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8月, 2014の投稿を表示しています

ロンドン・ナショナル・ギャラリーで輝くゴッホのひまわり

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生きている間は、絵が1枚しか売れなかったヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh、オランダ風発音はフィンセント・ファン・ゴッホ)。彼が、1890年7月に銃で自殺した6ヵ月後の1891年1月、彼の芸術生活を支え続けた、アート・ディーラーであった弟、テオ・ヴァン・ゴッホ(Theo van Gogh)が、後を追う様にして33歳で死亡。ヴィンセントも梅毒患者であったようですが、テオも、大切な兄に死なれたショックと、梅毒が原因の病気によるものだったそうで、死の直前は気が狂ってしまったとか。梅毒は、この時代にはよくある話だったようですが。 テオの死後に残った数多くのヴィンセントの絵。これらの絵画たちが、この段階であちこちにバーゲン価格で売り飛ばされたり、処分されてしまっていたら、今、フィンセント・ファン・ゴッホの名を知る人の数はほとんどいなかったかもしれない・・・。ゴッホの絵が、世界に知れ渡り、19世紀絵画の巨匠として知られるようになった過程のドキュメンタリーを見ました。 テオ亡き後、残されたのは、テオの妻、ヨハンナ(ジョアナ)・ボンゲル(Johanna Bonger)と、やはりヴィンセントと名づけられた幼い息子。ヨハンナは、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホと実際会ったのは、わずか数回にかかわらず、夫が大切にしていた兄と、その絵画が、世界的に認められるようにする事を心に誓い、生涯を通してゴッホの絵画の保管者となります。彼女の住んだオランダのアパートの壁は所狭しと、ゴッホの絵画で埋め尽くされるのです。 絵画のディーラーの世界には、ほとんど無知だったヨハンナですが、すばやく、絵画宣伝に関する知識を身につけ、ゴッホの絵画に、生前から感銘を受けていた芸術家達に連絡を取り、ゴッホの絵を、あちこちのディーラーや博物館に貸し出し、アムステルダムで彼の展覧会を開き。また、数あるヴィンセントとテオの間の手紙を整理して、ゴッホの絵画の背景を説明する大切な鍵として、これらの手紙も徐々に発表。このため、苦悩の天才ヴァン・ゴッホの生涯のストーリーも、絵と共に世に浸透していくのです。 ヨハンナの手を通して、約200の絵画が、その芸術的価値を理解してくれるような人物達に徐々に売られていきます。このころは、まだ、現在のような目玉飛び出るほどの価格ではなかったのでしょうが。

8月の鯨

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これは、封切りとなったときに映画館へ足を運んでみた映画です。時期的にもぴったりなので、だんなと一緒に、「とてもいい映画だから」と、もう一度見てみました。終わった後、私は、また、あー良かった、としみじみしたのに、だんなは、「何これ、何にも起こらないじゃん。いいのは、比較的短かった事と、あとは景色だけ。」感性の無い男じゃ、まったく。 舞台はアメリカはメイン州沖の小島。海沿いの古い家で夏を過ごす年老いた姉妹、セーラとリビーの話です。この姉妹を、サイレント黄金期のスターで、当時すでに93歳だったリリアン・ギッシュと、意地悪女をやらせたら天下一品のベティー・デイビスが演じた事が話題になっていました。 セーラは、目が見えずに、日に日に気難しくなる姉のリビーの面倒を見ているものの、もう年で、すぐ死ぬからと、何かにつけてネガティブなリビーに徐々に業を煮やし始め、リビーを彼女の娘にまかせ、別々に生活を送ったほうが良いのではないかと思い始める。家事をしていない時は、水彩画をしたり、バザーのための人形を作ったりと、常に何かをやっているセーラを、リビーは、「いつも、いつも、大忙し」となじる。海に向かう壁の小さい窓を、景色が良く見えるような大きな窓に取り替えたらどうか、というセーラの希望にも、老人に新しいものは無用、金の無駄と拒絶するリビー。 この2人の他に、主なる登場人物は、姉妹の昔からの親友ティシャ、そして、ヴィンセント・プライス演じるロシア革命を逃げてきた、ロシア貴族の末裔マラノフ氏、家に出入りする大工のジョシュアのみ。満月を一緒に見ようと、セーラに夕食に招待されるマラノフ氏にも、リビーは意地の悪い事を言う始末。ティシャは、セーラにリビーを離れ、自分の家に住むように誘う。 第1次世界大戦でだんなを失い、セーラは、それは長い未亡人生活。それでも、いまだ、結婚記念日には、白バラと赤バラを一輪ずつ摘んで一人お祝いをするのですが、このシーンがやさしくて良いのです。白バラは真実、赤バラは情熱。人生に必要なのはこの2つだけ、真実と情熱・・・と言いながら、白黒の軍服姿の写真の中の彼にむかいグラスをあげるセーラ。 言い争いの後、「そんなに死に急ぐなら、勝手にすればよい。私には、まだ人生が残っている。」というセーラに、ついにリビーは折れて、大工のジョシュアに、レイバーデー(9月の

