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ケイト・グリーナウェイと輝ける子供時代

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今でこそ、先進国の子供は、蝶よ花よと育てられ、子供時代は貴重なものという感覚ですが、昔の子供は、貧しければ労働の頭数、貴族であれば政略結婚の駒。(だから一切可愛がらなかったというわけではないでしょうが。)また、平均寿命も短かったので、幼くして大人の社会に組み込まれ、いわゆる子供時代と定義できる期間は短く、またその期間を、成人した後から思い返し、ばら色と形容できるようなものでは無かったでしょう。 これが、次第に、裕福な家庭では、子供はいつくしむべきものであるという感覚が生まれていく。イギリスのヴィクトリア朝の頃には、子供の為の本や童話、おもちゃ、子供服・・・のいわゆる、子供向け商品の市場も、この傾向を受けて発達。もちろん、この頃でも、貧しい家庭に生まれれば、話はまた別ですが。 ヴィクトリア朝のイラストレーター、 ケイト・グリーナウェイ(Kate Greenaway) (1846~1901)は、そんな世相を反映し、夢とノスタルジアに満ちた、輝ける子供時代をイラストの中に繰り広げます。乙女チックと表現できそうな、フリルの付いた洋服を着た少年少女が、牧歌的で、多少理想化された、おとぎの国イギリスの田舎の風景の中を駆け回る。 私はこの人のA Apple Pie(上の写真)という本と、花言葉を集めたLanguage of Flowersという本を持っています。 彼女の絵の中の、女の子達は、往々にして、mob capと呼ばれる頭を覆うボンネットを被り、pinafore (または、口語でpinny)と呼ばれるドレスやブラウスの上から被るエプロンドレスをかけて登場。男の子達は、skeleton suitなる、ジャケットとハイウェストのズボンがボタンでつながった形の洋服に身を包む。また、以前は農場での労働服であったスモック(smock-frockまたはsmock)も、過去への憧れを追って、子供服として生まれ変わり。 当時、こうした彼女のイラストに登場する服を、わが子に着せる服として、模倣して作らせる母親などもいたようです。現在でも、こういったイメージに触発され、子供用(または自分用)エプロンドレスを作ってしまうママなどいそうです。 後進国では、いまだ子供は労働力として使われるケースも多々ありますが、昔は先進国がやっていた過程を辿っているわけです。全世界の子供が、ケイト・グリーナウェイの

バンケティング・ハウス

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ロンドンのホワイトホールは、現在は、南は国会議事堂と、北はネルソン提督の像がそそり立つトラファルガー広場を結ぶ官庁街の名ですが、元は、この場に存在した宮殿の名称でした。Whitehall Palace(ホワイトホール宮殿_は、ヘンリー8世の時代の1530年からウィリアム3世までの歴代の王、女王の主なる居住地及び、公式行事の場となります。 名誉革命 で王座についたオランダ人ウィリアム3世は、喘息もちで、テムズ川沿いに住むのを好まず、 ケンジントン宮殿 を購入し、やがてはそこに居を構えます。その後、ホワイトホール宮殿は、ウィリアム3世の治世中、1698年に起こった火災で焼失。この火災で、ホワイトホール宮殿内、唯一生き延びた建物が、このバンケティング・ハウスです。 バンケティング・ハウスは、子孫を残さなかったエリザベス1世の死後、イングランド王座に付いた、スチュワート王朝ジェームス1世(在位1603-1625年)の依頼で、1622年に、著名建築家イニゴー・ジョーンズにより、仮面劇などの、宮廷の余興を催す場として、設計、完成。 上の写真は、大広間の、有名なピーター・ポール・ルーベンスによる天井画。 フランダース出身の巨匠ルーベンスは、外交官としても活躍。1629年、外交でロンドンを訪問の際、時の王であったチャールズ1世(在位1625-1649年)により、父親ジェームズ1世とスチュワート王朝の栄光を讃えたこの絵を依頼されます。巨大なキャンパスに描かれたこの絵は、アントワープのルーベンスのスタジオで、1630年から34年にかけて作成され、1635年にロンドンへ送られ、翌年、めでたく、バンケティング・ハウスの天井に設置。 この天井画の設置後は、松明の明かりを照らして行われた仮面劇などの余興は、煙により、天井画を損傷する恐れがあるため、他の場所で行われることとなり、大広間は、もっぱら外交のレセプションの場となります。 ルーベンスの絵と共に、この建物が有名なのは、チャールズ1世の処刑がここで行われた事。王様の神々しさを讃える絵と、王様の首を切った場所が同じところというのも、皮肉なものです。 清教徒革命により、オリバー・クロムウェル率いる議会軍に破れ、チャールズ1世は謀反人として斬首の刑の判決を下され、バンケティング・ハウスの直ぐ外に断頭

