉄でもなく、バーベキューとなるわけです。なんでも、今は、イギリスで使用される木炭の95%は、輸入品であり、しかも、その多くが、貴重な熱帯雨林や、マングローブの湿地帯などからの材木を使用しているという事で、その環境への悪影響が、時に、取りざたされています。 上の写真の木炭作りの様子は、イギリスのヨークシャー州内での、管理されて

エンピツが一本

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ラジオを聞くでもなく、聞かぬでもなく、つけっぱなしにしたまま、何気なく、テーブルに置いてあった紙の切れ端にいたずら書きをしていました。そして、するする動く、鉛筆の描く線を眺め、ふと、「エンピツが一本、エンピツが一本、ぼくのポケットに~」と口ずさんでいる自分に気がついたのです。 「エンピツが一本」なんて、しばらく歌ったこともなかった古い歌、いきなり出てくるものです。坂本九が、この歌をうたったのは、1967年のこと。どひゃ!子供時代の記憶と言うのは、脳みその奥底に刻みつけられているのでしょう。とても良い歌詞なので、これを期に、全部載せてみます。作詞作曲は、浜口庫之助氏。「バラが咲いた」や、にしきのあきらが、指差して「きみーとぼくは、きみーとぼくは」と歌った「空に太陽がある限り」もこの人の作品なのだそうです。 エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくのポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくの心に 青い空を書くときも 真っ赤な夕やけ書くときも 黒いあたまの とんがったがエンピツが一本だけ エンピツが一本 エンピツが一本 君のポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 君の心に あしたの夢を書くときも きのうの思い出書くときも 黒いあたまの まるまったエンピツが一本だけ エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくのポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくの心に 小川の水の行く末も 風と木の葉のささやきも 黒いあたまの ちびたエンピツが一本だけ エンピツが一本 エンピツが一本 君のポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 君のこころに 夏の海辺の約束も もいちど会えないさびしさも 黒いあたまの かなしいエンピツが一本だけ 贅沢を言わせてもらえれば、真っ赤な夕やけ書くときは、赤鉛筆も加えて、「エンピツが2本」にしたい気もします。 道を行くときに、過ぎ行く景色をどれだけ組み入れられるかは、周囲に注意を払っているかどうかは元より、スピードも当然かかわってくるわけで、車よりは、ちゃり、ちゃりよりは、歩きの方が、一般的に気付くことも多いはず。また、デジカメを向けて、景色を取りまくるのは良いが、実際に、見るという事がおろそかになってやしないか、と時に思うこともあります。ボタンを押すだけよりも、え

失われた中世の村

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Wharram Percy 中世の時代に、村人が皆いなくなり、建物は朽ちるにまかせ、失われてしまった村、「a deserted medieval village (DMV)」というものの跡地が、イギリス内には3000ほど残っていると言います。 なぜに、人っ子一人いなくなり、村がいきなり消えうせてしまったのか・・・SFが好きな人は、村人が皆、UFOにさらわれたとか、別世界へワープしてしまったとか、色々想像を膨らませそうです。が、一番の理由は、「羊」のようです。 ペスト (黒死病)という恐ろしい病気は、イギリスを含む、ヨーロッパを、過去、何度も脅かしていましたが、特に、1348年から1350年にかけての黒死病の蔓延で、イギリス各地の村でも多くの人間が命を失い、その結果、いくつかの中世の村は人がいなくなった、という説もあります。が、たとえ、人数が減っても、村人一人残らず黒死病で死ぬ、という事は、比較的まれであったでしょう。この14世紀の黒死病の影響で、人口が減り、労働力も少なくなったため、社会底辺の、小作人たちは、地主から、以前よりも高級や好条件を要求する事ができるようになり、労働者パワーが強くなったと良く言われます。その反面で、労働費が高くつくなら、いっその事、畑を耕すなど、面倒な事はやめ、小作人を土地から蹴り出し、その代わりに羊を放牧した方がわりが良いと、いわゆる「囲い込み」「荘園閉鎖」を行う地主も増えていくのです。 ヨークシャー州の田舎では、すでに、遡ること12世紀から、修道院の坊さんたちが、羊を飼い、羊毛を販売するという事を行っていました。ヨークシャー内でも大規模であったファウンテンズ修道院(Fountain's Abbey)も、魂の救済を求めた地主から、土地を与えられ、そこで羊の放牧を行っています。この際にも、地主たちは、以前、その土地に住んでいた小作人たちを、問答無用で立ち退かせています。(ファウンテンズ修道院等その他、ヨークシャーの修道院跡の写真は、以前の記事まで。 こちら 。) 中世の失われた村々の中でも、最も有名なものが、ヨークシャー東部に位置するウォラム・パーシー(Wharram Percy)。ウォラム・パーシーは、15世紀後半から16世紀にかけての、地主による囲い込みにより消えうせた村とされています。追い出された村人た

