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6月, 2009の投稿を表示しています

ムーアを渡る風

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ムーア・・・高台の荒地。高い木々がほとんど無いため、一般に、遥かかなたまで景色を見渡すことができます。 ヨークシャー州北東部のノース・ヨーク・ムーアを車で縦断したのは、とある晩夏。 エリア一帯は国立公園に指定され、雷鳥(グラウス)の生息地としても有名です。学校も始まった平日、前後に車の陰は全く無く、ヘザーを食む羊が点在するばかり。暢気な羊たちは時折、道のど真ん中にぼおっと立っているので轢かないように、それは本当のとろとろ運転。景色と静けさを楽しみながら行くので、時々降りたりもしながら、のんびりペースでいいのです。一番高い地点からは、視界を遮るものも無く、天気が許せば、ヨークシャーの東海岸線まで望むことができます。 イギリスとアイルランドは、その比較的湿った天候の影響で、ムーア大国。スコットランドに至っては、領土の半分以上がムーアランドだということです。 ムーアランドでは、地面が常に湿っている事が多く、植物は腐らずに積み重なり、圧迫され、地上に黒い層を作っていきます(ピートと呼ばれるものです)。雨量の多さで土のミネラル分は流れ出てしまい、ヒース、ヘザー等、不毛な地に育つような植物に覆われる事となります。 英国文学で、ムーアと言ってすぐ思い浮かぶのは、シャーロック・ホームズの「バスカビル家の犬」の事件が起こるデボン州のダートムーア。また、小説「嵐が丘」の舞台となり、ブロンテ・カントリーとも称されるヨークシャー州西部ハワース周辺。(ハワースに関しては、過去の記事 「ハワースの石畳」 まで。) さて、その「嵐が丘」(原題:Wuthering Heights)を、今朝、読み終えたところです。 子供の頃、日本語で読んだはずなのですが、何せ大昔。しかも、飛ばし飛ばし読んだ記憶もあります。要は、あまり覚えていなかった。有名なので、当然ヒースクリフとキャシーが荒涼としたムーアを背景に展開する情熱的ロマンスの印象はあったのですが・・・。 読み直してみると、恋愛ものどころか、偏執狂男ヒースクリフの一生をかけた復讐劇。キャサリンも美貌以外は愛すべきところがひとつも見つからない様な自己中女。ヒースクリフに偏愛されるこの1代目キャサリンよりも、娘の2代目キャサリンの方が、じゃじゃ馬性とやさしさを共に持ち合わせ、ヒロイン的素質には溢れているような気がします。情

ブレーブ・ニュー・ワールド

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Brave New World (邦題:すばらしい新世界)は、Aldous Huxley(オルダス・ハクスリー)著の、1932年に出版された、未来社会を描いた一種のSF小説。 日本にいた時は知らず、こちらに来てから頻繁に話題にあがるので読んだ、という本はわりとありますが、これもそのひとつ。つい最近も、ラジオで、この本をテーマにした討論番組があったので、思わず、またパラパラとめくり返し。 世界国家によって統治される新世界。時代は米のフォード自動車会社が、一般庶民用の車、モデルTを世に生み出した年を紀元とし、それ以前はBF(フォード前)、以後はAF(フォード後)。小説の設定はAF632年のロンドン。 フォードのモデルT以前に建っていた教会の十字架などは、モデルTのTの字になるよう、上の部分をちょん切られます。そして、人は、十字を切る代わりに、両手でTの字を形作る。 驚いた時などに、 「Oh, Lord!」 とか、「Oh, God!」などと言いますが、これも 「Oh, Ford!」と変えられ。 高貴な人をさして、Lordshipなどと言うのも、 Fordshipと呼ばれるようになり。 要は、キリスト教の神が、フォードにすり替わってしまったわけです。ここで、神のごとく敬われるフォードが代表するものは、機械と大量生産、個人の特異性の否定と消費社会。 世界国家が目指すものは、消費社会に支えられた生産の継続と万人の満足感を達成する事による社会の安定。 肉親、夫婦、恋愛感情などの個人への執着を促す関係は、憎しみ、心の痛みを生む不安定分子と見られるので、人間は親を持たず、試験管で生まれます。人々は、不特定多数との感情を伴わない交際と肉体関係を奨励され。 また、生まれたときから、階級とそれに付随する職業が決められおり、全ての階級の者が、自分の運命に満足でいられるよう、それに見合った洗脳と催眠教育を受ける。下級階級が不満をもって革命など起こしたら、安定もあったものではないので。 階級は、上から、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロン。ホワイトカラーの職に就く上部の階級はアルファとベータ。上流階級は、他階級の者より、頭も良く、背も高く、美形になるよう作られています。残りの階級は、チャップリンのモダンタイムズよろしく、工場等、同じ作