旅情

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8月も終わりに近づいてきました。イギリスでは、気温は20度前後をうろちょろしています。もうはや、秋の気配が感じられ、昨夜はかなり冷え込み、場所によっては霜が降りたとか・・・。またひとつの、 ホリデーシーズン が終わる・・・という感慨に、過去の幾つもの夏の記憶が蘇ってきます。それと共に、映画「Summertime 」(サマータイム、邦題は「旅情」)をなんとなく思い起こしていました。 ざっとしたあらすじは、ハイミスのアメリカ人女性、ジェーン(キャサリン・ヘプバーン)が、一人ヨーロッパ旅行をし、長年の憧れの地であったヴェニスへ足を踏み入れる。ヴェニスでアンティークショップを経営するイタリア男、レナート(ロッサノ・ブラッツィ)と恋に落ちて、ひと時を過ごす、というもの。うちの母親は、このロッサノ・ブラッツィが、ロマンス・グレーで素敵だ、と気に入っていましたっけ。 アーサー・ローレンツによる戯曲「The Time of the Cuckoo カッコウの季節」を元とし、監督のデヴィッド・リーンと、「 ザ・ダーリン・バッズ・オブ・メイ 」の作家、H.E.ベイツが脚本を手がけています。 独立した女性と自らを称しながらも、サン・マルコ広場のカフェで一人テーブルに座ると、目に入るのは、仲むつまじいカップルばかりで、やはり少々寂しくなってしまうジェーン。そんな彼女を近くのテーブルから観察していたのがレナート。彼が、よーく、じろじろと物色するのが、彼女の足首でした。見られていると気がついて、どぎまぎと去っていく彼女でしたが、赤いヴェネツィアン・グラスのゴブレットを買おうと入ったアンティークショップが、彼の経営の店で、二人は再び顔を合わせ、ジェーンは赤いゴブレットを彼から購入。お土産を買ったこの店の写真を撮ろうと、彼女がカメラを構えながら、少しずつ、後ずさりをして、運河へ落ちてしまう・・・という有名なシーンもありました。 レナートとデートの約束などもしたものの、彼は実は妻子があると発覚。ショックを受けるジェーンにレナートは妻とはもう愛情が無く、別居状態と説明。そして言うのが、 I am a man and you are a woman. But you say, 'It's wrong...' You are like a hungry chi

聖マーガレット教会

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ウェストミンスター寺院 (Westminster Abbey)のすぐわき、 ビッグベン のある国会議事堂から通りを隔てた向かいに立つ教会は、聖マーガレット教会(St Margaret's Church)。ウェストミンスター寺院のような大きな教会がすぐ側にあるのに、何故に、またひとつ別の教会があるのかね、などと思いますが・・・そのこころは・・・ ヘンリー8世による 修道院解散 が行われるまで、ウェストミンスター寺院はベネディクト派の修道院でありました。一般市民が内部に入ってきては、坊さんたちの静かな瞑想と祈りの妨げになると、一般市民用の教会をすぐ側に作って、「お前さん方は、あっちを使っておくれ」となった次第。最初の聖マーガレット教会は、11世紀後半に建てられたようですが、その後15世紀に建て直され、その後何回か修理、改造の手が入っているものの、大本は同じだそうです。ただし、塔は18世紀前半に建て直されています。 場所柄、イギリス国会の下院にあたるHouse of Commons(ハウスオブコモンズ、庶民院)の教会としても知られています。 この教会は、前回の記事で書いた ウォルター・ローリー卿 が処刑された場所のすぐ側にあり、彼の遺体が埋められている場所でもあります。内部見学は無料ですが、何故か今まで入った事がなかったので、近辺に用事があったついでに、寄って入ってきました。 西側から入り、くるりと振り返って入り口の上にあるステンドグラス。その中心には、ウォルター・ローリーとエリザベス1世の姿が見えます。教会内は写真禁止ですので、上の写真は、私がガイドブックの写真を、更にカメラで撮ったものです。このステンド・グラスのウォルター・ローリーの左側には、ジェームズ1世の若死にしてしまった(よって王にはならなかった)長男ヘンリーが描かれています。何でも、彼は父王によりロンドン塔へ投獄されていたローリーを尊敬しており、彼の塔からの釈放を願っていたのだそうです。エリザベス女王の右側に描かれているのは、ローリーの詩人仲間であったエドマンド・スペンサーそして、ローリーの父違いの兄、ハンフリー・ギルバート。ステンドグラスの下の部分は、ローリーの生涯を綴ったもの。このステンドグラスは、なんでも、アメリカ合衆国で集めた資金で、1888年に設置されたものなのだそう

