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4月, 2015の投稿を表示しています

イギリス各地特有の建物

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「Vernacular Architechture」 という言葉があります。直訳は、「その土地特有の建築物」。遠くから建築素材をわざわざ運ぶのが大変だった時代は、王様や大貴族のお城、または、大聖堂等の重要な建物でない限り、近辺で切り出せる石を使用していたわけです。ですから、イギリス各地の土地が、どんな地層であるかは、古くからその地に建っている、これれらの「Vernacular Architechture」を眺めれば、ある程度わかる、というのはあります。また、石のコテージがほとんど建っていない地域は、地層に、家を建てるのに使えるような石が無い・・・という事もわかるわけです。 その土地独特の建物 と言って、まず頭に浮かぶのは、日本人にも人気の観光地、コッツウォルズの村々に建つ蜂蜜色のコテージ。コッツウォルズ一帯の地層は、ジュラ紀に堆積された石灰岩の一種、Oolitic limestone(ウーリティック・ライムストーン、魚卵状石灰岩)と称されるもので、可愛らしいコテージ郡は、この魚卵状石灰岩で作られています。 魚卵状石灰岩は、海水内の炭酸カルシウムが、暖かく浅い海の底で堆積してできたもの。浅い海底で、あっちへこっちへ揺られてできた結果、ひとつひとつの粒子が、魚卵の粒々の様に丸いのが特徴。今は丘で有名なコッツウォルズは、ジュラ紀には、熱帯の暖かい浅い海だった、と想像するのは難しいですが。ちなみに、今、この魚卵状石灰岩が、現在進行形で堆積しているエリアは、バハマ諸島の海岸線だという話です。という事は、気が遠くなるほどの時間がたった後、バハマ諸島に、コッツウォルズのようなコテージが建つ可能性も!それまで、人類がまだ存在しているかはわかりませんが。 さて、石灰岩と言っても色々で、白亜紀に堆積した チョーク層 なども、いわゆる石灰岩の一種です。やわらかいチョークは、石として切り出して、そのまま建築物に使用される事はありませんが。また、炭酸カルシウムの化学堆積によりできた魚卵状石灰石に対し、チョークは、過去の微生物(円石藻、Cocolithophores)の死骸が堆積したもの。上の図は、イギリスの石灰岩の分布の様子を表したものです(British Geological Surveyの サイト より)。中心を走る黄色の部分が、ジュラ紀の石灰岩層。東部緑の一帯が白亜

アムステルダムのバスツアーと運河クルーズ

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今回、母親を連れてアムステルダムを旅して思ったのが、外国の都市観光は、できる限り足腰がしっかりしているうちにやっておく・・・という事。お年寄りでも、足腰がぴんぴん、反射神経もばっちりの人は、活気溢れる都市のウォーキング・ツアーもいいでしょうが、うちの母親は、他は健康なのに、膝だけは、すぐ痛くなるそうで、歩くのが遅いし、長距離は無理。自転車、トラム、自動車、人ごみが、右往左往するアムステルダムの繁華街で、何かにひかれやしないか、石畳につっかかって転びやしないか、運河に「あれ~!」と落っこちやしないか(まあ、これは無いか・・・)と、常にひやひやものでした。トラムに乗ったり降りたりも、その度に、自分の切符の他にも、彼女の切符のスキャンもして、とそれなりに、大変。 1日目に、 ライクスミュージアム と キューケンホフ へ行ったので、2日目は、アムステルダム市内をちょっと足で観光してから帰ろうと思っていたのですが、この最初の考えは、母親の歩き方を見て、とっとと捨てました。10分おきくらいに「ベンチ無いの?」という事になるので。そこで、まず、バスでのシティー・ツアー、それから、運河を回るボートに乗ることに決め。 2時間のバスでのシティー・ツアー。私にとっては、気を使う必要がなく、ラクチンではあったのですが、有名観光地ひしめくアムステルダム中心地に、バスが入っていく事はできないためか、シティー・ツアーと言うより、シティーの周辺ツアーと言った方が良い感じの内容。 ツアー内で、まあ良かったなと思えたのは、郊外の、アムステル川のほとりにあった風車での写真撮影ブレーク(上の写真)。かつては、1万台以上あったというオランダの風車も、現在残るのは、1000のみ。アムステルダムに残る風車の数は、8台だそうで、これは、そのうちのひとつである、Riekermolen(なんて発音するんでしょうね。ライカモーランか?最後のmolenは、風車の事。フランス語の「Moulin ムーラン」と似てますね)。Riekermolenは、1636年に遡る風車で、以前は、別の場所にあったものを、現在のアムステル川のほとりに、1961年に移動させたという事。すぐそばには、アムステル川のほとりで、よくスケッチをしていたというレンブラントの像が立ち。レンブラントのかかえるスケッチブックの上には、誰が置いたか

