ロンドン・オリンピックがやって来る
ロンドン東部、ストラトフォード駅周辺を電車で通り過ぎる時、何も無い何となく荒れた感じの風景の中、幾つものクレーン車に囲まれ、オリンピックのスタジアムがそれらしい形になってきているのがうかがえます。ストラトフォード周辺は、2012年に予定されているロンドン・オリンピックのメインの会場となります。それまでには、この工事現場も、見違えるようになっているのでしょうか。何でも進行がのろいこの国の事、いったい間に合うことやら、と多少の不安があるものの。
2012年は、1908年、1948年に続いて、第3回目のロンドン・オリンピック。過去2回のロンドン・オリンピックについてのドキュメンタリーを見たことがありますが、それぞれの大会の時代背景がわかり、興味深かったです。
1908年
時はエドワード朝。当初はローマで予定されていたオリンピックですが、ベスビオス火山が1906年、4月に噴火を起こし、ナポリの町を破壊。オリンピック準備資金がナポリの再興へと回されたため、ロンドンがピンチ・ヒッターとして選出。1年半で大急ぎで、ロンドン西部、ホワイト・シティにスタジアムを建築。
イギリスの、新興の旧植民地アメリカへ対する敵対心が露骨に表れた大会となります。開会式前、スタジアムに他国の国旗と共に、アメリカの国旗を掲げなかった事から、開会式で、アメリカ団は、国王一家の前を通過した際、敬意を示すための通例であった、旗手が国旗を少し下げるという行為をしませんでした。アメリカ側曰く「この国旗は地上のどんな王者にも、ひれふしない。」
当大会での最大の話題となるのが、初めて42.195キロの距離を走る事になったマラソン。炎天下、一番最初にスタジアムへ駆け込んだのが、小さなイタリア人、ドランド・ピエトリ(写真)。
ところが、息も絶え絶えの彼、ゴールに辿りつく前に倒れてしまう。計5回、倒れては立ち上がるドランドの、後を追ってスタジアムへ入ってきたのは、なんと、憎いアメリカ人、ジョン・ヘイズ!許せん!
アメリカ人が優勝するのが我慢できない何人かのイギリス人は、ドランドを後押しして、無理矢理ゴールインさせます。最終的には、他者の力を借りたとして、ドランドは失格となり、ジョン・ヘイズに金メダルがいってしまうのですが、このドラマチックな場面のため、ドランドは国際的人気者となり、女王から、特別の金のカップを受け取ります。
1948年
戦後の傷跡残るロンドン。
同年、スイス、サン・モリッツで開催された冬季オリンピックへ出かけた、イギリスのオリンピック視察団は、サン・モリッツの施設、建物の立派さ、食べ物などの質の良さに衝撃を受けて戻ります。金も無く、爆撃でまともな施設も無い首都で、一体、国際的大会が開けるのか・・・。
施設不足もさることながら、競技者が、まともに戦えるよう食べさせる事も大問題。戦時中にもまさる食糧不足で、一家の食料は、いまだ配給制。当大会に出場した一人の選手の母親は、自分の分の配給の肉をいつも息子に食べさせていたというエピソードがありました。
主なスタジアムとしては、サッカーのスタジアムであるロンドン北部のウェンブリー・スタジアムを使い回し、各国選手団は、戦火を逃れた学校や、軍隊の寄宿舎に宿泊。参加する者、見る者にとっても最高のコンディションではなかったものの、戦争が終わり、何か、普通の事ができる、という喜びから幸せムードだったようです。ドイツと日本は、残念ながら、お招きなし。
当然、メダル・テーブルのトップを飾ったのはアメリカ。イギリスは、第12位。開催国が、10位内に入らなかったのは、これが初めてという事。すきっ腹抱え、ぼろぼろ服を身にまといながら、禁欲的がんばり精神で、何とか踏ん張って平和期の大会の皮切りをした「とても英国的なオリンピック」だったという事です。
2012年
パリとの熾烈な選抜戦の後、ロンドンが北京の後のオリンピック開催地に選ばれたのは2005年7月6日でした。
パリ優勢の噂の中、最終選抜会議が行われるシンガポールにて、時の首相トニー・ブレアが最後の外交努力。ロンドンの国際性強調のため、英語とフランス語でスピーチをしていました。白スーツに身を包んだデイビッド・ベッカムの姿も見られ。
一方、時の仏大統領ジャック・シラクは、シンガポールに出向きもせず、最終投票直前、「大体、あんな食べ物の不味い国(英国)の国民など信頼できない。フィンランドの次に、世界で一番不味い食べ物の国だ。」とイヤミ発言。2人いたフィンランドからのオリッピック委員の票は、どちらへ傾いたか・・・よーく考えてみましょう!