スノードロップが咲き出して

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ニュースによると、今年は、スノードロップ(マツユキソウ)の開花が2週間近く遅れたそうです。毎年2月の頭頃には、真っ白なスノードロップの絨毯で敷き詰められるので有名な庭園や邸宅などでも、その見ごろ時期の遅れが伝えられていました。私も、今年初のスノードロップを見たのは、2月7日の散歩中。今週は、うちの庭の前にも咲き始めました。 スノードロップは、伝説によると、アダムとイブが楽園を追放された後、楽園の外には咲く花とて何も無く、雪が降っていた。悲嘆にくれて泣いているイブを、天使がなぐさめようと、手のひらに落ちた雪に息を吹きかけ、その雪が地上に落ちると、白い花に姿を変えた。そして、そのスノードロップの花と共に希望が生まれたと。そこから来たのでしょうか、スノードロップの花言葉は、希望と慰め。まだうら寒い日が続き、冬が続くように思われる中、冷たい地面を押して咲き始めるスノードロップの姿には、確かにほっとされるものがあります。 イギリス原生の野の花のイメージがあるものの、実際、イギリスにやって来たのは、16世紀。当初は、大陸ヨーロッパから、庭で育てる花として導入されます。この庭用のスノードロップたちが、やがて、庭の塀の外に飛び出し、18世紀には野生化したものがイギリスの森林に姿を現し始めるのです。非常に交配しやすい花であるため、ちらっと見ると皆同じでも、それぞれ、花びらの紋や、形が、微妙に違っていたりすると言います。 英の詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)も、可憐な姿ながらも、雪に囲まれ咲く強い花、スノードロップに捧ぐ「To a Snowdrop」という詩を書いています。 Chaste Snowdrop, venturous harbinger of Spring, And pensive monitor of fleeting years! 清きスノードロップ、果敢なる春の先駆者よ、 そして、過ぎ去って行く年月を静かに見つめる者よ!

ハギスとバーンズ・ナイト

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 写真の黒っぽい食べ物は、ハギス。スコットランドのお国料理だなどとも言われています。ローマ人も同じようなものを作って食べていた形跡があるようですが、スコットランドのハギスが、ローマ人から伝授されたものか、独自に育ったものかは、よくわかっていないようです。 中身が何かと言うと、羊の臓物をみじん切りにした物にオーツなどの穀物や、たまねぎ、羊の油、または牛脂、その他スパイスなどを混ぜ、家畜の胃に詰め込んで煮たもの。歴史の古い料理に良くありますが、残り物を使い、長期保存できるようにした料理の一種。家畜を殺した後、腐りやすい臓物は、保存できる形に手早く調理・・・というわけです。 家で食べるときは、ほとんどスーパーから買いますが、そういったものは、大体において、胃袋ではなく、ビニールのラップに丸く包まれているものが多く、中身をボールに移して、電子レンジでチンして食べる、簡単な夕飯となります。付け合せは、かぶ類が相性いいようです。 さて、ハギスというと、スコットランドの詩人、ロバート・バーンズ(Robert Burns :1759~1796)を連想します。彼は、英語でも詩を書いたものの、スコットランドの言語、スコットランドの方言などでも書き、いまだ、スコットランドの国民詩人として見られているようです。 彼の生まれた1月25日は、バーンズ・ナイト(Burns Night)という催しが開かれ、ハギスを食べ、ウィスキーを飲み、バーンズの詩(特に、 Address to a Haggis  「ハギスに告ぐ」と呼ばれる詩)を朗読し、彼の人生と作品を祝う。ちなみに、この詩「Address to a Haggis」も、スコットランド方言で、ちょっと読みにくいものがあります。美味しい、素朴なハギスを讃える詩。 ロバート・バーンズとバーンズ・ナイトについて、詳しくは、 こちら 。 最近は、イングランド内のパブなどでも、ハギスとウィスキーを出すバーンズ・ナイトをやる所が増えている気配です。先月、おしりも凍えるような、寒い霧の日に散歩に出かけ、ランチを食べた、上の写真のパブでも、「バーンズ・ナイトの予約受付中」何て書かれた宣伝の黒板が表に出されていました また、うちの近くの肉屋でも、バーンズ・ナイトの前に、ハギスとウィスキーの試食宣伝をして、かなりの数の

