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2月, 2015の投稿を表示しています

パン屋の1ダース

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baker’s dozen(ベーカーズ・ダズン)という言葉があります。dozen(ダズン)は、英語で1ダースの事ですので、直訳は、「パン屋の1ダース」。そして、ベーカーズ・ダズンとは、数字の「13」を意味します。「1ダースは12じゃないの?」という話になりますが、パン屋の場合は、1ダースは13。この理由は、13世紀のヘンリー3世の時代に遡ります。 この時代、パンの重さにより、値段を規制する法が施行され、規制の重さより軽いパンを売ると、パン屋は ピロリー (さらし台)にかけられたり、叩かれるなどの体罰を受けることとなります。刑罰をおそれたパン屋たちは、客が注文したパン以外に、in-bread(イン・ブレッド)と称された、小さめの一片のパンを、おまけの様につけて渡して、計量が軽いと文句を言われる可能性を避ける習慣となるのです。 ですから、12斤のパンを焼くとしたら、「ついでにもうひとつ焼いて13斤つくってしまえ!」というわけで、念のため、少し、数(ひいては重さ)を多めにする、という意味から、パン屋たちの1ダースは、12ではなく、13と相成るのです。 実際に、ベーカーズ・ダズンという言葉が、書き物に残っている一番古いものは、16世紀になると言いますが、それ以前から使われてはいたのでしょう。 ウォレスとグルミット の登場する「A Matter of Loaf and Death」(邦題「ベーカリー街の悪夢」)というテレビ用に作られたアニメがありました。物語は、ウォレスとグルミットが、パン屋を経営している設定。昔、若くやせていた頃、パン屋の広告に登場して名声を得た女性が、今は太ってしまい、広告に使ってもらえなくなった事から、パン屋に恨みを抱き、ベーカーズ・ダズンの数(13)だけ、パン屋を殺そうと連続殺人をおこすのです。そして、ベーカーズ・ダズンを達成する、13番目の犠牲者として目を付けられてしまったのが、ウォレスでした。 「イギリスの食べ物は不味い、不味い」というのは、いまや、皆、何も考えずに口にする慣習のようになってしまっていますが、時に、「本当にそんなに不味いか?」と思うことはあります。去年の夏に、日本から私の姪っ子が遊びに来た時、兄から、「あいつは、好き嫌いが多く、小食。」と聞かされていたので、それじゃあ、こちらの食べ物など、あれも嫌だ、これ

エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」

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前回の記事 に書いたよう、17世紀後半、海賊となったウィリアム・キッド船長が、アメリカ東海岸沖に、宝箱を埋めた事実から、もしかしたら、まだ発見されていない宝がどこかに隠されているかもしれない、という噂は、かなり長い間、徘徊していたようです。 キッド船長が処刑されてから、約150年後にもなる、1843年に発表された、米作家エドガー・アラン・ポーによる短編小説「The Gold-Bug」(黄金虫)は、ウィリアム・キッドが隠したとされる宝の発見をめぐる話。「黄金虫」は、また、暗号(cryptograph)を読んでの謎解きが登場する最初の小説のひとつでもあるそうです。 日本にいた時、エドガー・アラン・ポーの短編集を買って読んだ覚えはありますが、「黄金虫」は、その中に入っていたか、記憶に残っていなかったので、これを機会に、英語で読んでみました。 「黄金虫」あらすじは、 物語の語り手は、アメリカは、サウスカロライナのチャールストン沖にある小さな島、サリバン島に、黒人の召使ジュピターと共にひっそりと住む、変わり者のウィリアム・ルグランと親しくなる。ルグランは、狩猟、魚釣り、そして昆虫などの生物の標本をあつめながらふらつくなどをして毎日を過ごしていた。 寒い10月のある日、語り手がルグランの小屋を訪れると、ルグランは、散策中に見つけた、今まで見たことも無い、金色に輝く黄金虫の話をする。その黄金虫は、やはり自然科学に興味のある知り合いに貸していたため、ルグランは、手元にあった羊皮紙に、その虫の絵を描いてみせる。身体を温めるため、暖炉の側に座っていた語り手は、その羊皮紙の絵を見て、「どくろの様だ。」と発言。自分の絵の技術を馬鹿にされたと、羊皮紙を語り手の手から取り上げ、それを眺めるうち、妙に口数が少なくなったルグランを後に残し、語り手は、チャールストンの自宅に戻る。 約1ヶ月後、黄金虫の影響で、主人の様子が変だから来てくれと、ジュピターが語り手の元に現れる。ルグランの小屋に着くと、「黄金虫が自分に富を与えてくれた」と興奮したルグランに、無理矢理、宝探しの探検に付き合わされる。ルグランと、語り手、ジュピターと、ルグランの愛犬は、連れ立って島を出、本土へ。海岸線のチューリップ・ツリー(ユリノキ)の巨木があるところにたどり着く。ルグランは、ジュピターに木に登るよう