お日様の様なセント・ジョーンズ・ワート

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庭のセント・ジョーンズ・ワート(St John's Wort)の茂みの花が満開になりました。 洗礼者ヨハネ(John the Baptist ジョン・ザ・バプティスト、St John セント・ジョン)の誕生日で、聖人の日である6月24日あたりに咲きはじめ、秋まで咲き続けてくれます。これが咲くと、庭の奥のほうが、ぱあーっと明るくなるのです。ワートとは食用、薬用に使用された植物を指して使用された言葉なので、セント・ジョーンズ・ワートとは、「洗礼者ヨハネの薬草」の意味。学名の「Hypericum ヒペリカム」は、ギリシャ語源で、「聖画像(イコン)の上」を意味し、聖画像の上に飾って魔よけとした習慣に端を発するそうです。日本語名は、セイヨウオトギリソウ。 うつ病やその他もろもろに効くとされ、昔から薬用に使用されてきた種は、Hypericum perforatumと呼ばれる野生植物。「perforatum」は「穴の開いた」の意味で、葉に、まるで穴が開いたように見える点々があることから付いた名前ですが、この点々の内部でエッセンシャルオイルが作られているのだそうです。黄色の星の様な花は、聖人の頭を囲む後光のようにも見え、花を摘むと、茎から赤い汁がしたたるそうなのですが、これも、サロメでお馴染みのように、頭をはねられて殺された洗礼者ヨハネを思わせる。この不思議な赤い汁と、花が咲き始める6月後半は、夏至の日にも近いため、初期のキリスト教信者たちにより、セント・ジョーンズ・ワートと呼ばれ始める以前から、ミスティックなパワーを持つ植物として、薬用にも、魔よけにも使われ、人々に知られていたようです。(Hypericum perforatumの花の写真は、ワイルドライフトラストの英語ページまで。 こちら。 ) キューガーデンのサイト によると、ヒペリカムに属し、一般的にセント・ジョーンズ・ワートと呼ばれる植物は、Hypericum perforatumの他にも、1年草のものから多年草のものまで、全部で350種近くあるのだそうです。花はどの種も黄色ですが、サイズは色々。私が持っているセント・ジョーンズ・ワートは、園芸種の、Hypericum "Hidcote" (ヒペリカム ヒドコート)。うちの庭では、長年ずーっと同じ場所に構えているご老公様の貫禄で、

