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退位危機、そして、どもりの王様

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I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as king as I would wish to do without the help and support of the woman I love. 私は、愛する女性の助けと支えなくして、自分に満足いくように、王としての重大なる責任を背負い、義務を果たす事が不可能であると感じたのである。 エドワード8世(在位1936年1月より同年12月)の、王座退位(abdication)のラジオスピーチの1部です。彼は、ジョージ5世の長男、現エリザベス女王のおじさんにあたる人。 「愛のためなら死ねる」とまでは行きませんが、王である限り、好きな女性と結婚できない事から、王位を退き、弟のアルバートがジョージ6世、として後を継ぐ事になります。このabdication crisis(退位危機)の原因となった、エドワードの愛した女性は、シンプソン夫人こと、ウォリス・シンプソン(Wallis Simpson)。 ウォリス・シンプソンはアメリカ人。エドワードと知り合った際はすでに離婚暦1回で、ロンドンのストック・ブローカーの、アーネスト・シンプソンと結婚していました。写真だけ見ると、取り立てた美人と言うわけでもなく、何となく、ポパイの彼女のオリーブ・オイルみたいな顔。クラスや階級に縛られず、おおっぴらでダイレクトなアメリカ的態度が、イギリス皇太子には新鮮で、一緒にいて楽しかったのでしょうか。 エドワードが王となった後の、1936年の10月、彼女は、当時の夫との離婚の申請を出す。これは、王は彼女と結婚するつもりだ・・・と危機感は頂点に達し。 シンプソン夫人が、アメリカ人であるということより、離婚暦があるという事が、国民、及びイギリス連邦の国々への示しがつかぬ、モラルによろしくない、と政治家の間では反対派は多数。なんとか、王にシンプソン夫人を諦めさせようと、説得を続け。面白い事に、やはり母親がアメリカ人のチャーチルは、賛成姿勢を示していたそうですが、当時は、政治的に野外だった彼の意見はそれほどの影響力も無く。また、国民の雰囲気を読みそびれた意見でもあったよう。 時

The Go-Between 恋

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"The past is a foreign country: they do things differently there" (過去は異国である。そこでは、人は、現在とは違う振る舞いをする。) という、それは良く引用される文章で始まる、L.P.ハートレー作の小説「The Go-Between ザ ゴービトゥイーン」(仲介者)。以前、オックスフォード大学の歴史の教授が、オックスフォード入学のための試験の一環としてのインタヴューで、学生に「どうして歴史を勉強したいのか?」と質問すると、この引用を使って「過去は異国であるから。」と答える学生が、うんざりするほど多いという話をラジオでしていたのを覚えています。教授は続けて、「引用はするものの、実際に、本を読んで、この話が、階級差と、それを道具にしたエクスプロイテーション(利用)を書いたものだと知ってる学生は、ほとんどいない。」と嘆いていました。 私も、原作は読んだ事はないのですが、この映画版は、とても気にっています。 「ドクトル・ジバゴ」のラーラ役で有名なジュリー・クリスティーとアラン・ベイツ主演。イギリスのノーフォーク州を舞台とし、先日、記事に書いたノリッチでも撮影が行われています。邦題は、ただ単に、「恋」だそうですが、少々、的をはずしているかな。 異国である過去は、ここでは、1900年。13歳の貧しい家庭の子供レオは、寄宿学校の上流階級の友人マーカスに、夏休みを、ノーフォークにある両親の館で過ごすよう招待される。 館の前の芝生で、ハンモックに横たわる、マーカスの美しい姉、マリアンを一目見てから、レオはすっかり彼女の魅力のとりこに。マリアンは、家族の者達に隠れて、館の敷地内の小作人、テッドと逢引を重ねていた。身分違いの恋というやつです。 そのうち、マリアンのためなら何でもしたいレオは、テッドとマリアンの間の手紙のやりとりの仲介者となります。ノーフォークの田園風景の中、レオは、館からテッドの住むコテージへ、コテージから館へと、手紙を持って走る。 初めは純粋にマリアンを喜ばせたい一心だったレオは、手紙の内容の意図する事と、2人の関係に気づき、このメッセンジャーの役をしぶり始める。 そんなレオに、マリアンは、今までの、やさしいお姉さん振りをかなぐり捨てて、