アムステルダム国立博物館(Rijksmuseum)

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アムステルダムの国立博物館(ライクスミュージアム Rijksmuseum)。17世紀のオランダ絵画がわりと好きなのに、 前回のアムステルダム旅行 では、訪ね損ねたので、今回のオランダ旅行の大目的は、チューリップと、この国立博物館でした。ですから、宿も、アムステルダム国立博物館から徒歩圏内に取ったのです。 国立博物館やゴッホ美術館のある、アムステルダム南側に宿を取ると、スキポール空港のすぐ外のバス停から、直行で国立博物館のそばを通るバスが出ているので、とてもラク。空港から、アムステルダム北側にある中央駅まで電車で行って、そこからトラムで南側に戻るより、便利な移動法です。バスの運賃は、現段階で5ユーロ。チケットも、バスの運ちゃんから、乗る時に直接買えました。「ライクスミュージアム行くよね?」と念を押して乗ったので、着いた時に、運ちゃんは「ライクスミュージアム!」と叫んで教えてくれましたし。もっとも、かなりの人数、ここで降りました。乗車時間は約30分。アムステルダムは、公共交通機関が安くて、頻度も多く、助かります。ガソリン税がヨーロッパで一番高い国、そして、駐車料もかなり高いらしく、移動は、多くの市民は自転車か、公共交通網に頼っているのでしょう。 上は泊まったホテルのある通り。静かでした。 さて、アムステルダム国立博物館は、一大改装のため10年も閉鎖しており、2013年の4月に再オープンしたばかり。当初は、10年もかかると思っていなかったようなのですが、長引いてしまった最大の理由が、 自転車! 国立博物館の建物の中心部分は、トンネルのようになって、アムステルダムの中心部と郊外を繋ぐ通りが走っていたそうですが、改造にあたり、それを塞ぐというのが、最初の設計だったそうです。これに反対して、自転車団体が大抗議を起こし、自転車が、博物館の周りを迂回せずに、中心を走って抜けられるトンネルを、新しいデザインに組み込むように設計をし直す事となり、そのため大変な時間がかかってしまったというのです。 オリジナルの建物自体は、19世紀後半のもので、建てられた当初は、プロテスタントの国、オランダの建物としては、あまりにもカソリック的であるとして、不人気だったという話です。設計をしたピエール・カイペルス(Pierre Cuypers)は、たしかに、カソリック教徒であったの

