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6月, 2020の投稿を表示しています

私のお気に入り

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Raindrops on roses and whiskers on kittens Bright copper kettles and warm woollen mittens Brown paper packages tied up with strings These are a few of my favorite things Cream-colored ponies and crisp apple strudels Doorbells and sleigh bells and shnitzel with noodles Wild geese that fly with the moon on their wings These are a few of my favorite things Girls in white dresses with blue satin sashes Snowflakes that stay on my nose and eyelashes Silver white winters that melt into springs These are a few of my favorite things When the dog bites When the bee stings When I'm feeling sad I simply remember my favorite things And then I don't feel so bad と、これを私なりに訳してみます。 バラの上の雨のしずくと子猫のひげ ぴかぴかの銅のやかんと暖かい毛糸の指無し手袋 ひもで縛られた茶紙の小包 それが私のお気に入り クリーム色の子馬にさっくとしたアップル・シュトゥルーデル ドアのベル、そりのベル、ヌードルを添えたカツレツ(シュニッツェル) 月を翼に飛ぶ雁の群れ それが私のお気に入り サテンの青いリボンがついた白いドレスを着る少女 鼻先とまつげにとまる雪の結晶 春の泉へと溶けていく白銀の冬 それが私のお気に入り 犬にかまれた時 蜂に刺された時 悲しい気分になった時 お気に入りのもの達を思い起こすの それだけで気分が晴れていくから

赤いギンガムチェック

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上の絵は、フランスの画家、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard、1867-1947)による「Coffee」で、ロンドンのテート美術館蔵。ボナールの絵の中で、一番好きなもののひとつです。ボナールは、何気ない日常生活の一瞬を描写した、幸せな気分になれる絵を沢山描いているので、もともと好きな画家です。去年、テート・モダン美術館でボナール展があったので見に行きましたが、見終わった後も、満ち足りた気分で美術館内のカフェでコーヒーをすすりました。 絵に登場する女性モデルのほとんどは、彼の長年のパートナー、後に妻となるマルト(Marthe)。彼女は、病弱で、少々精神も病んでいたようで、療養も兼ね、お風呂に入ることがとても多かったそうで、彼女が湯船に横たわる姿や、バスルームにいる絵は比較的多いですが、私は、そうしたお風呂ものより、やはり、食卓や、開く窓、庭を描いた絵の方がいいですね。 この絵は、1915年と、第一次世界大戦の最中に描かれているのですが、戦争勃発時、47歳であったボナールは戦争には行かず(行こうと思えば行ける年ではあったようですが)、戦時中も、絵を描き続けたラッキーな人。西部戦線で繰り広げられる惨状などは、別世界で起こっているような雰囲気。コロナウィルスによるイギリスのロックダウンで、外の世界で起こっている感染を気にしながらも、 ダイニングルーム から庭を眺めて、何の変りもない日常に存在しているという幻想に陥る、今の私たちの生活みたいなものでしょうか。絵は、おそらく、パリの西郊外の借家で描かれたものではないかとされています。 ダイニングテーブルの片側のみを、変わったアングルから描いて、おまけにマルタの頭のてっぺんや、その隣の女性の顔がちょんぎれて見えないところなど、カメラのスナップショットのよう。そしてなんといっても、画面いっぱいに広がる赤いギンガムチェックのテーブルクロスが、心地いいのです。 ギンガムというのは、実際、どこで初めて製造され始めたのか、定かではないようです。ギンガム(gingham)という名も、マレー語の「離れた」を意味する言葉が由来という話もあれば、フランスのブリュターニュ地方にあるギャンガン(Guingamp)から来たという話もあり。いずれにせよ、いつのころからか、西洋世界のあちこちで、白と他の別の色をあしらった、

ロックダウン中のオアシス

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ガーデン・ルームに入って来たブラックバード 2年前(2018年)の6月から12月にかけて、非常に狭く、食べ物を作るだけで座るスペースもなかった我が家のキッチンを、庭に突き出すように拡大し、ダイニングテーブルを置けるエリアを作りました。3メートルx4メートルの、このエクステンション(拡大工事)のおかげで、かなり毎日の生活が向上した感があります。ちなみに、エクステンションというと、日本では、髪の毛を長くするヘア・エクステンションあたりが一番最初に頭に浮かぶかもしれませんが、イギリスでは、エクステンションというと、こうした、既存の家の拡大工事を指すことが多い感じです。 エクステンションが開始したばかりの頃 イギリスでの大工仕事は、最初に言われた期間よりずーっと長くかかるのが常で、始める前は、3,4か月と言われた工事が、のろのろ進んだ6か月の間、家の中はぐちゃぐちゃで、かなり大変でした。 つっかえ棒で、使い続けた以前の流し 台所の流しやコンロが比較的、長く使っていられるようにと、流しは以前のものを、つっかえ棒などをして、ぎりぎりまで使用。ついに、工事の後半に入り、流しとコンロを取り外してからは、大工の頭のナイジェルから借りた電気クッカーを使い、居間で調理、皿洗いは風呂場で、という、キャンプのような日々。 また、工事が始まる前の設計家との相談と設計図の作成、地方自治体への通知など、着工となるまでの道のりも長かった・・・。が、我慢した甲斐はありました。 何せ、日本の家のように、古くなったら、全部壊して、一から建て直すという事はほとんど行われないので、イギリスの古い家は、常に、内部の改善、改築、そしてエクステンション。昔の生活とニーズが異なってきているので、手を入れていない家というのは、ほとんど無いでしょうね。我が家も、1960年ごろに最初に建てられた、セミでタッチド(片側が隣家とくっついている家)で、前の家の所有者によって、すでに色々手が入れられていたのを、更に、私たちも、何やかやと多少の改造をしています。(これは、以前の記事「 まきストーブのある家 」でも書きましたが。)前の家の間取りに制限されずに、一から設計し直すことができたら、ずっと楽なのでしょうが。イギリスでは、こうしたセミでタッチド、更には、両隣がくっついている長屋のよう