ベツレヘムへ

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上は、ベルギー王立美術館蔵のピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel the Elder)の「Census at Bethlehem」(ベツレヘムの国勢調査)。建物の感じや風景は、中東のベツレヘムというより、北ヨーロッパ。 イエスは、ベツレヘムで生まれた・・・幼稚園のクリスマスで、キリストの降誕劇をやった覚えがあります。ちなみに私は、マリア様(注:英語では、マリアはメアリーです)にはなれず、お星様でした。ただ、何故、ジョーゼフとメアリーがベツレヘムへ出向いて、馬小屋で子供を生むはめになったか、幼稚園の先生は教えてくれなかったのです。 彼らは、ローマ帝国からの発令の、課税を目的とした国勢調査(センサス)のためベツレヘムへ。この絵は、そのシーンを描いたもので、やや右手中央の前方に、疲れ果てた顔をしたメアリーが、ジョーゼフの引くロバに乗っているのが見えます。左手の小屋では、センサスが執り行なわれています。 ブリューゲルの絵には、メインの出来事が、風景や全体の構図の中に、小さく、それとなく、埋め込まれて、さっと見ると、テーマを見過ごしてしまうものがありますが、これもその一つで、絵の題名も知らず、さっと見ると、キリスト教がらみの絵と言うより、小さなヨーロッパの村の冬の風景。 ルカによる福音書(The Gospel according to Luke)、2:1~7によると 1 And it came to pass in those days, that there went out a decree from Caesar Augustus, that all the world should be taxed. そしてその頃、皇帝アウグストより全人民に課税せよとの勅令が出された。 2 (And this taxing was first made when Cyrenius was governor of Syria.) そして、この最初の課税は、クレオニがシリアの総督であった時に行われた。 3 And all went to be taxed, every one into his own city. そこで、全ての人民は、課税されるべく、それぞれ、己の故郷へと出向いた。 4 And Joseph also went u

ノリッチ大聖堂

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先週のある晴れた日、久しぶりのお出かけ、と言う事で、夫婦で、イーストアングリア地方の北東部に位置するノーフォーク州ノリッチ(Norwich、日本ではノーリッジとも言うのでしょうか?)へ行ってきました。織物業で栄えた町で、その富で築かれた教会の数は多く、30以上の教会が現存するなどと言います。ロンドンからは、リバプール・ストリート駅より、乗り換え無しの速い列車に乗れば、約1時間50分。 ノリッチ(ノーリッジ)は丘陵地にあるものの、ノーフォークは一般的に湿地の多い、平たい土地。場所的にも、昔はロンドンへ出るよりも、北海を渡って、Low Countries(低地国、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ周辺のネーデルランド)へ行く方が早かった。実際、ノーフォークの田舎の、広い空の下、風車が点在する風景は、オランダを思わせるものがあります。 チューダー朝期、優れた技術を持ったネーデルランドの職工、及び、フランスで糾弾されていた ユグノー の職工達が、この地に移り住み、ノリッチは当時、ロンドンに次ぐ、第2の裕福な町であったといいます。 また、こうした16世紀のオランダからの移民が、カナリアをノリッチに連れて来、ノリッチでは黄色いカナリアの飼育も盛んに行われたという事。現在でも、有名シェフ、デリア・スミスがオーナーのノリッチ・シティー・フットボール・クラブは、The Canaries(カナリア達)の愛称で知られ、クラブのロゴにはカナリア、そして選手の着る黄色のシャツでお馴染み。 この町は、産業革命で立ち遅れ、経済的には、北部の大都市に負けてしまったものの、その結果、都市開発が行われず、昔ながらの街並み、石畳などが良く保存されているので、それは勿怪の幸い。 ノリッチの観光の目玉は、やはり大聖堂。高さ96メートルの尖塔は、ソールズベリー大聖堂のものに次いで、イギリス2番目の高さ。大きなノーフォークの空に突き刺さるという感じです。 ノルマン朝、1096年に着工、当時の建物にしては速く、50年で完成。イーストアングリア一帯は、地層が若く、公共建築物のために使えるような大きな石を切り出す場所が無いため、大聖堂建設には、海を越え、ノルマンディーのカーン(Cane)で切り出したライムストーン(石灰石)が、どんぶらこっこと運ばれてきました。 現在の尖塔は、1480年に作られ

