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イーリー

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イギリスのケンブリッジシャー州、イーリー。この町は、かつては一面の沼地であった ザ・フェンズ の只中にあったIsle of Ely(イーリー島)に築かれ、周辺で良く取れたうなぎ(イール)がその名の由来。フェンの灌漑後、周辺が農地と化した今は、島の感は無いのですが。 イーリーの歴史を遡ると、7世紀(673年)に、イーストアングリア王アナの娘であり、ノーサンブリア王エグフリッドの妃であった、聖エセルレダ(St Etheldreda)が、この地に修道院を築いたのが始まり。この方は、2度結婚しておりながら、ヴァージンとして崇められているのだそうです。 1066年のノルマン人の征服の後、イーリーがノルマンの下に堕ちるのは1077年。侵入が難しい、周りの湿地に助けられ、イングランドで一番最後に、ノルマン政権下に入る土地となります。征服王ウィリアムは、イーリー陥落後、さっそく、イーリー大聖堂の建築開始。 車で、ザ・フェンズを北上し、イーリーへ近づくと、平らな風景の地平線上に、大聖堂が浮かび上がってきます。この姿からでしょうか、大聖堂は、人呼んで「ザ・フェンズの船」(Ship of the Fens)。 大聖堂の建設開始は1081年。完成は、約100年後。 この大聖堂で、最も有名なのがthe Octagon(オクタゴン、8角塔)。上の写真では、右側に見える塔です。これは、オリジナルのノルマン時代の塔が14世紀初めに崩れ落ちてしまったために、その代わりとして30年かけて建て直されたもの。 8角塔より背の高い西塔(写真左の塔)の建築は13から14世紀にかけて。 塔は2つとも、ガイドツアーで登れるようになっています。私たちは、ちょうど8角塔のツアーが出発する前に辿り着いたので、こちらの方に上りました。 塔の骨組みは、巨大な オークの木 が使用されており、これで約400トンの重さを支えているというのですから、たいしたものです。 上の写真は、オクタゴンの天井。 こちらは、オクタゴン側面のパネル。 このパネルのひとつをガイドさんが開いてくれて、下を覗き込むと、こんな感じです。 そして屋上に出て外を眺めます。お天気の日には、ケンブリッジの建物まで見渡せるそうですが、この日は、少々、春霞でほわんとぼやけて、見えませんで

フェン

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大学の町 ケンブリッジ 北部から、リンカンシャー州ボストン辺りまで続く湿地帯、The Fens (ザ・フェンズ、またはフェンランド)。 葦で覆われていたこの地の土壌は主にライム(石灰)が混じった、ピート(泥炭)。かつて、この地に住んだ人々は、魚、うなぎ、水鳥を糧とし、豊富にあった葦は、住処の屋根をふくのに使われ。ぐちょぐちょぐっちょりのフェンに生きた、いにしえのフェンマン達の足には、あひるのような水かきがついていた、などという伝説も流れています。 泥地への侵入の難しさから、この辺りは、11世紀のノルマン人征服の際、イングランド内で一番最後に征服された土地でもあります。 多くのミネラルを含む、フェンの肥沃な土地の灌漑は、遡る事、ローマ時代から、何度か試みられたようですが、17世紀、オランダ人の技師(Cornelius Vermuyden)による灌漑により、初めて、大々的に、周辺一帯を農地として使用することが可能となります。アマ、麻、オーツ、小麦などを育て始め、ロンドンのマーケットへ連れて行く前に、ここで家畜を放牧してたらふく食べて太らせ。ところが、そんな喜びもつかの間、灌漑後しばらく経つと、ピートが大幅に乾燥し、土地が、がくんと低くなってしまう・・・という予期せぬ事が起こり、ついには、土地が、川や水路より低くなり、1700年までには、せっかく作った農耕地は、再び沼地と化してしまったのでした。あーあ。 その後、水揚げのため、風車を設置するなど苦肉の努力をしながら、なかなからちあかず、19世紀に蒸気水揚げポンプの導入でやっと、フェンランドは、農耕地として確立され、現在は、イギリスの重要な穀物野菜の生産地です。 こうした灌漑と農地化をまぬがれた場所はごくわずか。昔ながらの沼地の風景を見るには、ナショナル・トラスト管理の、ウィッケン・フェン(Wicken Fen)へ行きましょう。ケンブリッジからは北東へ約27キロ。 ウィッケン・フェンは、ヴィクトリア朝の昆虫学者たちが、わずか残った手の加えられていない土地を、フェン独特の生態維持のため、1899年に、ナショナル・トラストに寄贈することにより、生き残った、イギリス初の自然保護地域です。ナショナル・トラストの冊子によると、8000種以上の植物、野鳥、とんぼの生息地。 敷地内には、野鳥

