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10月, 2014の投稿を表示しています

グリニッジ・フット・トンネル

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ロンドンから、標準時間でおなじみの グリニッジ (Greenwich)にたどり着くには、現在では、自動運転の高架鉄道ドックランズ・ライト・レールウェイ(DLR)を利用して、カティー・サーク(Cutty Sark)駅で降りるのが一番便利ですが、まだ、DLRがグリニッジ方面まで延びていなかった時代は、観光客は、電車でグリニッジ駅で降りるか、ボートで辿りつくか、して訪れていたものです。また、対岸のDLRのアイランド・ガーデンズ(Island Gardens)駅で下車して、テムズ川の下を歩いて来るという方法もありました。 テムズ川南岸にあるグリニッジと、その向かいのテムズ川北のアイル・オブ・ドッグス(Isle of Dogs)を結ぶ、海底トンネルならぬ、歩行者用川底トンネルである、Greenwich Foot Tunnelが開通したのは1902年。アイル・オブ・ドッグスにあった、海外からのエキゾチックな積荷が降ろされる、ウェスト・インディア・ドックス(West India Docks)で働いていた波止場の労働者達が、グリニッジ側から、フェリーに頼らず、直接歩いて対岸へ行けるように建設されたものです。 両岸にそれぞれ、ドームを頭に乗せたトンネルの入り口があります。上の写真は、グリニッジ側のトンネル入り口。背景は、対岸のアイル・オブ・ドッグス北部にある、カナリー・ワーフの高層ビル群。 今週は、ハーフタームと称される、学校が1週間お休みの時期のため、ロンドン内の観光地は子供連れでぎちぎち。秋晴れのグリニッジへやって来たものの、あまりの人混みにたじろぎ、グリニッジ・パークでのんびりしよう、という考えを捨て、かわりに、トンネルを使って静かな対岸へ移動する事にしました。 ドームの中に入り、階段をくるくる回って降り、歩き始めるトンネルは、直径3.5メートル、長さ370メートル。川の下だと言われなければ、本当に何の変哲もないものです。昔々、一番最初にこのトンネルを通った時は、ちょっとおしっこの匂いがし、うらさびた印象がありました。「自転車を使用する人は、降りて歩いてください」と書いてあるのに、びゅんびゅんちゃりで飛ばしていくティーンエージャーが何人かおり、「まったく、最近の若いもんは。」とぶつぶつ。 トンネル内、大きな体のお父さん率いるドイツ人家族の観光

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師

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Before Fleet Street had reached its present importance, and when George the Third was young, and the two figures who used to strike the chimes at old St Dunstan's church were in all their glory - being a great impediment to errand-boys on their progress, and a matter of gaping curiosity to country people - there stood close to the sacred edifice a small barber's shop, which was kept by a man of the name of Sweeney Todd. それは、フリート街が、現在のような重要な通りとなる以前、ジョージ3世が若者であった頃、そして、時を鳴らす、古きセント・ダンスタン教会の巨人の像が、まだ美しく輝き、使いに出された少年たちが気をとられ、田舎からやって来た者達が興味深く見上げていた頃の話。セント・ダンスタン教会の近くには、小さな床屋が店を構えており、スウィーニー・トッドと名乗る男によって経営されていた。 スウィーニー・トッドという床屋の名は、今では、「Sweeney Todd; the Demon Barber of Fleet Street」(スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師)のタイトルで知られるミュージカル、そして、それを基にした映画のおかげで、イギリスのみならず、世界的に有名となりました。裕福そうな紳士が、髭でもそってもらおうか、とスウィーニー・トッドの店に足を踏み入れたら最後、紳士は二度と店から出てこない。スウィーニー・トッドに殺された挙句、セント・ダンスタン教会の西側にある小道、ベル・ヤードの、ミセス・ラベットのパイ屋で、パイに入れる肉にされてしまうから・・・ ミュージカル版が製作されたのは、1979年です。私は、1993年のロンドンのナショナル・シアターのプロダクションを、見に行きましたが、ユーモアを含んで描いて