王妃マルゴ

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今まで見た、いわゆる歴史物映画の中で一番記憶に残っている映画です。 王妃マルゴこと、マルグリット・ド・ヴァロワ。フランス王のアンリ2世を父、カトリーヌ・ド・メディチを母として生まれ、教養に富む絶世の美女だったというこの女性を演じるのは、この世のものとは思えぬイザベル・アジャーニ。ため息のでる美しさは、まさに傾国の美女。 映画の始まりでは、ちょっと情けない感じのマルゴの兄、シャルル9世がフランス王ですが、実際に影で糸を引くのが、イタリアから毒薬の使い方を持ち込んだなどと言われるメディチ家出身のカトリックの母のカトリーヌ。イングランドでは、エリザベス1世が君臨していた時代です。 1572年、社会は、宗教的にカトリックとプロテスタントが対峙する不安定な中、打開策として、カトリックのマルゴは、プロテスタントのナバラ王国(現スペイン北部・フランス南部の領域)の王アンリと政略結婚させられます。好きでもない夫ですから、男好きのマルゴは、結婚初夜から、だんなをほったらかし、好みのタイプの男性を探して、パリの街を徘徊。プロテスタントの美しい青年、ラ・モールとめぐり合い、さっそく浮気。 そして、結婚の数日後に起こるのが、カトリーヌによって計画されたという噂の、聖バーソロミューの虐殺(St Bartholomew’s Day Massacre)。マルゴとアンリの結婚式にパリに集まっていたプロテスタントの大虐殺です。(実際のところ、この虐殺、誰の命令によるものかは、はっきりわかっていないようです。)ラ・モールも、この虐殺の最中、深手を負いながら、偶然にマルゴによって命を助けられる。 その後、マルゴとラ・モールの関係と、暗殺を恐れたアンリのナバラへの脱走、王家の兄弟間の権力をめぐるライバル意識、カトリーヌの更なる暗躍、シャルル9世の壮絶な死を、時におどろおどろしく、それでもはっとさせられる豪華な映像で、描いていきます。 原作はアレクサンドル・デュマの小説。歴史のコスチューム物は、演技派の役者を使って、これくらい豪華に、しっかり作ってくれるとかなり見ごたえあります。かなりお金かかったという話ですが。 聖バーソロミューの虐殺及び、フランスのユグノー(プロテスタント)については、過去の記事 「ユグノーさん、いらっしゃい」 まで。 原題:La Reine Marg

ブルージュにて、ヒットマンズ・レクイエム

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写真のこの映画、ベルギーのブルージュを舞台にした、一風変わった殺し屋の悲喜劇。原題はIn Bruges(ブルージュにて)、邦題は、「ヒットマンズ・レクイエム」なのだそうです。ブルージュがどこだかわからない人がいると思ってこういう題名になったのでしょうか。 中世北ヨーロッパの貿易を牛耳した都市同盟の、ハンザ同盟(Hanseatic League)都市として栄えたブルージュは、中世の町並みが良く保存されています。ベルギーでは、主に、オランダ語(ベルギーのオランダ語は、英語でFlemishと呼ばれます。)とフランス語が喋られますが、ブルージュはオランダ語圏内。運河のあるせいか、時折「北のベニス」だなんて呼ばれたりしてるのも耳にし、「それは、ちょっと違うかな」という気はするのですが、まあ、可愛い町です。 こちらでの公開当時から、ローバジェット映画でありながら、筋と脚本が良く、面白いと評判でしたが、確かに、毎度お馴染みハリウッドのワンパタ・アクション映画とは、一味違います。もう2回も、見てしまいました。 ボスに、理由を教えられずにブルージュへ送り込まれる2人の殺し屋。映画の冒頭での、この2人のやりとりは、 「ブルージュはシットホール(ひどい場所:直訳は肥溜め)だ。」 「ブルージュはシットホールなんかじゃない。」 若者のレイは、殺人の任務で、誤って、流れ弾で子供を殺してしまい、落ち込むあまり、ブルージュがシットホールに見える。けれど、可愛い現地の女性にめぐり合い、デートへ繰り出す。年配のケンは、ボスからの指示の連絡が入るのを待つ間、せめて綺麗なブルージュの観光を楽しもうとガイド・ブックと首っ引きで、運河のボート下りをし、美術館に入り、見所をめぐる。 やがて、ボスのハリーが、ケンに電話で伝える使命は、子供を殺すというどじを踏んだレイを、ブルージュで始末しろ、というもの。ハリーが2人をブルージュに送った理由は、レイが死ぬ前に、おとぎ話に出てくるようなブルージュを体験し、少しはいい思いさせてやろうという、良くわからない慈悲心から。レイに愛着を持ってしまっているケンは、この使命を受け、さてどうするか。 レイ役コリン・ファレルは、表現力たっぷりの太い眉毛が決め手。殺し屋とは思えない妙な子供っぽさの持ち主。ケン役のブレンダン・グリーソンは、気のいい叔