ノリッチ大聖堂
先週のある晴れた日、久しぶりのお出かけ、と言う事で、夫婦で、イーストアングリア地方の北東部に位置するノーフォーク州ノリッチ(Norwich、日本ではノーリッジとも言うのでしょうか?)へ行ってきました。織物業で栄えた町で、その富で築かれた教会の数は多く、30以上の教会が現存するなどと言います。ロンドンからは、リバプール・ストリート駅より、乗り換え無しの速い列車に乗れば、約1時間50分。
ノリッチ(ノーリッジ)は丘陵地にあるものの、ノーフォークは一般的に湿地の多い、平たい土地。場所的にも、昔はロンドンへ出るよりも、北海を渡って、Low Countries(低地国、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ周辺のネーデルランド)へ行く方が早かった。実際、ノーフォークの田舎の、広い空の下、風車が点在する風景は、オランダを思わせるものがあります。
チューダー朝期、優れた技術を持ったネーデルランドの職工、及び、フランスで糾弾されていたユグノーの職工達が、この地に移り住み、ノリッチは当時、ロンドンに次ぐ、第2の裕福な町であったといいます。
また、こうした16世紀のオランダからの移民が、カナリアをノリッチに連れて来、ノリッチでは黄色いカナリアの飼育も盛んに行われたという事。現在でも、有名シェフ、デリア・スミスがオーナーのノリッチ・シティー・フットボール・クラブは、The Canaries(カナリア達)の愛称で知られ、クラブのロゴにはカナリア、そして選手の着る黄色のシャツでお馴染み。
この町は、産業革命で立ち遅れ、経済的には、北部の大都市に負けてしまったものの、その結果、都市開発が行われず、昔ながらの街並み、石畳などが良く保存されているので、それは勿怪の幸い。ノリッチの観光の目玉は、やはり大聖堂。高さ96メートルの尖塔は、ソールズベリー大聖堂のものに次いで、イギリス2番目の高さ。大きなノーフォークの空に突き刺さるという感じです。
ノルマン朝、1096年に着工、当時の建物にしては速く、50年で完成。イーストアングリア一帯は、地層が若く、公共建築物のために使えるような大きな石を切り出す場所が無いため、大聖堂建設には、海を越え、ノルマンディーのカーン(Cane)で切り出したライムストーン(石灰石)が、どんぶらこっこと運ばれてきました。
現在の尖塔は、1480年に作られたもの。以前のものが、3回、それぞれ、風、火災、雷で破壊された結果です。
ベネディクト派の修道院として設立された聖堂で、上の写真2枚は、1297年着工のクロイスター(Cloister 回廊)。こうした2階建てのものは珍しいのだそうで、これはイングランドに現存する唯一の2階建て回廊。
こちらは、聖堂内の天井。1463年に、オリジナルの木製の天井が焼失したため、今度は石で。
こんな、中世の壁画もありました。
私達が聖堂内部をうろちょろしている間、子供達が大勢ぞろぞろと入ってきて、先生に「はい、管楽器の人たちは、こっちに座って!」などと振り分けられていました。クリスマスの演奏会の打ち合わせでしょうか。
お行儀の良さそうなこの子達は、聖堂の敷地内にある、ノリッチ・スクール(現在はインデペンダント・スクール・・・いわゆる私立学校)の生徒達でしょう。このノリッチ・スクールは、非常に歴史が古く、設立は、大聖堂と同じく11世紀に遡るとか。歴代、この学校で学んだ最も有名な人物の像が、大聖堂の敷地内にたっています。
それは、この方、ホレーショ・ネルソン(ネルソン提督)。彼はノーフォーク州の村、バーナム・ソープ出身。
大聖堂敷地へ入る門は2つ。ひとつは上の、セント・エセルバート・ゲート(St Ethelbert's Gate)。1320年頃のもの。
ちょっと大アップで見てみましょう。おとぎの国の門の様。
この辺りに、建築に切り出せるような大きな石が無いと書きましたが、この門に使われているのは、カーン・ライムストーンの他に、この辺りでも掘り出せるこぶし大ほどのフリント(flint)という石ころ。ライムストーンと対照的な黒目の色と、ごつごつしたパターンにモザイク効果があって面白いです。フリントをこうして、外壁に利用した民家や建物、塀は、イーストアングリア地域でよく見られます。
もうひとつの門はこちら、アーピンガム・ゲート(Erpingham Gate)。築1420年~1435年。
アーピンガム・ゲートのすぐそばにあるのが、上の写真の、第1次世界大戦のヒロイン、エディス・カヴェル(Edith Cavell)の記念碑。これは、第1次、第2次大戦の歴史が好きなだんなが、目ざとく見つけ。