海賊キャプテン・ウィリアム・キッド

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ウィリアム・キッド(William Kidd1645-1702)は、スコットランド出身の船乗り。前回の記事「 海賊たちの処刑場 」に記したよう、海賊として逮捕され、ロンドンのワッピング処刑ドックにて、絞首刑となってしまった人です。彼は、海上で「私掠、しりゃく」を行った人物(英語で言う「privateer」)であったものの、いわゆる「pirate 海賊」であったかどうかには、いまだ論議となるところです。 ウィリアム・キッド船長の海賊行為に触れる前に、ちょいと、紙一重の感のある、この「privateer」と「pirate」の違いを書いておきます。 「私掠、 privateering」は、国家お墨付きの海賊行為と言えばいいでしょうか、敵国の船を攻撃して、その積荷を頂戴する許可証を持って、堂々と航海を行う事。「privateer」は、船の航海を可能とするため、国や、有力者達から投資を受けるのが一般で、敵国船を襲って、せしめた宝は、後で、この投資家たちにも分配する事となり、運がよければ、投資家たちもかなりの利益を上げる事ができたわけです。イギリス歴史上、一番有名なは「privateer」は、エリザベス1世に多額の富をもたらした、 フランシス・ドレーク 船長でしょう。ただし、当時ドレークの船にひどい目にあったスペインやポルトガルにとっては、彼は、憎き「pirate」であったわけなので。また、船も、多国籍の投資が入っているものなどもあったでしょうし、一概に、この船は襲ってOKで、この船はだめ、という判断をつけがたい状態もあったかもしれません。自国の船を襲ってしまえば、それは海賊行為ですので。 さて、それでは、話を、キッド船長へ。 私掠船の船長として、フランス船などを襲い、成功し、やがて、ニュー・ヨークに趣いたウィリアム・キッド。そこで、裕福な未亡人と結婚。イギリスで知り合った、リチャード・クート(ベロモント卿)が、ニューヨーク総督となった事から、有力な友達も増え、ニュー・ヨークで悠々自適の生活を送ったようです。ニュー・ヨークのトリニティー教会の一番最初の建物建設にも、ウィリアム・キッドは尽力したようです。ニュー・ヨークでの平穏無事な生活に満足し、そのまま大人しく、そこで人生送れば良かったのに・・・・ ベロモント卿はじめ、他のイギリスの有力者達が、お宝積んだフラ

海賊たちの処刑場

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ロンドン塔から、テムズ川北岸を東へ約1マイル行ったところにあるワッピング(Wapping)。この周辺は、貨物船の船着場としてのドックや、輸入された物資を保存する倉庫の建設が行われる以前は、船乗りなどが多く住んだ場所であり、また、捕らえられた海賊達が処刑をされる、処刑ドック(Execution Dock)のあった場所でもあります。船乗り達が住んでいた頃は、柄の悪い地域であったそうですが、現在では、この辺りも開発が進み、川沿いには、高級マンションなども建ち。 海賊達をここで処刑するという習慣は、なんでも、ヘンリー6世の時代に遡るのだそうです。牢獄から連れてこられた海賊は、ワッピングの処刑ドックで、テムズ河が引き潮の時に、水際ぎりぎりで絞首刑となります。普通の罪人と扱いが違うところは、絞首刑後の死体は、テムズの満ち潮に三度浸されるまで、ぶら下げられたままであった事。 三度満ち潮に浸された後も、そのまま埋葬してもらず、鎖で吊るされるか、ジベット(Gibbet)と称される、人型をしたケージに収められ、ロンドンから七つの海へと繰り出していく船乗り達への戒めに、テムズ河沿いのあちこちに展示(?)される事となるのです。「海賊行為に走ると、こういうことになるぞ。心せよ。」と。海賊達は、海外のエキゾチックな土地から、貴重な物資やお宝を載せて戻ってくる商船にとっては、たまったものではない存在でしたから。 ワッピングの処刑ドックで、この憂き目に会った人物として、一番有名なのが、キャプテン・ウィリアム・キッド(Captain William Kidd)。 1701年に処刑となった後、キャプテン・キッドの死体は、見せしめとして、長い間、テムズ川沿いで、風に揺れていたと言うのです。テムズ川を散歩してる時に、こんなものが目に入ったら、と想像するだに薄気味悪いですが、慣れると、ただの風景の一部と化すものでしょうか。「キャプテンキッドの死体のあるところで待ち合わせしようか。」なんて。昔は、処刑などと言うと、皆お祭り騒ぎで見物に出し、処刑場所の周りには食べ物を売る屋台が立ったりしたなどというのですから。 人間は、生まれながらに善を持つか、生まれながら悪であるか、との論議がありますが、このように、昔は、一般庶民が、いかに悪人とは言え、処刑で他人が死ぬのを祭りの様に騒いで見物した