かがり火の丘

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Beacon(ビーコン)とは、日本語で「篝火(かがり火)」と訳されています。この「篝火」という言葉の、篝というのは鉄製の籠を指すそうで、この中で、夜の照明に燃やした火が篝火なのだそうです。ビーコンの和訳を、辞書で調べる前は、日本語訳は、篝火でも、松明でも良いのかな、と思っていたのですが、日本語の「松明」という言葉は、篝火のように、籠の中で燃やすものではなく、手に持って運ぶ火を指すそうなので、英語では、torch(トーチ)の訳語に当たる言葉となります。今の今まで、私は、篝火と松明の違いを知らなかった!人生一生勉強です、はい。 さて、過去、島国イギリスの海岸線近くの高台には、ビーコンを掲げる場所が多くありました。これは、海峡を渡って、敵船が近づいて来るのが目撃されると、それを知らせるために、このビーコンに火をともし、「敵が来るぞ~!」を伝達する手段などに使用されていたため。よって、いまだ、Beacon Hill(ビーコン・ヒル、かがり火の丘)という名のついた土地は、いくつか残っており、ほとんどの場合はレプリカでしょうが、実際に、鉄製の篝が、まだ立っている場所もあります。 我が家から一番近くにあるビーコンは、河口を見下ろす小さな丘の上。1588年8月の、エリザベス1世による、スペイン無敵艦隊撃退の400周年を記念して、1988年に、実際にビーコンが古くから存在した場所に、新しく立て直されたものです。セレモニー用に、ほんの時たま、灯されるのみで、普段は、こうして、玉いれ競争の籠よろしく、何気なく立っているだけです。 イギリスのビーコンというと、どうしても、無敵艦隊や、その他、大陸ヨーロッパからの襲撃に対しての海岸線の土地での、伝達のイメージが強いのですが、同じ島国なのに、日本では、海岸線の高台に、篝が立っている光景は、あまり見たことが無いな、とふと思いました。日本語の「篝火」という言葉のかもし出すイメージは、鵜飼だとか、能だとか、武家屋敷の門の前に立って燃える炎の様子。 日本の海岸線が、他国から襲撃を受けたというのも、第2次世界大戦前は、蒙古襲来くらいしか、頭に浮かびません。鎖国が可能だったのも、近年にいたるまで、軍船に乗ってやってくる招かれざる客が、比較的少なかったせいではないか、などとも思い。一方、イギリスは、昔から、ローマ人、バイキング、アング

プラム・クリークの土手で(On the Banks of Plum Creek)

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ローラ・インガルス・ワイルダー著「インガルス一家の物語」シリーズの、「 大草原の小さな家 」に続く、「プラム・クリークの土手で」(On the Banks of Plum Creek)を読み終わりました。 カンザスの大草原の小さな家を後にしたインガルス一家の、次の居住地は、ミネソタのプラム・クリーク。ミネソタは、ノルウェー人移住者が多かったようで、お父さん、曰く、「ウィスコンシンの森にいた時は、周りはスウェーデン人ばかり、カンザスの草原ではインディアンと狼、ミネソタではノルウェー人がたくさん。」まず最初の家を購入した人物も、ノルウェー人で、土手にあった、sod house(ソッド・ハウス、芝生の家)と呼ばれる、草の根の混ざった草原の土を掘り起こして作った家を購入するのです。 ソッド・ハウスは、当時のアメリカ中部の大草原の開拓者が住む家として、数多くあったようです。確かに、まわりに、木造の家を建てられるような森がほとんど存在せず、遠くから木材を運び込んでくるお金を、最初から持っている開拓者も少なかったわけですから。ちょっと原始的で、内部は暗いものの、ソッド・ハウスは、素材は無料で、夏は涼しく、冬は暖かいという利点があったようですし。そして、新しい土地で、ソッド・ハウスに住みながら、周辺を耕し、農家として成功すると、木材を購入してちゃんとした木造の家を建てる・・・これが一種の成功のシンボルであった感じです。インガルス一家が購入したソッド・ハウスは、小川のほとりの土手に掘られていたため、天井は土手の上の草に覆われ、雰囲気的に、愛らしいホビットの家。家の天井にあたる草地を、大きな牛が歩いて、天井に穴を開けてしまうというエピソードが挿入されています。 ミネソタは小麦等を育てるのに良い土地だそうで、お父さんは、小麦が無事実るようになれば、かなりの収入を得られ、家計も豊かになると、意気揚々。小麦の芽がぐんぐん出始めたところで、「これで将来大丈夫だろう。」と、先にお金を借りて、木材を購入し、近くの高台に、ガラスの窓付きの木造家を建築してしまうのです。英語で、「ひよこが孵化する前に、その数を数えるな。」ということわざがあります。まだ、結果が出ていないうちから、成功を期待するな、という意味で、日本語の「取らぬ狸の皮算用」と同じのり。インガルス家のお父さんの場合は、「小麦

