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7月, 2018の投稿を表示しています

夏のない年

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ヨーロッパの歴史上、1815年と言えば、6月18日のワーテルローの戦い(Battle of Waterloo、英語発音はウォータールー)をもって、ナポレオン戦争がついに終結した年。流されていた地中海に浮かぶ島、エルバ島から、えっこら逃げ出し、百日天下を取ったナポレオンが、パリにいた同年4月初めに、ヨーロッパから遥か離れた、インドネシアで起こったのは、タンボラ山(Mt Tambora)の大噴火。 翌年、1816年は、「Year without a Summer、夏のない年」と称され、地球の北半球、特にヨーロッパと北米大陸東海岸側では、異常に寒く、雨が多く、場所によっては、霜がおり、雪まで降る夏となります。当然、農作物は不作の年となり、飢饉、社会不安なども広がります。イギリスはそれでも、まだ、海上貿易が発達した国であったので、足りないものは、多少は、比較的被害の少なかった地域から、輸入で賄うことができたものの、パンの値段は約2倍に跳ね上がり。中部の大陸ヨーロッパに至っては、不作により、かなりの生活困難に陥る人々が多数出たようです。また栄養不足で、病気なども蔓延。 現在では、この「夏のない年」の原因は、タンボラ山の大噴火にあったとわかっていますが、当時、タンボラ山の噴火のニュースは、ヨーロッパにも伝わっていたものの、インドネシアで起こった噴火と、自分たちが体験する異常気象の関連などは、当然、一切わかっておらず、この夏、怯えた人たちは、「これは、神から人類への天罰」と思ったのか、「神様が助けてくれる」と思ったのか、教会へ足を向け、教会への参列者が大変増えたという話。 タンボラ山噴火は、直接的には、周囲20キロメートルを破壊すると同時に、火山灰を噴き上げる。火山灰と共に、空へと舞い上がったのは、硫黄ガス。この硫黄ガスは、10キロメートル近くも、上空に吹き上がり、大気の成層圏(stratosphere)へ達して、水分と結合し小粒子を形成、これが、地球全土を、ヴェールのように覆ったというのです。このヴェールにより、外から入る太陽光線は遮断されていき、夏のない年へとつながる。このヴェールが完全に散って消えるには、なんと5、6年もの時間がかかるのだそうです。 前回の、 フロスト・フェア の記事で、1300年から1850年は、小氷期(リトル・アイス・エイジ)と呼ばれ

フロスト・フェア

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The Thames during the Great Frost of 1739 - 1740 雨の降らない、暑い日が続いています。 6月に日本にいる間 、梅雨を少々経験したものの、その間も、イギリス、特に、私たちが住んでいる東方は、全く雨が降らなかったようで、もうかれこれ2か月は降っていない?イギリスのトレードマークのような、 緑の芝生 は干からび茶色となり、森林などでは、木々も水不足で、枯れてきているとか。まあ、暑いと言っても、40度に突入する日本の夏の暑さに比べれば可愛いものでしょうが、これだけ、枯渇し、天気予報が前後ずーっと、晴れマーク続きというのは、私が経験する限りでは、初めてのような気がします。ニュースによると、以前、こういう状態になったのは、1976年の夏だったとか。夏の暑さ体制が取れていない国なので、電車や、図書館などの公共施設で、冷房がきいていない場所があり、参ります。大陸ヨーロッパもひどいことになっているようで、ギリシャの火災も大変なら、スウェーデンですら、乾燥のための森林火災が起こったとか。こんな尋常ならぬ天気も、地球温暖化と関係あるのでしょうか。 そんなこんなで、ちょっと涼しい気分になろうかと、本日は、テムズ川のフロスト・フェアの事を書いてみることにしました。 上に家が立ち並び、橋脚の数が多かった、昔の ロンドン・ブリッジ が撤去され、新しいものに作り変えられる1831年以前は、冬季は、ロンドン橋上流のテムズ川に氷がはることがよくあり、人が大勢歩けるほど厚い氷がはった際は、その氷の上での、フロスト・フェア(Frost Fair)なるものが開かれたのだそうです。 こうしたフロスト・フェアでは、氷上に、色々なものを売る屋台が立ち並び、ちょとした余興も繰り広げられ。この、「余興」には、くまを、犬などの他の動物と戦わせたり、猫を振り回したりするものも含まれており、現在、一応、動物愛護の国としてみられているイギリスからは考えられないような事も人気であったのです。印刷機も設置され、「氷の上で印刷しました Printed on the Ice」という文字と、客の名前入りおみやげなどの販売も行われ、画家のウィリアム・ホガースは、自分の愛犬トランプの名前をこのフロスト・フェアで印刷してもらったようです。 スカボロ・フェア や、 バーソ