Keep calm and carry on

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ペアで揃えてあったケシの花の模様のマグカップのひとつを、床に落として割ってしまいました。ちょっと気が利いた対のマグカップを、また買いたいな、と思っていた矢先、とある店のウィンドウに、上のマグカップが飾られてあるのを見て、「これじゃ!」と思い、購入。 ひとつには Keep calm and drink tea (慌てず騒がず、紅茶を飲もう) のスローガンが書かれ、 もうひとつには、 Keep calm put the kettle on (慌てず騒がず、やかんをかけよう) と書かれてあります。 *キープ・カームは、直訳は「冷静でいなさい」ですが、「慌てず騒がず」の方が語呂が良いと思うので、そう訳しました。 これは、戦時中、ドイツの爆撃に対して、イギリス市民に、落ち着いて日常生活を続けるよう呼びかけた、英政府の発行したポスターのスローガン、 Keep calm and carry on (慌てず騒がず、生活続行) のパクリ商品です。キャリーオンには、「(今やっている事を)続ける」の意があるので、要は、非常時ではあるけれど、冷静を保って、いつもと変わらず日常生活を続けましょう、的な心構えを唱えているわけです。 マグカップに使われているスローガンは両方とも、外でサイレンが鳴り響く非常事態の中、ひとり室内で落ち着いてやかんをかけ、紅茶を飲む、妙に肝の据わった、変なイギリス人を連想させるものがあり、そしてまた、紅茶を飲めば、全てはOKという、紅茶好き国民性も髣髴とさせるところが気に入っています。 実際、この戦時中のポスター(上の写真:英語版ウィキペディアより拝借)の発行数はさほど多くなかったらしく、当時は、それほど人目にとまらなかったようですが、やはり、戦時中の伝説のスローガンともなった 「ビジネス・アズ・ユージュアル」 と同じく、「キープ・カーム・アンド・キャリー・オン」も、今も時々使われます。特に昨今の経済危機を受けて、再浮上している感もあり、こうしたパクリ商品が巷に溢れています。 うちのだんなによると、入院中、看護婦さん用のオフィスの壁にも、このポスターが貼られているのを目にしたそうです。確かに、英語のウィキペディアに、当フレーズは、イギリスの看護婦さんたちの間で、非公式のモットーにもなっていると書かれてあります。

ジャッカルの日

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フレデリック・フォーサイスによる同名小説の映画版です。 1954年から1962年にわたるアルジェリア独立戦争。フランス領アルジェリアには、100万人以上のフランスからの移住者(コロン)が住んでおり、彼らが事実上アルジェリアの政府を牛耳っていました。そこへ、約900万人のアラブ人とベルベル人が、FLN(民族解放前線)に率いられ、フランスからの独立を求めて武力活動を開始。コロンは当然、独立に反対、フランス軍内やパリ政界内にも、独立運動を阻止しようとするコロンへの共鳴派は数多く、フランス政府は、しばらくFLNによるゲリラ活動や戦闘に、武力鎮圧を試み、双方、多くの死者負傷者を出すのです。 このアルジェリア問題をめぐって、フランス政府は困難に陥り、1958年5月、10年以上、政治のセンターステージから離れていたシャルル・ド・ゴールが事態解決のために政界へ帰り咲き。同年6月にフランス第4共和制の首相となり、翌年には、フランス第5共和制の初代大統領となります。 当初、ド・ゴールは、アルジェ独立に、反対するものとの期待をかけていたコロンは、1962年3月に、大統領がアルジェリア独立を承認したことに激怒。7月には、アルジェリアは独立国となります。アルジェ在住だった大半のコロンたちはフランスへ戻る事を選択。うち、強硬派コロンたちは、裏切り者ド・ゴールへの復讐に燃え、彼らがうちあげたOAS(秘密軍事組織)は、ド・ゴール暗殺を企てるのです。 と、前置きが長くなりましたが、ここまでが、映画の背景事実。「ジャッカルの日」は、1962年8月22日に、実際にフランス郊外で起こったド・ゴール夫妻暗殺未遂事件で始まります。このさいに発射された銃発は、128発。ド・ゴールと夫人を含め、奇跡的に一人も怪我を負わずに、車で超スピードで逃げ切り、助かるのです。この暗殺事件に加わったものは、6ヵ月後に処刑という強硬措置。映画のこれ以後の話は、フィクションとなります。 暗殺未遂の後、OASの主要メンバーは、外国からプロの殺し屋を雇い、さらなるド・ゴールの暗殺を謀ることに。そして、彼らが選ぶのは金髪青い目のイギリスの上流風いでたちの青年、コードネームはジャッカル(エドワード・フォックス)。 OASのメンバーのひとりは捕えられ、拷問により、大統領暗殺の計画があること、コードネームがジャ