1年で一番長い日

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やっと夏も本格的になってくる、と思っている矢先に本日はSummer Solstice、夏至です・・・一年で一番長い日、一年で一番短い夜。 昨夜なども、夜10時半頃までうすら明るく、夜行性の動物のはりねずみが、庭でもぞもぞ動き回っている様子をキッチンの窓から眺めることができました。明日から、すでに日が短くなっていくのだと思うと、まだ満喫していない夏がすでに萎えていく様な妙な気分になりますが。ぱっとしない本日の天気ですが、庭に干した洗濯物、乾いてくれるでしょうか。少なくとも、外に出しておける時間は長いわけですが。 この夏至の夜明けを見ようと、うす曇の中、なんと36500人が ストーンヘンジ に集合したと言う事です。毎年あることですが、今年のこの人数は記録的なもの。本日の夜明けは4時58分(ブリティッシュ・サマータイム)。 ストーンヘンジにやってきた人々は、見た目はヒッピー風。古いケルトの宗教ドルイズムを基にするネオ・ドルイイズムをはじめ、異教信者なども集まったそうで。ネオ・ドルイズムは、自然との調和、精神性を歌うものらしいですが、古代コスチュームに身を包み、ドルイド風の儀式や、歌踊り、モーリスダンスなども盛り込んで、夏至の朝を祝ったと言うこと。周辺の交通渋滞などを引き起こし、地元民にはありがたくないお祭りかもしれませんが。 ネオ・ペイガニズム(新異教主義)のスポークスマンの様に、時々メディアのインタヴューに登場する、自称アーサー王の生まれ変わりの、キング・アーサー・ペンドラゴン氏はストーンヘンジでインタヴューを受けて、「とても良い雰囲気。」と言ってました。一部、ドラッグを使用して逮捕される人も出たそうですが。 BBCの関連記事 はこちら。 私は、ストーンヘンジは、かなり以前に車で近郊を通り過ぎたのみ。降りてじっくり見たことはいまだないです。よって、上の写真もイングリッシュ・ヘリテジのサイトから頂いたもの。今年は行く機会があるでしょうか。冬至の日にでも、ドルイド風衣装を着て、行ってみましょうか。

ダーウィンとみみず

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以前、 「ダーウィンが迎える博物館」 でも書いたよう、今年は、チャールズ・ダーウィン生誕200年。「種の起源」出版150年で、何かと話題にあがり、関連のテレビやラジオのドキュメンタリーも沢山見聞きしました。 そんなラジオ番組のひとつで、ダーウィンが一番最後に出版した本は、みみずの研究だったという話を聞きました。その題名たるや、「The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms with Observations on Their Habits」とそれは長たらしいもの。イギリスの土壌を豊かにし、その風景を築いたのは、地下で土や枯葉を消化して排出する無数の、一般人には気にもかけられないみみず達だと。 地下で、腐っていく植物の残骸をシャリシャリ食べては排出し、次代の植物の為の栄養を再生しているみみずの恩恵で、今年も、初夏の植物が風にゆれています。また、不毛だったニュージーランドのある土地に、みみずを導入したところ、土地が豊饒になったという話も聞きました。 木の数が減り、都市が拡大するにつれ、土に含まれるカーボン(炭素)の量も年々減り。農地も毎年毎年多量の穀物野菜を集中的に栽培することで、土壌の栄養が減っているという事です。世界的に、土が、何を育てる力も無い、ただのダスト(埃)と化してしまっているとしたらそれは恐ろしや。 ダーウィンのこのみみずの研究は、ソイル・サイエンス(土壌科学)のさきがけだと言います。  当時の労働階級の多くが工場等で働き、生活に追われていた中、あくせく働かなくとも生活でき、ビーグル号に飛び乗ることも出来たダーウィンはこの上なく、ラッキーではあったわけです。金の心配をせず、研究に専念できた。 彼の、母方の祖父は、陶器のウェッジウッドの創始者ジョサイア・ウェッジウッド。父方の祖父は、医師、自然哲学者のエラスマス・ダーウィン。妻も、いとこであったウェッジウッド家出身のエマ・ウェッジウッド。何もせず、のほほんとしていても生活できたのでしょうが、幸運な境遇と、与えられた時間を非常に有効に使った人ではあります。 「種の起源」は構想から出版まで20年の歳月がかかったという話です。議論の裏打ちに証拠を集め、それを、みみずよろしく、慎重にしゃりしゃり