クリスマスにヒヤシンスを

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クリスマス期に飾る室内植物は何にしましょうかね?ポインセチア?いえいえ、何と言っても、甘い香りのヒヤシンス! この頃、園芸店、マーケット、スーパーの植物コーナーで、小さな鉢にすでに3株のヒヤシンスが植えてあるもの、また、ブリキのポットに土と球根が3つ入って、後は家で埋めるだけのものが並びます。クリスマス期に室内でヒヤシンスを咲かせる、というのはイギリスでは、人気。室内用のものは、戸外用より球根サイズは大きいそうです。 クリスマス期などに、通常より時期早く、春咲きの球根を咲くように仕向ける事を、球根をforceする(強制する)などと表現します。 「force hyacinth for Christmas」(クリスマスにヒヤシンスを咲かせる)ためには、球根を、9月、10月頃から鉢に植え、冷たい暗いところに、8~10週間ほど置き、その後、明るく暖かい場所へ移して20日くらい開花を待つという根気のいる作業が必要。(実際の期間は、品種によって多少違いあり。)球根類は、冬の暗く寒い時期に、土の中で一度冷たくなってから、土が温かくなる春に咲く。要は、その自然の摂理を人工的にまね、球根に「もう春だよ」と嘘をつき信じ込ませ、「それじゃ、咲かなきゃ」と思わせる作業。 最近では、こうして、すでに冷たくする作業を済ませ、後は室内で咲くのを待つばかりのヒヤシンスの鉢植えが簡単に安価で手に入るので、私はこのforcingは、一度、経験のつもりで試したのみ。だんなのお父さんは、毎年の様に、車庫の中に置いてあった引き出し内にヒヤシンスの鉢を突っ込んだり、あの手この手で、「force hyacinth for Christmas」大作戦を繰り返していたようです。その過程自体が楽しいとか、きっちり12月24日に開花させる事に挑戦するのが面白い・・・という人もいるのかもしれません。 王立園芸協会(RHS)サイト内の、クリスマスに球根類を咲かせる方法は こちら (英語)まで。 天気は、明日も場所により、雪の予報。まだまだ春などは程遠い感じがする中、部屋の中に春の香りと春の色を運んでくれる、室内用のヒヤシンスは、とてもありがたいのです。 一度、室内で咲かせたヒヤシンスは、2年目は室内むきにはならないそうです。花が終わったら、花を切り落とし、葉が自然に枯れるまで、水をやり続け、肥

