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5000年前のエジプト人

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大英博物館 内、古代エジプト展示物のあるギャラリーは、いつ行っても人気です。特に、エジプトのミイラとその棺のケースの前では、にこっと笑って写真を撮る観光客の姿を必ず見かけます。 古代エジプト・ギャラリーには、そうした人気のミイラ達の他に、砂漠の砂の中に直接埋葬されていたという、5000年以上前の死体も展示されています。上の写真がそれ。紀元前約3400年に死んだ、この人・・・後の時代の様に、身体を真っ直ぐに伸ばした形ではなく、横になってちじこまった姿で埋葬され、回りには、幾つかの壷等が共に埋められ。エジプトでミイラ保存が始まるのは、紀元前約2700年という事です。なのに、それ以前に埋葬された、この人の身体は、毛や、指や足の爪に至るまで、腐らずに、それは良く保存されているそうなのです。何故でしょう。 人間の身体はその75%が水分なのだそうです。この様に、直接死体を熱い砂に接触させて埋めると、体内の水分は、周りの乾いた砂に吸収され、水分を必要とするバクテリアの繁殖を防ぎ、腐敗に至る事が少なかった。そして、この人も、そのまま5000年、骸骨と化すことなく、現在、多くの観光客に「これは、すごい」と眺められる結果とあいなった訳です。また、ミイラ化での死体保存が始まった後も、ミイラにするお金のない貧民は、これと似たような埋葬を続けていたという事です。 ミイラにしても、こうした自然保存にしても、死んだ後も、ずっとほぼ同じ形を留めていたいか・・・というのは、文化、宗教により考えは異なるし、時代によっての変化もあるでしょう。私もうちのだんなも、死んだら、「自然に帰りたい」ではないですが、ダンボール等でできたリサイクル可能な棺おけを使用して、埋葬後、上に木でも植えて欲しい、または、森林の中にでも埋葬されたい、などと思っています。実際、火葬よりもエコであるという事も手伝い、そういった自然な、森林内での埋葬を行える場所が、イギリスでは増えてきているようです。 少なくとも、私も、そうやって、死後、イギリスの オークの木 にでも変身すれば、5000年経ってから、「これは、5000年前にイギリスに住んでいた日本人女性の死体ということだ。良く保存されてるな。真っ直ぐな針金の様な髪までよーく残ってるよ。見てご覧。」なんて、写真取られてしまう心配はないのです。

ルイス島のチェス駒

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大英博物館 の有名展示物でありながら、日本ではさほど知られていないものに、ルイス島のチェス駒(Lewis Chessmen)があります。謎に包まれた背景と、それぞれの駒のひょうきんな顔のため、私もお気に入りにの展示物のひとつです。上の写真は、王と女王。歯痛か、悩みを抱えるようなポーズの女王様です。 スコットランドの北西沖に位地するルイス島(Isle of Lewis)。チェス駒達は、この島の西海岸線の砂丘に隠されていたのを、1831年に発見されます。いくつかの駒が欠けているものの、全4セット、いくつかは、発見時には赤く染められていたと言います。白組と赤組対抗チェスだったわけですね。93個ある駒のうち、11個は、エジンバラのスコットランド国立博物館、残る82の駒は、大英博物館蔵。セイウチの牙とクジラの歯を使用して掘られており、時代は1150年から1200年の間。チェスは、この頃には、すでに、ヨーロッパの貴族達の間で人気のゲームだったと言います。 どこで作られたかは定かではないものの、いくつかの駒が、北欧神話に登場する戦士達の姿に似ているため、北欧、特にルイス島は、当時、ノルウェーの下にあった事から、ノルウェーで作られた可能性が一番高いようです。駒は、ほとんど使用された形跡が無く、ノルウェーからアイルランドへ渡る途中の商人が、何かの理由で、ルイス島に隠していった、という説が一般的であるようです。いずれにしても、何故、所有者が、そんな何も無い地へ、これらを隠して去ったのか、その人物に何が起こったのかは、今では、知る術もないでしょう。想像力のある人は、これを題材にミステリー小説でも書けそうです。 チェスは、元々紀元前500年頃のインドが起源で、その後、中東を経て、10世紀末までにはヨーロッパに伝わっていたという事です。駒の姿形は、もちろん、所変われば、で、元のインドのものから、中東の影響を受け、さらに、ヨーロッパ風に変えられています。例えば、インドでは、戦いに使われた像を模した駒が、ヨーロッパではビショップ(聖職者)に姿を変え。 各競技者につき駒は16個。王と女王が各1駒、ルーク(城の形をした駒である事が多い、オリジナルの意味はチャリオット・戦車)が2駒、ビショップ(聖職者)2駒、ナイト(騎士)が2駒、残り8駒はポーン(歩兵)。上の写真は、左から、戦士を模っ