新しいバードバス

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鳥が水を飲み、更に水浴びできるようなバードバスは、ずっと、色も愛想もない茶色の金属製のものを使っていました。大昔、うちのだんながこの家を買った時に、売り手がそのまま置いていったものです。鳥たちは、暑い日などは、入れ替わり立ち代りの感じで、ここへ行水にやってきていました。お得意さんの大半は、クロウタドリ、そして、時にスターリン、あとは、ハト、すずめ。 先日、前庭用の植物をいくつかインターネットで注文した際、セラミック製のちょいと洒落た感じのバードバスが目に入り、一緒に注文。すでにある金属製のものより、少々、浅めなので、小さめの鳥にもよいかな・・・と。最終的には、見栄えがするので、鳥のためというより自分のためなんですけどね。 このバードバス、日本のサイトでも、全く同じものを見たことがあるので、どこかの中国の工場から、いろんな国に出荷されているのでしょう。セラミックはたしかに、金属製のものより、汚れが落としやすく、これが割れてしまったら、模様がきれいな、普通の大型の皿を使ってもいいな、と思っています。新しいバードバスの縁にとまった形になっている小鳥は、金属の棒の先についていて、縁に開いている穴に差し込むようになっていますが、この穴の周辺が、ちょいともろい感じで、ここから壊れそうな気がしますので。セラミック部分の模様は気に入ってますが。 古い金属製のものも、続けて使っていますが、鳥たちは、特にどっちがいいというより、気分しだいで・・・という感じで両方使っています。鳥には、見かけなどどーでもいい?実用性だけでなく、見た目もちょっといいものを使いたい、家を綺麗に飾りたい、などという欲求は、人間独特のものかな、などと考えながら、ふと、以前、自然番組で見た、オーストラリアのBowerbird(ニワシドリ、コヤツクリ)という鳥の事を思い出しました。 この鳥、メスを誘惑するために、オスは、巣を作る際に、いろいろな物で巣の周辺をデコレーションをするのです。特に、彼らにとって、自然界にあまり存在しない「青色」をしたものが非常に魅力的であるらしく、青色の装飾が多い巣ほど、メスは心引かれる事が多いらしいのです。これ以外にも、他の鳥でも、左右対称で、綺麗な形をした巣を作るオスに、メスは惚れる、とかもあるかもしれないし。孔雀の羽の美しさも、メスを感心させるためですし。だから、視