あるもので作るクリスマス・リース

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例年通り、クリスマスリース(アドベント・リース)を庭の植物を物色して作りました。 一般的に使う植物は、永遠の命の象徴の常緑樹。また、再生を表現する松ぼっくりや、木の実、実をアクセントに使い。円形というのも、終わり無き命と、神の愛、魂の不滅を示すと。 教会でのアドベント・リースには、4本のろうそくを立てたりするようです。1本のろうそくは、クリスマスにむけ、約4週間続くアドベント(待降節)の期間の各1週を表現し、アドベント中の1週間は、1000年、合計で、アダムとイブからキリスト生誕までの4000年を象徴。ろうそくの明かりは、世界を照らすキリストの愛。うーむ。と、うんちくを傾けたところで、実技に入ると・・・ 我家のリースのために、庭で切ってきた常緑の葉は 月桂樹(Bay Laurel) ミヤマシキミ(Skimmia) ローズマリー (Rosemary) セント・ジョーンズ・ワート(St John's Wort) ツタ2種(アイビー、Ivy) それから、多少の色付けに ミヤマシキミの赤い実 ボケ(Chaenomeles, Japanese Quince)の黄色い実 を添えました。 キリストの受難の象徴のホーリー(セイヨウヒイラギ)も前庭にあるので、使おうと思ったのですが、指を刺して痛い目に合う事が多く、今回はやめました。 作り方は、私の場合は行き当たりばったりで、森の木こり風。 比較的長く切ったセント・ジョーンズ・ワートを束ね、タコ糸でくくりながら、輪を作り、その輪に、ツタをからめて形を整える。この基本の輪の弱そうな部分は、タコ糸で更に縛り、強化。「これで、崩れそうも無いぞ」、と思ったところで、残りの常緑葉を縛ってあるタコ糸に挿していく。最後に同じように、赤い実、黄色い実をバランスを見ながら差し込んで、ちゃんと固定されているか点検して、完成。植物を集めた後の、実際の作成時間は、30分ほどでした。 ツタをのぞけば、全て、葉がハーブ風の良い香りを放つため、指や腕に香りがまとわり、作っていて気分は最高です。ちなみに、セント・ジョーンズ・ワートは、鬱病に聞く薬学的効果があるなどという話ですが、葉の香りにも気がすーっとするものがあります。 出来上がったものは、完璧な円形と言うより、少々いびつとなりましたが、切れ目無く

クリスマスカード今昔

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上は、世界初の商業的に印刷されたクリスマスカードとされるものです。 1843年、イギリスのヘンリー・コール(Henry Cole)なる人物が、クリスマス時期の挨拶に、何枚もの手紙を書く手間を省くため、すでにメリークリスマスとハッピーニューイヤーと書かれたイラスト入りで、相手の名を書き、サインするだけで済むカードを考案。 クリスマスのお祝いをしているヴィクトリア朝の楽しそうな家族を中心に、左右に貧しいものの為への慈善を促したイラスト。手で彩色されているというので、かなり手間がかかっています。このイラスト内に、子供にワインを飲ませている描写があり、子供のモラルの退廃を促すと、批判されたというエピソードもあり。 1枚1シリングという値段が高価であったため、当時はあまり売れずに、この試みは、商売としては成功と言えなかった模様。クリスマスカードが人気となってくるのは、1860年代に比較的安価で作成できるカラー印刷が可能になってから。 1000枚印刷されたもののうち、既存すると知られているのは18枚だそうですが、そのうちの3枚が、封筒つきで、先週金曜日に、ニューヨークのサザビーズでオークションにかけられ、 それぞれ、10500ドル、7000ドル、4250ドルという値段で落とされたという話がニュースになっていました。1シリングで高いと思った当時の人達が、このオークションの落札値段を見たら、腰をぬかすことでしょう。  さて、このヘンリー・コールは、郵便局の改革にも貢献した人物で、1840年に導入された、 ペニー・ポスト と呼ばれる、標準の手紙なら1ペニーで英国内中どこへでも送れるシステムの施行にも尽力。この際に、世界初の切手と呼ばれる、黒のバックグラウンドにヴィクトリア女王の横顔の入ったペニー・ブラックが登場。コール氏は、当切手のデザインにも関わったという話ですが。 氏はその他にも、商業デザインに興味を示し、ティーポットを初め、数々の物のデザインに手をかけ、子供の本まで書き。ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)を現在の場所に設立する事にもたずさわり。更には、1851年に行われたロンドン万国博覧会の考案、運営に関わり、博覧会成功の裏の立役者でもあったようです。 こんなに色々手を出して、大忙しの人物であれば、サインだけで簡単に済むクリスマスカ