大英博物館

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先日、久しぶりに、大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)の中に入ってきました。ロゼッタ・ストーン、エルギン・マーブルズ、エジプトのミイラ・・・内部の有名展示物を、いちいち数え上げていてもきりがありませんので、今日は、ざっと、博物館と建物の歴史を書いてみることにします。 大英博物館の設立は、18世紀中ごろに遡ります。そのきっかけとなったのは、上の彫刻の人物、ハンス・スローン(Hans Sloane)。彼は、アン女王、ジョージ1世、ジョージ2世に仕えた著名な医師であり、アイザック・ニュートンの後を継いで、イギリスの科学学会である王立協会(ロイヤル・ソサイエティー)の会長ともなった人物。彼は、今は、瀟洒な高級住宅地としても知られるロンドンのチェルシーにあった荘園を購入し、その土地は、現チェルシー・フィジック・ガーデン(チェルシー薬草園)の基となっています。このため、「スローン・スクエア」を初め、チェルシー周辺には、彼の名が由来の土地名が点在します。 さて、ハンス・スローンは、その他に、精力的な収集家としても知られ、彼が収集した本、写本、動植物等の標本、鉱物、コインやメダル、版画、デッサン等を含む骨董品の数々、あわせて7万1千点が、彼の死後、彼の子孫が、2万ポンドを受ける事を条件に、ジョージ2世に寄与され、1753年、このコレクションを母体として大英博物館設立の法が通ります。放置状態であった17世紀の貴族の館、モンタギュー・ハウスが博物館用に購入され、1759年1月より、内部は一般公開となります。この頃から、知識欲のある一般庶民のため、と入場料は無料。2つの世界大戦の最中を除けば、以来、その門を閉じた事がありません。 基になったスローンのコレクション内の、多くを占めた動植物、鉱物標本等は、後に、 ロンドン自然史博物館 へと移動されます。 大英博物館のコレクションは徐々に拡大していき、1823年に、ジョージ4世が、父であるジョージ3世の図書館(キングス・ライブラリー)の本、6万冊を国に寄贈した際に、ついに、モンタギュー・ハウスは手狭となり、同地に、ロバート・スマーク設計による、古代ギリシャの影響を受けた現博物館の建物の建設が開始されます。この完成は、1852年。 上の写真は、ロバート・スマーク設計による現館内で、一番最初に完成された棟にあるキングス・ラ

アデルの恋の物語

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この映画の原題の直訳、「アデル H の物語」のHは、ユゴー(Hugo)の省略。「レ・ミゼラブル」で知られる、フランスの文豪、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo)の次女、アデル・ユゴーの狂気に至る片思いの物語で、実話が元となっています。アデル役は、感情を赤裸々に表現する役をやらせたら天下一品の、イザベル・アジャーニ。うら若き彼女の、出世作でもあります。 共和主義者であったユゴーは、1851年に、フランスでナポレオン3世が台頭した後、一時ベルギーに亡命、後にガーンジー島(イギリス領、イギリス南部とフランス北部の中間にある島)に居を構え、ナポレオン3世失脚まで、そこで暮らす事となります。娘のアデルは、ここで、イギリス軍人、アルバート・ピンソンと出会い、恋に落ちるのです。ピンソンが軍と共に、カナダの東岸に位置するハリファックスに駐屯となり去った後、彼を追って、ハリファックスへと一人海を渡る。映画は、彼女がハリファックスの港に辿り着くところからスタート。 父が、世界に名の知れた文豪だという事を隠すため、偽の姓を使い、気のよい老婦人の家に下宿しながら、ピンソンを探し当てたものの、美男子でプレーボーイのピンソンにとって、アデルはすでに、過去の女。結婚を迫る彼女に、彼は冷たく、ガーンジーへ帰れと言う。 アデルは、毎日の様に恋文をしたため、彼を追い回し、彼の元へ、自分からのプレゼントだと、売春婦を送りつける様な事まで始めるのです。ピンソンがつれなくすればするほど、アデルの偏執ぶりはエスカレートし、ついには精神のバランスを失う。母の病状の悪化の通知にも、やがての訃報にも、ヨーロッパに帰る気配をみせず。そして、ピンソンの軍がバルバドス島へと移ると、再び後を追い、バルバドス島へ。浮浪者の様にポロをまとい、朦朧とバルバドスの道を歩き回る彼女。もはや、ピンソンの顔も認識できぬほど狂ってしまう。奴隷制度反対者としても有名であったヴィクトル・ユゴーのためにと、現地の心ある黒人女性は、道で倒れたアデルを看護した後、彼女をエスコートし、父の元へ送り返すのです。アデルは、精神病院で、長い余生を送る事となります。映画によると、ガーデニングと書き物に勤しんで過ごしたと。 ハリファックスの本屋で、アデルはいつも手紙用の紙を買うのですが、当時の紙は、けっこう硬そうな漂白されていないも