たたずみ、見つめる時間もなければ・・・

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What is this life if, full of care, We have no time to stand and stare. No time to stand beneath the boughs And stare as long as sheep or cows. No time to see, when woods we pass, Where squirrels hide their nuts in grass. No time to see, in broad daylight, Streams full of stars, like skies at night. No time to turn at Beauty’s glance, And watch her feet, how they can dance. No time to wait till her mouth can Enrich that smile her eyes began. A poor life this if, full of care, We have no time to stand and stare. これは、ウェールズ出身の詩人、ウィリアム・ヘンリー・デイヴィス(William Henry Davies1871-1940年)による、彼の一番有名な詩、Leisure(余暇)。私も、大好きな詩です。 特に、最初の2行 What is this life if, full of care, We have no time to stand and stare. は有名で、よく引用されたりしていますので、イギリス人であれば、誰が書いたかはともかく、聞いたことがある人は多い事でしょう。 これを日本語に訳してみましょうかね。 この人生とは何であろう 不安と懸念に苛まれ たたずみ、見つめる時間もなければ 覆う枝葉の下に立ち 羊や牛と同じよう ゆるりと見つめる時間がなければ りすが草間に木の実を隠す 森を歩けども 気づくこと無く 昼のただ中 夜空の様に 星が流れる小川も見ずに 美しき人のまなざしに 振り向くことなく 彼女の足が踊るのも見ず 彼女の瞳に浮かぶ微笑が その口

ヴィクトリア女王のウェディングドレスと喪服

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花嫁さんが、純白のウェディングドレスを着るのは、昨今では当たり前の光景で、「どうして白なんじゃ?」と疑問を持つ事もほとんどありません。もし聞かれたら、白は純潔のイメージだから、とでも答えるところでしょうか。 結婚式に、白いウェディングドレスを着るのを人気としたのは、 ヴィクトリア女王 でした・・・という話を最近、耳にしました。ダイアナ妃、キャサリン妃などに比べ、どう考えても、ファッション・アイコンとは言いがたいヴィクトリア女王ですが、それなりにファッションには興味があったのだそうです。特に若い頃は。 ヴィクトリア女王以前、王族の結婚ドレスは、赤などを使用する事が多かったものを、1840年にアルバートと結婚する際、ヴィクトリアは、自らのドレスに白を選び、ブライドメードのドレスなども、彼女がデザインしたのだとか。その影響で、白をウェディングドレスに選ぶ事が、ヨーロッパ及びアメリカの上流社会で人気となります。この風習が、庶民の間でも一般的となるのは、第2次大戦後だそうですが、いまや、ウェディングドレスと言って、他の色を思い浮かべる人は、ほとんど無いようになりました。 さて、そうして、純白のウェディングドレスで結婚した愛しのアルバート公に、1861年、42歳の若さで先に死なれてしまった後、ヴィクトリア女王は、彼女の長い人生の間、ほぼずっと続くような喪に入るのです。葬式や喪中に、黒や渋めの色を着る、というのは、特に彼女が始めた事ではないようですが、他界した人間との関係によって決まる喪に服す期間、葬式、喪に服す人間の服装、振る舞い、などの形式化に影響を与えたのが、ヴィクトリア女王の、この、ながーーーーい未亡人生活であったそうです。 最近、 メアリー・アニング を主人公とした、トレイシー・シュヴァリエ(Tracy Chevalier)の本を読みましたが、これが面白かったため、引き続いて、やはり彼女著の、「天使が堕ちたとき」(Falling Angels)という本を読みました。1901年1月のヴィクトリア女王の死から、1910年5月のエドワード7世の死までのエドワード朝を時代背景にした話。 簡単なあらすじは 裕福な夫と結婚し、娘をもうけ、外からは何不自由ない生活のキティー・コールマンは、当時の女性に許された、非常に限られた社会での役割に、いまひとつ満