ノリッチの牧師の娘で看護婦であった彼女。対戦中、ドイツ軍に侵入されたベルギーに赴き、国籍を問わず、負傷兵達の看病に当たる。そのかたわら、合計200人近くのイギリス兵、連合国兵を、闇のネットワークを使って、中立国であったオランダへ逃がすという活動を行い。やがて彼女は、ドイツ軍に協力するベルギー人により、密告され、1915年の夏に逮捕。同年10月に銃殺刑。処刑を行う兵士8人のうち1人は、どうしても彼女を撃つ事ができず、ライフルを地面に落としたと言います。そのため、彼自身も、気の毒に、銃殺されたということ。
のち、エディス・カヴェル銃殺のニュースは、イギリス及び連合国で、モラルを上げるプロパガンダとして使用され、この処刑のあと、志願兵の数が急上昇したそうです。
戦後、彼女の遺体は故郷ノリッチに戻され、墓は、聖堂の傍らにありました。処刑前夜、彼女がもらした言葉が、墓石に刻まれています。「こうしてたたずみながら、神と永遠を思うと、愛国心だけでは十分でないと気づくのです。何者に対しても、憎しみも、恨みも、抱かないようにしなければ。」
*****
冬の観光は、すぐに日が暮れてしまうのが難。4時くらいで薄暗く、とても寒くなってきました。それでも、教会内にクリスマスツリーなどが立っているのをみると、冬なりの味もあります。
そして昨日は一年で一番短い日でした。後は、段々、日が長くなるのを楽しみに・・・。
ノリッチ大聖堂のサイトはこちらまで。
ノリッチ(ノーリッジ)は丘陵地にあるものの、ノーフォークは一般的に湿地の多い、平たい土地。場所的にも、昔はロンドンへ出るよりも、北海を渡って、Low Countries(低地国、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ周辺のネーデルランド)へ行く方が早かった。実際、ノーフォークの田舎の、広い空の下、風車が点在する風景は、オランダを思わせるものがあります。
チューダー朝期、優れた技術を持ったネーデルランドの職工、及び、フランスで糾弾されていたユグノーの職工達が、この地に移り住み、ノリッチは当時、ロンドンに次ぐ、第2の裕福な町であったといいます。
また、こうした16世紀のオランダからの移民が、カナリアをノリッチに連れて来、ノリッチでは黄色いカナリアの飼育も盛んに行われたという事。現在でも、有名シェフ、デリア・スミスがオーナーのノリッチ・シティー・フットボール・クラブは、The Canaries(カナリア達)の愛称で知られ、クラブのロゴにはカナリア、そして選手の着る黄色のシャツでお馴染み。
この町は、産業革命で立ち遅れ、経済的には、北部の大都市に負けてしまったものの、その結果、都市開発が行われず、昔ながらの街並み、石畳などが良く保存されているので、それは勿怪の幸い。ノリッチの観光の目玉は、やはり大聖堂。高さ96メートルの尖塔は、ソールズベリー大聖堂のものに次いで、イギリス2番目の高さ。大きなノーフォークの空に突き刺さるという感じです。
ノルマン朝、1096年に着工、当時の建物にしては速く、50年で完成。イーストアングリア一帯は、地層が若く、公共建築物のために使えるような大きな石を切り出す場所が無いため、大聖堂建設には、海を越え、ノルマンディーのカーン(Cane)で切り出したライムストーン(石灰石)が、どんぶらこっこと運ばれてきました。
現在の尖塔は、1480年に作られたもの。以前のものが、3回、それぞれ、風、火災、雷で破壊された結果です。
ベネディクト派の修道院として設立された聖堂で、上の写真2枚は、1297年着工のクロイスター(Cloister 回廊)。こうした2階建てのものは珍しいのだそうで、これはイングランドに現存する唯一の2階建て回廊。
こちらは、聖堂内の天井。1463年に、オリジナルの木製の天井が焼失したため、今度は石で。
こんな、中世の壁画もありました。
私達が聖堂内部をうろちょろしている間、子供達が大勢ぞろぞろと入ってきて、先生に「はい、管楽器の人たちは、こっちに座って!」などと振り分けられていました。クリスマスの演奏会の打ち合わせでしょうか。
お行儀の良さそうなこの子達は、聖堂の敷地内にある、ノリッチ・スクール(現在はインデペンダント・スクール・・・いわゆる私立学校)の生徒達でしょう。このノリッチ・スクールは、非常に歴史が古く、設立は、大聖堂と同じく11世紀に遡るとか。歴代、この学校で学んだ最も有名な人物の像が、大聖堂の敷地内にたっています。
