長距離ランナーの孤独

ノッティンガムの労働階級の家庭に生まれたコリン・スミス(トム・コートネイ)。低賃金で、近くの工場で働いていた父と同じような人生を歩む以外に、道は無い様な暗い将来。地元の友人と、つまらぬ犯罪に走るくらいしかやる事も無く。父の稼ぎが悪いと始終父と喧嘩していた母。父が死ぬやいなや、保険金で、テレビ、洋服、新しい家具などの購入に走り、大盤振る舞いの上、愛人を家に呼び込む母に、嫌悪を示すコリン。やがて、パン屋に強盗に入り、逮捕され、少年院送りとなる。

少年院の院長(マイケル・レッドグレイヴ)は、院内での労働とスポーツに重きをおき、特に院がスポーツに秀でる事に、非常なる執着を燃やす。コリンの長距離走者としての才能に目をつけた院長は、即、彼を秘蔵っ子として大切にし、「このまま順調に行けば、院からすぐに出れる。」と褒美をちらつかせ、コリンはトレーニングに励む毎日。名のあるパブリックスクール(歴史ある私立校)が、院とのスポーツ競技会に参加する事が決まり、院長はなんとしてでも、コリンを使って、長距離で、このパブリック・スクールを破り、栄誉を得たい。

さて競技の日、コリンは、パブリックスクールの優秀なランナーを追い抜いて先頭を走る。過去の出来事が次々と頭を過ぎる中、ゴールが近づいてきた。大歓声を受けながら、コリンは、ゴールのすぐ前で走るのをやめる。そして、わざと、そのままパブリックスクールのランナーに抜かされ優勝を逃す。コリンは、早期に院を出れる見込みもなくなり、もくもくと院内での労働の日々を続ける事になる。

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少年院で、スポーツに目覚め人生が変わる・・・とそれだけなら「あしたのジョー」ですが、ここはイギリス。院長は、丹下だん平ではなく、エスタブリッシュメント(支配層)の人間。スポーツは、院長にとって、自分の野心を伸ばすためのものであって、少年達の将来を思っての事ではないのです。労働階級の人間の人生は、父の様に、金持ちの工場主に低賃金でこき使われてお終いだと感じるコリンは、院でも、やはり自分が上部の人間の駒でしかない事に気づき、走るのをやめ、院長に「ははー、そうは問屋がおろさない」と、苦い思いを味あわせるわけです。

院を出た後、彼はどんな人生を送ったのでしょうか。走ることは続けたのでしょうか。彼が、それこそ、パブリックスクールで学べるような家庭に生まれていたら、かなり優秀な人物になっていたでしょうに。親の経済力で、ほとんどの場合、子供の将来が決まってしまうような社会は、まずいのです、やっぱり。この頃から半世紀以上経った今、子供の為の良い教育、ひいては良い将来は、ある程度まで金で買えるイギリス社会の問題は、改善どころか、悪くなっているような。

母親が、父の死後に、生き生きと買い物に出かける姿には、迫り来る消費者社会の影響が見られます。稼いだら、即、くだらないものに金を使い、また、一大娯楽となっていくテレビのコマーシャルによって、消費熱は、さらに煽られ。これは、オルダス・ハクスリーの小説「すばらしい新世界」に出てくる人間たちの生活のよう。母から渡された札に火をつけて燃やす行為などで、コリンはこういった世界にも反抗しているように見えます。

映画の中で、賛美歌エルサレムが何度か使われています。この歌は、1981年の映画「炎のランナー」 でも使われていたもの。実際、「炎のランナー」の原題は、エルサレムの歌詞から取られた、「Chariots of Fire」です。こちらの映画は、疎外感を受けるユダヤ人青年が主人公の一人で、陸上に秀でる事で、既存の英国の体制に挑戦するのでした。彼は、オリンピックでの活躍により、自身がエスタブリッシュメントの一員となり成功するので、「長距離ランナーの孤独」よりもアップビートな内容になっていますが。

さて、「長距離ランナーの孤独」は、主人公と同じく、ノッティンガムの労働階級出身の、アラン・シリトーによる、1959年出版の同名短編小説(邦題:長距離走者の孤独)の映画版です。私が学生の頃、翻訳されたものが、わりと日本でも読まれていた記憶があります。イギリスの労働階級とエスタブリッシュメントの関係を、日本のティーンエイジャーがどれだけ把握していたかはわかりませんが、己の益のために他人を駒の様に使おうとする社会上部への反抗、自由の精神が、反抗期の若者の心に共感を呼ぶものがあったのでしょう。

原題:The Loneliness of the Long Distance Runner
監督:Tony Richardson
言語:英語
1962年

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