ウォルーター・ローリーの生涯

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前回の投稿 で、ウォルーター・ローリーの少年期の絵に触れたので、本日は、その後の彼の人生を見てみることにします。 ウォルター・ローリー(Walter Raleigh 1552-1618)は、エリザベス女王の宮廷に遣えた宮廷人であり、探険家であり、軍人であり、詩人、執筆家でもあり。エリザベス朝ミニチュア肖像画家、ニコラス・ヒリアード(Nicholas Hilliard)によって、1585年に描かれた肖像画からも伺えるよう、男らしくも、ダンディーな美男子であったと言います。端正な顔立ちに、上向きにぴんと整えた口ひげと、贅沢な衣装。ただし、額が少々長すぎたようで、額隠しに、帽子を愛用した、などという話も聞いた事があります。宝石や豪華な布地が大好きで、目玉が飛び出るような総額の宝石類を身につけていたようです。レスター伯(Earl of Leicester)をはじめ、ハンサム男を、おそばにつけるのにやぶさかではないエリザベス女王のお気に入りであったのもわかるのです。 彼の人生を形作るのは、エリザベス女王、宿敵スペイン、そして新大陸殖民の夢。 宮廷デビューする前の彼の履歴をさっと書くと、 前回の投稿で書いたよう、デヴォン州出身で、生涯デヴォンのアクセント(訛り)を失わなかった言います。彼の母キャサリンは、ウォルター・ローリーの父とは二度目の結婚で、一回目のだんなとの間に生まれたハンフリー・ギルバートとエイドリアン・ギルバートも、ウォルター・ローリーと同様に、新大陸の植民地開拓に関わる事となります。 教育はオックスフォード大学。両親の影響から、プロテスタントであった彼は、1569年ころ、カソリックとプロテスタントの戦いである ユグノー 戦争の嵐吹き荒れるフランスへ、プロテスタント側を助ける志願兵として海を渡ることもしています。この頃の彼の行動の記録が、はっきしていないので、定かでは無いようですが、6年ほど、フランスにいたのではないかとされています。フランスの後は、再び軍人として、カソリックの勢力を押さえ、イングランドひいては、プロテスタントの支配を確立させるためアイルランドへ。 ローリーが宮廷、及び、エリザベス女王に初めて紹介を受けるのは、アイルランドからイングランドへ戻った直後の、1582年頃とされています。おそらく実話ではないでしょうが、このはじめて

ウォルター・ローリーの少年時代

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上の絵は、ロンドンのテート・ブリテン美術館蔵、ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais)により1870年に描かれた、「The Boyhood of Raleigh」(ウォルター・ローリーの少年時代)。これは、私の両親が持っていた西洋の画集に大きく載っていた一枚でもあり、私にはとても懐かしい絵でもあります。はじめて、テート美術館でこれを見た時には、「おお、こんなところにいたのか、あんたは!」と旧友に遭遇したようなご対面。感激しました。 ウォルター・ローリー(Walter Raleigh)は、エリザベス1世のお気に入りの探検家として御馴染み。やはりエリザベス女王の海の犬として、7つの海を大暴れした フランシス・ドレイク と同じく、イングランド南西部のデヴォン州出身。 絵は、少年ウォルター・ローリーが、兄と共に、デヴォンの海岸で、日に焼けたジェノヴァの船乗りから、スペインの新大陸植民地での冒険の話を、食い入るように聞いている様子を描いたものです。左手前方にあるおもちゃの船が、後のローリー自身の冒険を暗示しています。これを描くに当たって、ミレーは、自分の2人の息子をローリーとその兄のモデルにし、船乗りには、プロのモデルを使用。 ローリーは、同郷人フランシス・ドレイクとも、早くから交友があったようで、年上のドレイクからも、冒険談を色々聞かされ、デヴォン海岸線を小さな船で行ったりきたりしながら、「いつの日か自分も」と夢を見たのでしょう。実際、デヴォンをはじめ、イングランドの南西部(West Country、ウェスト・カントリー)出身の船乗りというのは、多かったようで、海賊もこの周辺の出身多数などと言われます。そのためか、映画に登場する海賊なども、時に、ウェスト・カントリー訛りで喋ったりするのです。冒険小説 「宝島」 のイギリスでの舞台も、イングランド南西部でした。 この絵の他に、過去、当ブログで触れた他のジョン・エヴァレット・ミレーの作品は、下まで。 ユグノー (The Hugenot) 塔の中の王子達 (The Princes in the Tower) シャボン玉 (Bubbles) 秋の葉 (Autumn Leaves) わりとありますね、私、ミレー好きなので・・・。 さて、ついでに、テート・ブリテン