選出されての興奮も冷めやらぬ翌日の7日、ロンドンの地下鉄、バスで、イスラム教狂信者による相次ぐ自爆テロ。幾人もの一般市民が負傷、命を落としました。
まだシンガポールにいた、前ロンドン市長、ケン・リビングストンのテロリストへのメッセージとしてのスピーチはとても記憶に残っています。
「・・・数日後、我々の空港を、港を、鉄道の駅を見てみろ。お前たち臆病者の攻撃の後も、英国内の他の地から、世界のあらゆる国から、人々はロンドンにやって来るだろう、ロンドン市民となるために、自分たちの夢と潜在能力を開花させるために。・・・お前たちが何をしようと、何人殺そうと、自由の精神が強く、人々が調和して住む我らの都市へやって来る人の流れを止める事はできないであろう。・・・」
彼は、ロンドンへ戻るや、率先して、自宅から市庁舎への地下鉄通勤再開していました。
前回の市長選では、労働党の不人気と、ロンドンの地方紙、イブニング・スタンダードを敵に回してしまった事、幾つかのスキャンダルの噂が原因で、保守党の候補者、ボリス・ジョンソンに敗れてしまったケンですが、私は比較的好きな政治家です。
ロンドン・オリンピックは、税金の無駄使い、大変な経済危機の中、オリンピックどころの騒ぎじゃないとの反論もあり、北京オリンピックの絢爛豪華な開会式と閉会式の後は、「あれに匹敵するような式をかける金も人力もない」との意見も出てました。
今更、イギリスが、中国の式典に匹敵するようなものを、などとむきになる必要は無いでしょうに。1948年オリンピックの「ボロは着てても」の精神で、経済危機の暗さを吹っ飛ばすような、楽しいスポーツの祭典になるといいですが。
2012年は、1908年、1948年に続いて、第3回目のロンドン・オリンピック。過去2回のロンドン・オリンピックについてのドキュメンタリーを見たことがありますが、それぞれの大会の時代背景がわかり、興味深かったです。
1908年
時はエドワード朝。当初はローマで予定されていたオリンピックですが、ベスビオス火山が1906年、4月に噴火を起こし、ナポリの町を破壊。オリンピック準備資金がナポリの再興へと回されたため、ロンドンがピンチ・ヒッターとして選出。1年半で大急ぎで、ロンドン西部、ホワイト・シティにスタジアムを建築。
イギリスの、新興の旧植民地アメリカへ対する敵対心が露骨に表れた大会となります。開会式前、スタジアムに他国の国旗と共に、アメリカの国旗を掲げなかった事から、開会式で、アメリカ団は、国王一家の前を通過した際、敬意を示すための通例であった、旗手が国旗を少し下げるという行為をしませんでした。アメリカ側曰く「この国旗は地上のどんな王者にも、ひれふしない。」
当大会での最大の話題となるのが、初めて42.195キロの距離を走る事になったマラソン。炎天下、一番最初にスタジアムへ駆け込んだのが、小さなイタリア人、ドランド・ピエトリ(写真)。
ところが、息も絶え絶えの彼、ゴールに辿りつく前に倒れてしまう。計5回、倒れては立ち上がるドランドの、後を追ってスタジアムへ入ってきたのは、なんと、憎いアメリカ人、ジョン・ヘイズ!許せん!