ジキル博士とハイド氏の奇怪な事件

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ジキルとハイドと言えば、二重人格者や善と悪の権化、の代名詞として、日本でも、また、世界中で、もはや慣用句的に使われている感じです。 小説「Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde ジキル博士とハイド氏の奇怪な事件」を書いたのは、 「Treasure Island 宝島」 で有名な、スコットランド出身のロバート・ルイス・スティーブンソン。比較的短く、それは良く書けているので、「宝島」同様、あっという間に読めます。ジキルとハイドがいかなる人物でどういう関係にあるか知らない出版当時の読者は、推理小説風な話の展開も楽しむ事ができたことでしょう。ロンドンの霧が何度も言及され、ガス灯の明かりがちらつくロンドンの路地に、霧が立ち込め、その中を、こつこつと靴音を立て歩く人影のイメージが、全編に流れる小説です。 出版は、1886年。1887年には、すでに舞台版が登場し、アメリカのボストンで幕が開き、その後、芝居はブロードウェイでも開き、1888年の夏には、ロンドンの舞台にかかるのです。そして、その後すぐに東ロンドンで起こるのが・・・「切り裂きジャック」による殺人事件。マント姿で、夜を徘徊するハイドの姿は、切り裂きジャックのイメージと重なり、読者と、芝居の観客に、さらなる恐怖を引き起こすのです。本人の、ロバート・スティーブンソンは、戯曲版をあまり好意的には見ていなかったようではありますが、作品の著名度を更に押し上げるのに貢献。 さて、話のあらすじは、 弁護士のアターソンと、彼の遠縁にあたるエンフィールドが、ロンドンの一角を散歩している際、2人は、荒れた感じのとある建物のドアの前を通りかかる。エンフィールドは、その家のドアで起こったある事件をアターソンに語り始める。 エンフィールドの話とは・・・ある冬の明け方、界隈を歩いていた時、道の角で、不快な人相の小男と、逆方向から駆けて来た少女がぶつかり、小男は、転んだ少女の体を残酷に荒々しく踏みつけたのだ。それを目撃し、すぐに小男を捕らえたエンフィールド。少女の周りには、少女の親を含んだ少数の人だかりが出来ていた。小男は、警察へ訴えられる代わりに、幾らかの金を、少女の両親に慰謝料として払う約束をし、エンフィールド達を、この家のドアの前に連れて来る。そして鍵を使いドアを開け中へ入り、小切手を持っ

映画版「ジキル博士とハイド氏」

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このアメリカ映画は、ロバート・ルイス・スティーブンソン著 「Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde ジキル博士とハイド氏の奇怪なる事件」 を基にしていますが、ストーリーラインは、かなり原作と違いますので、原作が好きな人は、比べるとがっかりする可能性ありです。原作を読んでいない人、または、全く別物として見ると、それなりに楽しめます。 霧の都、ヴィクリア朝のロンドン。名声高い医師であるジキル(フレドリック・マーチ)は、人間は内部に善と悪の2面性を持ち、サイエンスの力により、その2つを分割する事が可能である、という意見を持つ。彼は、美しいミリアムと婚約が決まってはいるものの、結婚が待ちきれず、ミリアムの父に、即座にでも結婚させてくれるように頼むが、断られる。悶々とするジキルは、夜のロンドンで、暴力を振るわれていた売春婦、アイヴィーを助け、アイヴィーは美男で紳士的なジキルにちゅーっとキスをし、スカートをめくり上げ足を見せて、友人と共に去るジキルに、「また会いに来てね」。これが、彼女の大失敗となります。 結婚を早める事ができない上、ミリアムは、父と、数ヶ月ロンドンを離れてしまい、ついにジキルの辛抱が切れる。自分の様な、守るべき名声のある男が、ロンドンの町を徘徊して、女遊びをし、羽目をはずすわけにもいかない。そこで、実験の結果作り上げた、邪悪な心を、善から分離し解き放つ薬をがぶがぶっと飲み干し、ジキルはハイドに変身。これで、おおっぴらに好きな事ができると、ハイドは、アイヴィーを探し当てるのです。アイヴィーは、ハイドのゴリラの様な様相と粗悪な態度に恐れおののき、嫌々ながら、愛人となり囲われることに。 やがて、ミリアムがロンドンへ戻ったと知ったジキルは、ハイドに変わる事を諦め、アイヴィーを離れる決意をする。そして、ミリアムの父からは、念願の、結婚式の日付を早める約束を取り付ける。ところが、ジキルの中に存在するハイドが、強くなりすぎていたため、薬を飲まずにジキルはハイドに変わってしまうのです。そして、アイヴィーの元へ現れ、アイヴィーを絞殺。更にはミリアムまでに襲い掛かろうとするのを、警察と、事の次第を知った医師の友人に追われ、銃で撃ち殺される。倒れたハイドの顔は、徐々に、ジキルの顔へともどり、ジ・エンド。 映画が、原作と大幅

チーム・アメリカ ワールド・ポリス

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米のアニメ「サウス・パーク」のクリエーター達の手による映画。サンダーバードまがいの、糸釣り人形達が主役です。「サウス・パーク」同様、時に下品で、「そんな事、言って、怒られちゃうよ!」と思うような、何から何まで笑い飛ばすギャグがいっぱいです。 何かなら、何まで笑い飛ばす・・・米のトリガー・ハッピー(trigger happy:何かにつけ、すぐ拳銃の引き金を引く)カルチャーから、自分達の命や愛や悲劇に対しては非常にセンチメンタルなリアクションをするのに対し、他国の人命や生活には、ほとんど敬意を見せない態度、「世界の警官を自負する」米の右派、即感情的になる左派、自己の重要性に陶酔するハリウッドのスター達、そして、北朝鮮のキム・ジョンイル。巨大トンボめがねをかけたキム・ジョンイルの人形は、見るだけで可笑しいのです。ストーリー・ラインは、典型的ハリウッドのアクション・ヒーローもの映画のパターンを踏んで、そういった映画もコケにしている気がします。 簡単なあらすじは・・・俳優であった主人公、ゲイリーが、世界をテロの恐怖からを守る「国際警察」チーム・アメリカに招聘され、カイロでテロリストを攻撃するオペレーションに参加する。テロリスト達はその報復にパナマ運河を爆破。これに反応して、ハリウッドの俳優達などから、「責任はチーム・アメリカにある」と大きな批判を受ける。ゲイリーは、このため、自分のやっている事の意義を見失い、幻滅し、チームを離れる。落ち込み、考えた挙句、再び、正義の心が燃え上がり、北朝鮮のキム・ジョンイルを相手に、危機に瀕するチームに合流し、チームメイトを救い、さらに、世界を救う・・・というもの。メンバーの中には、幼いときの出来事で、トラウマを持っている者もいますが、これも、精神科医の好きな米の傾向をおちょくっているのでしょう。もちろん、これに加え、チーム内の男女のラブストーリーが絡むのは言うまでもありません。なんと、人形同士のエッチ・シーンまであるのです。 パリで、エジプトで、チーム・アメリカは、テロリストを追いかけ、ミサイルや銃を撃ちまくり、エッフェル塔、凱旋門、ルーブル美術館、ピラミッド、スフィンクスまで、次々に破壊。 チーム・アメリカに反対する、アレック・ボールドウィン率いる俳優団体が、Film Actors Guild を省略して、F.A.G(f