サマーホリデイの記憶

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私の日本での、小学校の夏休みの記憶は海でしょうか・・・。真っ黒になるまで遊ぶ海。マッチ棒のような人間が片手に浮き輪を、片手にすいかを抱え、にまっと笑い、背景には水色のクレヨンで一筆書きの水平線。そんな絵を、宿題の絵日記に幾度も描いた記憶があります。 うちのだんなの子供時代のアルバムをめくってみても、多いのはやはり海辺でのホリデーの写真。イギリス国内では、何度も行ったと言う南西のデボン、コーンウォール、サマセット州でのホリデーの記憶が強いようです。休みが長いヨーロッパの事、やはり一回に2週間ほどは滞在したようです。 イギリス南西部は家族連れのサマー・ホリデーに人気で、知り合いにも一人、車でキャラバン(日本ではトレーラー・ハウスと言うのでしょうか)を引いて、毎夏出かける人がいます。「キャラバン・クラブのメンバーだ」なんて威張ってましたが。 クレディット・クランチと称される現在の経済危機で、今年の夏は、海外旅行はあきらめ、国内旅行をする家族が増えるのではないかという話です。7、8月の南西部は例年にも増し、賑わうかもしれません。 この写真は、レンタカーでフランスとイタリアへ出かけ、滞在したときのものだそう。 車の形がなんとも・・・。スーツケースを車の屋根に据え付けているところなども、何だか出稼ぎ一家の風情ですが。 金具も壊れ、ハンドルもはずれたこれら古ぼけたスーツケース、だんなは捨てられないようで、子供の頃の本を詰め込んで、ロフトにしまってあります。(男性の方が、おセンチで、思い出の品を捨てられない人が多いと聞いたことがあります。一般論としてあたっているかはわかりませんが、我が家に限っては、その通りのよう。いつの日か、リビングに座ってのんびりテレビでも見ている時に、この思い出の品々の重みで、天井がドーンと落ちてくるんじゃないかと心配してます。) 当時、親しい知り合いが、南仏プロヴァンスに住んでいたそうで、彼らを訪ねがてら、家族4人、プラス叔母さんで、3週間近くの長い休暇を取って、ドーバーからフェリーでカレーへ。カレーから南仏まで、のんびりドライブで到着。緑に囲まれた南仏の田舎家は美しく、驚きと冒険の毎日だったようです。 友人宅にしばらく滞在後、フランスの海岸線を更に車で東へ走り、イタリアへ。最終的にはトリノま