キューケンホフ(Keukenhof)のチューリップ

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オランダは、アムステルダム近郊にある、キューケンホフ(Keukenhof)とは、オランダ語で「キッチン・ガーデン(お台所のガーデン)」の意味なのだそうです。15世紀の女伯爵、ヤコバ・ファン・ベイエレン(Jacoba van Beieren)が近くにあったお城のために、野菜やハーブ、フルーツなどを育てた場所であった事に起因する名だと言います。1857年に、この地は、アムステルダムのフォンデル公園を作った同じ造園家によって、イギリスの ランドスケープ庭園 風に作り直され、現キューケンホフのデザインは、基本的に、この時のもの。そして、第2次世界大戦後の1949年、20人の球根専門家が集まり、キューケンホフを、春の球根類のみを植える庭園とする計画を打ち立て、1950年に、一般公開。瞬く間に人気を博す事となります。 キューケンホフの開園は、3月半ばから5月半ばの、年に3ヶ月だけ。本当に、春の庭園なのです。植えられている球根の数は、700万。オランダにチューリップを見に行くなら、このキューケンホフとばかりに、先週、はじめて、繰り出してきました。 イギリスから、わずか1時間以下の飛行時間の後、スキポール空港に到着。旅券審査のお兄さんに、「こんにちは。」と日本語で挨拶され、その後、お兄さんに、にやっと笑って、英語で聞かれた質問は、「どこへ行くの?クーケンホフ?」「え?」「チューリップ見に、クーケンホフ行くの?」「あ、そうそう、そうです。」「楽しんできてね。」日本人観光客も、チューリップを見に、この時期大勢押し寄せるのでしょう。検査の兄さん、「また、来たな~、チューリップに誘われた日本人」と、もう慣れっこの感じでした。観光客は大切にせねば、と思っているのか、非常に愛想が良い人でした。ただ、オランダ人の発音、キューケンホフより、クーケンホフか、コーケンホフに近いものがあった気がしましたが。 スキポール空港からも直通でキューケンホフ行きのバスなども出ているのですが、なにせ、80のおばあさん(うちの母親)連れでしたので、アムステルダムからのバスツアーで行くのが一番と、アムステルダムに宿を取り、現地バスツアーに申し込んで、行ってきました。 とにかく、シーズン中、特に4月は、大変な人だという事なので、一番ゆっくり見れる時間は、開園直後か閉園直前の時間帯、という事

アムステルダムの思い出

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オランダはアムステルダムを訪れたのは、もう20年ほど前の話になります。以前の職場の同僚が、アムステルダムで一時仕事をしており、アンネ・フランクの家にほど遠からぬ、静かな運河沿いの建物内に、アパートを借りて住んでいたので、「遊びにおいで」の誘いに、当然、「行く行く!」。 おかげさまで、歴史ありそうな建物の最上階を改造した、お洒落な明るいアパートで、快適な1週間を過ごしたのです。(当時は、まだデジカメが無かったので、ここの写真は、すべてスキャンしたものです。) 一番最初に友達に案内してもらったのは、花や蚤の市のマーケット。マーケットで、花をどっちゃり買った彼女は、巨大花瓶にその花達をどーんとつっこんでいました。 その後、一緒に、レンブラント・ハウスとアンネ・フランクの家を訪れ。ゴッホ美術館を訪れ。彼女が大ファンだったK.D.ラングのコンサートが、たまたまアムステルダムに来ていたので、それを聞きに行き。レズビアンのアイコンの様に語られる事もあるK.D.ラングなので、前の列に座っていた女性二人が、歌の最中にチュッチュを始め、「こんなすばらしい歌手を、ただのレズのアイコンのように、いちゃつくのが目的でコンサートに来るなんてゆるせん!」と友達は怒り、コンサートの後の、食事の間も、やたら憤慨していたのを覚えています。 あまり大混雑の繁華街には出ず、彼女が仕事中は、建物を眺めながら、かなり長時間、運河沿いをそぞろ歩きました。ぼーっと歩いている時に、一度、自転車に轢かれそうになり、急ブレーキをかけてとまったお姉さんに、「この部分は、自転車専用ですから、気をつけて」と諭され。 アムステルダムの家の幅が狭いのは、家の横幅が広いと税金が多く課された事情により、税金逃れの結果だったと言いますが、幅を狭くすると、今度は、階段を使って家具を上階に運ぶのが一苦労となってしまい、それぞれの家の上には、家具を外からロープで持ち上げ、窓から運び入れるためのフックが着くようになったのだそうです。税金逃れにより、その地独特の建物ができああがるというのは良くある話です。イギリスの 窓税 を逃れるための、窓を塞いだ家もそうですしね。その他にもイギリスで、地階の面積で税金が決められていた頃に建てられた、2階が地階より突き出している家などもまだ見られます。 アムス