ロビン・フッドとアイ・ドゥ・イット・フォー・ユー

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1991年公開、ケビン・コスナー主演の「ロビン・フッド」(Robin Hood: Prince of Thieves)は、名が知れていながら、見ていなかった映画のひとつでした。当時、映画のテーマ曲となった、ブライアン・アダムスの、 "(Everything I do)  I do it for you"(日本語タイトルは、アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー、直訳は、僕のする全ての事は、君のため)が、大流行していましたが。この歌に関しては、ちょっとした思い出があります。 かれこれ、もう15年ほど前になりますか、だんなと、車でイングランド北部のヨークシャーへ、A1という道路を通って移動中に、途中からずーっと、私たちの前を同じトラックが走っていて、このトラックの後ろには、「ブライアン・アダムス」と書いてあり、どうやら運搬会社のトラックの様でした。A1は、ノッティンガムシャー州で、ロビン・フッドが、仲間たちと住んでいたとされるシャーウッドの森の周辺を通るのですが、そこを通過中に、だんなが、ふと「このブライアン・アダムス運搬会社、トラックに、Everything I do, I do it for youって書いて、会社のキャッチフレーズにすればいいのに。」と言って、二人でしばらく、けたけた笑ったのを、いまだに覚えています。以来、ケビン・コスナーの「ロビン・フッド」の話が出たり、「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」が流れると、ブライアン・アダムス運搬会社のトラックが私たちの前を走る姿が脳裏に浮かぶのが常です。 イギリスのコロナウィルスによるロックダウンもそろそろ3か月となり、今まで見ていなかった映画、または、大昔見て、また見たくなった映画などをほじくり返して、お茶の間映画館で鑑賞していますが、ケビン・コスナーの「ロビン・フッド」もやーっと見ました。おそらく、公開時は、「なんか臭そうだな」と思い、見に行かなかったのだと思います。感想、やっぱり臭かった・・・が、その臭さも、あそこまで、どうどうとしていると、逆に、妙に面白かった。 特に、見るからに悪そうな、アラン・リックマン扮する、ノッティンガムのシェリフ(シェリフとは、イングランド各地方・シャイアを、王に代わって行政をする代官の事)に無理やり結婚させられそうになった美女マリアンを、ロビン・フッド

ハーマンズ・ハーミッツのヘンリー8世君

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前回の投稿の「 チューダー王朝 」でも、触れたように、ヘンリー8世はやたら、テレビドラマ、映画などの色々なメディアの題材になっているのですよね。シリアスなものから、ふざけたものまで。若くハンサムであった頃は別として、アン・ブーリンを処刑した頃からの、彼の人生の後半は、一種の一大悲喜劇なので、アングルによって色々な描き方をすることが出来、それがまた、よく題材として取り上げられる理由でしょう。 「I'm Henry the Eighth, I am」(直訳:俺はヘンリー8世だ、俺は)というユーモラスな歌があります。もともとは1910年に、庶民に、音楽をメインとした娯楽を提供していたイギリスのミュージックホールで大流行した、古い歌なのだそうですが、60年代のイギリスのバンド、ハーマンズ・ハーミッツ(Herman's Hermits)が歌った事によって、再び人気となります。うちのだんなも、いまだにソラで歌えるんですよね、これが。日本での題名は「ヘンリー8世君」(アイム・ヘンリー・ジ・エイス・アイ・アム)。 なんと、この歌、1965年に、アメリカのビルボードで1位の座を獲得しているのです。当時アメリカでは、ビートルズをはじめとした、音楽のブリティッシュ・インヴェイジョンが起こっていたとは言え、「こんなコミックソングのシングルが全米1位だったのかい?」なんて、ちょっとびっくり。 英語の歌詞は I'm Henry the Eighth, I am Henry the Eighth, I am, I am I got married to the widow next door She's been married seven times before And every one was an Henry She wouldn't have a Willie or a Sam I'm her eighth old man, I'm Henry Henry the Eighth, I am ! ざっと訳してみると、 俺は、ヘンリー8世だ、俺は ヘンリー8世だぞ、俺は、俺は 隣の未亡人と結婚した 彼女は以前に7回結婚 過去の亭主はすべてヘンリー ウィリーやサムなどには手を出さない