セント・ニコラスからサンタへの変身

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セント・ニコラス(Saint Nicholas)。3世紀末に、当時はギリシャの領土、現在はトルコに位置するパタラに生まれた聖人で、後、ミラ(現トルコ内)の司教となったこのお方、サンタクロースの前身です。彼が亡くなったのは、4世紀半頃の12月6日。よって、12月6日は、セント・ニコラス(聖ニコラス)の日。 裕福な家庭に生まれながら、両親からの遺産を、貧しい者、病気の者に分け与えたと言われ、社会の弱者、貧しい者の味方、航海の守護聖人でもあり、そして何より、子供達の守護神であり。 彼にまつわる伝説は多々あるようですが、有名なところで、貧しい家庭の3人娘の話があります。 3人の娘を抱えた人物、貧しくて、娘を結婚させようにも、持参金を持たせてやれず、そうなると、娘達は奴隷として売られるしかない。其々の娘達が、売られていく直前の日に、家の窓から、持参金の代わりになるよう、袋いっぱいの金貨が投げ込まれた。これが、セント・ニコラスの贈り物とされ、この投げ込まれた袋が、暖炉の前に乾かしてあった、靴・ストッキングの上に落ちたことから、子供達が、靴やストッキングに贈り物を詰めてもらう習慣がきたといいます。 ミラにあったセント・ニコラスの墓は、長く巡礼の対象となりますが、彼の骨は、11世紀に、イタリア南部のバリの船乗り達に盗まれ、やがて、バリに、その骨を祭った Basilica di San Nicola が建設されます。彼の骨は、ヴェニスも狙っていたようですが、バリに先を越されてしまったようです。 セント・ニコラスは、そうしてヨーロッパ内でも、人気の聖人として知られていき、イギリスでも、主に13世紀に、400以上の教会がセント・ニコラスに捧げられることとなります。ちなみに、うちの近くの可愛らしい教会も、比較的、初期に、セント・ニコラス・チャーチと命名されたもののひとつです。イギリスに導入されたセント・ニコラスは、St. NicholasとCの後にHを挿入して綴られることが主ですが、うちの近くの教会は、20世紀に入ってからHを再び落とし、St.Nicolasというスペルになっています。 セント・ニコラスの日の12月6日、またはその前夜の5日に、子供達がプレゼントをもらえるというのも、ヨーロッパのいくつかの国でまだ行われているようです。イギリスでは、一時、ドイツか

暴動の予感

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カイザー・チーフス(Kaiser Chiefs)なるロックバンドによる「I predict a riot」(暴動の予感、とでも訳しましょうか、日本ではただ、「ライオット」として知られているようですが)という歌がありました。 ヨークシャー州リーズ出身の当バンド、リーズのシティーセンターで、飲んだくれによる暴動が起こりそうな気配を歌ったものらしく、確かに歌詞を読むと、わかるわかると思うのです。最近は、イギリス中どこへ行っても、週末の夜のタウンセンターは避けた方が良いくらい、酔っ払いの若者による乱痴気騒ぎ、多いですから。イギリスは紳士淑女の国?ご冗談でしょ! Watching people get liary It's not very pretty I tell thee Walking through town is quite scary It's not very sensible either 酔って攻撃的になってきたやつらを眺め あんまり、いいもんじゃないよな、ほんと 町を歩くのもちょいと空恐ろしい 賢明な事でもないし Uチューブで聞くカイザー・チーフスの 「ライオット」 。 大学費値上げの採決が国会で行われた昨日、学生のデモが暴力沙汰へとエスカレートして、暴動がひき起こりそうな予感は昼からすでにあったのです。サッチャー時代の 人頭税デモ の際も、暴動はウェストエンドの繁華街にも飛び火していた。それなのに、後のイギリス王とその夫人をロールスロイスに乗っけて、町の目抜き通りを通ろうなどと、それこそ「It's not very sensible 」。普通のロンドナーでさえ、こんな日に、高価な車で町を通るのなど避けるだろうに、王室のセキュリティーは何を考えていたのやら。というか、何も考えなかった、のでしょうね、これは。 チャールズ皇太子とカミラ夫人の乗った車が襲われた BBC記事 はこちら。このサイトのビデオの中で、車を攻撃する輩の一人が「Off with their heads!」(奴らの頭をちょん切ってやれ!)と叫んでるのが聞こえます。 夜のテレビニュースを見ながら、ライブで入ってくる国会周辺の映像で、財務省の建物の窓ガラスを割ったりする輩のうちの何人かの容貌は、学生と言うよりも、それこそリーズのタウンセンターあたりで大暴れする類の、ちん