If-

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来週月曜日、22日、おなじみ、ウィンブルドン・テニス・トーナメントが始まります。 今年から屋根が付いたセンター・コート。少なくとも、これからは、目玉の試合は、イギリスの不安定な天気による中断に悩まされる事も無くなり、めでたしめでたし。 センター・コート付属の建物内、選手のコートへの出入り口のそばに、こんな言葉が書かれてあります。試合前にコートへ出て行く選手たちが、必ず目にする言葉です。 "If you can meet with triumph and disaster And treat those two imposters just the same" もし、勝利と大敗というふたりの詐欺師に対面し 両者を同じように扱う事ができるなら 「ジャングル・ブック」 を書いた英国作家、ラドヤード・キプリングの有名な詩、「If-(もし-)」の一節です。 (写真は去年のウィンブルドンのプログラムから拝借。) 去年の決勝。3年続きで、予想されたとおり、当時ワールド・ナンバー1のロジャー・フェデラー対ナンバー2のラファエル・ナダル。ウィンブルドン始まって以来最長の4時間48分、雨天中断時間を入れると6時間40分の熱戦となりました。英国内だけで、1200万人がテレビで観戦したと言います。 ほとんど球が見えなかったという日没直前の夜9時15分に、過去5年連続のウィンブルドン・チャンピョン、フェデラーを、スポ根漫画のヒーローを地で行くような4歳年下のナダルが3回目の挑戦でやっと破ることで終了。そのドラマ性とプレーの質の高さで、すでに記憶に残る限り最高の決勝だったとの話でもちきり。下手なドラマよりドラマ的。翌日の各新聞もほとんどがナダルの写真を1面に載せ報道。 前年、やはり大接戦となった決勝で敗れてしまったナダルは、表彰式では、スポーツマンらしく、さっぱりとした表情を見せながら、ロッカー室に戻った後、「もうこんなチャンスは無いかもしれない。自分はウィンブルドン・チャンピョンになる事はないかもしれない。」と泣べそしていたのを、コーチである叔父さんに「何言うとるんじゃ!」と励まされたという逸話を聞きました。 BBCのテレビ放映は、試合開始予定時間の30分前から始まり、その放映の出だしに、フェデラーとナダルの両選手が、交互に

ロンドン・オリンピックがやって来る

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ロンドン東部、ストラトフォード駅周辺を電車で通り過ぎる時、何も無い何となく荒れた感じの風景の中、幾つものクレーン車に囲まれ、オリンピックのスタジアムがそれらしい形になってきているのがうかがえます。ストラトフォード周辺は、2012年に予定されているロンドン・オリンピックのメインの会場となります。それまでには、この工事現場も、見違えるようになっているのでしょうか。何でも進行がのろいこの国の事、いったい間に合うことやら、と多少の不安があるものの。 2012年は、1908年、1948年に続いて、第3回目のロンドン・オリンピック。過去2回のロンドン・オリンピックについてのドキュメンタリーを見たことがありますが、それぞれの大会の時代背景がわかり、興味深かったです。 1908年 時はエドワード朝。当初はローマで予定されていたオリンピックですが、ベスビオス火山が1906年、4月に噴火を起こし、ナポリの町を破壊。オリンピック準備資金がナポリの再興へと回されたため、ロンドンがピンチ・ヒッターとして選出。1年半で大急ぎで、ロンドン西部、ホワイト・シティにスタジアムを建築。 イギリスの、新興の旧植民地アメリカへ対する敵対心が露骨に表れた大会となります。開会式前、スタジアムに他国の国旗と共に、アメリカの国旗を掲げなかった事から、開会式で、アメリカ団は、国王一家の前を通過した際、敬意を示すための通例であった、旗手が国旗を少し下げるという行為をしませんでした。アメリカ側曰く「この国旗は地上のどんな王者にも、ひれふしない。」 当大会での最大の話題となるのが、初めて42.195キロの距離を走る事になったマラソン。炎天下、一番最初にスタジアムへ駆け込んだのが、小さなイタリア人、ドランド・ピエトリ(写真)。 ところが、息も絶え絶えの彼、ゴールに辿りつく前に倒れてしまう。計5回、倒れては立ち上がるドランドの、後を追ってスタジアムへ入ってきたのは、なんと、憎いアメリカ人、ジョン・ヘイズ!許せん! アメリカ人が優勝するのが我慢できない何人かのイギリス人は、ドランドを後押しして、無理矢理ゴールインさせます。最終的には、他者の力を借りたとして、ドランドは失格となり、ジョン・ヘイズに金メダルがいってしまうのですが、このドラマチックな場面のため、ドランドは国際的人気者となり、女王から、特別