毒薬と老嬢

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ハロウィーンも近づいてきたところで、こんな映画はどうでしょう。 「Arsenic and Old Lace」(毒薬と老嬢)は、同名舞台劇の映画化で、舞台劇の方も、ブロードウェイで人気だったようです。最初の結婚登録所のシーン以外は、ほとんどが、老嬢たちが住む館の同じ室内が舞台の、スリラーを装った、はちゃめちゃコメディー。純粋に、笑わす事が目的の娯楽映画ですので、人物描写などは、超表面的、主役のケーリー・グラントの演技は、歌舞伎役者もびっくりなほど、大げさですが、気にしない、気にしない。突拍子もない展開とギャグを楽しめば、それでいいのです。 結婚に批判的であった劇批評家のモーティマー・ブルスター(ケーリー・グラント)が、叔母達の家から墓場を越えたむかいに住むイレーン(プリシラ・レイン)と、ハロウィーンの日に、人目を忍んで、結婚登録所で結婚する。2人は、即座に、ナイアガラの滝へのハネムーンに出るはずが、叔母達の家に戻り、イレーンの出発準備ができるのを待つ間、モーティマーは、虫も殺さぬような、愛らしい慈善家の叔母達が、実は連続殺人犯であると気づくのです。 彼女ら、寂しそうな天涯孤独の男性を接待しては、ヒ素や青酸を混ぜたエルダーベリー・ワインを出し殺害。彼女らにしてみれば、それは、老人達を、寂しい余生から開放する慈善行為のつもりなのです。そして、ちゃんと、キリスト教徒としてのお祈り等を捧げてから、館内の地下室へ埋め、その死体の数はすでに、11人。12人目の死体が、窓の下の箱に隠されているのを見つけたモーティマー。叔母達が、平気のへいざで、自分達が殺したと告げると、モーティマーは、大パニックに陥るのです。地下室の墓掘りの手助けをするのは、ちょいと頭のおかしいモーティマーの叔父のテディー。自分を、セオドア・ルーズベルト大統領だと信じる彼は、地下室で穴を掘る事で、パナマ運河の建設をしていると思い込み、また、叔母達の殺人の被害者を、黄熱病の被害者と思い、埋葬するのです。 そして、その夜、現れるのが、叔母達のもう一人の残虐な甥っ子、ジョナサン。長い間、故郷を離れ、殺人なども犯してきたジョナサンは、整形外科医のアインシュタイン医師と共に、叔母達の家に居座ろうとする。人相を変えるために、何度もアインシュタイン医師により整形手術を受けてきたため、ジョナサンの顔は、フラ

コーラス

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1949年、大戦後のフランス。戦争孤児や問題のある家庭の子供を集めた寄宿学校を舞台にした物語。学校の名は、いかにもダメそうな「沼の底」。素行が悪く、校長から、きつい罰則を食らってばかりいる子供たち。校長の方針は、アクション・リアクション。アクション(悪さ)をした子供には、リアクション(体罰を含む厳しい罰則)で対応する、というもの。 そこへ、雪の中、新しく赴任して来る教師が、クレマン・マチュー。作曲家となる夢は捨てたものの、まだ音楽を愛する彼は、子供たちに歌う事を通して、自然に規律と良い行いを教えていく。初日から、子供たちに「禿げ頭!」と罵られる彼の、お人よしのおじさん的風貌が好感です。 彼の存在によって、人生が変わった2人の生徒が50年ぶりに再会するところから、映画は始まります。1人は戦時中のナチスの占領下で、両親が死んでしまったにも関わらず、「いつか、お父さんが土曜日に自分を迎えに来る」と信じ、いつも土曜日に学校の門で外を眺め立っていた少年、ペピノ。もう1人は、仕事に追われる母親しかおらず、問題児となり学校に預けられたが、音楽の才に恵まれた「天使の顔をした小悪魔的悪がき」であった少年、ピエール・モランジュ。クレマンが結成した学校のコーラスで、歌う事で、人生の目的を見つけたモランジュは、やがて、著名な音楽家へと成長するのです。 壮年のモランジュの元へ、ペピノが、クレマンが「沼の底」で教鞭を取っていた期間につけていた日記を抱えて訪れる。2人は、その日記を開いて、共に読み初め、クレマンが「沼の底」へ赴任してから、去るまでの、物語の本筋が始まります。 悪がきどもを、音楽の力で変えていく事によって、クレマンも、捨てかけた音楽への情熱が再浮上し、子供達のコーラスのために一生懸命作曲も始めるのです。いつも悲しそうで、勉強や他の事への気力があまりないペピノには、特に気を使い可愛がり、また、モランジュの音楽の才に気づくと、彼が、後にスカラーシップを取り音楽学校へ行けるよう手助けをする。そして、学校を訪れてくる、モランジュの美人の母親に、ちょっと惚れてしまうというエピソードもあります。歌も歌えないペピノは、先生のアシスタントとして、メトロノームのわきにちょこんと座り、とんでもない音痴の子は、人間楽譜台の役を果たすのも微笑ましいです。そうして、夏が来る頃には、子供た