美術館内のカメラ使用一考

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ロンドンのナショナル・ギャラリー(National Gallery)が館内でのカメラ使用禁止の規制をなくした、というニュースが昨日のロンドン紙イブニング・スタンダードに載っていました。最近は、タブレットやスマホで、絵に関する情報を読んでいるふりをしながら、禁止に関わらず、さりげなく写真を撮っている人も増えている上、監視官が、実際写真を取っているかどうか判定しずらい、それらの人々をすべて、いちいち尋問していられない、という状況が大きな理由のようです。禁止の規制がなくなることにより、絵画の前で セルフィー (自分撮り)をする人の増加を懸念し、実物の絵をじっくり見たいタイプの人々から不満の声が上がっています。そして、そのうちに、ナショナル・ギャラリーは、絵をじっくり見るどころか、名画に背を向けて、それと一緒に自分撮りする、セルフィーのメッカ(selfie central)と化すのでは、との憂いを持つ人もおり。 美術館内のカメラ使用・・・というとすぐ思い起こすのは、 ルーブルのモナリザ ですね、何と言っても。現在のルーブルの方針はわかりませんが、私が行った時は、比較的小さなモナリザの前は押すな押すなの人ごみで、ほとんどの人がカメラをむけていた。つられて、私も、これは、取ったほうがいいか・・・とやはり取ってしまったのだから、「あんな、ミーハーなやつらと、私は違う」なんてえらそうな事はここでは書けない次第。「行った、見た、取った」という証明のためにカメラをむける人がほとんどだったでしょう。たとえ私が取った上の写真のように、ピンボケでも。後で、絵葉書でも買ったほうが、細部まで良く映っていて、鑑賞にはそっちの方がいいにもかかわらず。実際、人ごみの上に、あのカメラずくめでは、じっくり鑑賞しようにも、できない、というのが事実でした。 ルーブルでは、他にも、好きな画家、シャルダンなどの絵の写真も取ったのですが、こちらの絵の前は、人っ子一人おらず、記念の写真を撮った後に、じーっくり、まじまじと眺める事も出来、大満足でありました。人気あるはずのフェルメールの「レースを編む女」の絵の前にも、なぜか、ほとんど人がいなかったのが、いまだに、とても印象に残っているのです。有名な絵・・・を何が有名にするのか、というのは不思議なものです。絵としては、フェルメールやシャルダンの絵の方が、眉

ウォルト・ディズニーの約束

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メリー・ポピンズ・・・この名を聞くと頭に思い描くのが、にっこりと笑うジュリー・アンドリュースの顔・・・という人はかなり多いことでしょう。私も、子供時代に、パメラ・トラバース(P.L. トラバース)による「メリー・ポピンズ」シリーズを原作を読んだことが無かったので、このスーパー・ナニーのイメージは、やはり、ディズニー映画の中で、朗らかに、 Just a spoonful of sugar helps the medicine go down お砂糖ひとさじで、薬を飲む(嫌な事する)のも平っちゃら! と子供たちに歌って聞かせるジュリー・アンドリュースなのです。 「Saving Mr. Banks」(邦題は、ウォルト・ディズニーの約束)という映画を見ました。これは、映画「メリー・ポピンズ」が作成されるまでの裏話。本当は、ディズニーによる「メリー・ポピンズ」の映画化を嫌いながらも、お金が無くなってきて製作を受け入れざろう得なくなってきた、著者パメラ・トラバース。そして、「メリー・ポピンズ」ファンの娘にメリー・ポピンズのキャラクターを使った映画を作る約束したため、長年に渡りパメラ・トラバースを説得し続けるウォルト・ディズニー。この2人の間で、映画製作をめぐってバトルが繰り広げられます。一応、事実には基づきながらも、最終的にはディズニー映画なので、少々、ウォルト・ディズニーに観客が好印象を持つよう、話をまとめている感は否めないです。 映画の脚本を通すのに、著者のOKが要る、という事を条件に、ついに映画化の権利をディズニーに渡すトラバース。当時は、映画化権を受け渡した後は、著者はほとんど関わらないのが常であったため、この著者の介入は、ディズニー側にしては前代未聞の事であったようです。その後、飛行機に飛び乗り、ハリウッドのディズニーのスタジオで、脚本はもとより、歌の歌詞、コスチューム、映画作成の全てに細かく、口を挟み、これも、ノー、あれも、ノー、と難色を示す彼女。 パメラ・トラバースは、オーストラリアにて、アイルランド人で銀行マネージャーの父、スコットランド人の専業主婦の母の間に生まれます。過去をあまり語らない人であったようで、彼女がイギリスに移住してからも、長い間、周りの人間でも、彼女が実際はオーストラリア人であったという事を知らなかった人もいたよ