リージェンツ・パークで過ごす夕刻

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ベーカー・ストリート付近に用事で出ると、近くにあるリージェンツ・パークへ足を運ぶのが常です。リージェンツ・パークは、ロンドン北部に位置する大きな公園で、ロンドン動物園もこの一角にあります。初めてロンドンに来た時は春で、この公園の鮮やかな花壇にほれぼれしたのを覚えてます。夏は幾種類ものばらも見事に咲いて。 比較的、人もまばらな夕刻に園内をふらついてみました。デッキチェアでくつろぐ人、芝生の上に横になって日向ぼっこ、バラの茂みのそばで新聞を読む人、子供連れの小ピクニックと、それぞれ、眠たげな空気の中で、思い思いにのんびり時を過ごし。サマー・タイムのイギリスは9時くらいまで外が明るかったりしますので、夕刻もゆっくりとできるのです。 私も、水辺のベンチに陣取り、しばらく読書・・・と思いながら、活字は全く頭に入らず、気が付くと、本は膝の上で景色を眺めてしまうものです。行き交う人々の、世界各国、様々な言語を聞きながら。 ここで、公園の歴史を一発。 この地は、ヘンリー8世の時代から、鹿を放した王家の狩猟場でしたが、イギリス内戦後、クロムウェルは、戦争の負債を払うため、ここから木材用に何本もの木を切り出します。王政復古で、チャールズ2世が王位に着くと、再びこの地は王家に。すでに狩猟は時代遅れとなっていたため、土地は農場として、貸し出されます。 1811年、ジョージ3世狂気の発作のため、プリンス・リージェント(摂政)として政治を見ていた皇太子(後のジョージ4世)は、この地に、緑に囲まれた夏用の宮殿を建てようと、王室お抱え建築家ジョン・ナッシュに周辺の地の設計・デザインを依頼。プリンス・リージェントが途中で心変わりし、バッキンガム・パレスの改造に力を入れたため、最終的には夏の宮殿は建築されませんでしたが、公園の大元は出来上がります。 派手好きの大食漢、浪費家でも知られ、ナポレオンのパリに対抗意識を燃やすプリンス・リージェントは、この他にも、ジョン・ナッシュにリージェント・ストリートを設計させています。(ジョージ3世、4世については過去の記事 「狂ったジョージと太ったジョージ」 まで。) 1835年から公園東側が、一般市民に開放され、後には公園全体が開放される事になります。 公園の中心にある、円形のクイーン・メアリーズ・ガーデ

チップトリーより愛をこめて

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エセックス州ティップトリー(Tiptree、発音はティップトリーなのですが、なぜか日本ではチップトリーと呼ばれているようです・・・)。 平たい大地の続く農耕地帯。ここに1885年創業のウィルキン&サンズ社(Wilkin and Sons Ltd)のチップトリー・ジャム工場があります。英国王室ご用達、007も愛食、世界各国へ輸出との名声からは程遠い、なんとものんびりしたたたずまいであります。 18世紀から、周辺の土地で農業を営んでいたウィルキン家ですが、19世紀中ごろには、果実を専門に育てる農家に移行し、ロンドンなどにも、フルーツを出荷し始めます。産物の移動中に、果実が傷むことなどもあり、1885年、アーサー・ウィルキンは、それでは、摘んだ果実の一部は、自分のところでジャムにしてしまえ、とジャム会社を創業。 1904年から1962年までは、ロンドンへ行く本線とエセックスの海岸線を繋ぐ鉄道支線が、チップトリーを通過していたため、チップトリーからのジャムの出荷は、この鉄道が大活躍して、使用されていました。が、鉄道の赤字削減対策で、60年代に多くの支線が閉鎖されてしまい、この路線も犠牲となります。というわけで、残念ながら、現在は、チップトリーには、鉄道の駅はありません。もし、まだ、チップトリーで止まる電車があれば、外国からの観光客なども、気軽に訪れる事ができるでしょうに、残念ですね。もっとも、当会社のティールームとショップ以外には、チップトリーには、とりたてて見る物があるわけでもないのですが。(60年代のイギリスでの鉄道支線閉鎖については、 こちら まで。) 現在でも、イギリス国内で育成可能な果物は工場の周りや、周辺のエセックスの農地や果樹園で栽培。売れ筋のママレード(Tiptree Orange Marmalade)用オレンジなどはさすがに輸入に頼っているようですが、全てここで選別、調理されているそうです。ウィルキン社のジャムは、一般にフルーツの含有率が高く、「しっかりした果物が沢山入っているぞ。」という感じ。そのわりには、値段も目玉が飛び出るようなものではないし、その辺りのスーパーでも入手できるので、うちは、ジャムといえば、もっぱらこの会社のものばかり買っています。 007こと、ジェームス・ボンドは、ウィルキン社製造の、いちごジャムの一種で