それは、この方、ホレーショ・ネルソン(ネルソン提督)。彼はノーフォーク州の村、バーナム・ソープ出身。
大聖堂敷地へ入る門は2つ。ひとつは上の、セント・エセルバート・ゲート(St Ethelbert's Gate)。1320年頃のもの。
ちょっと大アップで見てみましょう。おとぎの国の門の様。
この辺りに、建築に切り出せるような大きな石が無いと書きましたが、この門に使われているのは、カーン・ライムストーンの他に、この辺りでも掘り出せるこぶし大ほどのフリント(flint)という石ころ。ライムストーンと対照的な黒目の色と、ごつごつしたパターンにモザイク効果があって面白いです。フリントをこうして、外壁に利用した民家や建物、塀は、イーストアングリア地域でよく見られます。
もうひとつの門はこちら、アーピンガム・ゲート(Erpingham Gate)。築1420年~1435年。
アーピンガム・ゲートのすぐそばにあるのが、上の写真の、第1次世界大戦のヒロイン、エディス・カヴェル(Edith Cavell)の記念碑。これは、第1次、第2次大戦の歴史が好きなだんなが、目ざとく見つけ。
ノリッチの牧師の娘で看護婦であった彼女。対戦中、ドイツ軍に侵入されたベルギーに赴き、国籍を問わず、負傷兵達の看病に当たる。そのかたわら、合計200人近くのイギリス兵、連合国兵を、闇のネットワークを使って、中立国であったオランダへ逃がすという活動を行い。やがて彼女は、ドイツ軍に協力するベルギー人により、密告され、1915年の夏に逮捕。同年10月に銃殺刑。処刑を行う兵士8人のうち1人は、どうしても彼女を撃つ事ができず、ライフルを地面に落としたと言います。そのため、彼自身も、気の毒に、銃殺されたということ。
のち、エディス・カヴェル銃殺のニュースは、イギリス及び連合国で、モラルを上げるプロパガンダとして使用され、この処刑のあと、志願兵の数が急上昇したそうです。
戦後、彼女の遺体は故郷ノリッチに戻され、墓は、聖堂の傍らにありました。処刑前夜、彼女がもらした言葉が、墓石に刻まれています。「こうしてたたずみながら、神と永遠を思うと、愛国心だけでは十分でないと気づくのです。何者に対しても、憎しみも、恨みも、抱かないようにしなければ。」
*****
冬の観光は、すぐに日が暮れてしまうのが難。4時くらいで薄暗く、とても寒くなってきました。それでも、教会内にクリスマスツリーなどが立っているのをみると、冬なりの味もあります。
そして昨日は一年で一番短い日でした。後は、段々、日が長くなるのを楽しみに・・・。
ノリッチ大聖堂のサイトはこちらまで。
ノリッチ大聖堂サイトのスケッチアニメ(?)、聖堂の周辺の環境が良く描かれていて素敵でした。こんな古い建物を見るといつも、そんな昔に壮大な建物を作るのにどれだけの富と人手を費やしたのだろうと思います。高い天井、昔は木造だったなんて!!!少し早くこちらはクリスマス・イブ、素敵なクリスマスを。
返信削除昔の建築物、見るたびに、たいしたマシーンもないのに、良く作ったものだと感心します。あまり、昔の建築に関する知識が無いので、どの聖堂も、似たように見えてしまう、というのはありますが!
返信削除今は晴れてますが、明日は曇りの予定で、この辺りはホワイトクリスマスならぬ、グレークリスマスとなりそうです。
メリークリスマス
返信削除とても寒いクリスマスです。ノリッチの聖堂は立派ですね。いつか訪れたいです。そして、オランダやフランスとのつながりは思いのほか強いのですね。ネルソン提督はトラファルガーの海戦の英雄というだけでなく、英国海軍の象徴のような軍人ですよね。いろいろ教えてください。そして、この冬公開のイギリス映画、キングススピーチが面白そですね。
クリスマスに娘は帰ってこないので、ちょっとさみしいです。お正月には家族みんなで過ごせます。イギリスのクリスマスは普通、どのように過ごすんですか?
昔は、陸路より海路の方が便が良く、場所によると、特に、重い物を移動させる場合、大陸へ行く方が楽だった、というところもあったのでしょう。
返信削除クリスマスは、家族、親の家で過ごすため、国内大移動をする人も多いですが、うちは、だんなの両親が亡くなっているので、移動せず、静かなクリスマスです。朝から、クラッシクFMで、キャロルを聞いています。
キングススピーチは、どもりという変わった焦点で面白そうです。のろのろ、その直前のイギリスの王室の状況を書いています。今月中に載せられればと思っています。