女相続人

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オリビア・デ・ハヴィランドと言うと、「風と共に去りぬ」のメラニー役のイメージが強い人です。ヘンリー・ジェームズ作1880年出版の小説「ワシントン・スクエア」を基にした、この「女相続人」で、彼女は、巨額とニューヨークのワシントン・スクエアにある立派な屋敷を相続する予定の娘の役を演じています。ワシントン・スクエアは、19世紀は、裕福で瀟洒な場所だったようです。 19世紀中ごろのニューヨーク。キャサリン(オリビア・デ・ハヴィランド)は、気はやさしいが、容姿は普通、内気で、社交技術が無く、身のこなしなどもぎこちない。家で刺繍などをしている方が、ダンスに出かけるより好きなタイプの女性。父の、スローパー医師(ラルフ・リチャードソン)は、美しく、明るく、社交的であった亡き妻と、似ても似つかぬ娘を比べ、失望を感じずにいられない。 叔母に連れて行かれたダンスで、キャサリンは、モリス・タウンゼント(モンゴメリー・クリフト)に出会う。誰からも相手にされなかったキャサリンに、タウンゼントはダンスを頼み、大層な関心を彼女に見せる。翌日、さっそく彼はキャサリンを、彼女の家まで訪ねてくる、そして、瞬く間に、彼女に愛の告白をし、求婚。タウンゼントを気に入っている、いい加減な叔母さんからもけしかけられた上、男性慣れしていないキャサリンは、色男に言い寄られ、ぽーっとなり、結婚を承諾。 チャーミングな甘いマスクの男が、大してとりえも無い娘に、一目ぼれするなど、これは財産目当てに違いないと睨んだスローパー医師は、タウンゼントの身元を調べたところ、文無しで、仕事と呼べるものも無い事を発見。2人に結婚を諦めさせようと、キャサリンを連れて、ほとぼりが冷めるまで、と、ヨーロッパ旅行へ出る。ところが、初めての恋に夢中のキャサリンは、気を変える様子を見せず、そのまま帰国。業を煮やした父は、ついに、事実、「刺繍しか良いところのないお前に惚れたなどというのは、財産目当てだ」の様な旨を彼女に告げるのです。まあ、私が親でも、娘より、ワシントン・スクエアの家の方がずっと好きそうな、このタウンゼントの事は、諦めさせようとすると思いますけどね。娘の金が手に入るや、湯水の様に使い果たすのは見えている。ただ、彼の言い方が、あまりにも無骨で、娘の心にずっきーん。 父から、全く愛されていなかったと思ったキャサリンは、タ

アモーレス・ペロス

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愛の痛み、喪失の痛みを、メキシコシティーを舞台とした3つのストーリーを追って描いていく映画。最初はギャングスター映画まがいのカーチェイスで始まり、やがて起こる交通事故で3つのストーリーが遭遇しますが。 *一筋目:オクタビオとスザナ 乱暴者の兄の若い妻スザナに恋してしまった弟オクタビオ(ガエル・ガルシア・ベルネル)。オクタビオは金をためて、スザナと彼女の子供を連れてどこかへ夜逃げしようと計画をたて、愛犬を使い闘犬で金儲けを始める。恋と欲望に無我夢中で、ついには、冒頭のカーチェイスの末、交通事故に巻き込まれる。 *二筋目は:ダニエルとバレリア オクタビオのひき起した交通事故に巻き込まれ、重症を負ったモデルのバレリア。ファッション雑誌出版者の愛人ダニエルが、やっと妻と別れ、二人は一緒に暮らし始めた矢先。もうモデルとしての復帰の見込みもなくなり、落ち込むバレリアと、仕事と彼女の看護に疲れるダニエルの関係は緊張し、罵り合いに展開する。バレリアの心の安らぎだった愛犬も、床にあいていた穴に落ちてしまい、這い上がってこられず、床下に何日も閉じこもったまま。 *三筋目:エル・チボとマル 平凡な教師であったが、ある日、より良い社会を作ろうという情熱に駆られ、ゲリラ活動を始めるため、妻と2歳の娘を置いて出て行った男、エル・チボ。20年間の刑務所送りになり、出てきてからは、リヤカーを押してのゴミ拾いと、殺し屋として生計をたてる。再婚した妻には背を向けられ、それでも娘、マルが愛しく忘れられない。浮浪者のような生活の中、何匹もの飼い犬に愛情をそそぐ。たまたま、交通事故に居合わせ、傷を負っていたのオクタビオの愛犬を助け出し、手当てをするのだが、闘犬で鍛えたこの犬、良くなるや、エル・チボの他の犬を全部かみ殺してしまい・・・。死んでしまった犬達の前で子供の様に泣きじゃくるエル・チボ。オクタビオの犬を撃ち殺そうと拳銃を向けるものの、殺せずに、犬の頭を殴って、「こんな事してはだめだろう!」と叫ぶのみ。 3人の主要人物は全て犬を飼っていて、その犬の状況が、主人公たちの心と生活の状況を反映しています。 最後の、エル・チボの話が一番好きです。彼の傷ついた聖人のようないでたちと顔つきも良いのです。エル・チボは、やがて、もじゃもじゃ髭をそり、髪を短く切り、住んでいたボロ屋を