夏の日暮れとレイリー散乱

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夏至はもう過ぎたものの、いまだに、夜の9時半でも、イギリスの空はまだほのかに明るいのです。庭の植物に水をやる時は、この時期大体、暑さがおさまったこの時間。今週から気温がぐっと上がり、昨日は、35度を越したため、ウィンブルドンでも記録的な暑さが取りざたされていました。庭の植物も、いくつか、いささかぐったりと、夜を待っていた感じ。 鳥のさえずりが、遠くの木々や茂みの中から聞こえるものの、もう姿は見えず、時にはこうもりが飛ぶのがうかがえ。日中、無数に花の間を飛び回っていた蜂は、夜行性の蛾などの虫に取って代わられ。まだ水色を残す空ににぼんやりみえる月と、ほのかにピンク色をした雲。それが徐々に、暗闇に飲み込まれ、鳥の声もだんだん、薄れていく。水まきをこのくらいの時間にするのは、気温が下がるのを待つと同時に、こんな風景を楽しみたいからでもあります。 だんなに、「ねえねえ、庭に出てきたら?背景の空はまだ水色なのに、雲がところどころピンクで綺麗よ。」というと、「Rayleigh scattering(レイリー散乱)のせいだよ。」という現実的な返事が戻りました。 レイリー散乱(Rayleigh scattering) レイリー卿、ジョン・ウィリアム・ストラット(Lord Rayleigh, John William Strutt)が19世紀後半に発見した理論で、大気中に存在する、光の波長より小さい粒子が、太陽光を散乱させる、というもの。太陽光は、色によって波長が違い、一番波長が短く散乱を受けやすいのが青。波長が長く散乱を受けにくいのが赤。日中に、空の色が青いのは、散乱された青が目に入るため。一方、太陽が日の出と日没で地平線に近い位置にあると、光が、見るものの目に届くまで、日中よりも幅広い大気層を超えてくるため、散乱を受けにくい赤が目に入ることとなる。 なるほどね。雲は、地表にずっと近いので、背景の空がまだ青く見えても、日没の太陽光の散乱された赤を受けて、ピンクに染まって見えるわけです。 「夕焼けが赤いのはなぜ?」と アルプスの少女ハイジ が聞いた時、アルムじいさんは、「山が、夜の間、太陽の事を覚えていてくれるよう、太陽が、最高のショーをかけるんだ。」と答えていました。ハイジが出版された1880年には、もうレイリー散乱は発見されていたはずなので、アルムじいさん

大草原の小さな家 (Little House on the Prairie)

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先日、ローラ・インガルス・ワイルダー著の「 大きな森の小さな家 」(Little House in the Big Woods)の事を書きました。19世紀アメリカのフロンティア家族、インガルス一家の物語の第一話。この続きにあたる、「大草原の小さな家」(Little House on the Prairie)を読み終わったので、この物語と歴史的背景の事も、ちょいとまとめてみます。 「大きな森の小さな家」では、アメリカは、ウィスコンシン州ぺピン近郊の森に住んでいたインガルス一家。「大草原の小さな家」では、お父さんは、この森が新しい移住者で、混雑し始めたと感じ、新天地を求めて、一家をワゴン車に乗せ、ウィスコンシンから、ミネソタ、アイオワ、ミズーリを抜け、カンザスへと移動。カンザスのインデペンダンスから40マイルほど離れた大草原の只中に丸太小屋を建て、ここで生活を始めようという話です。今では、40マイルなど、車で1時間以内で行ける距離ですが、物語の中、お父さんが、インデペンダンスへ買い物や郵便局などの用足しに出るのに、片道2日、計4日かかっており、道中、野原でキャンプ。本当に、周りに何も無い、大草原のど真ん中に住んでいたわけです。プレーリーを移動中に、草原がはるかに続き、行けども行けども、ワゴン車は、周囲が地平線の大草原の真ん中にあるという描写がありました。 彼らの様にワゴン車で西部へと移動した開拓者たちの中には、当然、病気や怪我などで死亡する人も多かったわけですが、死因の中でも、溺死がかなり多かった、という話を以前聞いて「へー」と思ったのですが、「大草原の小さな家」の、カンザスへの移動中の部分を読むと、なるほどね、と、その理由がわかるのです。 まず、お父さん、お母さん、ローラ、メアリー、キャリーが、森の中の丸太小屋を去り、親戚一同に別れを告げ、旅立つのは、まだ寒い冬の終わり。それというのも、ミシシッピ川を西岸へ渡るには、氷がはっている時でないと難しいため。家族を乗せたワゴン車は、ミシシッピ川にはった氷上を無事渡り、西岸にキャンプしたその夜、みしみしと氷が割れる音が聞こえてくる。お父さんは、もう一日待っていたら、渡っている最中に凍える水の中に落ちていたかも・・・とほっとするのです。そして、更には、橋の無いミズーリ川を渡るには、今度は、いかだにワゴン車を乗