クイーン・エリザベス・オリンピック・パークで思ったこと

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早いもので、2012年の ロンドン・オリンピック からすでに2年。ロンドン東部のストラトフォード(Stratford)にあるオリンピック跡地の一部は、すでに、クイーン・エリザベス・オリンピック・パーク(Queen Elizabeth Olympic Park)として開放されていますので、先日、足を運びました。 ちなみに、このストラトフォードは、シェークスピアの故郷、ストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford upon Avon)とは違います。シェークスピアは、田舎の子供で、東ロンドンっ子(コックニー)ではありません。最も、シェークスピアよりずっと後の、 ダニエル・デフォー (Daniel Defoe 1661-1731年)は、ロンドンのストラトフォードの事を、「ストラトフォード村」と呼び、ここを訪れた際に、家の数が増え、村のサイズが2倍くらいになった感じである・・・と記述しているので、シェークスピアの時代のストラトフォードは、まだ、本当にど田舎の雰囲気であったかもしれません。 写真左手の妙てきれんな塔は、オービット(Orbit)。この上に登るのに、現段階で、17ポンド!おお、ちょっと高すぎないかい?塔はそんなに高くないのに・・・。オリンピック・スタジアムは、ウェストハム・ユナイテッドFC、サッカー・クラブの本拠地になる事になっています。クラブの移動までには、まだ後、2,3年かかるようですが。 クイーン・エリザベス・オリンピック・パークは、子供連れ家族が楽しめるような工夫があちこちに見られます。間を子供が走り回れる、小さな噴水が噴出すエリアがあり。公園自体へは、当然入場料は要りません。 超小型遊園地のようなものもあり。私が行った時は、コーヒーカップなどは、動いていませんでしたが。 子供の遊具が置いてあるエリアもあり。 オリンピックの開催された際、敷地内に、自然な野原(メドウ)に育ち、蝶や蜂が喜ぶような植物を大幅に使用した事が話題になっていましたが、まだそのテーマは続いている感じです。植物に覆われるような細い道を歩くと、カモマイルの甘い香りが漂っていました。 ストラトフォード駅を出てすぐに、ウェストフィールド(Westfield)と言う、やはりオリンピックと同時期に建設された巨大ショッピングモールがあります。

ロンドン塔でポピー植え

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前回の記事「 フランダースの野で 」に載せた写真と、当記事冒頭の写真は、ロンドン塔(Tower of London)の堀に植えられた陶器のポピー(ケシの花)の様子です。 今年、2014年が、第一次世界大戦開始から100年目であるため、8月5日より、第一次大戦の終戦日である11月11日まで、ロンドン塔の芝に覆われたお堀に、大戦中に命を落とした旧植民地を含む大英帝国の兵士達の数(888246)だけ、陶器のポピーを植えていく、というものです。題して、 'Blood Swept Lands and Seas of Red' (血に紅に染まった大地と海)。セラミック・アーティスト、ポール・カミンズ(Paul Cummins)氏と、舞台装置家トム・パイパー(Tom Piper)氏のコラボによるインストレーション。大英帝国の旗の下、イギリス国内のみならず、世界各地のイギリス植民地からも、多くの戦士が戦線に送られ、戦線は、白人ばかりではなかったわけです。特に、インドなどは、かなりの兵士を、この戦争で失っています。 ディスプレイ期間中、総計8000人近くのボランティアを起動して、少しずつ植えていくため、お堀の中、ポピーの赤が、満ち潮の波の様に広がっていく事となります。 私も、先月、この田植えならぬ、ケシ植えのボランティアに出かけてきました。ボランティアなどと言うと、善行のような響きがありますが、危険な場に乗り込んで、人助けをするような果敢な人たちのボランティアとは違い、大方のボランティアというのは、自分の楽しみと満足感が大部分を占めるものがあります。私も「良い事しよう」というより、記念になるし、めったに入れない、ロンドン塔の堀に降りれる、という野次馬根性が、これに参加した主な理由。ポピー植えは、あと一ヶ月は続く予定でしょうが、このボランティア応募者の数が非常に多かったようで、現段階では、すでに満杯になった様子。早めに申し込んで、行って来て良かったなと思っています。 ゴムのストッパーを通した鉄の棒を、地面に打ち込んで、そこへ陶器のポピーをさして、更に上から、再びゴムのストッパーで固定していく作業。集合した後、「Volunteer」と背中に書いた真っ赤なTシャツを着せられ、オリエンテーションのビデオを見て、説明を受けた後、すぐに作業開始。