ローサのぬくもり

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人間は一人で生き、一人で死ぬものじゃ、などと言ってみても、一人はやはり寂しいのです。社会的動物ですから、他者との交流は生きるうえで大切。社交的な鳥だといわれるオームやインコも、一羽だけ檻に入れられ、誰も話しかけず、かまわないでいると、ノイローゼになり、頭を檻に叩きつけたりすると言います。 セビリアの、柄の悪そうな郊外の安アパートで一人生きる、心荒れたマリア。彼女のもとに、田舎の母ローサが、市内の病院に入院した父の見舞いの都合で、数日、泊まる事になる。その短い期間の母と娘、また同じ建物の階下のアパートに犬と住むやさしい老人との心の交流、新旧世代の感覚の違い、都会生活の孤独を描いた映画です。 どしんとした風情のローサは一世代前のスペインのお母さん。乱暴なだんなに、罵られ、時に手を上げられたりしながらも、じっと我慢し、忠誠を尽くし続けた彼女。父から教育を受ける事を許されなかったマリアは、自分は、父の言うなりで生きてきた母のようにはならない、と気負って都会に出たものの、心無い男に振り回され、生きがいも無く、掃除の仕事で生活をたて、アルコールで憂さをはらす。お腹にはその男の子供も身ごもってしまい。男は、結婚する気も、子供の面倒を見る気も全く無く、おろせと言う。 最初は、ローサへ刺々しい態度をとったマリアが、母の静かな暖かさに、徐々に、心がゆるんでいく。閑散としたマリアの部屋が、映画の終わりには、ローサの手で温かみのある部屋へ変わり、マリアの心の変化を見るよう。ローサの買ってきた花の鉢、彼女が拾ってきて、編み物をしながら座っていた椅子、彼女が編んでくれたカーディガン。大体、このアパート、安アパートと言いながら、廊下や床、室内の壁のタイルがなかなか素敵なので、お金と手をかけてあちこち修理すれば、お洒落アパートに変身しそうです。 ひょんな事から、ローサと知り合った階下の老人は、短期間でも、ローサとの交流が心の支えとなる。そして、彼女が、退院した夫と田舎に帰ってしまった後、老人は、今まで、口を利いた事がなかったマリアのドアをノックするのです。2人で、飲みながら語らううち、マリアは、老人に、都会の生活で、誰とも口を利かず、感情を内に溜め込むあまり、内臓が焼けそうだとぐちり、また、お腹の子供をおろそうかという話を老人に打ち明ける。老人は、マリアがもし子供を生んだら

パンズ・ラビリンス

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1944年、フランコ将軍政権下、内戦(1936-1939年)の傷跡残るスペインを舞台にしたの映画。題名のパンは食パンではなく、ギリシャ神話に出てくる半人半獣のパン神。 主人公は、少女オフェリア。父親は内戦中に死亡。母親は、フランコ下のサデスティックな指揮官ヴィダルと再婚。ヴィダルの子を身ごもっています。ヴィダルは反フランコのレジスタンス一掃のために、森の中の司令部にとどまっていますが、映画は、オフェリアと母が、この司令部に移るところから始まります。 彼らが生活する家の家政婦メルセデスと、出入りする医師はレジスタンスの一味で、背後で、レジスタンスの活動を手伝っていますが、残忍なヴィダルの元での、このような活動は、ばれたら終りの命がけ。見ていてはらはら。顔をそらしたくなる場面もいくつかあります。捕らえたレジスタンスの一人を、ヴィダルが拷問にかける場面が特につらかった。顔を覆い、「うぎゃー。」とうめいてしまいます。 こんな現実を背景に、物語のもうひとつの筋は、オフェリアのファンタジーの世界。ラビリンス(迷宮)に迷い込んだオフェリアは、そこであったパンに、自分は迷宮のプリンセスであるかもしれない、と告げられ、それを証明するために、3つの課題を渡されます。 ファンタジーの世界での圧巻は、何と言っても、上の絵の、手のひらに目玉がある、子供を食べるモンスター。フェアリーを捕まえて、むしゃむしゃっと食べるこのおばけが、私の後を追いかけてきたら、一体どうしてくれよう。このシーンをUチューブで 見てみましょう 。 現実とファンタジーの間を行きつ戻りつしながら、非常時を利用して残忍な本性をむき出しにする人間が恐ろしくなり、また、弱そうに見える人物が、追い詰められた際に見せる勇気に感動し。映像もそれは美しいです。 メルセデスが、怖がるオフェリアに歌って聞かせる子守唄が映画全編を流れるテーマ曲。終わったあとも、心の中で鳴っていました。 スペインの内戦というのは、私には、どうしても把握しにくい歴史事項です。何度か、それに関した分厚い歴史の本を読もうと試みたのですが、ややこしくて途中でやめてしまい。左派が、内部のイデオロギーの違いから、今ひとつ、まとまった目的と行動が取れなかったのに対し、フランシスコ・フランコ率いる右派は、多少の違いはあれ、達したい目的がほと