エミレーツ・エア・ラインとドックランズ開発

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エミレーツ・エア・ライン(Emirates Air Line)は、テムズ川を越えて渡る ロープウェイ。 O2アリーナ のあるノース・グリニッジと、 ロイヤル・ビクトリア・ドック を繋いでいます。2012年の ロンドン・オリンピック の始まる少し前に開通。 ロンドン・アイ などと比べ、一般的人気観光地から離れ、周辺も、O2やカナリーワーフ以外は、特に有名な建物も見えないせいか、常時、空いている感じです。 先日、O2の側から片道券だけ買って乗り込みました。どんよりとした冬の日だったのも手伝って、静か、静か。列で待つことも無く、来たものにさっと乗り込みました。片道、トラベルカードを持っている人は割引で3ポンド20ペンス。所要時間、片道約10分。 一番目に入るのは、やはりO2の白い丸屋根。後は、本当に、まだ開発中の土地です。国会議事堂も、バッキンガム宮殿も眺められないから、外国から来た観光客は、たしかに、わざわざ、ここまで乗りに来ないかも。 大英帝国に流れ込んできた物資を実際に荷上げ貯蔵し、またいくつかの工場も立ち並んだ、過去のドックランズが消えて行き、別のものに変身していく過程を上空から臨むのも面白いという見方もあります。お手ごろ値段なので、私は、また機会があったら乗ってみても良いかなと思ってます。 去年(2014年)の11月の、とある美しい快晴の日、O2付近から、ずっと川沿いに、 グリニッジ まで歩いた事があります。上の写真は、この時に、振り返って眺めたエミレーツ・エア・ライン。 O2を越すと川沿いはずっと、工事現場風で、対岸も、 カナリーワーフ の高層ビル以外は、まだまだ、これからの土地、という印象を、この時も受けたのでした。同じく川沿いを歩く人、向かいからやってくる人の数も、グリニッチに近づくまでは、非常にまばらで、時に、ちょっと歩いていて心細くなる時もあり。同時に、楽しくもあり。 こんな風景も、10年後などには、全く一変し、高級マンションなどが立ち並んでいるのでしょうか。そして、この写真を見直して、「おー、こんなだったか!」と思う日も来るのでしょう。オリンピック以来、ロンドン東部の ストラトフォードの開発 なども、どんどん進んでいますしね。今は今で、ちょっと寂れたこの風景を味わって、心に残しておく事にします。

ウィリアム・ティンダルと聖書の英語訳

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Did you know that Thomas a Becket was canonized as a SNAKE? Rose Bell says he was ... also that William Tyndale WROTE the New Testament . トマス・ベケットが「スネーク(蛇)」として崇められたっていうのは知っていた?ローズ・ベルは、そうだと言い張るのよ。それから、 ウィリアム・ティンダルは、新約聖書を 書いた んだって。 これは、カナダのプリンス・エドワード島を舞台にした「 赤毛のアン 」シリーズの第2冊「Anne of Avonlea」(邦題:アンの青春)からの引用。学校で教えるようになったアンが、子供たちが、大真面目でおかしな事を言うので、教えるのはとても楽しい、と喋るくだりです。子供たちの言う、その、おかしな事のいくつかを上げているのですが、カンタベリー大主教であった、トマス・ベケットは、暗殺された後、Saint(聖人)と定められたのを、Snake(蛇)となったと信じ、また、聖書を初めて英語に翻訳したウィリアム・ティンダルを、聖書を書いた人物と勘違いした子供がいた・・・という話です。 日本でも根強い人気の「赤毛のアン」ですが、これを始めて読む時、ウィリアム・ティンダルが一体何者かを知っているティーンエージャーは、日本では、きわめて少ないのではないでしょうか。アンが、学校で教えていたのは、彼女が16~18歳の時と、まだかなり若い設定ですから、当時のカナダのティーンエージャーは、ウィリアム・ティンダルの名は、トマス・ベケットと並び、知っていて当然のような存在だったのでしょうが。 イギリス人、ウィリアム・ティンダル(William Tyndale 1494~1536年)は、亡命先のアントワープで、火刑となります。彼の罪は・・・聖書を英語に翻訳したこと。 チューダー朝のイギリスにおいては、聖書と言えば、ラテン語で書かれ、王族貴族、教会関係者、学者等の、エリート階級のみしか理解できないものでした。ラテン語を解しない一般のイギリス人は、教会や神職者に教えられ、伝えられた事を、鵜呑みにするのみ。カソリック教会を通しての教えは、一部、実際は聖書に含まれていない事項もあり、また、全民が、教会の教えに従い自分たちの身分をわ