キャンディード・ピール

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土曜日の夜に、だんなは、再び退院してきました。これで、もう入院は必要ないと願いたいところです。血球の数がまだ正常値に戻っていない為、退院後も、血と血小板をもらいに、吸血鬼のごとく、朝霧の中、病院通いです。しばらく、ばい菌が体内に入らぬよう食べ物は、要注意。フルーツも皮を剥いて食べるもののみ、という事なので、オレンジを大量買い。 せっかくこんなにあるオレンジの皮を使って、何か美味しいものでも作ろうと、キャンディード・ピールCandied Peel(日本では、オレンジピール・キャンディードと言うのでしょうか)に挑戦しました。とても簡単。 英語のレシピは こちら まで。 上のレシピを簡単に訳すと・・・ 材料 グレープフルーツまたはオレンジ(混ぜても良い):4個 グラニュー糖:500g カスター糖:テーブルスプーン2 1.果物の皮を剥き、皮を約5ミリの太さで短冊形にスライスする。鍋に水とスライスした皮を入れ、沸騰させ、15分ゆでる。 2.鍋のお湯を切り、皮をざるにあける。再び、鍋に皮を戻し、水を加え、沸騰させ、更に20分、やわらかくなるまでゆでる。その間、グラニュー糖をソースパンに入れ、250ミリリットルの水を加え、砂糖を溶かしながら沸騰するまで煮る。その後、火からおろす。 3.再び、皮をざるにあけ、湯を切る。今度は、砂糖シロップの入ったソースパンに皮を入れ、蓋をせず、1から1時間半、シロップの液体がほぼ無くなるまで煮る。 4.シリコンペーパーを敷いたトレーに、トングでひとつひとつピールをつまみ出し、置く。私はトングでなく、箸を使いました。日本人ですから。 5.キャンディード・ピールを載せたトレーを涼しい風通しの良い場所に置き、2日間乾燥させる。ポリ袋に、カスター砂糖とピールを入れ、ピールが良く砂糖にコーティングされるまで振る。シリコンペーパーの上に載せ、砂糖を定着させる。 密封容器に入れておけば数日保存可能。 シリコンペーパーが無かったので、普通のベーキング・ペーパーを使いましたが、かなりぺったりとくっつきます。シリコンペーパーだと、乾かした後、もっと剥がしやすいのかもしれません。 さらに、このキャンディード・オレンジピールを、チョコレートでコーティングするという手もあります。作ったもののうち半分ほど、湯煎で溶か