アメリカ人が優勝するのが我慢できない何人かのイギリス人は、ドランドを後押しして、無理矢理ゴールインさせます。最終的には、他者の力を借りたとして、ドランドは失格となり、ジョン・ヘイズに金メダルがいってしまうのですが、このドラマチックな場面のため、ドランドは国際的人気者となり、女王から、特別の金のカップを受け取ります。
1948年
戦後の傷跡残るロンドン。
同年、スイス、サン・モリッツで開催された冬季オリンピックへ出かけた、イギリスのオリンピック視察団は、サン・モリッツの施設、建物の立派さ、食べ物などの質の良さに衝撃を受けて戻ります。金も無く、爆撃でまともな施設も無い首都で、一体、国際的大会が開けるのか・・・。
施設不足もさることながら、競技者が、まともに戦えるよう食べさせる事も大問題。戦時中にもまさる食糧不足で、一家の食料は、いまだ配給制。当大会に出場した一人の選手の母親は、自分の分の配給の肉をいつも息子に食べさせていたというエピソードがありました。
主なスタジアムとしては、サッカーのスタジアムであるロンドン北部のウェンブリー・スタジアムを使い回し、各国選手団は、戦火を逃れた学校や、軍隊の寄宿舎に宿泊。参加する者、見る者にとっても最高のコンディションではなかったものの、戦争が終わり、何か、普通の事ができる、という喜びから幸せムードだったようです。ドイツと日本は、残念ながら、お招きなし。
当然、メダル・テーブルのトップを飾ったのはアメリカ。イギリスは、第12位。開催国が、10位内に入らなかったのは、これが初めてという事。すきっ腹抱え、ぼろぼろ服を身にまといながら、禁欲的がんばり精神で、何とか踏ん張って平和期の大会の皮切りをした「とても英国的なオリンピック」だったという事です。
2012年
パリとの熾烈な選抜戦の後、ロンドンが北京の後のオリンピック開催地に選ばれたのは2005年7月6日でした。
パリ優勢の噂の中、最終選抜会議が行われるシンガポールにて、時の首相トニー・ブレアが最後の外交努力。ロンドンの国際性強調のため、英語とフランス語でスピーチをしていました。白スーツに身を包んだデイビッド・ベッカムの姿も見られ。
一方、時の仏大統領ジャック・シラクは、シンガポールに出向きもせず、最終投票直前、「大体、あんな食べ物の不味い国(英国)の国民など信頼できない。フィンランドの次に、世界で一番不味い食べ物の国だ。」とイヤミ発言。2人いたフィンランドからのオリッピック委員の票は、どちらへ傾いたか・・・よーく考えてみましょう!
選出されての興奮も冷めやらぬ翌日の7日、ロンドンの地下鉄、バスで、イスラム教狂信者による相次ぐ自爆テロ。幾人もの一般市民が負傷、命を落としました。
まだシンガポールにいた、前ロンドン市長、ケン・リビングストンのテロリストへのメッセージとしてのスピーチはとても記憶に残っています。
「・・・数日後、我々の空港を、港を、鉄道の駅を見てみろ。お前たち臆病者の攻撃の後も、英国内の他の地から、世界のあらゆる国から、人々はロンドンにやって来るだろう、ロンドン市民となるために、自分たちの夢と潜在能力を開花させるために。・・・お前たちが何をしようと、何人殺そうと、自由の精神が強く、人々が調和して住む我らの都市へやって来る人の流れを止める事はできないであろう。・・・」
彼は、ロンドンへ戻るや、率先して、自宅から市庁舎への地下鉄通勤再開していました。
前回の市長選では、労働党の不人気と、ロンドンの地方紙、イブニング・スタンダードを敵に回してしまった事、幾つかのスキャンダルの噂が原因で、保守党の候補者、ボリス・ジョンソンに敗れてしまったケンですが、私は比較的好きな政治家です。
ロンドン・オリンピックは、税金の無駄使い、大変な経済危機の中、オリンピックどころの騒ぎじゃないとの反論もあり、北京オリンピックの絢爛豪華な開会式と閉会式の後は、「あれに匹敵するような式をかける金も人力もない」との意見も出てました。
今更、イギリスが、中国の式典に匹敵するようなものを、などとむきになる必要は無いでしょうに。1948年オリンピックの「ボロは着てても」の精神で、経済危機の暗さを吹っ飛ばすような、楽しいスポーツの祭典になるといいですが。
コメント
コメントを投稿