きらきら星と窓税

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きらきら光る、お空の星よ・・・と、世界中で、バイオリンなどの楽器を習い始めたばかりの子供達が、きこきこと弾くこの曲の英語の題名は、「Twinkle, twinkle, little star」。メロディーはフランスのものだそうですが、歌の詩は、イギリスの詩人、ジェーン・テイラーによるもの。1806年に出版された彼女と、姉のアン・テイラーによる詩集「Rhymes for the Nursery」に、「The Star」の題名で挿入されています。 Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are. Up above the world so high, Like a diamond in the sky. When the blazing sun is gone, When he nothing shines upon, Then you show your little light, Twinkle, twinkle, all the night. Then the traveller in the dark, Thanks you for your tiny spark, He could not see which way to go, If you did not twinkle so. In the dark blue sky you keep, And often through my curtains peep, For you never shut your eye, Till the sun is in the sky. As your bright and tiny spark, Lights the traveller in the dark. Though I know not what you are, Twinkle, twinkle, little star. Twinkle, twinkle, little star. How I wonder what you are. Up above the world so high, Like a diamond in the sky. Twinkle, twinkle

エターナル・サンシャイン

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恋愛などで傷心したとき、相手の記憶を脳から全て取り除いてしまえば、幸せになれるでしょうか?そんな手当てをしてくれる医者がいたら、使いますか?フランス人ミッシェル・ゴンドリー監督のこの作品は、そんな事がテーマです。 少々、内向的なジョエル(ジム・キャリー)と開けっぴろげなお姉ちゃんクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)は恋人同士。すれ違いが始まり、2人の関係が悪化したとき、クレメンタインは、好ましくない記憶の除去手術を行うラクーナ社(lacuna:空白の意)に依頼し、ジョエルの事を完全に自分の記憶から削除してしまう。それがわかると、ジョエルも、自分も同じ手術に臨みます。ところが、その過程で、2人で作った数々の、他愛なくもやさしい思い出を捨てがたくなり、脳から消されていく記憶の中を、クレメンタインを連れて、何とか、逃れようと駆け回る。 ジム・キャリーは、血管ぶっちぎれそうな、めちゃくちゃコメディーでの役柄より、こういう普通の役をしている方が、なんか、ちょっいと可愛らしくていいです。「トゥルーマン・ショー」の彼も良かったですが。 さて、この映画の原題の「Eternal Sunshine of the spotless mind」(翳り無き心の永遠の陽光)は、18世紀イギリスの詩人、アレキサンダー・ポープの「Eloisa to Abelard」(エロイーズからアベラールへ)からの引用。この詩は、修道院に入ったエロイーズが、ずっと年上の自分の師であった過去の恋人、アベラールとの恋愛の思い出を嘆くもので、そうした記憶が無いと、どれほど楽か、のような感傷が含まれます。かなり長い詩ですが、映画内で、その一部が暗証される場面があります How happy is the blameless vestal's lot! The world forgetting, by the world forgot. Eternal sunshine of the spotless mind! Each pray'r accepted, and each wish resign'd 清きウェスタの巫女の、なんと幸せである事か! 忘却された世界により、世界は記憶を失くし。 翳りなき心の永遠の陽光! 全ての祈りは受け入れられ、全ての願いは放

ギルバート・グレイプ

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化粧や変装の役が多い感があるジョニー・ディップ。若き日の素顔の彼が、悩める青年、ギルバートとして登場するこの映画は、とてもすがすがしい感じがしました。 ギルバートいわく、「何も起こらない町」エンドーラに住むグレイプ一家。太りすぎで家からまるで一歩も出ない母親、知恵遅れの弟、2人の女姉妹を、自殺してしまった父親に代わり、一家の大黒柱として支えるギルバート。唯一の楽しみは、人妻とのちょっとした逢い引きくらい。この映画のお母さんのように、食べすぎと運動不足で家のドアを通れぬほど、風船のように太ってしまった人など、最近のアメリカ、とても多いのだそうですね。 そんな、窒息しそうな状況の中、一人の少女ベッキー(ジュリエット・ルイス)が、ギルバートの生活に、そよ風のように現れ、彼に転機を与える。可憐なショート・ヘアで自転車にまたがるベッキーの姿には、遠い夏休みの思い出のような、なつかしいさわやかさがあります。 弟、アーニー役で登場する19歳のレオナルド・ディカプリオの、知恵遅れ少年ぶりが、やけに上手いのです。時にお荷物のように感じながらも、やはり可愛い弟のアーニーに対するギルバートの感情も、微妙に、やさしく描かれています。 家族は自分を縛るものでありながらも、やはり捨てられない。そんな家族の拘束を受けながらも、自分の人生もしっかり生きるには、どうすればいいのか。 ジョニー・ディップの出演作品群を見ていて、あまりに美男子であるという事は、映画俳優としては、幸運でありながらも、演技派であろうとする役者にとっては、苦痛にもなるのかも、などと思ったりします。だから、「俺は顔だけじゃないんだ」と自分の顔を隠す厚化粧ものが多いのかな、なんて。素顔、変装に関わらず、私は、今まで見た、彼が出ている映画の中では、これが一番好きです。 原題:What’s eating Gilbert Grape?(何がギルバート・グレイプを困らせる?) 監督: Lasse Hallström 言語:英語 1993年