ダイド・エリザベス・ベルとウィリアム・マレー

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Dido Elizabeth Belle(ダイド・エリザベス・ベル 1761-1804年)は、イギリス海軍のキャプテン、ジョン・リンゼイが西インド諸島で、黒人奴隷の女性に産ませた私生児。リンゼイは、この混血の娘を、幼いうち、イギリスへ連れて行き、自分の叔父にあたる第1代マンスフィールド伯爵、ウィリアム・マレー(William Murray)の館(ロンドンは、ハムステッドにある ケンウッドハウス )を訪れ、子供のいない叔父夫婦に、彼女の養育を託すのです。 すでに、ウィリアム・マレーと妻エリザベスは、やはり甥であるデイヴィッド・マレーの娘、エリザベス・マレーを、エリザベスの母が死んだ後、預かり育てており、ダイドは、エリザベスと共に、大叔父、ウイリアム・マレーの保護下、同じ屋根の下で教育を受け、2人は、姉妹の様に仲良く育っていく事ととなります。エリザベスの父は、その後再婚し、ウィリアム・マレー亡き後、第2代マンスフィールド伯爵として家をつぐ身。 ダイドとエリザベスを描いた上の絵は、まだ奴隷制の時代、黒人と白人である2人を、同等に描いてあるという点で、珍しいものだそうです。家族メンバーだけの集まりでは、ダイドとエリザベスは、ほぼ同等に扱われていたようですが、来客の際は、ダイドは、客との正式な夕食などの同席は許されず、食事後の、ややくだけたコーヒータイムになってから初めて、客に紹介されるなど、多少、当時の社会の偏見と習慣を意識した扱いは受けることもあったようです。黒人の血が入って入る上、私生児でもありましたから。いずれにしても、若い頃から、奴隷制度というものには、批判的であったウィリアム・マレーは、彼なりに、そして時代を考えると、異例なほど、ダイドを、大切に愛情を持って育てた様です。彼の遺書には、自分の死後、彼女の立場に不明な点が無い様に「(奴隷の母から生まれたものの)ダイドは、自由な人間であると」明記されているそうです。 さて、このウィリアム・マレーという人物は、スコットランド出身で、当時イギリスで一番と言われたウェストミンスター・スクールで教育を受けた後、オックスフォード大で学び、その後法律家の道へ。有力政治家の娘、エリザベスと結婚。やがて、高等法院主席判事(Lord Chief Justice of  the King's Bench)の座に着き

ロンドン・アイ初体験

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ロンドンの国会議事堂から橋を渡りテムズ川南岸へ。今は水族館などが入っているカウンティ・ホールの建物の前を少し歩いたところにあるのが、観覧車の ロンドン・アイ 。 2000年(ミレニアム)の記念に作られ、当初は、その後撤去される予定であったのが、人気を呼び、以後、そのまま同じ場所に立ち続け、夏の観光シーズンは大繁盛のアトラクションです。2000年より恒例となったテムズ川沿いの大晦日の花火でも、常に、ロンドンアイが、主役を果たしてきています。 「そのうち、乗ろう」と思いながら、気がつくともう15年!夏は、長蛇の列で、待ち時間が長いから、チケット予約を入れたほうが良いよ、と人から言われていたので、乗るなら冬季だなと思っていました。昨日、近くを通り過ぎ、チケット売り場も、ロンドンアイの下の列も、さほど長くなかったので、「今じゃ」とばかり、乗ってきました。現在の値段は、びっくりの21ポンド50ペンス。私は、2人で1人の値段の割引券を持っていたので、これを使って、だんなと二人で乗りました。ヴァレンタイン・デーに、ロンドン・アイにでも乗ろう、というカップルが多いためか、割引券には、2月14日は使えませんと書かれてありました。正規の値段を払う事になっていたら、おそらく、「そんなにするなら、もっと高い場所から見える シャード へ入ろうかな。」と、けちってやめていたかもしれません。 チケット購入と実際に乗り込むのを待つ時間は、合計で10分くらいでしたので、それは、ほとんど苦にならず。ひとつのカプセルに乗せる人数は、12人くらいでしょうか。わりと余裕があるので、「押すな押すな」と他人を押しのけての場所取りをする必要も無く、のんびり自分のスペースを見つけて見物できるのはグッドです。まあ、1カプセルに、ギューギューに詰め込まない分、チケット代が高いというのは言えるかもしれません。所要時間は、約20分くらいだったでしょうか。割引無しで乗ったら、1人につき、1分約1ポンドの計算になります。ぎょぎょ!しっかり楽しみましょう。 東方向には、セント・ポール寺院の屋根と、シティーの新しい高層ビル。カプセル内には、タッチスクリーンで、眺めている建物が何かの情報が読めるようになっているのですが、シティーの一部の新しい建物は、まだ、このタッチスクリーンに載っていなかったです。早く、