ユグノーさん、いらっしゃい

この絵は、ヴィクトリア朝の英国画家、ジョン・エヴァレット・ミレーによる「ユグノー」。ユグノー(Huguenot)とは、16~18世紀フランスのプロテスタント信者の総称です。

カトリックとプロテスタントの宗教戦争で揺れるフランス。打開策として、1572年、8月、プロテスタントのナバラ王アンリ(後のブルボン王朝の創始者、良王アンリ4世)と、王女マルゴ(カトリックのバロア朝フランス王シャルル9世の妹)の政略結婚が執り行われる。その結婚式の数日後に起こるのが、結婚式のためパリに大勢集まったユグノーの大虐殺、聖バーソロミューの虐殺。パリだけで2500人が殺害され、暴動はその他の都市にも飛び火し、総計で約10000人のユグノーが殺されたと言います。

絵の中で、反プロテスタントの不穏な空気を恐れたカトリックの女性が、ユグノーの恋人を助けたい一心で、彼の腕に、カトリックのシンボルである白い布を巻こうとするのを、彼が、彼女を諭しながら、「妥協はできないと」取り外そうとしています。この絵のインスピレーションとなった同名のオペラによると、この後、忠実な彼女は、彼と運命を共にすべくプロテスタントに改宗し、彼と結婚。2人はともに虐殺の犠牲者となる。2人の背後に描かれたツタは、忠実と逆境における親愛の象徴。

おセンチな絵ではありますが、似た様な運命を辿った恋人たちも実際いたのでしょう。

絵:The Huguenot by John Everett Millais
この虐殺の後、大勢のユグノー達は、海を渡りイギリスへと逃げます。

1598年、アンリ4世がナント勅令で信仰の自由を認めたものの、ユグノーへの弾圧は常にふつふつ。1685年、ルイ14世が、ナント勅令を廃止し、各地でユグノーの血が再び大量に流れ始めると、ユグノーは、前回にも増し、大挙してイギリス、また周辺の国々へ脱出。

心ある近所の人々にかくまわれた後、夜、港へと走り、船中のわらに隠れ、ワインの樽にうずくまり、石炭の山の下で息を殺し、海峡の荒波に揺られ、文無しで辿りつくイギリス。

フランスのカトリックのユグノーに対する残虐さは、パンフレットや印刷物で、知れ渡り、同情を買っていた上、「宿敵フランスの敵は我等が味方」とユグノー達は一般に、暖かく迎えられ、教会で食べ物の給付を受け、場合によっては、到着直後は市民の家に世話になり。彼らは、イギリスが始めて大掛かりに受け入れた難民。

自分の生活が上手く行っていない市民の中には、「蛙を食う奴らが、いい職を盗み、家賃を引き上げる原因になる」と憎しみをあらわにする声もあったようですが。

勤勉で、事業感覚にも秀でたユグノーは、イギリスが農業国から産業王国へと移転する影の貢献者となります。

彼らがもたらしたものは、洗練された織物業、製紙業等の技術。1640年までには、織物は、イギリス輸出品の88%を占めており、新しい移民者達の技術は大変有難いもの。その他、扇、帽子、針、靴、時計・・・当時のイギリスで売られた物には、ユグノー業者の手によるもの多数。イングランド銀行の紙幣も丈夫で良質な、ユグノーの製紙業者によるものだったと言います。

一方、ユグノーの国外脱出に伴い、産業が廃れ始めたフランス。例えば、ノーマンディーの都市で栄えていた帽子産業は、丸ごとイギリスへ居を移してしまう。慌てたルイ14世は、ロンドンのユグノー業者がどうしているかと視察を送り、その報告によると、「恐れながら、我らのかつての最も優れた製造業が、今や、イギリスに着々と設立しつつあります。」こうしてフランスは、国内の優秀な人材を、イギリスやオランダに追いやってしまうという、まぬけな結果となりました。

ウィンストン・チャーチルも、祖先にユグノーがいたという様に、何世代にも渡り、少しずつ、英国内に吸収されていったユグノーの血は、かなりの割合の現在のイギリス人の血管を流れているという事です。

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