サンタ・サングレ

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映画にサーカスのシーンが出てくると聞くと、見たくなってしまうタイプです。鮮やかな色と非日常性に惹かれるのでしょうか。サーカス団が常に場所を移動するということからくる、何とは無い寂しさなどもあるかもしれません。 この映画、「サンタ・サングレ、聖なる血」は、究極の非日常でした。通っていた英語学校のクラスメートのスペイン人の女の子と一緒に、確かノッティング・ヒルの映画館まで見に行った懐かしい映画でもあります。見ている最中、大笑いしたり、ぎょえっと叫んだり、はっと息を呑んだり、喜怒哀楽が手に取るようにわかった彼女の素直な反応も、「面白かったねー」と言いながら、2人で映画館から出た事も、良く覚えています。 舞台はメキシコ。ナイフ投げの父の経営するサーカスで育った、主人公のフェニックス。とある町で興行中、浮気した父に食って掛かった母の両腕を、父はナイフで切り落とす!(ぎょえ!)その後、父は、のどを切り自殺。(どひゃ!)これを目撃してしまったフェニックスは、精神に異常をきたす。(そりゃそうでしょう・・・。) 精神病院で大人になったフェニックスを、ある日、腕の無い母が迎えに来る。その日からフェニックスは、二人羽織よろしく、母の腕代わりとなって生活を始める。 すっかりフェニックスの心をコントロールする母は、フェニックスに近づく女性を全て「殺せ」と命じ、フェニックスは次々と殺人を犯す。ヒッチコックのサイコも真っ青の殺人シーン。加えて、このお母さんの狂ったような目つきと笑い声が、不気味。 サーカス時代、フェニックスが恋していた、おしでつんぼの少女、アルマは、そんなフェニックスを探し出し、救おうとする。「ずっと待っていたんだ。」とアルマを抱きしめるフェニックスに、母は、「殺せ」と叫ぶ・・・。 シュールな物語と、展開の意外性、血が沢山出てくるにもかかわらず、詩的な映像で、忘れられない映画となりました。アレハンドロ・ホドロフスキー監督のびっくりするような想像力に拍手。フェニックス役は監督の息子だそうです。 母の手となって舞台でパフォーマンスをするシーンのUチューブのクリップは、 こちら まで。 原題:Santa Sangre 監督:Alejandro Jodorowsky 製作:1989年 言語:英語

ランチはてんとう虫

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我家の庭で、いまや枯れ木の様になって立っている咲き終わったひまわりとひまわりの間、晩夏を謳歌するダリアの間に、沢山の蜘蛛の巣がかかっているのが目に留まるこの頃です。ざっと数えただけで、6つはあります。毎日、どんな虫が巣に引っかかっているかを観察するのが、なんとなく日課となっています。 先日、その中のひとつの蜘蛛の巣に、てんとう虫が2匹ひっかかっていたのを発見。こんな甲虫、食べるところあるのか、などと思うのですが、蜘蛛は、てんとう虫のお腹のほうに頭をうずめて、その体液をじゅるじゅる吸っている気配。もう1匹は、糸でぐるぐるまきにされて、少し離れたところにひっかかったまま。こちらは、次の日の夕飯用でしょうか? この蜘蛛君は、非常に虫のかかりやすい、絶好の場所に巣をはっておるようで、てんとう虫のランチにありつく2,3日前には、この巣に、ミツバチがひっかかり、それを同じように、がしっとつかんでいるのも目撃したのです。その際に、このミツバチをめぐってちょっとした野生ドラマが展開されたのでした。そばをワスプ(wasp:スズメバチ科のハチ)が、徘徊していたのですが、やがて、このワスプ、蜘蛛からミツバチを奪い取ろうと、ミツバチめがけて突っ込み、いきなり攻撃をかけたのです。蜘蛛も、もちろん、黙って、自分のご飯を横取りされるわけはなく、威嚇しながら必死に守っていました。ワスプ攻撃と、蜘蛛防御が、3,4回繰り返されたあと、ワスプはやがて、あきらめて、どこかへ飛び去りました。ライオンが取った獲物を狙う、ハイエナか、禿たかの様でした。ミニチュア版ではありますが。 蜘蛛は、どんなに小さいものでも嫌だという人は、イギリスでもわりといるようです。蜘蛛恐怖症の事を、「arachnophobia アラクノフォビア」と言います。以前、 「ピーピング・トム」 の記事で、ギリシャ語が語源の「-philia フィリア」という語尾で終わる単語は、「-を好む事」を意味すると書きましたが、「arachnophobia」も、ギリシャ語が語源の言葉。ただし、「-philia フィリア」とは逆に、「-phobia フォビア」は、恐れ、恐怖の意味ですので、閉所恐怖症は「claustrophobia」、高所恐怖症は「acrophobia」、外人恐怖症(というより外人嫌い)は「xenophobia」となります。 私はarachn