チェンジリング

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クリント・イーストウッド監督、アンジェリーナ・ジョリー主演の実話に基づいたこの映画、とても良かったのですが、主人公に感情移入してしまうと、見ていてしんどい時もあり。 舞台は1928年のロサンジェルス。アンジェリーナ扮するシングルママのクリスティンが、ある日仕事から家に戻ると、一人息子が消えていなくなっていた。 心配して警察に通報したものの、しばらくはらちがあかず。やがて、ロス警察から、「あんたの子供見つかった」と連絡。喜びもつかの間、対面してみると、「え、これは私の子じゃない!」なのに警察は、「あんたの子に違いない、しばらくもとの生活に戻ってショックも収まれば、自分の子供だとわかる」、と想像を絶するような事を言う。ほとんど強制的に、クリスティンは、他人の子供を自分の子として家に連れて帰る事に。 当時のロスの警察は、かなり腐敗していたようで、自由の国アメリカでも、20世紀に入ってから、市民にこんなひどい事してたんです。ロス警察の退廃と汚職を暴露しようと、精力的に活動していたプレスヴィテリアン教会(長老派教会、カルビン派キリスト教)のリーダーに助けられながら、本物のわが子を探そうと、警察を敵に回した段階で、クリスティンは、有無をいわさず精神病院へ送り込まれてしまう。精神病院は、ロス警察にとって、当時の厄介者を追い払うのに便利な場所として使われていたようです。 そうこうするうちに、彼女の本当の息子の身の上に何が起こっていたかが、判明してくると、そりゃ、ひどい、の一言。 現在、庶民を守るためにあると思われる法や体制も、過去の不正なシステムを、徐々に、力強い庶民の何人かが、こうしてバトルした末、改善されていったのでしょう。 当時のロスの町並みの再現も面白く、この頃は都電も走っていたのです。この都電は、市民の足として、なかなかの人気だったというのですが、廃止してしまったとは、惜しい事をしたもんです。 アンジェリーナも、そろそろ、容姿が衰えたときのために、こういうシリアスな役で演技派へ徐々に転身を図っているのでしょうか、上手く演じていました。 筋の他には、この当時のファッションが何と言っても素敵でした。 いわゆる、フラッパー・スタイルがとても良く似合う彼女。ボブ風に髪を短くし、アイシャドーは濃く、スモーキーな感じで、口紅真っ赤。ゆるりとし

チップス先生、さようなら

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ジェイムス・ヒルトンの小説、「Goodbye, Mr. Chips」(チップス先生、さいようなら)を、当時34歳のロバート・ドーナット主演で、映画化されたものを最近見ました。 このDVDのカバーから見てももわかるように、1939年と、かなり古い映画です。ロバート・ドーナットは、この映画で、「風と共に去りぬ」のクラーク・ゲーブルをやぶって、アカデミー主演男優賞受賞。1969年に、ピーター・オトゥール主演でミュージカル映画にもなっているようですが、こちらの方は、原作から、少し離れ、時代設定なども変えてあるようです。 イングランド伝統の パブリック・スクール という設定のブルックフィールド・スクールで1870年から58年間ラテン語教師として教鞭を取ったチッピング氏(愛称チップス)。映画の初めで、83歳の彼は、やかんのかかる暖炉の前でうたた寝をしながら、過去の学校での出来事を回顧。 1870年に、若く希望に満ちてブルックフィールドにやって来たチップス。恥ずかしがり屋で、生徒とのコミュニュケーションが上手く取れず、気がつくと、時が経ち、くたびれた中年教師となり、昇進もままならず。 そんなチップスを、同僚のドイツ語教師だったオーストリア人マックスが、休暇中に、自分の祖国オーストリアを一緒に旅行しようと、強引に連れ出す。旅先で、チップスは、女友達と自転車旅行をしていたイギリス女性、キャシーと出会い、2人は瞬く間に恋におち結婚。明るく社交的なキャシーに助けられ、チップスは、生徒との交流と教える事を心から楽しむ教師へと変身。日曜の午後には、生徒を呼んでのティーパーティーも恒例となる。 ところが、幸せな日々もつかの間、キャシーは、エープリールフールの日、お産で、赤ん坊共々死亡。チップスは大ショックを受けながらも、キャシーに教えられた事を忘れずに、ブルックフィールドで、再婚もせずに教え続ける。 年月の経過が、生徒間や、教師間の会話のトピックでわかります。 「フランスとプロシア、どっちが勝つと思う?」 とか 「HGウェルズという人物の本だよ。」 「聞いたこと無い名前だな。」 「新人だよ。あまりにも空想的過ぎて、たいした作家にはならんね。」 とか 「うちに、電話を入れたよ。」 とか 「ヴィクトリア女王の葬式に行って来た。」 「(女王でなくて