チューダー王朝

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過去のイギリスの王朝の中で、知っている王朝の名を挙げてください、と言われた時、海外でも、圧倒的に知っている人が多いのが、チューダー王朝(The Tudors)ではないでしょうか。日本語ではテューダーとカタカナ表記する事もあるようですが、ここではチューダーとしておきます。 6人の妻を持ったヘンリー8世や、ヴァージン・クウィーンのエリザベス1世を主人公にした、ドラマや映画がそれは沢山作られていますから。また、 ロンドン塔 や タワーヒル で、幾人かの著名人が処刑された、そしてチューダー朝後期には、文豪シェイクスピアが現れたのも手伝い、尚更インパクトが強いのかもしれません。という事で、チューダー(テューダー)王朝について、簡単にまとめておくことにします。 チューダー王朝は、ボズワースの平原で、ヘンリー・チューダーが リチャード3世 をやぶり、ヘンリー7世として君臨する1485年から、子供を残さなかったエリザベス1世が死去する1603年までと約120年間続きます。その間の君主は、計5人( ジェーン・グレイ を数えると6人)。 ヘンリ―7世(1485-1509) ヘンリー8世(1509-1547) エドワード6世(1547-1553) ジェーン1世、ジェーン・グレイ(1553) メアリー1世(1553-1558) エリザベス1世(1558-1603) 上の絵は、ホワイトホール壁画(Whitehall Mural)と呼ばれる、ヘンリー8世が、宮廷画家ハンス・ホルバインに1537年に描かせたホワイトホール宮殿の実物大の壁画の、18世紀の水彩画コピーです。本物は、ホワイトホール宮殿が17世紀後半に火事になった時に焼失しています。 上方に立つのは、ヘンリー7世と妻のエリザベス・オブ・ヨーク。親戚同士のランカスター家とヨーク家が、王座をかけて戦い続けたばら戦争の終結が、ボスワースの戦いですが、ランカスター家(赤薔薇)のヘンリー・チューダーは、ヨーク家(白薔薇)のリチャード3世から、武力で王冠を取ったものの、血筋的には、王座を継ぐには、いささか血統書付きとはいかぬものがあった。このため、ヨーク家のエドワード4世(リチャード3世の兄)の娘である、エリザベスと結婚し、これで少々正当性を持たせ、赤薔薇と白薔薇を合体させてのチューダー王朝を開始。よって、チューダ

チューダー朝イングランドを脅かした疫病、粟粒熱

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ヒラリー・マンテル著「Wolf Hall、ウルフ・ホール」を読み始めました。ヘンリー8世の右腕として 修道院解散 などを実行したトマス・クロムウェルが主人公の長編3部作。評判と期待を裏切らぬ面白さです。ヘンリー8世の時代を描いた本というのは、とても多いですが、良く研究されているそうで、史実もかなり信頼置けるとのこと。 チューダー朝 の歴史をおさらいしながら、絶妙にかもし出される当時の雰囲気を楽しみながら、時間をかけて、ゆっくり読んでいくつもりです。物語は、かつては常に悪役的イメージのあったクロムウェルの視点から描かれています。 トマス・クロムウェルが住んだオースティン・フライヤーズ周辺 トマス・クロムウェルは、ロンドンのシティー内、オースティン・フライヤーズ(Austin Friars)という地域に住んでおり、彼のかつての邸宅は、彼の失脚と処刑の後、シティーの商業組合( リヴァリカンパニー )のひとつである、ドレーパーズ・カンパニーによって購入され、現在その場所には、 ドレーパーズのカンパニー・ホール が建っています。 トマス・クロムウェルは、妻のリズと娘2人、妹夫婦を、Sweating Sickness(粟粒熱 ぞくりゅうねつ、直訳すると発汗病)という疫病で亡くしており、その描写も、この本の中に書かれています。とにかく、かかると、瞬く間にに死んでしまう人が多い病気であったそうです。 1527年の7月、クロムウェルは、朝、床の中で、リズが汗ばみながら寝ているのを見、そのまま気にもせず、一人起き、オースティン・フライヤーズの自宅を去り、外出。夜、家に帰ったら、リズはすでに亡き人だった・・・という事になっています。そして、2年後の1529の夏には、娘2人も死んでしまい、更に、同じ年に、妹夫婦も、前日は元気でいたのが、翌日には死んでいたと書かれています。 症状は、悪寒、めまい、頭痛、倦怠感、体のふしぶしの痛みなどであったようです。 死亡者が出た場合は、即効で埋葬をする義務があったようで、リズが亡くなった際、クロムウェルは、息子や親類を呼ぶ時間の余裕もなく埋葬。更に、感染者が出た家は、家のドアに藁の束を下げる必要があり、その後の40日間、その家への出入りは禁止され、そこに住む家族たちも外出は自粛。現在のコロナ感染下の生活状況と似ていますね。小説