はりねずみの来る庭

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我が家の庭に住むハリネズミの子供 イギリス原生の哺乳類で、民家の庭にも現れるため、一番馴染み深く、人気のある野生動物はハリネズミでしょう。イギリス原生のものは、ヨーロッパハリネズミ(学名:Erinaceus europaeus)。うさぎなども、町の中心地に出かける途中で、茂みの中から駆け出してくる姿などを目撃しますが、うさぎは、ノルマン人が、イングランドを征服した際に連れて来た動物で、この国原生ではありません。ですから、ピーターラビットも、もともとは、よそ者。 ハリネズミ、英語ではヘッジホッグ(hedgehog)。その名の通り、ヘッジ(hedge、藪、しげみ、垣根)の下をごそごそと歩き回って、鼻をふがふがさせ、においをかぎながら、餌を探すホッグ( hog、 豚)。豚と言っても、様相はまるで違い、生態的にはモグラに近い動物なのだそうです。お目めはちゃんとあるのですが、視力が非常に悪い動物で、嗅覚に頼って行動する様子や、鼻のとんがりぐあいなど、たしかにモグラに似ていなくもないですが。 日本に帰っていた間 に、母親から、ハリネズミが日本でペットとして飼われていると聞きました。母と友人たちが行きつけのコーヒー店のマスターが、逃げ出したか捨てられていたハリネズミが庭に出没し、それを拾って飼っているいるとかで、母は、沢山そのペット・ハリネズミの写真をもらって来て、家の電話の周りに貼ってあったのですが、イギリス原産のヨーロッパハリネズミより、顔と腹部の色が、もっと白い感じでした。おそらく、日本で飼われているものは、ヨーロッパハリネズミより小型のアフリカ原生のハリネズミだと思います。ヨーロッパハリネズミは、成長すると30センチほどの大きさになるものもいます。また、イギリスで、ハリネズミをペットにしているという話はほとんど聞きません。弱ったハリネズミを発見して一時的に救助する時以外は。それにしても、こうして、原生でないものを、衝動に駆られてペットにして、飼いきれずに、その辺の野ッ原に捨てたりする無責任行為は、後で問題になるのですよね。ハリネズミもいい迷惑で。このコーヒー店のマスターみたいに拾ってくれる人がいればいいけれど。ニュージーランドあたりでも、ハリネズミは原生でないのに、野生で数が増えてしまい、結果、害獣とみなされ、罠を使って捕まえ殺しているのだと言います。