片足の無いクロウタドリ

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去年の5月、足を痛めたブラックバード(クロウタドリ)が、何とか冬を乗り越えて 子育てに成功した話 を当ブログにしたためました。私達が「フッティー」と呼んでいる、その同じブラックバードは、今年の冬も、片足びっこをひきひき、我が家の勝手口に餌をもらいに来ていました。 寒さが強まるにつけ、段々、フッティーの悪い足は、枯れ枝の様に、ほぼ、使い物にならなくなってきていましたが、ある日、ついに、足がぽろっと落ちてしまったのか、片足が棒の様になった姿で現れたのです。「こりゃ、今度こそ、この冬でおしまいかな。」と思いながらも、餌やりを続けており、霜の降りる寒い夜などは、なんとなく、大丈夫かなと、心配していましたが・・・またひとつの冬を、片足で乗り切り、まだ生きています。 棒の様になった足の先の部分は、今は、丸みをおびてきて、それなりに安定して立っていられる状態なのです。片足のない海賊の義足さながら。「キャプテン・シルバー」と、名前を変えて呼んでみてもいいかもしれません。白い羽も、かなり増えていますし。 冬の間の食べ物は、大幅に、私達に頼っていた感はありますが、野生の鳥や動物はたくましいものです。ロンドンの町中で、やはり片足のハトが、何事もないように、パンをつついている姿などにも、よく遭遇しますし。 ブラックバードは、日本名のクロウタドリでもわかるよう、フルートを吹くような綺麗なメロディーを奏でます。フッティーも、できるだけ長い間、庭の陽だまりで歌をうたいながら、せいぜい長生きしておくれ。庭のりんごの木の新芽も、新しいシーズンにむけて、吹き出しつつある事ですし。ただ、今年は、子供作るのは・・・さすがに、もう無理かもしれません。 追記(2015年10月) 8月の終わりに、フッティーは、ぱたりと来なくなりました。夏の間、羽が抜け変わる期間に、ブラックバードたちが一時、人目を忍んで、あまり、姿を見せなくなる期間はあるのですが、その後、他の鳥たちが再出現をはじめた後も、一切、見かけなくなりました。死んでしまったのでしょう。ちょっと、さびしいです。

春を告げるイングリッシュ・プリムローズ

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イングランドでは、 ラッパ水仙 のまぶしい様な黄色もそろそろ盛りを通り越した感があり、気がつくと、庭では、チューリップの蕾が色づき始めています。 町に買い物に出た帰りに、商店街のそばの教会の墓地を横切りました。そして遭遇したのは、墓石のまわりに集まって咲いていた、クリーム色のプリムローズ。ラテン学名「Primula vulgaris」 。英語では、Primrose、English Primrose、Common Primroseと呼ばれるもので、イギリス原生の野生の花です。プリムローズは、よく日本語でサクラソウと訳されていますが、イングリッシュ・プリムローズは、日本のいわゆるサクラソウ(Primula sieboldii、 Primula japonica)とは、同じサクラソウ(プリムラ)属でも、別種のものです。 プリムローズが大好きな人物として、まず、頭に浮かぶのは、ビクトリア女王お気に入りの首相であった、ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)。女王は、よく、ディズレーリにプリムローズのブーケを、プレゼントに贈っていたようですし、ディズレーリの葬式にも、傷心の女王は、プリムローズの花輪を送ったと言われています。このため、折しも、プリムローズが満開の時期に当たる4月19日のディズレーリの命日は、プリムローズ・デイなどと呼ばれています。 また、こちらの有名園芸家も以前、ラジオで、一番好きな花を聞かれ、「ひとつだけ選ぶのは、難しいけど、多分、春を思わせるプリムローズかな。」比較的、地味な雰囲気の花ですけれど、たしかに、3月4月に野や森林を歩き、(または、私の様に墓場を歩き)、プリムローズの群生を見つけるのは、うれしいものです。最近、特に、町に住んでいると、プリムローズが一気咲きをしているのを見れる場所が限られている気がしますし。 ブルーベル などと同じく、自分の庭に植えたり、販売しようという目的で、野生のプリムローズを、根こそぎ掘って盗んでいく人がおり、数が減少しているという話も聞いた事があります。一応、法で守られているはずなのですが。ラテン名の「Primula vulgaris」の、vulgarisは、「一般的な、よくある」の意味なのですが、名とは裏腹に、あまりお目にかかれなくなってしまったら、寂しいものです。こういう花泥棒は