長距離ランナーの孤独

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ノッティンガムの労働階級の家庭に生まれたコリン・スミス(トム・コートネイ)。低賃金で、近くの工場で働いていた父と同じような人生を歩む以外に、道は無い様な暗い将来。地元の友人と、つまらぬ犯罪に走るくらいしかやる事も無く。父の稼ぎが悪いと始終父と喧嘩していた母。父が死ぬやいなや、保険金で、テレビ、洋服、新しい家具などの購入に走り、大盤振る舞いの上、愛人を家に呼び込む母に、嫌悪を示すコリン。やがて、パン屋に強盗に入り、逮捕され、少年院送りとなる。 少年院の院長(マイケル・レッドグレイヴ)は、院内での労働とスポーツに重きをおき、特に院がスポーツに秀でる事に、非常なる執着を燃やす。コリンの長距離走者としての才能に目をつけた院長は、即、彼を秘蔵っ子として大切にし、「このまま順調に行けば、院からすぐに出れる。」と褒美をちらつかせ、コリンはトレーニングに励む毎日。名のあるパブリックスクール(歴史ある私立校)が、院とのスポーツ競技会に参加する事が決まり、院長はなんとしてでも、コリンを使って、長距離で、このパブリック・スクールを破り、栄誉を得たい。 さて競技の日、コリンは、パブリックスクールの優秀なランナーを追い抜いて先頭を走る。過去の出来事が次々と頭を過ぎる中、ゴールが近づいてきた。大歓声を受けながら、コリンは、ゴールのすぐ前で走るのをやめる。そして、わざと、そのままパブリックスクールのランナーに抜かされ優勝を逃す。コリンは、早期に院を出れる見込みもなくなり、もくもくと院内での労働の日々を続ける事になる。 ***** 少年院で、スポーツに目覚め人生が変わる・・・とそれだけなら「あしたのジョー」ですが、ここはイギリス。院長は、丹下だん平ではなく、エスタブリッシュメント(支配層)の人間。スポーツは、院長にとって、自分の野心を伸ばすためのものであって、少年達の将来を思っての事ではないのです。労働階級の人間の人生は、父の様に、金持ちの工場主に低賃金でこき使われてお終いだと感じるコリンは、院でも、やはり自分が上部の人間の駒でしかない事に気づき、走るのをやめ、院長に「ははー、そうは問屋がおろさない」と、苦い思いを味あわせるわけです。 院を出た後、彼はどんな人生を送ったのでしょうか。走ることは続けたのでしょうか。彼が、それこそ、パブリックスクールで学べるような家庭に生まれて

ピーター・セラーズの労働組合宣言!!

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ピーター・セラーズ出演の、この白黒映画の原題の「I'm All Right Jack」は、「おいらはよろしくやってるぜ」のニュアンスでしょうか。雇い主側、労組(および労働者側)、が双方共、自分達の利権のみを維持するため、あれやこれやの工作に走り、効率がままら無い当時のイギリス産業界をおちょくった映画です。 戦後のイギリス、労組の力は非常に強く、1950年代には、ストライキにつぐストライキがおこり、生産の効率は悪く、その状態は、60年代、70年代にも続き、ついには、サッチャー首相による、労組の改革を待つ事となります。 さて、映画のあらすじは、 第2次大戦後のイギリス。上流階級のおぼっちゃまスタンリー・ウィンドラッシュ。気が良いけれど、ナイーブで単細胞の彼は、特に働く必要はないものの、産業界のマネージメントの仕事でもしてみたいと、いくつかの会社に面接に出かけるが、すべて失敗。そこで、ミサイル工場の重役をする叔父、トレースパーセル氏が、自分の工場で、ブルーカラー労働者として働く条件で雇い入れる。新しい職場で、スタンリーは、工場内の労同組合のリーダー(ショップ・スチュワード)でもあるカイト氏(ピーター・セラーズ)と親しくなり、彼の家に下宿も始める。 工場の労働者たちには、同じ給料をもらいながら、どれだけラクできるかが大切な問題。マネージメント側は、タイム・アンド・モーションと称される、一定時間内で、どれだけの量の仕事をこなせるかの調査しようとするが、労働者達は、一切、それに協力する様子も見せず。ところが、意欲まんまんのスタンリーは、調査に来た人物に、どれだけ自分が、効率的に働けるかデモンストレートしてしまい、その結果から、マネージメントが、生産率向上を行おうとすると、カイトは、労働者達の不満を受けてストライキを宣言。スタンリーは、他の労働者たちより、一生懸命働いたかどで、組合により、1ヶ月、職場の村八分にされる、という処分を受ける。(この処分は、英語で、何故か「Send to Coventry  コベントリーへ送る」と称されます。) 実は、トレースパーセル氏にとっては、このストライキが願ったり適ったり。スタンリーを仕事に着かせたのも、彼が問題を起こし、ストライキの原因となるのを狙ってのものだった。トレースパーセルの友人、コックス氏(リ