サッカーがイングランドに戻ってくる

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It's coming home, It's coming home, It's coming Football's coming home! 戻って来るぞ、 戻って来るぞ、 来るんだ、 フットボール(サッカー)がイングランドに戻って来るんだ! これは、1996年に、イングランド主催で行われた、UEFA欧州選手権(UEFA Euro '96)の際に、ライトニング・シーズ(The Lightning Seeds)により歌われ、リリースされたシングル「スリー・ライオンズ(フットボール・イズ・カミング・ホーム)」(Three Lions, Football's coming home)のコーラス部分。スリー・ライオンズ(3匹のライオン)は、イングランド代表のシンボルを指し、以後も、サッカー大会があると盛んに歌われる曲です。 この96年欧州選手権では、イングランドは、準決勝まで進み、東西統合して初めてのドイツ代表にPK戦で敗れています。この時、イングランド側のPKをミスったのが、ガレス・サウスゲート、現イングランド代表の監督(上の写真)です。私はこの準決勝、ロンドンの混み混みのパブで見たのですが、試合が始まってから、パブを探して入ったので、通りはしーんとしているのに、どのパブもこのパブも満員御礼、2,3件回ってから、やっと、確か、トッテンナム・コート・ロード周辺の、とあるパブで、テレビの前に潜り込み、本当に最後の方だけ、立ち見観戦した記憶があります。それは、みんな、最後の最後のPKで、がーっくり。 比較的地味なガリス・サウスゲート率いるイングランド代表、今ロシア大会開始前は、あまり期待もされておらず、さほど騒がれてもいなかった感じです。そこまでサッカー狂でない私も、監督のサウスゲートと、ハリー・ケイン以外の選手は誰も知らなかった。なのに、気が付くと、昨日の対スウェーデン戦、2対0で、準決勝進出が決定。久々の好ニュースで、イングランド各地で大騒ぎとなり、試合後、誰もが盛んに、「ついに、フットボール・イズ・カミング・ホームかな?」と口にしていました。ただ、昨日の試合を見ていて思ったのが、それぞれのチームの、ファンの美しさ比べをしたら、スウェーデンの圧勝ですね。スウェーデンのお兄さんもそうだけど、

ブリジット・ライリーのゆらぎと佐倉散策

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ブリジット・ライリー(Bridget Riley、1931年~)という女性は、イギリスの芸術家で、線や幾何学模様の組み合わせにより、目の錯覚で、画面が動いて見えるオプ・アートなるものを創ってきたことで知られています。作品は、ロンドンのテート・モダンなどでも見えるので、こちらでは比較的名の知れた人物。1960年代に、白と黒のみを使用した抽象画の作成を開始し、60年代後半から、色を導入して、波のように揺れる色付きストライプの絵などを始めたという事。ゆらゆら動く感覚の他に、色の組み合わせで、わずかな数の色しかしようしていないのに、ちょっと離れたところから見ると、多数の色を使っているように見える作品もあります。 作成の方法は、実物大の下絵を描いたあとに、彼女の指揮の下、スタジオでアシスタントが彩色をするというのですが、実際に自分の絵筆ですべてを完成させない芸術家を、画家と呼ぶかどうかには、いささかの議論が入るところです。自分のコンセプトの下に、他者の力をかりて仕上げるというのは、どちらかというと、舞台演出家や映画監督と同じ類の感覚。 彼女の絵の前にたつと、飲み込まれそうな気分になるものや、地面までゆらゆらしてくるようなものもあり、感覚的に面白いのは面白いのですが、実際に自分が画家であったら、毎回毎回、そういうものを創造するのを面白いと思はないだろうな、という気はします。 さて、日本滞在中に訪れた、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館で、このブリジット・ライリーの「ゆらぎ」と題した展覧会が、たまたま開かれており、常設展と共に、覗いてきました。簡単な1時間の無料ガイドツアーがあったので、参加したところ、ガイドさんの話では、彼女は日本での知名度は比較的低く、当展覧会は、日本では実に38年ぶりのものだそうで、「次回はいつになるやらわかりません。」とのことですので、興味のある方は、8月26日までやっています。彼女の作品数点と、この展覧会に関しての詳細は、下のサイトで見れます。 http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/index.html 展覧会も楽しんだのですが、なによりも、この展覧会に関係させての商品開発に、日本という国のアイデアの奇抜さと、商魂というか、ある物事を、商品化へとつなげるための発想のすごさにびっくりし